↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
54/67

第五十話 残り

 盆が明けると、天神は勤め人の街に戻った。渡辺通りの横断歩道を、白い半袖の男たちが、信号のたびに固まって渡っていった。暑さだけが、盆のままだった。

通りの先のどこかで、古いビルがまた一棟、上から削られていた。重機が何かを噛む音が、車の音の切れ目に届いた。

昼から、表の店を開けた。

空は白く光っていて、雲の切れ目が見えなかった。どこかの街路樹で、ツクツクボウシが鳴きはじめては、途中でやめた。

三時を過ぎたころ、デパートのひさしの下に、紺のジャンパーが立った。

安藤さんは、ひさしの影を出て、歩道を渡ってきた。

「留め。一束、くれ」

鞄から、輪ゴムで留めた束を一つ出して、渡した。

「境目は、あるか」

「あります」

境目を買っていくのは、初めてだった。

鞄の内側から出して、渡した。安藤さんは、一枚ずつ裏を返して見てから、留めの束に重ねた。

「なんぼや」

「留めは、いつもの値段で」

「境目は」

決めていなかった。

「……同じで、よかです」

安藤さんは、財布から千円札を出して、机に置いた。数えずに置いたように見えた。数えると、合っていた。

何に使うとですか、と訊きかけた。

安藤さんは、札をジャンパーの内に入れて、もう背を向けていた。

「また来る」

信号のほうへ歩いていった。ひさしの下には、戻らなかった。

机の上の千円札を、財布にしまった。

留めを買っていくのは、これで何度目かになる。うちの札を、あの人が使っている。悪い気はしなかった。

頼られている、と思った。


 店じまいに、路地の口へ回った。本家が、机の脚を畳んでいた。

今日の客を言い合った。厄除けが二枚。それから、安藤さんが留めと境目を買っていったこと。

「この間も、こっちで買っていきよりましたよ」

本家は、畳んだ机を壁に立てかけた。

「こっちにか」

「盆の前に、こっちに見えて。留めば」

本家は、看板に布を掛けた。


 その晩、本家が風呂に入っているあいだに、座卓の帳簿を開いた。表紙に、家計簿、と書いてある。

今日の日付の下に、本家の字で、留めと境目の行が足してあった。

鉛筆の行を、上へ目で追った。

厄除けの行が、日ごとに一つか二つ。週に一度、観清寺(かんせいじ)の行。名刺から来た相談が、いくつか。

そのあいだに、名前のある行が混ざっていた。


  留め 安藤さん


 うちの帳簿で、人の名前が書いてあるのは、その行だけだった。

同じ行が、盆の前にもあった。その前にも、あった。

ページを、一枚戻した。

七月のページにも、同じ行があった。

先月より、多い。

あの人が札を買うのは、自分の力を使わずに済ませるためだ。使えば、使ったぶん、自分が削れる。梅野(うめの)さんの家で白い布を見た晩に、そこまでは分かっていた。

札の要る仕事が、増えている。札で足りなければ、あの人は自分を使う。

帳簿に書いてあるのは、日付と、札の名前と、値段だけだった。何の仕事に使うのかは、どこにも書いていない。

訊けばいいことだった。訊けば、帳簿を数えたことが伝わる。

風呂場で、湯を流す音が止んだ。帳簿を閉じて、座卓の端に戻した。


 次の日の夕方近くに、年寄りの男が、看板の前で足を止めた。

七十代の後半くらいだった。白い開襟シャツの胸ポケットに、ボールペンと老眼鏡が差してあった。看板を、元祖、天神、大上屋、と区切るように、ゆっくり読んだ。

「拝み屋さんですか」

「はい」

「祠のことは、見てもらえますか」

客用の椅子を勧めると、原田(はらだ)と名乗って、腰を下ろした。

因幡町(いなばちょう)通りから一本入ったところに、古いビルが二つ並んでいる。そのあいだの路地の奥に、祠があるのだという。

「ビルの二つとも、売れたとです。年の明けたら、壊して建て替えるげな」

月の終わりには、解体の囲いが立つ。現場の監督が、祠をどうするかと訊いてきた。動かすなら神主さんを呼んで、ちゃんとする。ただ、何を祀っているのか分からないと、神主さんも困る。

