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第四十六話 軒

 陣内(じんのうち)さんが店の前で足を止めたのは、梅雨の晴れ間の夕方だった。雲の切れ目から、西日が斜めに差していた。

四十代の半ばくらいの人で、白い割烹着の上に、薄いカーディガンを羽織っていた。手に、信用金庫の名前の入った布の鞄を提げていた。ファスナーの口が、きちんと閉めてあった。

値札の三行を、上から順に読んだ。三行目で、吹き出した。

「正直な札ですね」

「売るほうは、正直なほうが長持ちしますけん」

値札を三行とも読む客は、少ない。たいていは一行目の値段で決める。千円なら、訊かずに買える。

陣内さんは、それから少し黙って、頭の上を見た。何もないところを、確かめるような目だった。

「うちの軒のことなんですけど」

大名(だいみょう)で、和菓子屋をしているという。春から、暖簾をくぐるお客さんが、みんな首をすくめる。

「何かおるとですか、ち訊かれても、何もおらんとです。おらんとに、すくめなさるとです」

「見に伺います」

明日の昼過ぎ、と決めた。陣内さんは鞄を提げ直して、通りのほうへ歩いていった。歩きながら、一度だけ、また上を見た。


 翌日の昼過ぎ、陣内の暖簾をくぐるとき、首がすくんだ。

頭の上を、何かがかすめた気がした。振り返っても、軒の下には何もいない。新しい銀色の庇が、梅雨の白い空を映しているだけだった。

「でしょう」

帳場から、陣内さんが言った。

「母の代からのお客さんは、みなさん、そげんなさるとです。私の代のお客さんは、まだ数の少なかけん、統計の取れんとですけど」

大名の、古着屋と美容室に挟まれて、瓦を載せた二階屋が一軒だけ残っている。暖簾には、御菓子、陣内、と白く抜いてあった。

店の中は、四人も入れば肩が触れる広さだった。硝子の陳列台に、水色の錦玉が並んでいた。寒天の中に、金箔が細く流してある。七夕が近かった。奥の板場から、小豆を炊く匂いがしていた。

陣内さんは、割烹着の袖を肘までまくっていた。話しながら、何度も軒のほうを見上げた。

「お店は、長かとですか」

「母が四十年。私が二年。合わせて四十二年です」

すぐに数が出てくる人だった。

「数字ば見るとは得意なんですけどね。餡ば炊くとは、まだ母の半分も分からんです」

陣内さんは帳場から出てきて、暖簾の外に立った。俺も出た。

庇の上の漆喰に、乾いた泥が、弧を描いて少しだけ残っていた。

「春に、庇ば架け替えたとです。雨の漏りよったけん」

「巣は」

「落としてもらいました。私が、頼んだとです」

悪びれた言い方ではなかった。言い訳をする前に、先に置いてしまう言い方だった。

陣内さんは、足もとの敷石を爪先で叩いた。暖簾の真下の一枚だけが、ほかより白く擦れていた。

「菓子屋の入口に、糞の落ちるとは困るとです。母は四十年、毎朝この石ば洗いよりました。たわしで。私も、ちっちゃかときから手伝わされて」

四十年、毎朝。帳簿なら、一行にもならない手間だった。

「母の亡くなってから、二回、春ば洗いました。三回目の春に、庇の話の来て。ついでに、もうよかろうと思うて」

陣内さんは、少し笑った。

「楽になりたかったとです。それで、これですけん。罰の当たったとでしょうか」

罰かどうかは、見てみなければ分からない。そう答えた。


 その日の夕方、目印を三枚貼った。暖簾の右の柱と、左の柱。もう一枚は店の中の、鴨居の上。間は、取れるだけ取った。

目印は売り物ではない。値段が無いので、見立ての一万円の中に入る。貼ってから、手帳に三枚と書いた。札は、自分では増やせない。減ったぶんは、言わなければ増えない。

通りは細く、車が一台入れば、それで塞がる幅だった。向かいは床屋だった。赤と青の回転灯の上に、泥の椀がひとつ掛かっていた。巣の下の壁に、段ボールの板が釘で留めてある。板の上は、白く汚れていた。

