第四十八話 緒方洋品店 見立て 受 壱
梅雨が明けた。山笠が済んで、三日もしないうちだった。朝から空が白く焼けて、街路樹で蝉が鳴いていた。デパートのひさしの影が、歩道にくっきりと落ちていた。影の外のタイルは、見ているだけで熱かった。
本家は、箱崎の客に呼ばれて、朝から出ていた。裏の店は閉めてある。
昼過ぎに、客用の椅子に男が座った。五十代の終わりくらいで、白い半袖のシャツに、アイロンの折り目がまっすぐ通っていた。首から、黄色い巻尺を掛けていた。
「雑餉隈で、洋品店ばしよります。緒方です」
話しながら、巻尺の端を人差し指に巻いた。巻き終えると、ほどいた。
店は母親が始めて、五十年になる。緒方さんは二代目だという。
「試着室で着たもんが、家で着ると、似合わんげなです」
年が明けたあたりから、返品が来るようになった。春からは、目に見えて増えた。袖を通しただけなら一週間は引き取る、というのが先代からの決まりで、緒方さんはそれを守っていた。
「お客さんの言うことは、分かるとです。うちでも、あそこに立たれると、似合うて見える」
巻尺を巻いた。
「似合わんとは、頭では分かっとるとです。この色に、この柄は合わん。この肩は、この人には落ちる。分かっとって、似合うて見える」
試着室の電球は、替えてみたという。自分でも、似合わないと分かっているシャツを着て、入ってみた。似合って見えた。
「盆前に、売り出しのあるとです。夏物の払いが、このままじゃ立たんとです」
見立てに二日で一万円、と言った。緒方さんは巻尺をほどいて、うなずいた。
「拝み屋さんも、見立てち言わすとですね」
夕方、西鉄で雑餉隈へ行った。
駅を出ても、日はまだ高かった。商店街のアーケードに入ると、日差しは切れたが、風も抜けなかった。シャッターの下りた店と、開いている店が、互い違いに並んでいた。開いている店の軒には、たいてい赤い札が出ていた。
緒方洋品店は、通りの中ほどにあった。入口のガラス戸に、「夏物 売りつくし」の紙が貼ってあった。
中は細長かった。吊るしのブラウスとシャツが両側の壁に沿って並び、真ん中の台に、畳んだ肌着が積んであった。首の無いトルソーが二体、入口のほうを向いていた。
試着室は、いちばん奥の隅にあった。壁の角に天井からレールを渡して、えんじ色のカーテンを吊ってあるだけだった。中は一畳もない。奥の壁に、丈の長い鏡が据えてあった。
カーテンは、裾の、引き手のあたりだけ色が抜けて、桃色に近くなっていた。何十年も、そこを摘まんで引かれてきたのだと思った。
レールの脇の柱に、厚紙の札が下がっていた。墨の字が、茶色く褪せていた。
お見立て いたします
「おふくろの字です」
緒方さんの母親は、八十を過ぎて、店の二階に住んでいる。膝を悪くして、去年の秋から下りてこなくなった。
話しているうちに、ガラス戸が開いた。紙袋を提げた、四十くらいの女の人だった。日傘を畳みながら、すまなそうに笑っていた。
紙袋から、水色のブラウスが出てきた。値札が付いたままだった。
「お店では、よう見えたとですけど」
緒方さんは、何も訊かずに受け取った。レジを開けて、金を数えて返した。女の人はもう一度すまなそうに笑って、出ていった。
緒方さんはブラウスを畳んで、レジの後ろの段ボールに入れた。段ボールは、半分ほど埋まっていた。
入ってみてよいか、と訊いた。
カーテンを引いて、中に立った。足もとは、店と同じ板の床だった。
鏡に、自分が映っていた。いつものTシャツだった。三枚を着回しているうちの、首まわりの伸びた灰色の一枚だった。
伸びて見えなかった。
くたびれた灰色が、そういう色に見えた。肩の線も、袖の丈も、こうしかないという形に見えた。しばらく見ていた。見ているうちに、これでいいと思えてきた。
カーテンを開けて、出た。
緒方さんが、こちらを見た。
「首の、伸びとります」
入口のガラス戸に、自分が映っていた。いつもの、首の伸びたTシャツを着ていた。
閉店のあとで、目印を貼らせてもらった。
試着室の中の、左右の壁と、鏡の脇に一枚ずつ貼った。三枚は離して貼るものだが、中は一畳もない。それでも、ここだと思った。
短い祝詞をあげた。八文字。
翌日の昼前に、見に行った。
三枚とも、白かった。黄ばみも、焦げも、湿りも無い。貼ったときのままだった。
「何も、出とらんです」
緒方さんは、巻尺を指に巻いたまま、札を見ていた。
「照明かもしれません。こういうところの電球は、肌のよう見えるとを使うでしょう」
「替えてみました。言いましたでしょう」
言われていた。
「店の蛍光灯と同じとに替えて、三日置きました。似合うて見えました」
緒方さんは、巻尺をほどいた。
「似合わんもんが似合うて見えるとは、電球じゃ、ああはならんです」
三十何年、人の着た服を見てきた人が、そう言っていた。
不動産屋の鳥飼さんに頼まれて、平尾の空き部屋を見たときを思い出した。あのときも、三枚とも白かった。答えは、居間の敷居の上にあった。境をまたがせて貼った一枚だけが、片側だけ黄ばんだ。