「何を祀っとるとですか」

「知らんとです」

原田さんは、あっさり言った。

誰が建てたのかも、知らない。表のビルの一階で、三十年、小さな印判の店をやっていた。店を閉めてからも、週に何度か、水を替えに来ている。

「前の人がしよったけん。わしは、それば引き継いだだけで」

それから、膝の上で手を組んだ。

「知らんで世話しよったとは、よかとです。ばってん、知らんで動かしてよか、とは言えんでしょう」

見立てに三日で一万円、と言った。

「お願いします」

帰りぎわ、原田さんは、机の端を指の節で二度叩いた。こん、こん、と鳴った。それから、通りのほうへ歩いていった。

路地の口まで歩いて、本家に言った。明日から、朝のうちは天神の祠に出る。本家は、はい、と言った。


 翌朝、因幡町通りへ出た。

一方通行の通りだった。通りの名前だけは、前から知っていた。

二つのビルは、どちらも五階建ての、茶色いタイル貼りだった。一階のシャッターは、どれも下りていた。そのうちの一枚に、原田印判店、と白く抜いた字が、半分剥げて残っていた。

ビルのあいだの路地は、人が一人通れるほどの幅だった。両側の壁に室外機が並んでいて、まだ動いているのが二つ三つあった。熱い風が、足もとを吹き抜けていった。

路地の奥は、隣のビルの壁で行き止まりになっていた。そこに、腰の高さほどのコンクリートの台があって、小さな祠が載っていた。

木の祠だった。屋根は銅板で、緑青が吹いていた。観音開きの扉は閉まっていて、前に、白い湯呑みが一つと、榊を挿した小さな瓶が置いてあった。

原田さんは、もう来ていた。湯呑みの水を路地の溝に空けて、持ってきたペットボトルから注ぎ直していた。

「こげん暑かと、水ば入れても昼には湯になっとりますね」

榊の瓶の水も替えた。それから、祠の屋根を、指の節で二度叩いた。

路地の口に、作業着の男が立っていた。四十代くらいで、白いヘルメットを脇に抱えて、首にタオルを掛けていた。差し出された名刺に、高木(たかぎ)、とあった。

「拝み屋さんですか。原田さんから聞いとります」

タオルの端で、額を押さえた。

「動かすとは、構わんとです。費用も、こっちで持ちます。ばってん、神主さんに相談したら、何をお祀りしとるか分からんと、どこにお移しするかも決められん、ち言われまして」

「分かります」

「何か居るとなら、言うてください。無理に動かして、あとで何かあったら、職人の気持ちの悪かけん」

高木さんは、もう一度額を押さえて、表の現場へ戻っていった。


 台の角に釘が一本打ってあって、ビニールの袋が下がっていた。中に、紙が一枚入っていた。

「当番表です。前は、月ごとに回しよったとです」

原田さんが、袋ごと外して見せてくれた。

罫線を引いた紙に、名前が縦に並んでいた。いちばん上の行に、因幡町 祠当番、とあった。

「因幡町通りの、因幡町ですか」

「町の名前ですたい。わしの二十歳になる前に、天神になってしもうた。通りの名前だけ、残っとります」

名前は、二十あまりあった。上から順に、細い線で消してあった。消し方は、どれも同じ手だった。

線の引いていない名前は、いちばん下の一つだけだった。原田、とあった。

「書き写したとは、わしです。前のは、字の読めんごとなっとったけん」

消した線も、そのまま写したのだという。

「越していかした人、亡くなった人。ビルば売った人。消すとは、いつの間にか、わしの役目になっとりました」

原田さんは、紙を袋に戻して、釘に掛けた。

目印を三枚、貼らせてもらった。

祠には貼らなかった。何を祀っているのか分からないものに、札を貼る気にはなれなかった。

路地の口に近い、左の壁に一枚。右の壁の雨樋に一枚。行き止まりの壁の、台から離れた隅に一枚。

短い祝詞をあげた。八文字。

原田さんは、黙って見ていた。


 次の朝は、土曜だった。三枚を見に行った。

黄ばんでいた。見えるか見えないかというほど、薄かった。

左の壁の一枚は、右に寄ったところから。雨樋の一枚は、左の縁に近いところから。隅の一枚は、中ほどのやや下から、黄ばみが広がっていた。三本の線を延ばすと、祠の扉のあたりで交わった。

