第四十四話 蔵書庫
朝から、細かい雨が降っていた。デパートのひさしの縁に滴が並んで下がり、ときどき机のビニールに落ちた。
客用の椅子に座ったのは、六十を過ぎた坊さんだった。頭を剃って、作務衣の上から黒い雨合羽を着ていた。胸に、風呂敷包みを抱えていた。
「御供所町の、観清寺で住職ばしております。藤野です」
風呂敷を机に広げると、和綴じの本が一冊出てきた。表紙の角が丸く擦れて、綴じ糸が切れていた。頁が束ごとずれて、背からはみ出していた。
藤野さんは、その背を親指で一度撫でてから、こちらへ向けた。
「寺の書庫で、夜のうちに本の落ちるとです」
棚から落ちて、床に散る。朝に拾って戻す。新しい本なら落ちても傷まないが、古いものは綴じが弱っていて、落ちればこうなる。
「町の古か控えの、混ざっとります。寄合の帳面やら、祭りの割り当てやら。役所にも残っとらんもんです」
春先からだという。
「先に、うちでお経ばあげました。効かんかったです」
藤野さんは、少し頭を下げた。
「よその宗旨の方に頼むとは、筋の違うとは分かっとります」
「うちは、かまいません」
怖がっている様子は無かった。困っているのは、本のことだけだった。
見立てに二日で一万円、と言った。藤野さんはうなずいて、本を風呂敷に包み直した。包む前に、もう一度背を撫でた。
昼過ぎに、路地の口まで歩いて、御供所町に出ると本家に言った。表ば見ときます、と本家は言った。
中洲を抜けて、川を二つ渡った。
御供所町は、寺の町だった。塀と山門が通りに沿って続いて、どこの瓦も雨で黒かった。観清寺は、その並びの奥まったところにある小さな寺で、書庫は本堂の裏に建っていた。コンクリートの平屋で、鉄の扉が一枚ついていた。
扉を開けると、除湿機が唸っていた。
壁の三方が棚だった。床から天井まで、紙が詰まっていた。新しい本の背が並ぶ段もあれば、紐で括った和本が横に積まれた段もあった。棚の奥から、樟脳がうっすらと匂った。
床に、二冊落ちていた。藤野さんが拾って、背を撫でて、棚に戻した。
「今朝は、少なかほうです」
見て回った。棚は古いが、傾いてはいない。落ちるのは、どの段からとも決まっていないという。
目印は、明日貼ることにした。
その晩、四畳半で横になってから、書庫の棚を思い出していた。床から天井までの紙と、除湿機の唸りと、樟脳の匂いを思い出しているうちに、眠った。
朝、帳面のいちばん最後の頁に、『番』の字が残っていた。
御供所町 観清寺書庫 員数 千二百余多し
千二百。
桁が違った。これまで上がってきたのは、壱か、多くて二十いくつだった。
ただ、あの部屋は本ばかりだ。棚の一冊ずつが何かを覚えていても、おかしくはない。古い寺の、古い紙だ。
そう読んで、帳面を閉じた。
書庫の扉の脇の柱と、奥の棚の側板と、左の棚の側板に、目印を一枚ずつ貼った。三枚とも、互いに離した。
短い祝詞をあげた。八文字。
藤野さんが本堂のほうへ戻ってから、扉の内側に踏み台を置いて座った。除湿機の唸りを聞いて、二時間待った。
三枚とも、黄ばんでいなかった。焦げても、湿ってもいなかった。
白いままの紙に、切れが入っていた。
扉の脇の一枚は真ん中より少し上に、奥の一枚は左の下に、左の一枚は右の縁近くに、細い切れが一筋ずつ。どれも縁までは届いていない。
切れには、中心が無かった。どこかの向きを指すでもなく、札の上で始まって、札の上で終わっていた。三枚とも、自分のところしか指していなかった。線が、一本も引けなかった。
裂けは、色の上に乗って出る。黄ばみでも、焦げでも、湿りでも、色が先にあって、裂けはその上に来る。色の無いまま裂けたのは、見たことがない。教わってもいない。
那の津では、焦げの上に、紙の真ん中から裂けが入っていた。
これは、そのどれとも違った。
棚を見上げた。床から天井まで、紙だった。
今朝の頁の数が、戻ってきた。千二百余。
目印を剥がして、鞄に入れた。
厄除けを、棚の三方と扉の内側に貼った。三方に三枚ずつ、扉に三枚。十二枚貼っても、何に効くのかは分からなかった。
本堂に回って、藤野さんに言った。
「今夜、何か落ちたら、朝のうちに電話ください」
「悪かもんですか」
「まだ、分からんとです」
藤野さんは、それ以上は訊かなかった。
帰り道、中洲に入る手前の橋の上で、安藤さんにかけた。雨は、まだ細く降っていた。
「なんか用か」
「御供所町の寺の、書庫です。目印の、切れました。三枚とも。色の、出とらんとです」
「色の無か裂けは、無か」
「……はい」
「なら裂けやなか。見り」
はい、と言いかけたときには、切れていた。
橋の下の川は、雨で嵩が増えていた。
翌朝、電話は鳴らなかった。
書庫に行くと、藤野さんが扉の前で待っていた。
「落ちとりません。一冊も」
