第五十話 残り
盆が明けると、天神は勤め人の街に戻った。渡辺通りの横断歩道を、白い半袖の男たちが、信号のたびに固まって渡っていった。暑さだけが、盆のままだった。
通りの先のどこかで、古いビルがまた一棟、上から削られていた。重機が何かを噛む音が、車の音の切れ目に届いた。
昼から、表の店を開けた。
空は白く光っていて、雲の切れ目が見えなかった。どこかの街路樹で、ツクツクボウシが鳴きはじめては、途中でやめた。
三時を過ぎたころ、デパートのひさしの下に、紺のジャンパーが立った。
安藤さんは、ひさしの影を出て、歩道を渡ってきた。
「留め。一束、くれ」
鞄から、輪ゴムで留めた束を一つ出して、渡した。
「境目は、あるか」
「あります」
境目を買っていくのは、初めてだった。
鞄の内側から出して、渡した。安藤さんは、一枚ずつ裏を返して見てから、留めの束に重ねた。
「なんぼや」
「留めは、いつもの値段で」
「境目は」
決めていなかった。
「……同じで、よかです」
安藤さんは、財布から千円札を出して、机に置いた。数えずに置いたように見えた。数えると、合っていた。
何に使うとですか、と訊きかけた。
安藤さんは、札をジャンパーの内に入れて、もう背を向けていた。
「また来る」
信号のほうへ歩いていった。ひさしの下には、戻らなかった。
机の上の千円札を、財布にしまった。
留めを買っていくのは、これで何度目かになる。うちの札を、あの人が使っている。悪い気はしなかった。
頼られている、と思った。
店じまいに、路地の口へ回った。本家が、机の脚を畳んでいた。
今日の客を言い合った。厄除けが二枚。それから、安藤さんが留めと境目を買っていったこと。
「この間も、こっちで買っていきよりましたよ」
本家は、畳んだ机を壁に立てかけた。
「こっちにか」
「盆の前に、こっちに見えて。留めば」
本家は、看板に布を掛けた。
その晩、本家が風呂に入っているあいだに、座卓の帳簿を開いた。表紙に、家計簿、と書いてある。
今日の日付の下に、本家の字で、留めと境目の行が足してあった。
鉛筆の行を、上へ目で追った。
厄除けの行が、日ごとに一つか二つ。週に一度、観清寺の行。名刺から来た相談が、いくつか。
そのあいだに、名前のある行が混ざっていた。
留め 安藤さん
うちの帳簿で、人の名前が書いてあるのは、その行だけだった。
同じ行が、盆の前にもあった。その前にも、あった。
ページを、一枚戻した。
七月のページにも、同じ行があった。
先月より、多い。
あの人が札を買うのは、自分の力を使わずに済ませるためだ。使えば、使ったぶん、自分が削れる。梅野さんの家で白い布を見た晩に、そこまでは分かっていた。
札の要る仕事が、増えている。札で足りなければ、あの人は自分を使う。
帳簿に書いてあるのは、日付と、札の名前と、値段だけだった。何の仕事に使うのかは、どこにも書いていない。
訊けばいいことだった。訊けば、帳簿を数えたことが伝わる。
風呂場で、湯を流す音が止んだ。帳簿を閉じて、座卓の端に戻した。
次の日の夕方近くに、年寄りの男が、看板の前で足を止めた。
七十代の後半くらいだった。白い開襟シャツの胸ポケットに、ボールペンと老眼鏡が差してあった。看板を、元祖、天神、大上屋、と区切るように、ゆっくり読んだ。
「拝み屋さんですか」
「はい」
「祠のことは、見てもらえますか」
客用の椅子を勧めると、原田と名乗って、腰を下ろした。
因幡町通りから一本入ったところに、古いビルが二つ並んでいる。そのあいだの路地の奥に、祠があるのだという。
「ビルの二つとも、売れたとです。年の明けたら、壊して建て替えるげな」
月の終わりには、解体の囲いが立つ。現場の監督が、祠をどうするかと訊いてきた。動かすなら神主さんを呼んで、ちゃんとする。ただ、何を祀っているのか分からないと、神主さんも困る。
「何を祀っとるとですか」
「知らんとです」
原田さんは、あっさり言った。
誰が建てたのかも、知らない。表のビルの一階で、三十年、小さな印判の店をやっていた。店を閉めてからも、週に何度か、水を替えに来ている。
