第四十九話 岩永方 盆提灯 受 壱
盆の入りの翌朝だった。渡辺通りの歩道は、いつもの朝より人が少なかった。勤め人の流れが細くて、そのぶん、デパートの紙袋を提げた家族連れが目についた。子どもの手を引いた男が、地下街の階段の手前で立ち止まって、辺りを見渡した。それから、迷わず歩き出した。帰ってきた人の歩き方だった。
日はもう高く、ひさしの影の外では、タイルの照り返しが顔まで上がってきた。
電話が鳴ったのは、九時を回ったころだった。名刺の番号にかけた、と女の人は言った。
「岩永といいます。長丘に、春から住みよります」
昨日の夕方、玄関の戸が、ひとりでに開いたのだという。家族で晩ご飯を食べていたときだった。格子の引き戸が、からからと鳴って、手のひら一枚ぶんだけ開いた。風は無かった。
主人の両親が、盆で泊まりに来ている。奥の間に寝てもらっている。その奥の間が、夜になって、線香の匂いがした。
「うちは、線香は焚いとらんとです。仏壇も、無かとです」
戸は、閉めても、しばらくするとまた手のひら一枚ぶん開いているという。
「お義母さんは、どなたかの帰ってこらしたとやろう、ち言いよります」
「前に住んどった方の」
「たぶん」
少し間があった。
「どこに帰ればよかとか、教えてあげられんでしょうか」
怖がっている声ではなかった。
主人の両親は、明後日の朝まで居る。来年の盆にも、また来る。毎年来るのだという。
見立てに二日で一万円、と言った。
「お願いします」
路地の口まで歩いて、本家に言った。長丘へ出る。表を頼む。本家は、はい、と言って、机を拭いていた布巾を畳んだ。
天神からバスで南へ下って、長丘で降りた。
坂の町だった。バス通りから一本入ると、道はすぐに上りになった。古い二階家と、まだ新しい建売が、互い違いに並んでいた。どこかの庭木で、蝉がわんわん鳴いていた。
岩永さんの家は、坂の途中にあった。生垣の切れ目に門柱が二本立っていて、その奥に、格子の引き戸の玄関があった。瓦屋根の二階家で、雨戸の戸袋だけが、新しく塗り直してあった。
玄関の戸は、手のひら一枚ぶん、開いていた。
岩永さんは、三十代の半ばくらいだった。エプロンを掛けていて、話の切れ目ごとに、背中に手を回して紐を結び直した。後ろから、小学生くらいの男の子が顔を出して、すぐに引っ込んだ。
「さっきも、閉めたとです」
岩永さんは、戸を閉めた。格子の向こうで、からりと鳴った。
居間では、年配の男の人が、テレビで高校野球を見ていた。その横で、小柄な女の人がうちわを使っていた。うちわの手を止めずに、こちらに頭を下げた。
「拝み屋さんね。暑かとに、ご苦労さんです」
「お義母さん」
岩永さんが、少し困ったように笑った。
「仏さんの帰ってこらすとは、盆やけん、あたりまえたい。よそさんの仏さんちいうだけで」
うちわが、また動き出した。
奥の間は、廊下の突き当たりの六畳だった。縁側の向こうに、狭い庭があった。部屋の隅に、布団が二組畳んで積んであって、扇風機が一台、首を振っていた。
床の間の隣に、半間の、扉の無い棚があった。中の板に、四つ足の跡が、丸く四つ残っていた。
「仏壇の置いてあったところだそうです。前の方が、持っていかれて」
膝をついた。畳に近いところで、線香が匂った。顔を上げると、匂いは扇風機の風に紛れた。
目印を三枚、貼らせてもらった。玄関の上がり框の脇の柱に一枚。廊下の柱に一枚。奥の間の、縁側の柱に一枚。
短い祝詞をあげた。八文字。
「前の方に、ここで送ってもらうことになるかもしれません」
言うと、岩永さんは、エプロンの紐に手を回した。
「どうぞ。来らすとなら、お素麺でも茹でときます」
