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番外 本家

 最後に覚えているのは、坂口(さかぐち)の家の廊下だ。

夜の十時を過ぎていた。玄関の上がり口に、俺が座っていた。紺のシャツに、膝の抜けたチノパン。ペンキのついた指。寝不足を顔に貼りつけて、こっちを見ていた。

「あんたは、いくつめや」

答えられなかった。向こうに答えられないことは、こっちにも答えられない。

玄関の男は帳面を開いた。筆を持って、少し止まって、書いた。何と書いたのかは、廊下の奥からは見えなかった。

答えられないほうが、書かれる。それで勘定は合う、と思った。

俺は一度だけ、そっちを見た。


 次に見えたのは、デパートの灯りだった。

暑かった。さっきまで廊下の床板は湿っていて、雨の匂いがしていたはずだった。

尻の下にあるのはパイプ椅子で、空気は乾いて、アスファルトが昼の熱を吐いていた。

目の前に折りたたみテーブルがあって、厄除けの札が積んである。文鎮がわりの石。隅に「怪異 ご相談ください」と書いた紙。

背中のほうを、車が流れていく。

振り返ると、茶色いガードレールに、ベニヤ板がガムテープで縛ってあった。


  元祖天神大上屋


 渡辺通り沿いの歩道。デパートの正面、地下街に下りる階段の裏。

俺の店だった。デパートはもう閉まっていて、ショーウィンドウだけが灯っていた。

ガラス張りの階段の底には、地下街の橙色の灯りが溜まっていた。少し先に屋台が出ていて、湯気が上がっていた。

足もとに、鞄があった。

開けた。空だった。

帳面が無い。筆ペンも無い。札の一枚も無い。ポケットを順に叩いた。財布が無い。携帯が無い。アパートの鍵が無い。

しまわれて、出された。そのあいだが、どこにも無かった。だから、考える手間も無かった。

書いたほうが帳面を持っていて、書かれたほうは持っていない。それだけのことだった。


 帳面に何が書いてあるかは、知っていた。

坂口方の母が弐、娘が壱。そこまでは、俺が書いた。大上大介が壱。それは、廊下で書かれた。

座布団が六。坂口方の員数が七。元祖天神大上屋の員数が七。

こっちは見ていない。見ていないのに、知っている。

中にいたからだろう、と思った。中のことは何も覚えていない。それでも、帳面の中にいたのなら、帳面に何が書いてあるかくらいは知っていて、おかしくはない。

屋号の行に、七とある。何を七つ、とは書いていない。

俺は、自分が座っている店を見た。看板があって、机があって、椅子があって、札がある。そこに、俺が座っている。

店番だ、と思った。

屋号で七を受けた。店には、店番が要る。


 札の脇に、値札が立ててあった。

千円、とある。俺の字だった。書いた覚えは無い。俺の覚えている値札は三千円で、札は三枚しかなかった。

いまは、山になっている。端をめくった。同じ角度、同じ皺、同じ糊のはみ出しかた。

増やしたのだ。坂口の家がやっていたことを、向こうは帳面でやっている。値を下げたのも、向こうだ。

屋台の手前のコンビニに入って、新聞の日付を見た。

七月六日、火曜日。

坂口の家から、二週間が過ぎていた。そのあいだ、向こうは店を開けて、札を増やして、値札を書き直していた。こっちは、どこにもいなかった。


 店に戻る途中で、屋台の前を通った。

親父は首にタオルを巻いて、寸胴の湯気の向こうにいた。俺を見て、顎をしゃくった。

「兄ちゃん、こげん時間から開けよると? 机なら、裏に積んどるばい」

台の裏を覗いた。折りたたみテーブルが一つと、パイプ椅子が二脚、積んであった。脚が一本ぐらつく、あのテーブルだった。

二十歩先の歩道にも、同じテーブルが開いている。そっちは湯気に隠れて、親父からは見えていないらしかった。

「……どうも」

それしか言えなかった。


 同じ場所に、同じ店は二つ立たない。

朝になれば、向こうが看板を小脇に抱えて、ここへ来る。来て、屋台の裏から机を出す。そのとき、自分の場所に、自分の店が先に出ているのを見る。