床屋の主人が、竹箒を提げて出てきた。七十を過ぎたくらいの、白衣の背の丸い人で、箒を逆さに持って、柄の先で段ボールの角を突いた。落ちかけていた白いものが、塵取りに落ちた。

「陣内さんとこの、燕の件ね」

主人は、こちらの柱の目印を顎で指した。

「拝み屋さんげなね。若かとに」

「どうも」

「うちは床屋やけん、なんぼ落ちてもこげんしとけばよか。菓子屋は、そうはいかんもんね」

主人は段ボールを見上げた。

「先代の女将さんは、毎朝、石ば洗いよんなった。娘さんも、ランドセル背負うたまま、たわし持たされて。四十年たい。あの子は、ようやったよ」

責める声ではなかった。どちらの店も正しくて、手間を負ってきたのは、陣内の母娘のほうだけだった。

巣の縁から、黒い頭が三つ覗いた。

「燕は、生まれたとこに帰ってくるち言うけんね。うちに来とるとは、あっちの孫か、ひ孫たい」

主人は箒を担いで、店に戻っていった。


 翌朝、三枚とも焦げていた。

薄かった。焼きはじめのパンの、縁の色くらいしかない。黄ばみではない。焦げだ。生き物の覚えだった。

人も、同じ色に焦げる。

三枚とも、焦げは庇のほうへ寄っていた。一枚で引けるのは、線が一本きりだ。三本を延ばすと、庇の上の、泥の弧のところで交わった。

人の立てる場所ではなかった。巣のあったところだった。

「巣ば落とされたとを、まだ探しよるとですね」

言ってから、陣内さんの顔を見た。陣内さんは首を振った。

「今年の燕は、向かいで落ち着いとります。うちの軒には、もう寄りもせんとです」

陣内さんは帳場に引っ込んで、ノートを三冊抱えて戻ってきた。表紙の色が、三冊とも違った。

「母は、帳面の端に、燕のことば書きよったとです」

金銭出納帳だった。いちばん古い一冊は、紙が茶色く焼けて、綴じの糸が浮いていた。

日付と、仕入と、売上。小豆、砂糖、寒天。数字は細くて、詰めて書いてあった。その欄の外、頁の余白に、鉛筆で小さく書き込みがあった。


  燕来


 四月の頁だった。めくっていくと、六月の余白に、巣立ち、とある。七月の余白に、二番子。九月に、燕去。

次の年も、同じだった。日付だけが、少しずつずれていた。

出納帳の余白には、ふつう何も書かない。書けば、税理士に、これは何ですかと訊かれる。帳簿をつけていると、訊かれて答えられないことは書かなくなる。

この人の母親は、四十年、訊かれても困らないことを書いていた。

二冊目は、陣内さんの母親が最後につけたものだった。燕来、巣立ち、二番子、燕去。九月の余白で、字が終わっていた。その先は、別の字だった。数字の並べかたが、少し広い。燕来、巣立ち、二番子、燕去。字は違うのに、同じ欄の外に、同じ言葉で書いてあった。

三冊目は、今年のものだった。四月の余白に、一行。


  燕来 向かいへ


 「四十年、毎年来よったとです。母が嫁に来たときには、もう来よったち」

一羽のものではなかった。一つがいのものでもない。四十年ぶんの燕が、毎年同じ高さで、この軒をくぐっていた。巣が無くなっても、その覚えが、まだくぐっている。

焦げが薄いのは、そのせいかもしれなかった。どの一羽も、この軒をくぐったのは、ひと夏かふた夏のことだ。

「始末のつけかたは、二つあります」

陣内さんは、出納帳を閉じて膝に置いた。

「うちで引き取れば、ここからは居らんごとなります。三万円です」

「はい」

「厄除けなら、軒に一枚貼ります。札が身代わりになって、先に受けます。受けたぶんは、札の中で焼けます。焼けたぶんは、無くなります。札が傷んだら、替えます。一枚、千円です」

