第四十五話 入江クリーニング 預り物 受 三十六
雨の上がった朝だった。デパートのひさしの縁に、滴がまだ並んでいた。
折りたたみテーブルの脚を拭いているところで、鞄の中の電話が震えた。
「はい、大上です」
「あの、拝み屋さん、で、よかったでしょうか」
女の人の声だった。國武といいます、と言った。
今川で一人で暮らしていた父親が、春に亡くなった。借家なので、片付けて大家さんに鍵を返さなければならない。週明けが、その日だという。
「父の机の抽斗から、クリーニングの票の出てきたとです。唐人町の、入江クリーニングさんの」
行ってみたら、店は閉まっていた。シャッターに貼り紙がしてあって、お預かりの品はこちらでお渡しします、とあった。その下に、うちの名刺が留めてあったという。
「服ば、取りに伺いたかとですけど。片付けで、なかなか家ば空けられんで」
怪異の話をする声ではなかった。用件は、それで全部だった。
「番号は、何番ですか」
紙を伸ばすような音がした。
「四十七番です」
唐人町のあの店で、明かりを落として座っていた晩に、最初に聞いた番号だった。引き戸の金具が鳴って、年寄りの男の声が、すぐそこで言った。
「明日、お持ちします」
住所を聞いて、電話を切った。
取りに来なさったら、うちが出します。番号ば言うてもろうたら、出します。
入江さんにそう言ったのは、俺だった。
その晩、本家が風呂に入っているあいだに、四畳半の座卓を壁に寄せた。
畳を、空けられるだけ空けた。隅には、紙袋がある。
帳面を開いた。「入江クリーニング 預り物 受 三十八」の行がある。背広も、喪服も、詰襟も、子どもの白いワンピースも、この一行に入っている。
四十七番、とは書けない。帳面のどこにも、そんな字は無い。帳面は、勘定が合わないと見れば、合うように読み替える。母を、座布団に。弐と書いても、三十八点のうちのどの二点が出てくるのか、俺には決められない。
確かなのは、三十八だった。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお渡しします」
あたりが張った。押入れの襖も、紙袋の口も、こちらの手元を数えていた。
入江クリーニング 預り物 渡 三十八
服が、吊られた形のまま、宙に出た。
ハンガーもビニールも無かった。あれは唐人町に残してきた。肩を張ったコートが、袖を下げた喪服が、一瞬だけそこに立って、それから崩れた。
畳の上に、服の山ができた。
四十秒ほどで、張ったものが落ちた。
匂いがした。アイロンの湯気と、溶剤の匂いだった。唐人町のカウンターの内側で嗅いだ匂いが、四畳半に立った。
四十七番を探して、一点ずつ、襟の裏を返した。
どれにも、小さな紙の札がホチキスで留めてあった。番号は手書きだった。ビニールの下にあったので、札は日に焼けていない。
いちばん上にあったのは、灰色のコートだった。百二番。裾の折り返しに、細かい縫い目が一列走っていた。ほつれたところを、誰かが繕っている。
喪服の上着は、ボタンの糸が新しかった。四つとも同じ黒い糸で、根元に巻き直してある。
詰襟の肩には、薄紙が丸めて入れてあった。紙は黄ばんでいたが、肩の線は立っていた。
子どもの白いワンピースは、畳んだ襟の内側に、もう一枚、薄紙が挟まっていた。
三十年前の服だった。どれも、三十年前の服には見えなかった。
季節が変わるたびに、ビニールを外して、埃を払って、掛け直す。旦那さんは、それしか言わなかった。糸を替え、紙を替え、ほつれを繕っていたことは、言わなかった。
三十八点、と奥さんは数えずに言った。一点ずつに、手が通っていたからだ。
よそさんの捨てられんもんば、お前が代わりに抱えたとやろが。あの日、天神に戻ると、安藤さんにそう言われた。そうなります、と俺は答えた。
引き取ってから、一度も触っていなかった。
抱えていたのは、帳面だった。
四十七番は、山の下のほうにあった。紺の背広で、上着の襟の裏と、ズボンの腰の裏に、同じ番号が二枚。票一枚で、二点だ。