どっちが余りかは、決まっている。帳面を持っていないほうだ。

ガードレールのガムテープを剥がした。糊が、茶色の塗装に灰色の筋を残した。テーブルを畳んで、椅子を畳んで、札を鞄に詰めた。帳面の入っていた鞄に、札が入った。

一本裏の路地は知っている。日の差さない側だ。用がないので、曲がったことはなかった。

路地の口までは、四十歩もなかった。


 薬院(やくいん)のアパートの場所も、知っている。二〇三号室。四畳半。

鍵が無いのは、言い訳にならなかった。叩けば開く。開ければ、同じ顔が出てくる。

行けば、あの部屋に住んでいるのはどっちなのかを、その場で決めることになる。選ぶな、と安藤さんは言った。決めた瞬間、決めたほうが偽物になる。

その晩は、路地で寝た。

パイプ椅子を二脚向かい合わせて、片方に尻を、片方に足を載せた。雑居ビルの裏口の上で、室外機がぬるい風を吐き続けた。蚊が来た。頭の上の高架を、終電が渡っていった。

腹が減っていた。財布が無いので、減っているだけだった。


 始発が頭の上を渡って、夜が明けた。

駅の便所で顔を洗って、水道の水を飲んだ。鏡の中の顔は、廊下で見た顔と同じだった。

路地に机を開いて、札を数えた。

四十一枚あった。

千円で売り切って、四万一千円。刷れば減らない山だが、俺には刷れない。

墨も糊も、薬院の押し入れにある。増やす帳面は、向こうの鞄の中だ。

この山が、俺の持ち物の全部だった。

いつまで、とは考えなかった。考えても答えが出ない。出ないぶんを、値段のほうに持たせることにした。

相場は三千円から五千円だと、開業の前に調べてある。いちばん下にした。

値札の千を線で消して、三千円と書き直した。

昼前に、最初の客が来た。背広の上着を腕に掛けた男で、路地を近道に使っていたらしい。札を一枚、手に取った。

「そちら、持っといてください。何か来たら、札のほうが先に傷みますけん」

三千円が、手の中に残った。コンビニで、パンとお茶と、封筒を一枚買った。


 昼過ぎに、路地の口まで出た。

四十歩先の歩道に、もう一人がいた。

階段の裏に机を開いて、パイプ椅子に座っている。ガードレールに縛った看板の、元祖の二文字が、いちばん黒い。

三つ隣では、占いのおばさんが日傘の下に座っていた。

客が一人、看板の前で足を止めた。もう一人は札を一枚、テーブルの上を滑らせて押し出した。

押しつけがましくなく、それでいて断らせない角度だった。

ちゃんと、いた。

二週間、ちゃんと店をやっていた。こっちがどこにもいなかったあいだも。


 路地に戻って、自分の看板を見た。

ビールケースに立てかけたベニヤ板にも、同じ七文字が書いてある。

元祖というのは、最初の一軒のことだ。最初の一軒は、一軒しかない。

どっちが先にあの歩道に立ったかなら、俺の覚えでは俺だ。向こうの覚えでも、向こうだろう。

覚えは当てにならない。当てになるのは、いま、あの歩道に立っているのが誰かだけだった。

間違っている看板だった。

直すと決めても、何と書き直せばいいのかが、まだ出てこなかった。

その日は、元祖と書いた看板の横に、夕方まで座っていた。

間違っていると分かっている看板の横で客を待つ一日は、長かった。札は、もう一枚売れた。

何と書き直すかは、その晩、椅子の上で決めた。

開けて二十七日のあいだに、看板の前で足を止めた客が一人いた。

元祖ってことは本家があるんですか、と訊いて、俺が答える前に信号が青になった。

本家はない、とあのときは思った。

元祖のほかに、看板の頭に置ける二文字を、俺はそれしか知らなかった。


 八日の朝、売り上げを持ってペンキを買いに出た。

天神から歩いて行ける金物屋を、一軒だけ知っていた。白と黒の、小さい缶を一つずつ。二つで千二百円。刷毛は百均で買った。

路地にビールケースを二つ並べて、看板を寝かせた。

元祖の二文字は、いちばん黒い。安藤さんに薄いと言われて、塗り直したからだ。

白を一度塗ったくらいでは、下から透けた。暑さで、白はすぐに乾いた。