前の家のことは、隣で聞けた。
坂の一段下の家の前で、八十くらいの女の人が、ホースで道に水を撒いていた。ホースの先を親指でつぶして、水を扇の形に広げていた。
「中尾さんね。おじいちゃんの亡くなって、三年になるかね」
娘さんが、一緒に住んでいたという。おじいちゃんのいなくなったあと、一人では広すぎて、坂もきついと言って、家を売った。去年の暮れのことだった。今は、大野城のマンションにいる。
「盆には、提灯ば玄関から見える座敷に下げよらしたよ。毎年」
水が、こちらの靴の先まで流れてきた。
「仏壇も提灯も、お寺さんで焚き上げてもろうたげな。片付けのとき」
電話ば、してやろうか。女の人はそう言って、ホースを置いて家に入っていった。
しばらくして、子機を持って出てきた。明日の朝なら、と中尾さんは言っているという。
帰りに、別府のホームセンターに寄った。
入口の脇に、盆の棚が出ていた。台に立てる提灯と、吊るす提灯とが、並んでいた。いちばん安いので、二千九百八十円だった。苧殻の束と、盆花と、線香の箱が積んであった。苧殻は、皮を剥いだ麻の茎を干したもので、迎え火と送り火に焚く。白くて軽い棒が、輪ゴムで束ねてあった。
前掛けの男が、しゃがんで線香の箱を並べ直していた。
「おう、大上くん」
播谷さんは、立ち上がらずに言った。
「盆の物は、売れよりますか」
「今日までたい。明日になったら、半額にしても誰も買わん」
提灯の値札を見ていると、播谷さんがこちらを見上げた。
「あんたが、提灯ね」
「仕事です」
ふうん、と言って、線香の箱を一つ、棚に戻した。
「来年のぶんば、今から買う人はおらんけんね」
晩に四畳半へ戻ると、本家が素麺を茹でていた。
流しの上の窓を開けても、湯気は外へ出ていかなかった。
話すと、本家は、鍋の湯を切りながら聞いていた。
「提灯は、なんぼでした」
「二千九百八十円から」
「そんなら、買うてもろうたら、よかでしょう」
「続けるか、分からんと」
本家は、ざるの素麺を水にさらした。
「うちが買うて、貸すこともできます」
「借りる」
本家の手が、少し止まった。目が、座卓の上の、俺の左手に行った。
「三千円のことで、手相ば張るとですか」
答えなかった。
本家は、素麺を二つの器に分けて、座卓に置いた。
「はよ食べんと、素麺のくっつきますよ」
翌朝、長丘の三枚を見に行った。
三枚とも、焦げていた。薄かった。人ひとりぶんだった。
玄関の一枚は、奥に寄ったところから。廊下の一枚は、右に寄ったところから。縁側の一枚は、左の端に近いところから、焦げが広がっていた。三本の線を延ばした。
床の間の隣の、半間の棚で交わった。
四つ足の跡の、真ん中だった。
岩永さんは、玄関の戸を見ていた。夜のうちに、また開いていたという。
「帰る家の変わったとを、知らんとやと思います」
と言った。
岩永さんは、エプロンの紐を結び直した。
「そしたら、教えてあげんといけんですね」
西鉄で、下大利まで行った。
中尾さんのマンションは、駅から歩いて五分の、九階建ての五階だった。廊下の手すりの向こうに、低い山が見えた。
中尾さんは、五十代の終わりくらいだった。髪を短く切っていて、眼鏡を、話の途中で額の上へ押し上げた。
二間の部屋で、どちらもよく片付いていた。テレビの横の棚に、写真立てが一つあった。年寄りの男と女が、どこかの庭で並んでいた。香炉も、線香立ても無かった。
長丘の家のことを話した。戸のこと、線香のこと、三枚の札が指したところのこと。
「お父さんが、帰ってきよらすごたるとです」
中尾さんは、黙って聞いていた。それから、眼鏡を額の上へ押し上げた。
「……そうですか」
