第五十一話 小笹坂上 待合 受 壱
九月に入っても、暑さは引かなかった。日が傾いても、歩道のタイルに昼の熱が残っていた。渡辺通りを、バスが続けて北へ上っていった。行き先の表示は、どれも天神と出ていた。
夕方近くに、客用の椅子に男が座った。五十代の半ばくらいで、水色の半袖のシャツに、紺のズボンを穿いていた。同じ紺の上着を、畳んで脇に抱えていた。胸のポケットの上に、名札を外した跡の小さな穴が二つ並んでいた。
「江崎です。バスの運転手ばしよります」
上着のあいだから、名刺を一枚出した。見ると、うちの名刺で、角が少し折れていた。
「家内の財布に、入っとったとです。ここで厄除けば買うたげなです」
小笹の坂の途中に、停留所がある。小笹坂上、という。屋根の付いた、小さな待合所がある。
「終バスで行くと、毎晩、誰か座っとらします」
屋根の下に人がいれば、停めて扉を開ける。そこまでは、どの運転手もする。江崎さんは、運転席から身を乗り出して、声をかける。終バスですよ、と言う。これで終わりですよ、と言う。
座っている人は、立たない。こちらを見て、手を上げる。行ってくれ、という手だ。
「よかとですか、ち、もういっぺん訊くとです。それでも、よか、ち言わします」
江崎さんは、左手首の腕時計を、指で一度叩いた。
「終バスですけん。あとはもう、朝まで何も来んとです」
訊いて、待って、もう一度訊く。一晩に一分か二分のことだ。それが毎晩、同じ停留所で、記録に残る。先月から、営業所に理由を訊かれている。
「乗らんなら乗らんで、よかとでしょうけど。あそこで朝まで座っとって、何かあったら、どげんするとですか」
人のおったけん、と答えるしかないのだという。
昼の便でも、同じことがある。年寄りが、一本やり過ごす。夜は、酔った人がそのまま朝まで座っている。始発で行くと、まだいる。
「わしは、二十六年乗りよります。停留所に立っとる人ば、置いていったことは、一回もなかです」
言ってから、少し笑った。
「座っとる人は、置いていきよります。毎晩」
見立てに一万円、と言った。引き取りにいつもの値段を言いかけて、止まった。運転手の給料から出る金だ。停留所は、江崎さんの物ではない。
「引き取ることになったら、そこから二万。合わせて三万円で」
「安かですね」
江崎さんは、上着を抱え直した。
「わしの路線ですけん」
勤めは、終バスに乗る日と、始発に乗る日が、代わりばんこに回ってくるのだという。今週の終わりに、始発の番が来る。
帰りぎわ、渡辺通りを上ってくるバスを、江崎さんは目で追った。運転席のほうを見ていた。
その晩、四畳半で、その日の客を言い合った。
本家のほうは、厄除けが三枚。こちらは、厄除けが一枚と、江崎さん。
「三万ですか」
本家は、座卓に家計簿を開いて、鉛筆を持っていた。
「見立てと、引き取りまで入れてですか」
「ああ」
「停留所は、バス会社のもんでしょう」
本家は、鉛筆を家計簿の上に置いた。
「みやこビルも、ホテル白水も、十五万でした。会社の仕事なら、会社に払うてもろうたらよかとじゃなかですか」
「会社は、困っとらんたい」
本家が、こちらを見た。
「終バスの一分や二分じゃ、会社は困らん。困っとるとは、江崎さんたい」
本家は、しばらく黙っていた。
それから、鉛筆を取って、今日のところに、小笹、と書いた。その横に、三万、と書いた。
「引き取らんで済んだら、一万ですね」
「ああ」
本家は、それ以上は言わなかった。家計簿を閉じた。
「明日の晩から、小笹に出る」
「はい」
次の日の夕方、天神からバスに乗った。
渡辺通りを南へ下って、薬院を抜け、山のほうへ上っていった。乗っているうちに、日が落ちた。窓の外が、店の灯りから家の灯りに変わった。坂が多くなった。
小笹坂上で降りたのは、俺一人だった。
坂の途中の、道の上の側に、待合所が建っていた。
この辺りの停留所は、たいてい標柱が一本立っているだけだ。ここには、細い柱を二本立てて、薄い屋根が一枚渡してあった。屋根の下に、ベンチが一つ。坂下の端に、時刻表の板が一枚、屋根の高さまで立ててあった。
ベンチは、鉄の脚に木の板を三枚渡してある。背もたれは無い。長く座るようには、できていなかった。板は、座るところだけ角が丸く、色が黒ずんでいた。
待合所の後ろには、生け垣の家があった。暗がりで、虫が鳴いていた。坂の下の、道の向こう側に、コンビニの灯りが一つあった。
ベンチの端に、年寄りの男が座っていた。手提げの紙袋を、膝に載せていた。
バスが坂を上ってきた。停留所の前で停まって、扉が開いた。
男は、運転席のほうを見た。手を上げた。
扉が閉まって、バスは坂を上っていった。
「乗らんとですか」