厄除けは、十二枚ともなんともなかった。焦げも、裂けも無い。
目印を一枚だけ出して、奥の棚の、目の高さの側板に貼った。祝詞をあげて、踏み台を札の前に据えて、座った。
厄除けは、何か来れば自分が先に傷んで、来たものを焼く札だ。目印には、それが無い。受けるだけだ。
だから、見ていることにした。
一時間ほど、何も起きなかった。
除湿機が、一度止まって、また唸りはじめた。
紙の真ん中より少し右に、点が一つ、空いた。針で突いたほどの穴だった。
見ていると、そのすぐ隣に、もう一つ空いた。
穴は、少しずつ増えた。増えた穴と穴の縁が寄って、つながった。つながったところが、細い切れになった。
やはり裂けか、と思ったところで、匂いがした。
焦げる匂いだった。
札に、鼻を寄せた。穴の縁が、髪の毛ほどの幅で、焦げていた。
焦げは、動物の色だ。
色は、はじめから出ていた。小さすぎて、見えなかっただけだった。
遠いものは広く薄く出て、近いものは狭く鋭く出る。ここまで狭いのは、札の上にいるからだ。札の上を動いているから、点が増えて、つながる。
紙を、食っている。
踏み台から立って、本堂へ回った。
「ここで、虫の出たことはありますか。紙ば食う虫です」
藤野さんは、少し考えた。
「先代のころに、紙魚の、わいたことのあります。書庫ごと燻蒸して、それからは一匹も見とりません。毎年、業者さんにも見てもろうとります」
いまは、一匹もいない。それは、確かめておかなければならなかった。
千二百余。虫の数だった。
書庫に戻って、食われた目印の前に、藤野さんと並んだ。穴は、さっきより増えていた。
「餌ば、探しよるとですね。新しか紙の来たけん、そっちに寄ってくる」
藤野さんは、札を見ていた。
「本の落ちるとも、たぶん、何匹かで力ば合わせて落としよるとでしょう」
「……紙魚が」
藤野さんは、棚の和本の背を、親指で撫でた。
品名は、紙魚で立つ。数は、千二百で出ている。生きている虫は、もういない。
手順に、欠けているものは一つも無かった。
帳面は、綴じた紙だ。
書いたものは、帳面の中に在る。在って、力が使えるのだから、中で生きている。紙を食う虫を、紙の中へ入れたら、どうなるのか。
書かなかった。
書かない理由を探した。恐れのほかには、何も見つからなかった。
厄除けを、一晩ごとに減らしていった。
十二枚の翌晩は八枚、その翌晩は三方に一枚ずつ、三枚。三枚にしても、本は落ちなかった。
見立ての二日は、とうに済んでいた。そのあとの朝は、勘定に入れなかった。
貼りはじめて四日目の朝、三枚の厄除けを見て回った。どれも、縁がうっすらと焦げていた。
弱い相手なら、厄除けは来たものをそのまま焼いて、片をつける。
焼いとる。
その晩、書庫を思い出しながら眠った。
御供所町 観清寺書庫 員数 千百余多し
減っていた。
四晩で、百ほど。
一度に焼けば、祓いだ。分けて焼いても、焼いていることに変わりはない。
祓いは売らない。売っているのは、厄除けだ。
本堂の縁側で、藤野さんに言った。
「止まってはおります。厄除けが、少しずつ焼いとります。減っていきよります」
「いなくなりますか」
「たぶん。週に一度、貼り替えに来ます。いなくなったら、貼らんでよかです。三枚で、三千円です」
「来てもらう手間賃は」
「札代だけです」
藤野さんは、こちらを見て、それから頭を下げた。
見立ての一万円を受け取った。
山門を出てから、勘定した。週に百ずつ減るとして、三月ほどかかる。三千円の十二回で、三万六千円。播谷さんに頼めば、一度で、四万円で済む。
たいして変わらなかった。変わらないのが、かえって落ち着かなかった。
売っているのは厄除けだ、と言えるのかどうか、分からなかった。
寺の塀に沿って歩きながら、安藤さんにかけた。
「なんか用か」
「御供所町の書庫、虫やったです。紙魚の。厄除けで、焼けよります」
「そうか」
それだけで、切れた。
一週間して、貼り替えに行った。
梅雨は、まだ明けていなかった。雨の上がった朝で、寺の塀の瓦から、まだ水が落ちていた。
その朝の帳面の最後の頁は、千余多しだった。
書庫の床には、何も落ちていなかった。
藤野さんが、扉の内側に立って、棚を見上げていた。
「寺ですけん。虫の名残も、ここにおるうちに、強うなったとでしょう」
「そうかもしれんです」
確かめようは、無かった。
古い一枚を、棚の側板から剥がした。縁が、うっすらと焦げていた。鞄に入れた。
「虫は、なんで本ば落としよったとでしょう」
餌を探していた、と言いかけた。力を合わせて、とも言いかけた。
「虫の気持ちは、さすがに分からんです」
藤野さんは、少し笑って、和本の背を撫でた。
新しい一枚を、棚の側板に押し当てた。掌で、上から一度、押さえた。