「盆は、こちらでは」
「しとらんです」
写真立てのほうは、見なかった。
来年から、ここで迎えてもらえないか。その話をしに来ていた。
「やめらしたとは、家ば手放したけんですか」
訊かなくてもいいことだった。
中尾さんは、眼鏡を下ろした。
「それもあります」
麦茶のコップを、両手で持ち直した。
「母の亡くなってから、わたし一人でしよったとです。三十年近く。その前は、母と二人で」
迎えの晩の支度。墓の掃除。提灯を出して、供え物を作って、親戚が来れば茶を出して、送りの晩には、また片付けた。
「家の売れたとき、ほっとしたとです。もう、盆ばせんでよか、ち」
悪びれた声ではなかった。
来年からの話は、しなかった。
「今晩、送りだけ、してもらえんでしょうか。長丘の家で」
中尾さんは、すぐには答えなかった。
「岩永さんは、どうぞ、ち言うてくださっとります」
「……送るだけなら」
それから、少し笑った。
「提灯の、もう無かとです」
「うちで、用意します」
「おいくらですか」
「お貸しするだけですけん」
昼過ぎに、四畳半へ戻った。本家は表に立っている。
座卓に帳面を置いて、いちばん新しい頁を開いた。
左手を開いた。
盆提灯を一つ、と頭に置いた。日限は、三日。送りは今晩で、受けるのは明日の朝になる。一日余れば足りた。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお借りします」
あたりが張った。
掌を、頁に押しつけた。
紙が、一度だけ脈を打った。手を離すと、黒い手の形が残っていた。その横に、字が浮いてきた。
大上 盆提灯 手形 壱 三日
畳の上に、提灯が一つ、横になっていた。
吊るす形のものだった。白い胴に、桔梗と萩が薄く描いてあって、上と下の輪は黒く塗ってあった。下に、紫の房が下がっていた。胴の正面に、紋が一つ入っていた。丸の中に、鳥の羽が二枚、交わっていた。
見覚えのない紋だった。
中を覗くと、電池で灯る、蝋燭の形のものが据えてあった。スイッチを入れると、胴がぼうっと明るくなった。消した。
どこの家の紋なのかは、分からなかった。
左の掌は、平らになっていた。
夕方、提灯を紙袋に入れて、長丘へ上がった。
坂の途中で振り返ると、日の落ちた街が、ずっと下のほうに広がっていた。どの家の窓にも、もう灯りが入っていた。蝉は鳴きやんでいて、坂の上のほうから、風が少しだけ下りてきた。
岩永さんの家では、晩ご飯が済んでいた。奥の間の布団は片付けてあって、座布団が一枚、棚の前に置いてあった。縁側の戸は開け放してあった。盆に、麦茶のコップが並んでいた。
主人だという眼鏡の男の人が、男の子の頭に手を置いて、頭を下げた。
八時を少し過ぎて、中尾さんが坂を上がってきた。風呂敷の包みを一つ、提げていた。
門柱のところで、中尾さんは立ち止まった。手のひら一枚ぶん開いた玄関の戸を、しばらく見ていた。それから、門をくぐった。
奥の間に入ると、中尾さんは半間の棚の前に立った。四つ足の跡を見て、鴨居のほうを見上げた。
「そこに、釘のあるでしょう」
棚の前の鴨居に、釘が一本、打ってあった。頭が錆びていた。
紙袋から提灯を出して、釘に掛けた。
中尾さんは、提灯の胴を見た。
「うちの紋やなかですね」
「借りもんですけん」
中尾さんは、それ以上は訊かなかった。手を伸ばして、提灯のスイッチを入れた。
風呂敷の包みから、小さな香炉と、線香の束と、団子を盛った皿を出した。香炉は、焚き上げに出さずに取っておいたのだという。
線香に火を点けて、香炉に立てた。座布団に座って、手を合わせた。