男は、こちらを見た。
「次のでよか」
次の便は、二十分後に来た。男はそれもやり過ごした。三本目の前に、紙袋を持って立ち上がった。立ち上がってから、しばらく考えるような顔をした。それから、坂を歩いて下りていった。
目印を三枚貼った。
待合所には貼らなかった。坂の上の電柱に一枚。坂の下の、カーブミラーの柱に一枚。道の向かいの、ガードレールの支柱に一枚。
短い祝詞をあげた。八文字。
帰りは、終バスに乗った。運転席には、江崎さんではない若い男が座っていた。
小笹坂上を通るとき、屋根の下に、背広の男が一人座っているのが見えた。バスは停まって、扉を開けた。背広の男は、手を上げた。
扉は、すぐに閉まった。
次の朝、三枚を見に行った。
黄ばんでいた。薄くはなかった。
電柱の一枚は、右の縁から。カーブミラーの一枚は、左の縁から。ガードレールの一枚は、上の縁に近いところから。それぞれから一本ずつ、線を引いた。一枚では、線が一本引けるだけだ。だから三枚貼る。
三本は、一点では交わらなかった。
ガードレールからの一本は、屋根の前の縁に沿って走った。電柱からの一本は、屋根の坂上の端をなぞった。カーブミラーからの一本は、坂下の端をなぞった。
中のベンチを指している線は、一本も無かった。三本とも、屋根の縁のほうを指していた。
場の色だ。この屋根の下が、何かを覚えている。
しばらく、待合所の前に立っていた。中のベンチに、朝の日が斜めに差していた。黒ずんだ板の上に、誰も座っていなかった。
待合所が覚えているものといえば、待つことしかない。待つなら、相手がいる。
誰かを、待っている。
昼過ぎ、表を開ける前に、路地へ回った。
本家は、机に札を並べていた。剥がしてきた三枚を、机の端に並べて見せた。線の向きを、指でなぞった。
本家は、三枚を一枚ずつ取って、縁の色を見た。
「座ったら、立たれんとでしょう」
「ああ」
「待たせよるとですね」
「待っとるとたい」
本家は、札を机に戻した。
「誰ば、ですか」
「それば、今から聞きに行く」
本家は、何も言わなかった。屋根の前の縁を指していたガードレールの一枚を、もう一度手に取って、上の縁を見た。
「ベンチは、どれも指しとらんですね。屋根ば指しとります」
「やけん、待合所が覚えとるとたい」
本家は、はい、と言った。三枚を揃えて、こちらへ寄越した。
その日の夕方から、坂を回った。
待合所の後ろの家で、生け垣を刈り込んでいた女の人に訊いた。七十を過ぎたくらいで、刈り込み鋏を持ったまま、首のタオルで汗を拭いていた。
「あそこで、娘ば待ちよった」
娘さんは、町の病院で看護師をしていた。遅番の日は、終バスで帰ってくる。帰ってくるまで、あそこに座っていた。坂の上の家まで、夜道を一人で歩かせたくなかった。
「十年くらいしよったかね。いまは、東京におるけど」
鋏を一度、空で鳴らした。
「あたしだけやなかよ。あそこで、みんな誰か待ちよった」
坂の下から犬を連れて上ってきた男の人は、父親の話をした。母親が入院していたころ、父親は見舞いの帰りに、あの待合所で次のバスを待った。待っているあいだに、病院へもう一度引き返したことが、何度もあったという。
「待つとが、つらかったとでしょう」
犬が、リードを引いた。男の人は、坂を上っていった。
坂の上の家の門の前で、水を撒いていた人は、亡くなった奥さんの話をした。奥さんは、夫の帰りを待って、毎晩あそこに座っていた。帰ってきた夫と並んで、坂を上った。
「わしが帰ってくるとば、待っとったとか、坂ば一人で上るとが嫌やったとか。訊いたことは、なかったですね」
ホースの先を指で潰して、水を遠くへ飛ばした。
手帳に、一行ずつ書いた。娘。妻。夫。見舞いの帰りの、次のバス。
次の日も、坂を回った。話は、まだ出てきた。孫を待った人がいた。出ていった息子が帰ってくるのを、何年か待った人がいた。待ち合わせをして、相手が来なかった人がいた。
待ち人は、一人も見つからなかった。
見つからないのではなかった。出てきすぎた。坂の上の家の数だけ、待った人がいて、待った相手がいた。どれが、あの屋根の下の待っている一人なのか、決める手立てが無かった。
手帳を閉じた。
誰を待つのか。確かめるには、座ってみるしかない。
本家に、電話を入れた。今晩は帰らない。
「はい」
しばらくして、本家が言った。
「座るとですか」
「ああ」
「立たれんとでしょう」
「やけん、座ると」
本家は、はい、と言って切った。
終バスの一本前に、小笹坂上で降りた。
屋根の下に、誰もいなかった。ベンチの真ん中に座った。
鞄を膝に載せた。背もたれが無いので、背中は宙に浮いたままだ。板には、まだ昼の熱が残っていた。