肩に、薄紙が入っていた。
背広を、座卓の上に置いた。
風呂場の戸が開いて、本家が出てきた。首にタオルを掛けていた。
戸口で、足が止まった。
「……入江さんのですか」
「四十七番の人から、電話のあった」
本家は、服の山の縁を爪先で探りながら、こちらへ来た。濡れた髪から石鹸の匂いがして、すぐに溶剤の匂いに負けた。
山の上のコートを、本家が手に取った。裾の縫い目を、親指でなぞった。何も言わずに、畳み直して戻した。
「交通費は」
「取らん」
本家は、そうですか、と言った。
「明日、今川に行く。表は」
「出ます」
その晩は、服の山を壁のほうへ押しやって、二人で足を縮めて寝た。
明かりを消してから、しばらく耳を澄ませた。引き戸の金具は、鳴らなかった。うちの戸には、あの金具は付いていない。
朝、背広の袖に鼻を寄せた。
溶剤の匂いの上に、畳と、ゆうべの飯と、梅雨の湿気の匂いが乗っていた。うちの匂いだった。
一晩だった。
空は低かったが、降ってはいなかった。唐人町で地下鉄を降りて、少し歩いた。
今川の家は古い平屋で、表の格子戸が開け放してあった。玄関の三和土に、段ボールが積んであった。マジックで「持ち帰り」と書いた箱と、「処分」と書いた箱があって、処分のほうが三倍は多かった。
奥から出てきた國武さんは、五十を少し過ぎたくらいの人だった。軍手をはめて、額の上に老眼鏡を押し上げていた。
「わざわざ、すみません」
上がり框で、背広を袋から出した。
國武さんは軍手を外して、エプロンのポケットから票を出した。日に焼けて茶色くなった、小さな紙だった。老眼鏡を下ろして票を見て、襟の裏の札を見た。老眼鏡を額に上げて、もう一度、票を見た。
「四十七。合うとります」
票の隅に、代済、と判が捺してあった。
「お代は」
「三十年前に、済んどります」
判のところを指した。國武さんは、ああ、と言った。
「父は、何でも取っとく人で」
票は、机の抽斗の菓子の缶に入っていたのだという。電気屋の保証書や、とうに切れた定期券や、どこの店のか分からない会員証と一緒に。
「取りに行くとば、忘れとったとでしょうね。背広のあったことも、覚えとらんやったと思います」
「預けたもんが、まだ気になっとるとやろうと思います」。あのとき、入江さんの奥さんに、そう言った。
預けた側で、気にしていた人はいなかった。
國武さんは背広を広げて、肩のところを持った。
「きれいかですね。三十年も前とは、思えん」
肩から、薄紙が落ちた。國武さんはそれを拾って、少し見て、処分の箱に入れた。
「着る者は、おらんとですけど。票のあったけん、取りに行かんといかんと思うて」
それから背広を畳み直して、薄紙の上に置いた。箱の口を閉じて、ガムテープを引いた。乾いた音が、廊下に響いた。
俺は、何も言わなかった。言えることが無かった。
「ありがとうございました」
國武さんは軍手をはめ直して、奥へ戻っていった。
格子戸を出てから、しばらく、その場に立っていた。
約束は、果たされた。番号を言いに来た人に、番号の合うものを渡した。旦那さんが店を継いだ年から立っていた約束の一本が、今日、閉じた。
閉じたところで、箱に入った。
菓子の缶の話を思い出した。保証書と、切れた定期券と、どこの店のか分からない会員証。入れたきり、忘れていた。
俺も、そうだった。引き取ってから一年近く、三十八点のことを思い出したことは、一度も無かった。
帰りは、商店街を抜けて駅に出た。
アーケードの下は、前に来たときより、下りたシャッターが増えていた。入江クリーニングの間口も、下りていた。
貼り紙は、まだあった。旦那さんの字だった。その下に、うちの名刺がテープで留めてあった。日に焼けて、字の縁が薄くなっていた。
テープを剥がして、新しい一枚に替えた。古い一枚は、鞄に入れた。
着信の履歴を遡った。入江さんの息子さんの番号が、まだ残っていた。
かけると、息子さんが出た。お母さんに代わってもらえますか、と言うと、少し待たされた。