もう一度塗った。それでも目を凝らせば、元祖の形が残った。

その上に、黒で書いた。

書体は、手が覚えていた。


  本家天神大上屋


 同じベニヤ板、同じ油性ペンキ、同じ書体。違うのは頭の二文字だけで、二文字違えば、別の店だった。

看板を立てて、少し離れて見た。

その日も、札は一枚売れた。ペンキの匂いの中で、三晩目を寝た。


 九日は、朝から暑かった。

日傘を畳んで手に提げた年配の女性が、路地を抜けようとして足を止めた。札を一枚買って、三千円を置いて、もう歩き出していた。その背中に言った。

「そちら、持っといてください。何か来たら、札のほうが先に傷みますけん」

女性が路地を出ていくのと入れ違いに、別の足音が路地の口で止まった。それから、こっちへ来た。三歩手前で止まった。

小脇に、看板を抱えていた。元祖の二文字が、いちばん黒い。

紺のシャツではなかった。洗いざらしの白いTシャツに、リュックを背負っている。チノパンだけが同じで、膝の抜けかたまで同じだった。

俺のシャツは、四日前から紺のままだった。

店の前に人が立てば、言うことは決まっている。俺は立ち上がって、頭を下げた。

「いらっしゃいませ」

「うち、本家です。元祖さんは、表の通りでやっとります」

表の歩道にいる男を、元祖さん、と呼ぶことにした。口に出したのは、これが初めてだった。

元祖さんは何も言わずに、路地を出ていった。自分の場所を見に行ったのだと分かった。俺でも、そうする。

戻ってきたとき、俺は札の並びを直していた。

「座らんですか」と俺は言った。「椅子は二脚あります」

元祖さんは座らなかった。立ったまま、訊いてきた。

「あんた、いつからおる」

「三日前です」

「どこから来た」

「来とらんです。ここにおりました」

嘘ではなかった。どこからも来ていない。三晩、ここにいた。表から机を抱えてきた四十歩は、来たうちに入らない。

帳面のことを訊かれて、知っているとおりに言った。見ていない行も、見た行と同じ調子で言えた。それを何だと思う、と訊かれて、目録でしょう、と答えた。

元祖さんの顔が、そこで止まった。何を七つ、と書いていないことに、いま気づいたのだと分かった。

それから、こう訊かれた。

「あんたは、何番目や」

坂口の家の廊下でも、同じことを訊かれた。いくつめや、と。あのときは、答えられなかった。

どっちも、一つ目のつもりでいたからだ。

いまは、看板に本家と書いてある。

「勘定に入れてもらえるなら、たぶん、二つ目です」


 その日、元祖さんは俺を表に連れていった。

階段の裏に、机が二つと、椅子が四脚。客が来るたびに、二人で同じ説明をした。客は気味の悪そうな顔をして、それでも札を買っていった。

夕方、看板を下ろしながら、元祖さんが言った。

「あんたを捨てたら、どうなるか分かるやろ」

「明日、二人になります」

「そうやな」

「明後日には四人です」

言うより先に、勘定は済んでいた。向こうも済んでいるのが、顔で分かった。

元祖さんは机と椅子を屋台の裏に積んで、看板だけを小脇に抱えて帰っていった。俺の覚えているとおりのやり方だった。

来い、とは言われなかった。

言われるとは思っていなかった。決める前に、確かめることがある。俺でも、今夜は言わない。


 机と椅子と看板を抱えて、路地に戻った。

四晩目だった。

いまごろ元祖さんは、四畳半で、机の上の帳面を見ている。開いてはいない。開けば読んでしまう。それから携帯を出して、安藤さんにかける。

同じ頭なので、そこまでは分かる。安藤さんが何と答えるかは、分からない。俺はそれを聞いていない。

駅には、公衆電話がある。あの人の番号は覚えている。

かけなかった。あの人の弟子は、一人だ。

封筒の中身を数えた。四枚売れて、一万二千円。パンとお茶とペンキと刷毛を引いて、九千円に少し足りなかった。

看板を、裏口の灯りにかざした。

本、の字の下に、元祖の形がうっすらと浮いていた。白が乾いて痩せたらしい。

明日の朝、元祖さんが来る前に、塗り直しておくことにした。表に二枚並べたとき、同じ看板に見えては困る。