居間との境の襖のところに、岩永さんの家の人たちが並んで座っていた。お義母さんも、手を合わせていた。男の子は、父親の膝のあいだから、提灯を見ていた。
長くはなかった。
中尾さんは立ち上がって、提灯を釘から外した。吊り手を持って、廊下を玄関へ歩いていった。みんなが、少し遅れて、そのあとに続いた。
中尾さんは、玄関の戸を、いっぱいに開けた。提灯を提げて、門柱のあいだまで出た。坂の上に、立っていた。提灯の灯りが、足もとの舗装と、生垣の葉の裏を照らしていた。
しばらく、そうしていた。
それから、スイッチを切った。
後ろで、玄関の戸が、すうっと閉まった。
誰も、手を触れていなかった。
「閉まった」
男の子が言った。
「帰らしたね」
お義母さんが言った。うちわで、一度だけ自分を扇いだ。
中尾さんは、門柱のあいだに立ったまま、閉まった戸を見ていた。
岩永さんが、エプロンの紐を結び直した。
「来年も、ここで送らしたらよかですよ。迎えも、ここで」
中尾さんは、家を見上げた。二階の窓に、灯りが入っていた。前は自分の部屋だったのかもしれない、と思った。訊かなかった。
「……来年は、うちで迎えます」
それから、手の中の提灯を見た。
「これ、譲ってもらえんですか」
「借りもんですけん」
「そうですよね」
中尾さんは、提灯をこちらに差し出した。
「買います。来年までに」
岩永さんの主人が、下大利まで車で送っていった。
提灯は、畳んで、奥の間の床の間に置かせてもらった。
今晩のうちに受ける気には、なれなかった。送ったばかりのものを、提灯ごと入れてしまうかもしれない。大橋の病院の、非常階段を思い出した。人を一人入れたのは、あの一度でたくさんだった。
翌朝、長丘へ上がると、門の前に車が停まっていて、岩永さんの主人が、トランクに荷物を積んでいた。お義父さんは、もう助手席に座っていた。
お義母さんは、玄関の戸を閉めながら、こちらに頭を下げた。
「来年も来るけんね」
岩永さんに言っていた。
戸は、夜のあいだ、一度も開かなかったという。
三枚を見た。焦げは、昨日の朝のまま、一つも進んでいなかった。
車が坂を下りていってから、奥の間に入れてもらった。岩永さんには、居間で待ってもらって、襖を閉めた。
床の間の前に膝をついた。提灯は、畳んだまま、そこにあった。
受けるのは、ものの在るところからだ。在るのは、岩永さんの家の、奥の間だ。中尾さんの家だったところだ。
帳面を開く。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
あたりが張った。
岩永方 盆提灯 受 壱
提灯が、無くなった。床の間の板に、何も無かった。
隣の行に、字が浮いてきた。
大上 盆提灯 皆済
張ったものが落ちた。左の掌が、痒くなった。見ると、筋が戻っていた。頁の手の形からは、皺が抜けていた。
襖を開けると、岩永さんが、居間で封筒を持って待っていた。見立ての一万円だった。送りの晩のぶんも、と言って、もう一枚出しかけたのを、断った。
帰りのバスが、坂を下りはじめた。
窓の外を、家が一軒ずつ過ぎていった。ある家の縁側で、年寄りが提灯を畳んで、箱にしまっていた。その何軒か先では、男の人が脚立に乗って、軒の提灯を外していた。
どの家にも、帰ってくる人がいて、迎える人がいた。
あの坂の上の家にも、帰ってくる人はいた。迎える人だけが、いなくなっていた。それで戸が開いて、線香が匂って、拝み屋が呼ばれた。
「仏さんの帰ってこらすとは、盆やけん、あたりまえたい」
岩永さんのお義母さんは、最初からそう言っていた。
提灯を一つ下げて、手を合わせる人が一人いれば、あれは盆だった。
来年の提灯は、中尾さんが自分で買う。