「前の人がしよったけん。わしは、それば引き継いだだけで」
それから、膝の上で手を組んだ。
「知らんで世話しよったとは、よかとです。ばってん、知らんで動かしてよか、とは言えんでしょう」
見立てに三日で一万円、と言った。
「お願いします」
帰りぎわ、原田さんは、机の端を指の節で二度叩いた。こん、こん、と鳴った。それから、通りのほうへ歩いていった。
路地の口まで歩いて、本家に言った。明日から、朝のうちは天神の祠に出る。本家は、はい、と言った。
翌朝、因幡町通りへ出た。
一方通行の通りだった。通りの名前だけは、前から知っていた。
二つのビルは、どちらも五階建ての、茶色いタイル貼りだった。一階のシャッターは、どれも下りていた。そのうちの一枚に、原田印判店、と白く抜いた字が、半分剥げて残っていた。
ビルのあいだの路地は、人が一人通れるほどの幅だった。両側の壁に室外機が並んでいて、まだ動いているのが二つ三つあった。熱い風が、足もとを吹き抜けていった。
路地の奥は、隣のビルの壁で行き止まりになっていた。そこに、腰の高さほどのコンクリートの台があって、小さな祠が載っていた。
木の祠だった。屋根は銅板で、緑青が吹いていた。観音開きの扉は閉まっていて、前に、白い湯呑みが一つと、榊を挿した小さな瓶が置いてあった。
原田さんは、もう来ていた。湯呑みの水を路地の溝に空けて、持ってきたペットボトルから注ぎ直していた。
「こげん暑かと、水ば入れても昼には湯になっとりますね」
榊の瓶の水も替えた。それから、祠の屋根を、指の節で二度叩いた。
路地の口に、作業着の男が立っていた。四十代くらいで、白いヘルメットを脇に抱えて、首にタオルを掛けていた。差し出された名刺に、高木、とあった。
「拝み屋さんですか。原田さんから聞いとります」
タオルの端で、額を押さえた。
「動かすとは、構わんとです。費用も、こっちで持ちます。ばってん、神主さんに相談したら、何をお祀りしとるか分からんと、どこにお移しするかも決められん、ち言われまして」
「分かります」
「何か居るとなら、言うてください。無理に動かして、あとで何かあったら、職人の気持ちの悪かけん」
高木さんは、もう一度額を押さえて、表の現場へ戻っていった。
台の角に釘が一本打ってあって、ビニールの袋が下がっていた。中に、紙が一枚入っていた。
「当番表です。前は、月ごとに回しよったとです」
原田さんが、袋ごと外して見せてくれた。
罫線を引いた紙に、名前が縦に並んでいた。いちばん上の行に、因幡町 祠当番、とあった。
「因幡町通りの、因幡町ですか」
「町の名前ですたい。わしの二十歳になる前に、天神になってしもうた。通りの名前だけ、残っとります」
名前は、二十あまりあった。上から順に、細い線で消してあった。消し方は、どれも同じ手だった。
線の引いていない名前は、いちばん下の一つだけだった。原田、とあった。
「書き写したとは、わしです。前のは、字の読めんごとなっとったけん」
消した線も、そのまま写したのだという。
「越していかした人、亡くなった人。ビルば売った人。消すとは、いつの間にか、わしの役目になっとりました」
原田さんは、紙を袋に戻して、釘に掛けた。
目印を三枚、貼らせてもらった。
祠には貼らなかった。何を祀っているのか分からないものに、札を貼る気にはなれなかった。
路地の口に近い、左の壁に一枚。右の壁の雨樋に一枚。行き止まりの壁の、台から離れた隅に一枚。
短い祝詞をあげた。八文字。
原田さんは、黙って見ていた。
次の朝は、土曜だった。三枚を見に行った。
黄ばんでいた。見えるか見えないかというほど、薄かった。
左の壁の一枚は、右に寄ったところから。雨樋の一枚は、左の縁に近いところから。隅の一枚は、中ほどのやや下から、黄ばみが広がっていた。三本の線を延ばすと、祠の扉のあたりで交わった。
交わるには、交わった。ただ、どれも薄すぎて、中心がどこにあるのか、紙に顔を近づけないと分からなかった。