カーテンを見た。布は、少し触れただけで揺れた。またがせて貼れる線ではなかった。
三枚は、離して貼るものだった。
中の三枚を剥がして、新しく三枚貼った。一枚は、店の真ん中の柱に。一枚は、レジの台の横に。一枚は、入口のガラス戸の脇の壁に。
翌朝、開店の前に見た。
三枚とも、黄ばんでいた。薄かった。
柱の一枚は、奥に寄ったところから。レジの一枚は、左に寄ったところから。入口の一枚は、真ん中から少し右に寄ったところから、黄ばみが広がっていた。それぞれから一本ずつ、線を引いた。三本とも、店の奥の隅で寄った。
えんじ色のカーテンの、内側だった。
三枚が白かった場所だった。
カーテンを開けて、中に立った。鏡に、自分が映っていた。今日のTシャツは紺で、これも、こうしかないという色に見えた。
中の札は、どちらからも同じだけ浴びていたのだと思った。どちらから来たとも言えないものに、札は黄ばまない。外の札だけが、カーテンから洩れたぶんを、片側から浴びた。
中におったら、見立てられん。
カーテンを出た。
緒方さんは、レジの台で、大学ノートを開いていた。返品の控えだという。日付と、品と、金額が、一行ずつ書いてあった。
一月に二行。二月に四行。三月からは、頁が変わるごとに行が詰まっていた。
「十四万と、少しです」
緒方さんは、ノートを閉じた。
「お母さんが、下りてこんごとなったとは、いつでしたか」
「去年の秋です。彼岸の過ぎて」
「返品の始まったとは、年が明けてから、でしたね」
緒方さんは、巻尺を巻きかけて、止めた。
母親は、試着室の外に立つ人だった。客が着替えてカーテンを開けると、外から見て、言った。似合うものには似合うと言い、似合わないものには、黙って別のを持ってきた。
「どうですか、ち、お客さんのほうが訊きよったとです。おふくろに」
緒方さんも、訊かれたことはある。ただ、女の客は母親に訊いた。母親が下りてこなくなると、誰も訊かなくなった。カーテンを閉めたまま着替えて、鏡を見て、決めて、出てくる。
「男には、訊かんとです。おなごの服のことは」
それで仕方がないと思っていた、と緒方さんは言った。
カーテンの裾を見た。引き手のあたりの、色の抜けたところを見た。
「この店の苦しかとば、知っとるとでしょう」
と言った。
「売りたがっとるとですよ。あそこが」
緒方さんは、巻尺を指から外した。
「おふくろは、似合わんもんは売らん人でした」
こちらを見ずに言った。それから、レジの後ろの段ボールを見た。
「お母さんに、また店に立ってもらうわけには」
言ってから、言わなくてよかったと思った。
「膝が、もう」
緒方さんは、それだけ言った。
引き取りに三万円、と言った。
緒方さんは、ノートの上に手を置いた。
「この三月ぶんより、安かですね」
その晩、店を閉めてから、もう一度行った。
シャッターを半分下ろしてもらい、緒方さんには、アーケードで待っていてもらった。
店の中は、蛍光灯が半分だけ点いていた。トルソーが二体、暗いほうを向いていた。
試着室の前に立った。カーテンは開けたままにした。鏡に、店の奥の暗がりと、自分が映っていた。
鞄から帳面を出した。
帳面を開く。
レールの脇の札を見た。品名は、そこに書いてあった。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
あたりが張った。店の中の吊るしの数を、肌着の枚数を、トルソーの二体を、何かが数えていった。
緒方洋品店 見立て 受 壱
書き終えると、張ったものが落ちた。
カーテンの裾が、引き手のあたりで一度だけ揺れて、止まった。
帳面を閉じた。
試着室に入って、鏡を見た。紺のTシャツの男が立っていた。洗いざらしで、首まわりが少し伸びていた。
シャッターをくぐって出ると、緒方さんがアーケードの柱に寄りかかって待っていた。見立ての一万円と、引き取りの三万円を、封筒に分けて用意してあった。
一週間して、外の三枚を見に行った。
三枚とも、白くなっていた。
返品は、一つも来ていないという。売れ行きも、落ちてはいない。
「似合わんもんは、似合わんごと見えるごとなりました。あたりまえのことですけど」
緒方さんは、巻尺を指に巻いて、ほどいた。
真ん中の柱の一枚を剥がしていると、ガラス戸が開いた。七十くらいの、小柄な女の人だった。手提げの持ち手を、両手で揃えて持っていた。
「お母さんは、お元気ね」
「上におります」
女の人は、吊るしの前でしばらく迷って、藤色のブラウスを一枚取った。試着室に入って、カーテンを引いた。
レジの横の一枚を剥がした。入口の一枚に手を掛けたところで、カーテンが開いた。
女の人は、藤色のブラウスを着て、中に立っていた。鏡と、こちらとを、見比べていた。
「どうですか」
緒方さんに、訊いていた。
緒方さんは、巻尺を指に巻きかけて、止めた。
「色は、よかです」
少し間があった。
「丈が、ちょっと長かですね」
首から巻尺を外して、カーテンのほうへ歩いていった。
レールの脇の札は、下がったままだった。