「焼いてください」

すぐだった。

「母の燕なら、母が連れていったらよかとです」

笑って言ったが、出納帳の上の手は、笑っていなかった。

三万と千円を並べれば、たいていの人は安いほうを選ぶ。この人は、値段を聞く前から決めていた顔をしていた。

引き取りなら、回す先は一つしかない。厄除けで済むものは、厄除けで済ませる。うちの店は、そういう分け方をしている。


 脚立を借りて、泥の弧のすぐ下に、厄除けを一枚当てた。

短い祝詞をあげた。八文字。

札は、壁に吸いつくように留まった。

脚立を降りて、替えの話をした。

厄除けは、焼けるたびに替えることになる。替えに通う仕事は、続かない。

帳簿には、点検、という行が一本だけある。一部屋、千五百円。月に一度と言われて、翌月の電話は来なかった。うちの店は、覚えてもらえない。覚えてもらえない店に、向こうから電話は来ない。

通うなら、行く日をこっちで決めておくしかない。

「替えは、こちらから伺います。日は、決めてお知らせします。替えのたびに、札が千円と、手間が五百円です」

「手間賃は、別に取りなさるとですね」

「取ります」

札代だけなら、行かない日があっても、誰も困らない。手間を取れば、行く理由が残る。

陣内さんは、軒を見上げて、指を一本ずつ折った。

「焼けるとが十日で一枚として、燕の行く彼岸まで、八回。一万二千円。見立てと合わせて、二万三千円ですね」

こちらが頭の中で並べていた数と、同じだった。

「前は、信金に二十年おったとです。母の亡くなるまで」

昨日の、ファスナーをきちんと閉めた鞄を思い出した。

「数字だけは、伊達やなかとです」

陣内さんは、初めて声を出して笑った。


 その晩、名刺の裏に、十日おきの日付を並べた。秋の彼岸までで、裏が埋まった。

書きながら、帳簿のことを考えていた。

帳簿には、週に一度、同じ行が入る。観清寺(かんせいじ)、厄除け、三枚、三千円。手間の行は、無い。

入る行にも、出ていく行にも、妙なものが多かった。仕入、ミシン、二万四千円。手間、三万円。返金、千円。蚊取り線香、一箱。先週は、クリーニング代、二万三千四百円。預かりもんの、手入れ代。