場の色だった。祠の扉の内が、何かを覚えている。覚えてはいるが、濃さが無い。
原田さんが、湯呑みの水を替えていた。
昼からは表を閉めて、百道浜の市の図書館へ行った。
三日見れば、見立ては済む。済んでも、誰の祠かは分からないまま残る。それが、落ち着かなかった。
二階の郷土の資料のカウンターで頼むと、古い住宅地図を出してくれた。町の名前が、まだ因幡町だったころのものだった。
大きな本だった。ページをめくると、町が家一軒ずつの四角に割ってあって、四角ごとに名前が刷ってあった。
因幡町通りを探して、そこから一本入った。
ビルは、まだ無かった。小さな四角が、路地の両側に並んでいた。その奥の行き止まりに、もっと小さな印が一つあった。祠、と刷ってあった。
誰の、とは書いていなかった。
路地の両側の四角を、一つずつ読んだ。当番表で見た名前が、いくつもあった。線で消されていた名前が、ここでは家の数だけ並んでいた。
原田、という四角は無かった。
同じところの、新しい年の地図も出してもらった。路地の両側は、大きな四角が二つになっていた。中に、ビルの名前と、店の名前が細かく刷ってあった。原田印判店も、そこにあった。
祠の印は、無かった。
月曜の朝も、三枚は変わっていなかった。
進んでいないなら、怪異ではない。記憶だ。それも、ごく薄い。
原田さんに、地図のことを話した。古い地図には、祠の印があったこと。誰の、とは書いていなかったこと。当番表の名前が、路地の両側に並んでいたこと。
原田さんは、榊を新しいのに挿し替えながら聞いていた。
「そうでしょう」
それだけだった。
抜いた古い榊を、新聞紙に包んだ。
原田さんが新聞紙の包みを鞄に入れるのを見ながら、祠の扉を見ていた。
三日通って、まだ中を見ていなかった。
「中を、見せてもろうても、よかですか」
原田さんは、少し考えた。
「わしは、開けたことは、なかとです。前の人も、開けんやったと思います」
それから、どうぞ、と言った。
扉の前に膝をついて、短い祝詞をあげた。八文字。
観音開きの扉は、少し軋んで開いた。
中には、何も祀られていなかった。御神体も、鏡も、木の札も無かった。奥の板に、紙が一枚、貼りつけてあるだけだった。
茶色く焼けた紙だった。縁が毛羽立っていて、漉き目が透けていた。買った紙ではなかった。墨の紋様は、ところどころ薄れていたが、読めた。
境目の札だった。俺が教わったのと、同じ型だった。
境目は、区切りを作る札だ。貼れば、そこが内と外に分かれる。この一枚で、祠の内が、一つの器になっていた。
誰かが、何かを、ここに囲った。
その扉を、いま開けた。
何か、出してしまったのかもしれなかった。
「原田さん、路地の口まで、下がっとってください」
鞄から留めを一枚抜いて、扉の前に翳した。
しばらく、そうしていた。留めには、何も当たってこなかった。紙は、白いままだった。
扉の内の札に、目を戻した。
黄ばみが薄かったのは、中のものが弱いからだと読んでいた。区切りが効いていて、外へ洩れてこないだけだったのかもしれない。
剥がせば、区切りは終わる。剥がさなければ、何を囲ったのか分からないまま、祠ごとよそへ運ばれていく。
「原田さん」
路地の口で、原田さんがこちらを見た。
「これは、拝み屋の札です。剥がしても、よかですか」
「あんたの方のもんなら、あんたが始末してください」
留めを左手に持ち替えて、札の角に爪を入れた。浮かなかった。何十年も、剥がれずにいたのだ。少し力を入れると、紙は思っていたより素直に剥がれた。
何も起きなかった。
路地は、静かなままだった。室外機の唸りだけがしていた。留めを持った手が、汗で湿っていた。
剥がした札は、畳まずに、鞄の内ポケットに入れた。
壁の三枚を剥がして、新しい目印を同じところに貼った。左の壁、雨樋、行き止まりの隅。四枚目を、開けたままの扉の内の、札のあった板に貼った。
原田さんには、明日の朝に、と言って帰ってもらった。
その日は、表を開けなかった。路地の口の、日陰になるところに立っていた。室外機の吐く風で、日陰にいても汗が引かなかった。