何を七つ数えるのかは、書いていない。書いていないから、帳面が決めた。決めた結果が、ここにいる。

明日、元祖さんはそれを書く。書けるのは、元祖さんだけだ。

何と書くかで、俺が残るのか、消えるのかが決まる。


 箸も茶碗も布団も無い人間は、三日ももたん。

坂口の家のことで、安藤さんはそう言った。俺はそれを、あの四畳半で聞いた。

箸も茶碗も布団も、俺には無い。

今夜で四晩目だ。もたないはずの三日を、もう過ぎている。過ぎている理由は知らない。明日の朝まであるかどうかも、知らない。

消えれば、帳面の中に戻るのだろう。戻ったところで、中のことは何も覚えていない。出てくる前と同じだ。

残れば、元祖さんの帳面の、店番の一人として残る。二週間を覚えていない男が、本物の隣に座る。

どっちに転んでも、変わらないことが一つあった。

入れられて、出されたほうは、もう本物とは呼べない。

廊下で、どっちが先に立っていたかは関係ない。本物は、出されなかったほうだ。

帳面を鞄に入れて、二週間、あの歩道に立ち続けたほうだ。

消えても、消えなくても、俺は本物ではない。

それを、何度も言い直した。言い直すたびに、同じところに戻ってきた。同じ頭で考えているのだから、戻ってくる先も同じだった。

頭の上を、終電が渡っていった。

それから先は、高架も黙った。室外機だけが、回って、止まって、また回った。

本物でない男にできることを、一つずつ挙げた。

本物の看板の頭を譲ること。本物の店から、四十歩引いていること。呼ばれるまで、本物の部屋に行かないこと。

挙げてみると、どれも、もうやっていた。

眠らないまま、空が白くなった。


 すっかり明るくなった頃、路地を出た。

歩道には誰もいなかった。屋台はとうに引き上げていた。階段の裏に机を開いて、看板をガードレールに立てかけて、塗り直しにかかった。

ほどなくして、元祖さんが来た。

「おはようございます」

「おはよう」

元祖さんは机に帳面を置いて、開いた。そのまま、長いこと黙っていた。何を見ているのかは、俺のいるところからは見えなかった。

しばらくして、元祖さんが笑った。

俺も笑っていた。捨てれば二人、二人を捨てれば四人。この街に同じ顔が四人、八人と増えて、全員が同じ屋号を名乗る。その絵が、同じところで浮かんだ。

「なあ」と元祖さんが言った。「あんた、名前は」

「大上大介です」

「二人おったら不便やろ」

俺は、元祖さんの看板を見た。元祖の二文字が、いちばん黒い。

「じゃあ、あんたが元祖でよかです」

看板に書いてあることを、口で言い直しただけだった。

元祖さんが筆を下ろした。

書き終えたとき、何かが止んだ。街の音は、そのままだった。

耳の奥でずっと騒いでいたものが、すっと止んだのだ。騒いでいたことに、止んでから気づいた。

パイプ椅子の脚が、じ、と鳴った。

「元祖さん。今、なんか」

「うちの店が、できあがった」

俺は、自分の名前を口の中で言った。大上大介。言えた。

元祖さんも、同じことをしていた。


 その日の売り上げは、一万二千円だった。

夕方、元祖さんが缶コーヒーを二本買ってきて、一本を俺に差し出した。

「俺は、いつまでおればよかですか」

「員数に入っとるけん。俺が店ばやっとる限りは、ずっとや」

笑った。

看板を下ろして、机と椅子を屋台の裏に積んだ。机が二つと、椅子が四脚。

元祖さんは自分の看板を小脇に抱えて、「帰るぞ」と言った。

俺も、自分の看板を抱えた。

渡辺通りを、南へ歩いた。地下鉄には乗らなかった。同じ顔の男が二人、ベニヤ板を一枚ずつ抱えて乗り込めば、乗客も見ないふりでは済まない。

薬院のアパートの、二〇三号室。鍵を開けたのは、元祖さんだった。鍵は一本しかない。

玄関に、同じ靴が二足並んだ。

俺は自分のを、端に寄せた。

寄せておけば、明日の朝も、どっちが俺のか分かる。


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