交わるには、交わった。ただ、どれも薄すぎて、中心がどこにあるのか、紙に顔を近づけないと分からなかった。

場の色だった。祠の扉の内が、何かを覚えている。覚えてはいるが、濃さが無い。

原田さんが、湯呑みの水を替えていた。


 昼からは表を閉めて、百道浜(ももちはま)の市の図書館へ行った。

三日見れば、見立ては済む。済んでも、誰の祠かは分からないまま残る。それが、落ち着かなかった。

二階の郷土の資料のカウンターで頼むと、古い住宅地図を出してくれた。町の名前が、まだ因幡町だったころのものだった。

大きな本だった。ページをめくると、町が家一軒ずつの四角に割ってあって、四角ごとに名前が刷ってあった。

因幡町通りを探して、そこから一本入った。

ビルは、まだ無かった。小さな四角が、路地の両側に並んでいた。その奥の行き止まりに、もっと小さな印が一つあった。祠、と刷ってあった。

誰の、とは書いていなかった。

路地の両側の四角を、一つずつ読んだ。当番表で見た名前が、いくつもあった。線で消されていた名前が、ここでは家の数だけ並んでいた。

原田、という四角は無かった。

同じところの、新しい年の地図も出してもらった。路地の両側は、大きな四角が二つになっていた。中に、ビルの名前と、店の名前が細かく刷ってあった。原田印判店も、そこにあった。