昼に一度、夕方に一度、覗いた。何も出ていなかった。
暗くなってから、携帯の明かりで照らした。白かった。
次の朝、まだ薄暗いうちに、路地に入った。
四枚とも、白かった。
扉の内の一枚も、壁の三枚も、色が無かった。剥がす前に出ていた、見えるか見えないかの黄ばみも、もう無かった。
何も、封じてはいなかった。区切りがあって、その区切りの内が、薄く何かを覚えていただけだった。区切りが無くなって、それも無くなった。
何を囲うつもりで貼ったのかは、分からないままだった。
日が高くなってから、原田さんと高木さんが来た。
「中に、札が一枚あっただけでした。剥がして、一日見ました」
「何か、おったとですか」
高木さんが訊いた。
「何も、封じとらんです。区切りのあっただけで、その区切りも、もう無かです」
高木さんは、タオルで額を押さえた。
「そしたら、拝み屋さんのほうで、持っていってもらうとは、できんですか」
「持っていくもんが、もう無かとです」
高木さんは、そうですか、と言った。それ以上は訊かなかった。
原田さんは、祠を見ていた。扉は、閉めてあった。
「何も居らんとなら、閉じてもらいます。神主さんに」
高木さんが、原田さんの顔を見た。
「移さんで、よかとですか。新しかビルの敷地の隅にでも、置き場所は作れますけど」
「預かったもんは、預かったまま放っとかれんでしょう」
高木さんは、しばらく黙っていた。それから、分かりました、と言って頭を下げた。神主さんには、土曜の朝に来てもらうという。
拝み屋さんの代金も工事のほうで持ちます、と高木さんが言った。
「わしが頼んだことですけん」
原田さんは、胸ポケットから封筒を出した。一万円が入っていた。
高木さんは、それ以上は言わなかった。
土曜の朝は、曇っていた。日が隠れていても、路地の熱は朝から溜まっていた。
路地の口に、白い軽トラックが停まっていた。荷台に、毛布が一枚敷いてあった。
神主さんは、六十くらいの痩せた人だった。白い装束の袖を片手で押さえながら、路地を入っていった。高木さんと、作業着の若い人が二人、後ろに並んだ。原田さんは、その後ろに立った。俺は、いちばん後ろの、路地の口にいた。
祝詞は、長かった。
俺の八文字の何倍あるのかを、数えかけて、やめた。言葉の切れ目ごとに、神主さんの背中が少し沈んだ。室外機は、もう一つも動いていなかった。
済むと、神主さんが脇へ退いた。
原田さんが前へ出て、湯呑みの水を溝に空けた。榊の瓶も空けた。湯呑みと瓶をハンカチに包んで、鞄に入れた。それから、釘のビニール袋を外して、畳んで、胸ポケットにしまった。
祠の屋根を、指の節で二度叩いた。
若い二人が、祠を両側から抱えて持ち上げた。思っていたより、軽そうだった。台の上に、祠の形だけ、色の薄いところが残った。
軽トラックの荷台に毛布ごと寝かせて、神主さんが助手席に乗った。どこへ行くのかは、聞かなかった。
原田さんは、軽トラックが角を曲がるまで見ていた。それから、こちらへ頭を下げた。
「ご苦労さんでした」
因幡町通りを、表のほうへ歩いていった。
月曜の昼、因幡町通りを通った。
二つのビルの前に、白い囲いが立っていた。路地の口も、その内側に入っていた。原田印判店の字は、もう見えなかった。
囲いの角に、工事のお知らせが貼ってあった。工期の欄に、再来年の春の日付が書いてあった。
門の脇で、高木さんがタオルで額を押さえていた。こちらに気づいて、頭を下げた。
当番表のことを思い出した。
あの紙は、原田さんの胸ポケットに入って、因幡町通りを表のほうへ行った。上から二十あまりの名前に線が引いてあって、いちばん下の一つにだけ、引いていない。
誰が世話していたかは、あの紙に載っていた。あの祠が何なのかは、ひとつも載っていなかった。
あの祠には何もなかった。あったのは、古い囲いだけだ。それも無くなった。
誰が置いたのか。いつ置かれたのか。何のために置かれたのか。
それはもう、誰も覚えていなかった。