「もしもし」
「元祖天神大上屋の、大上です」
「大上屋さん。……すみません、なに屋さんやったですかね」
「お店の預かりもんを、うちで引き取らせてもろうた者です」
「ああ」声が変わった。「拝み屋さん。その節は」
「四十七番の方が、取りに見えました」
電話の向こうが、静かになった。
「紺の背広でしょう。上下の」
見てもいないのに、奥さんは言った。
「肩の形のよか背広で。夏の前には、薄紙ば入れ替えよりました」
「お渡ししました。きれいなままでした」
嘘ではなかった。言わなかったことが、一つあるだけだ。
「そうですか」と奥さんは言った。「……そうですか。来なさったとですね」
三十年ですもんね、と奥さんは言った。笑っているような声だった。
ほかのは、と訊かれた。うちで、お預かりしとります、と答えた。すみませんねえ、と奥さんは言った。
電話を切ってから、閉まったシャッターを、しばらく見ていた。
四畳半に戻ると、服の山はそのままだった。
窓を開けても、風は入ってこなかった。梅雨の空気は、畳の上で止まっていた。
三十六点。このまま帳面に入れれば、今夜で済む。四十秒だ。
帳面から出したものは、入れたときのまま出てくる。いつか炎を入れたときは、燃えたまま出てきた。飯の匂いのついたまま入れれば、次に出すときも、飯の匂いのまま出てくる。
奥さんは、夏の前には薄紙を入れ替えていた。
表を閉めて、本家が戻ってきた。服の山を見て、それから俺を見た。
「まだ、入れとらんとですか」
「クリーニングに出す」
本家は、少し黙った。
「三十六点ですか」
「三十六点」
「誰も、取りに来んかもしれんですよ」
「来んやろうな」
本家は、それ以上は言わなかった。押入れから布団袋を出してきた。
肩の薄紙を一枚ずつ抜いて、座卓の上に重ねた。それから二人で、三十六点を詰めた。
薬院の駅の近くに、遅くまで開けているクリーニングの店がある。
カウンターにいたのは、二十歳そこそこの女の人だった。布団袋から一点ずつ出すたびに、ボールペンの尻でカウンターを叩いて、数を足していった。
コートを広げて、裾を見た。縫い目のところで、手が止まった。
「よう、手入れしてありますね」
「預かりもんです」
女の人は、そうですか、とだけ言った。
「お古いお品物は、生地の傷んどることもありますけん。仕上がりの保証が、できんことがあります」
「かまいません」
三十六点で、二万三千四百円だった。
票は、レシートのような紙が一枚だった。仕上がりは四日後。下のほうに、小さな字が並んでいた。
お預かり期間は九十日です。期間を過ぎたお品物は、処分させていただく場合がございます。
入江さんの票には、そんなことは書いていなかった。書かずに、三十年、預かっていた。
票を、財布の札入れに挟んだ。
四日後、表を閉めてから、取りに行った。
仕上がった服は、一点ずつビニールを掛けて、ハンガーに吊るされていた。二度に分けて、四畳半まで運んだ。
入江さんの札は、どれも襟の裏に残っていた。その横に、新しい札が付いていた。
新しい札を、一枚ずつ外した。入江さんの札は、そのままにした。
ビニールを外して、ハンガーから下ろして、畳に並べた。座卓の上に重ねておいた薄紙を、もとの肩に入れ直した。
本家が風呂に入っているあいだに、帳面を開いた。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
あたりが張った。
入江クリーニング 預り物 受 三十六
服が、無くなった。
畳が出た。部屋の隅で、紙袋がひとつきりになった。
同じ品名の行が、三本並んでいた。受と、渡と、受。
風呂場の戸が開いて、本家が出てきた。座卓で家計簿を開いて、一行書いた。
クリーニング代 二万三千四百円
「税所さんに訊かれたら、何て言いますか」
「預かりもんの、手入れ代」
本家は、そう書き足した。
入江さんの三十年の、一季節ぶんだった。