虫が鳴いていた。坂の下の、コンビニの灯りが見えた。ときどき、車が坂を上っていって、待合所の中を、ライトが端から端まで撫でていった。
座っていれば、誰を待っているのかが、分かる気がしていた。分かったら、その人を探せばいい。
終バスが坂を上ってきた。
停まって、扉が開いた。若い運転手が、こちらを見ていた。何も言わなかった。
手を上げた。
扉が閉まって、バスは坂を上っていった。テールランプが角を曲がるのを、見ていた。
乗らなかったと気づいたのは、灯りが見えなくなってからだった。乗らないつもりで座っていたのだから、それで構わなかった。ただ、手を上げたとき、何も考えていなかった。
夜が更けた。
コンビニの前に、タクシーが一台停まって、しばらくして行った。虫の声が、だんだん減った。
尻の下には、板が三枚渡してあるだけで、寄りかかるところはどこにも無い。
それなのに、座り心地がよかった。
表の店のパイプ椅子より、よかった。四畳半の畳より、よかった。今まで座ったどこよりも、ここがよかった。
立とうと思えば、立てた。立つ理由が無かった。
誰かを待っていれば、その人のことを考えるはずだった。娘を待った人は娘のことを、夫を待った人は夫のことを考えていた。坂の上の人たちは、そう話した。
俺は、誰のことも考えていなかった。
次のバスは、朝まで来ない。それまで、ここに座っていればいい。座っているあいだは、ほかに何もしなくていい。
楽だった。
空の端が、白くなった。
坂の下から、エンジンの音が上ってきた。ライトがまだ点いていた。
バスが停まって、扉が開いた。
「兄ちゃん」
江崎さんが、運転席から身を乗り出していた。
腰が上がった。
自分で立ったのか、呼ばれて立ったのか、分からなかった。気づいたときには、ベンチの前に立っていた。膝が、少し固まっていた。
「乗らんとですか」
「乗りません。すみません」
「よかとですか」
「よかです」
江崎さんは、左手首の腕時計を、指で一度叩いた。
「そうですか」
「明日、店のほうに」
江崎さんはうなずいて、扉を閉めた。バスは坂を上っていった。
待合所を振り返った。
ベンチの上に、誰も座っていなかった。
座っていたあいだ、誰も待っていなかった。ただ、待っていた。
娘を待った人も、夫を待った人も、ここに座っていた。誰を待っていたのかは、その人たちが持って帰った。坂を上って、家まで。屋根の下には、座って待つということだけが残った。
ここは、待つところだった。
鞄から帳面を出した。
屋根の下には、俺のほかに誰もいなかった。ベンチの前に立った。
帳面を開いた。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
あたりが張った。ベンチの板を、時刻表の数字を、生け垣の葉を、何かが数えていった。
小笹坂上 待合 受 壱
書き終えると、張ったものが落ちた。
坂の下を見ると、コンビニの前で、新聞を積んだバイクの男が、跨ったまま辺りを見回していた。店の入口では、作業着の男が、レジ袋を提げたまま足を止めていた。後ろを見て、横を見て、店の中を覗いた。しばらくして、二人とも、落ち着かない顔のまま、それぞれの用に戻った。
帳面の気配が、道の向こうまで届いていたのか。
帳面を閉じて、ベンチを見る。黒ずんだ板が、朝の光を鈍く返していた。
鞄を抱えて、もう一度、真ん中に座った。
板の継ぎ目が、尻に当たった。背中が、落ち着くところを探して、どこにも行き着かなかった。前へ屈むと膝が詰まり、背を伸ばすと腰がだるい。座り直しても、変わらなかった。
見たとおりの、ベンチだった。
長く座るようには、できていない。
すぐに立った。立つのに、何もかからなかった。
昼過ぎに、江崎さんが店に来た。
封筒を二つ、机に置いた。見立ての一万円と、引き取りの二万円が、分けて入っていた。
「昨日の終バスは、若かとが乗っとったでしょう。今朝、聞きました。乗らんやった兄ちゃんのおったち」
「すみません」
「今晩、わしが乗ります」
江崎さんは、腕時計を一度叩いて、帰っていった。
次の日の昼に、電話があった。
「三人、座っとらしたとです。三人とも、乗りました」
江崎さんは、それだけ言った。
週が明けて、店を開けていた。
朝のうちに、厄除けが一枚売れた。そのあとは、誰も来なかった。
渡辺通りを、バスが北へ上っていった。何台目かのバスが、店の手前の信号で停まった。
運転席に、江崎さんがいた。
ハンドルから、指を二本上げた。こちらも、手を上げた。
信号が変わって、バスは店の前を過ぎ、北へ上っていった。
机の札を、揃え直した。
パイプ椅子に寄りかかると、脚が鳴った。座り心地は、悪くない。