どれも、一行で済む話ではなかった。一行で済ませてある。

一行で済まない話を、毎月、薬院(やくいん)の税理士事務所に持っていく。それで回っている店だった。

ここに、一本だけ、まっすぐな行が立つ。十日おきに、千五百円。秋まで八本。

悪い勘定ではなかった。


 三日たった夕、名刺を胸のポケットに入れて、大名へ歩いた。

空は低くて、蒸していた。燕が、通りの上を低く飛んでいった。夜までには降るのかもしれない。

陣内の暖簾の脇に、笹が一本立ててあった。短冊が、五、六枚下がっていた。字が、子どもの字と大人の字とで、半々だった。

客が一人、首をすくめずに暖簾をくぐっていった。

脚立を借りて、札を見た。真ん中より少し上に、指の先ほどの焦げがあった。三日で、指の先。一枚で、十日はもつ。勘定は、合っていた。


 「あれから、どなたも首ばすくめんとです」

陣内さんは帳場で、錦玉を箱に詰めていた。明日は七夕だった。言いながら、また軒を見上げた。癖になってしもうて、と笑った。

向かいから、床屋の主人が渡ってきた。白衣のままだった。

「孫の七夕の、菓子ば」

主人は暖簾をくぐった。くぐってから、敷居の上で足を止めた。首は、すくめていなかった。

上を見た。

「今日は、おらんごたるね」

陣内さんの手が、箱の上で止まった。

「わしは、先代の燕に、毎朝頭ば下げよったとよ。この前ば通るたびに。四十年たい」

主人は笑っていた。

「うちのは、あっちの孫やけん。じいちゃんたちに、挨拶もできんごとなったね」

錦玉を二つ買って、主人は向かいへ戻っていった。暖簾をくぐるとき、癖のように首を縮めて、縮めなくてよかったことに気づいて、一人で笑っていた。

陣内さんは、しばらく箱の蓋を持ったまま立っていた。

「焼けたら、戻らんとですよね」

「戻りません」

陣内さんは、帳場の下から今年の出納帳を出して、四月の頁を開いた。燕来、向かいへ。その一行を、長いこと見ていた。

「剥がしてもらえますか」

胸のポケットの名刺が、少し重くなった。

「剥がせば、またみなさん、首ばすくめなさいます」

「すくめてもらいます」

陣内さんは、出納帳を閉じなかった。

「縁起の悪かち言われたら、燕の通りよりますけん、ち私が言います。母の代からの燕ですけん、て」

それから、自分で可笑しくなったように笑った。

「母の燕やけん落としたとに、母の燕やけん残すとは、おかしかですね」

おかしいとは、思わなかった。

「秋に行くかどうかは、分かりません」

「行かんなら、うちの燕です」

脚立に上がった。札の角に爪を入れて、ゆっくり剥がした。指の先ほどの焦げが、真ん中より少し上に残っていた。

陣内さんは札を受け取って、四月の頁に挟んだ。それから鉛筆で、その頁の余白に書き足した。母親とも、自分の前の字とも、少し違う字だった。


  燕 居残り


 替えの八回は、無くなった。

一万二千円の行は、帳簿に立たない。名刺の裏の日付は、使わずに済んだ。

惜しかった。惜しいと思うのが、この一年でついた癖だった。

「見立てで、一万円いただきます。札が一枚、千円。一万一千円です」

陣内さんはレジから一万一千円を出して、領収書を、と言った。

「但し書きは、どげんしましょう」

「見立て代と、厄除け代で」

「厄除け、一枚。使用済み、て書きたかですね」

「税理士さんに訊かれたら、身代わりの札です、と言うてください」

陣内さんは、それは通りそう、と言って、控えを出納帳に挟んだ。

「来年は、巣台ば付けようと思うとります。金物屋で、もう買うてあるとです」

陣内さんは帳場の奥から、棚のような形の板を出してきた。金具が二つ付いていた。

「洗う石は、一枚ですけん。私の燕は、私が洗います」

日が傾いて、通りが青くなりはじめていた。向かいの床屋の軒に、燕が一羽、低く飛び込んだ。巣の縁から、黄色い口が三つ開いた。

「二番子です」と陣内さんが言った。「一番子と同じ巣で、もう一遍、育てるとです」

暖簾をくぐって、表に出た。

首が、すくんだ。

後ろで、陣内さんが、でしょう、と言った。


 店に戻ったころには、日はすっかり落ちていた。雲は相変わらず低かったが、雨は降っていない。

札だけ鞄に入れて、机と看板は出したままにしてきた。それを畳みにかかった。今日は、店じまいだ。

それだけの作業で、額に汗が浮いた。もう七月だ。すっかり夏の空気になっていた。

この季節の路上の空気は、俺にとって特別な意味がある。

頭の上の高架を、電車が渡っていった。

畳んだ机とパイプ椅子をまとめて脇に抱えたとき、俺と同じ顔がやってきた。

「そっちも閉めるとか」

「はい。元祖さんも、もう閉めたとですか」

「ああ」

大上大介だ。俺も大上大介だが、向こうも大上大介だ。本物は向こうのほうだ。

一年前のこんな晩に、俺は路上へ出された。足りないぶんの店番として。

今日で、ちょうど一年になる。あのとき、コンビニの新聞で何度も確かめた日付だ。

「元祖さん」

「なんや」

「今日、俺、誕生日です」

元祖さんは、なんば言いよるとや、という顔をしてから、ああ、と声を出した。

この一年で、同じ頭に違う経験を詰め込んできた。少しだけ違う頭になったのかもしれない。

「なら、祝いばするか」

「いつも通りで、よかです」

元祖さんは、そうか、とだけ言った。それから尻のポケットを探って、レシートを一枚寄越した。ガムテープ、一巻。

消耗品、と頭の中で書いた。

机と椅子を屋台の親父に預けて、帰路につく。

俺は、本物の大上大介ではない。

だが、顔も、声も、文字も、店番であることも、住まいも、本物と同じだった。

燕の二番子は、一番子と同じ巣で育つ。


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