祠の印は、無かった。


 月曜の朝も、三枚は変わっていなかった。

進んでいないなら、怪異ではない。記憶だ。それも、ごく薄い。

原田さんに、地図のことを話した。古い地図には、祠の印があったこと。誰の、とは書いていなかったこと。当番表の名前が、路地の両側に並んでいたこと。

原田さんは、榊を新しいのに挿し替えながら聞いていた。

「そうでしょう」

それだけだった。

抜いた古い榊を、新聞紙に包んだ。


 原田さんが新聞紙の包みを鞄に入れるのを見ながら、祠の扉を見ていた。

三日通って、まだ中を見ていなかった。

「中を、見せてもろうても、よかですか」

原田さんは、少し考えた。

「わしは、開けたことは、なかとです。前の人も、開けんやったと思います」

それから、どうぞ、と言った。

扉の前に膝をついて、短い祝詞をあげた。八文字。

観音開きの扉は、少し軋んで開いた。

中には、何も祀られていなかった。御神体も、鏡も、木の札も無かった。奥の板に、紙が一枚、貼りつけてあるだけだった。

茶色く焼けた紙だった。縁が毛羽立っていて、漉き目が透けていた。買った紙ではなかった。墨の紋様は、ところどころ薄れていたが、読めた。

境目の札だった。俺が教わったのと、同じ型だった。

境目は、区切りを作る札だ。貼れば、そこが内と外に分かれる。この一枚で、祠の内が、一つの器になっていた。

誰かが、何かを、ここに囲った。

その扉を、いま開けた。

何か、出してしまったのかもしれなかった。

「原田さん、路地の口まで、下がっとってください」

鞄から留めを一枚抜いて、扉の前に翳した。

しばらく、そうしていた。留めには、何も当たってこなかった。紙は、白いままだった。

扉の内の札に、目を戻した。

黄ばみが薄かったのは、中のものが弱いからだと読んでいた。区切りが効いていて、外へ洩れてこないだけだったのかもしれない。

剥がせば、区切りは終わる。剥がさなければ、何を囲ったのか分からないまま、祠ごとよそへ運ばれていく。

「原田さん」

路地の口で、原田さんがこちらを見た。

「これは、拝み屋の札です。剥がしても、よかですか」

「あんたの方のもんなら、あんたが始末してください」

留めを左手に持ち替えて、札の角に爪を入れた。浮かなかった。何十年も、剥がれずにいたのだ。少し力を入れると、紙は思っていたより素直に剥がれた。

何も起きなかった。

路地は、静かなままだった。室外機の唸りだけがしていた。留めを持った手が、汗で湿っていた。


 剥がした札は、畳まずに、鞄の内ポケットに入れた。

壁の三枚を剥がして、新しい目印を同じところに貼った。左の壁、雨樋、行き止まりの隅。四枚目を、開けたままの扉の内の、札のあった板に貼った。

原田さんには、明日の朝に、と言って帰ってもらった。

その日は、表を開けなかった。路地の口の、日陰になるところに立っていた。室外機の吐く風で、日陰にいても汗が引かなかった。

昼に一度、夕方に一度、覗いた。何も出ていなかった。

暗くなってから、携帯の明かりで照らした。白かった。

次の朝、まだ薄暗いうちに、路地に入った。

四枚とも、白かった。

扉の内の一枚も、壁の三枚も、色が無かった。剥がす前に出ていた、見えるか見えないかの黄ばみも、もう無かった。

何も、封じてはいなかった。区切りがあって、その区切りの内が、薄く何かを覚えていただけだった。区切りが無くなって、それも無くなった。

何を囲うつもりで貼ったのかは、分からないままだった。


 日が高くなってから、原田さんと高木さんが来た。

「中に、札が一枚あっただけでした。剥がして、一日見ました」

「何か、おったとですか」

高木さんが訊いた。

「何も、封じとらんです。区切りのあっただけで、その区切りも、もう無かです」

高木さんは、タオルで額を押さえた。

「そしたら、拝み屋さんのほうで、持っていってもらうとは、できんですか」

「持っていくもんが、もう無かとです」

高木さんは、そうですか、と言った。それ以上は訊かなかった。

原田さんは、祠を見ていた。扉は、閉めてあった。

「何も居らんとなら、閉じてもらいます。神主さんに」

高木さんが、原田さんの顔を見た。

「移さんで、よかとですか。新しかビルの敷地の隅にでも、置き場所は作れますけど」

「預かったもんは、預かったまま放っとかれんでしょう」

高木さんは、しばらく黙っていた。それから、分かりました、と言って頭を下げた。神主さんには、土曜の朝に来てもらうという。

拝み屋さんの代金も工事のほうで持ちます、と高木さんが言った。

「わしが頼んだことですけん」

原田さんは、胸ポケットから封筒を出した。一万円が入っていた。

高木さんは、それ以上は言わなかった。


 土曜の朝は、曇っていた。日が隠れていても、路地の熱は朝から溜まっていた。

路地の口に、白い軽トラックが停まっていた。荷台に、毛布が一枚敷いてあった。

神主さんは、六十くらいの痩せた人だった。白い装束の袖を片手で押さえながら、路地を入っていった。高木さんと、作業着の若い人が二人、後ろに並んだ。原田さんは、その後ろに立った。俺は、いちばん後ろの、路地の口にいた。

祝詞は、長かった。

俺の八文字の何倍あるのかを、数えかけて、やめた。言葉の切れ目ごとに、神主さんの背中が少し沈んだ。室外機は、もう一つも動いていなかった。

済むと、神主さんが脇へ退いた。

原田さんが前へ出て、湯呑みの水を溝に空けた。榊の瓶も空けた。湯呑みと瓶をハンカチに包んで、鞄に入れた。それから、釘のビニール袋を外して、畳んで、胸ポケットにしまった。

祠の屋根を、指の節で二度叩いた。

若い二人が、祠を両側から抱えて持ち上げた。思っていたより、軽そうだった。台の上に、祠の形だけ、色の薄いところが残った。

軽トラックの荷台に毛布ごと寝かせて、神主さんが助手席に乗った。どこへ行くのかは、聞かなかった。

原田さんは、軽トラックが角を曲がるまで見ていた。それから、こちらへ頭を下げた。

「ご苦労さんでした」

因幡町通りを、表のほうへ歩いていった。


 月曜の昼、因幡町通りを通った。

二つのビルの前に、白い囲いが立っていた。路地の口も、その内側に入っていた。原田印判店の字は、もう見えなかった。

囲いの角に、工事のお知らせが貼ってあった。工期の欄に、再来年の春の日付が書いてあった。

門の脇で、高木さんがタオルで額を押さえていた。こちらに気づいて、頭を下げた。

当番表のことを思い出した。

あの紙は、原田さんの胸ポケットに入って、因幡町通りを表のほうへ行った。上から二十あまりの名前に線が引いてあって、いちばん下の一つにだけ、引いていない。

誰が世話していたかは、あの紙に載っていた。あの祠が何なのかは、ひとつも載っていなかった。

あの祠には何もなかった。あったのは、古い囲いだけだ。それも無くなった。

誰が置いたのか。いつ置かれたのか。何のために置かれたのか。

それはもう、誰も覚えていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。