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第四十三話 ひさご 床前畳 受 壱

 梅雨は、まだ明けそうになかった。朝のうちに降った雨が、昼を過ぎても歩道のタイルの目地に残っていた。

机のビニールの上に、デパートのひさしから落ちた滴が、ときどき跳ねた。

傘を畳みながら客用の椅子に座ったのは、四十前後の女の人だった。白い割烹着の袖を、肘までまくったままだった。手に、うちの名刺を持っていた。店の常連にもらったのだという。

「住吉(すみよし)で、小料理屋ばしよります。瓜生(うりゅう)です」

それから、少し笑った。鼻の頭に、皺が寄った。

「うちの座敷の畳がですね。座ると、背の伸びるとですよ」

座敷は六畳で、春から客を通しはじめた。床の間の前に座った客が、どうも落ち着かない。座布団の位置を直したり、膝を立てたり、手洗いに何度も立ったりする。

「私が座っても、何ともなかとですけどね。面白かでしょう」

面白い、とは思わなかった。困っているのかどうかも、まだ分からなかった。

見立てに二日で一万円、と言った。瓜生さんは、鼻に皺を寄せたまま、うなずいた。


 夕方、路地の口まで歩いて、本家に明日は住吉だと言った。はい、と本家は言った。


 ひさごは、那珂川(なかがわ)から一本入った細い道にあった。二階建ての古い家の、一階を店にしている。暖簾は、まだ出ていなかった。

カウンターが七席あって、その奥の障子を開けると、座敷だった。

床の間がついていた。軸は掛かっていない。

五枚の畳は青かった。梅雨の湿り気を吸って、藺草(いぐさ)が匂った。床の間の前の一枚だけは、飴色で、匂わなかった。

「座ってみてください。そこです」

床の間を背にして、座った。

膝の下で、床が遠かった。畳に座っているのに、腰掛けに乗っているような高さがある。卓の向こうで膝を揃えた瓜生さんを、見下ろしていた。

立ち上がって、もう一度座った。同じだった。

「ね。伸びるでしょう」

瓜生さんが代わって座った。背筋を伸ばして、こちらを見上げた。

「私は、何ともなかとです」

目印を三枚、貼った。床柱と、襖の脇の柱と、縁側の障子の桟。

短い祝詞をあげた。八文字。


 次の日の昼過ぎに、もう一度、障子を開けた。

三枚とも、湿っていた。湿気で濡れた紙ではなかった。吸った側の湿りだった。

床柱の一枚は右下から、襖の一枚は左から、障子の一枚は奥から。

一枚では、線が一本引けるだけだ。三本を延ばした。

床の間の前の、一枚に来た。

「ああ。そこだけ、替えとらんとです」

瓜生さんは、あっさり言った。

「母が店ばしよったころは、座敷は物置で。床の間の前に、器の箱ば積んどったとです。そこだけ擦れとらんで、もったいなかったけん」

畳屋も、床前(とこまえ)の一枚はまだ持ちますね、と言ったそうだ。床前、と瓜生さんは畳屋の言い方をそのまま使った。


 湿りは、草か、物だ。色では割れない。

これまで、何度か外してきた。宮原(みやはら)さんの鉢は、木に見えて器だった。蒲池(かまち)さんの壁には草が一本も無くて、蔦だった。

目の前にあるのは、畳だった。物だ。

物なら、動く。

「上げても、よかですか」

瓜生さんと二人で、床前の一枚を起こした。思ったより軽かった。下の床板には、古い新聞紙が敷いてあった。

廊下の壁に、立てかけた。

寝かされていたときより、背筋が伸びて見えた。


 三日目は、自分で来た。見立ての二日は、前の日で済んでいた。

三枚とも、線が廊下のほうへ寄っていた。

動いた。

立てかけた畳の前に、しゃがんだ。

動いたのは、俺と瓜生さんが運んだからだ。畳が自分で動いたわけではない。藺草だったとしても、畳に織られていれば、一緒に運ばれる。

湿りの濃さは、変わっていなかった。寝かせても、立てても、同じ答えしか返らない。

割れなかった。

畳を戻すとき、瓜生さんは縁を持ったまま、少し手を止めた。

「あの席に座った人は、二度目の無かとです」

床前の一枚を、もとの場所に落とし込んだ。瓜生さんは、縁を見ていた。笑っていなかった。

「週末に、座敷の予約の入っとるとです。法事の帰りの、十人」


 夕方、表に戻って、安藤さんにかけた。

「なんか用か」

「住吉の、料理屋の座敷です。畳が一枚。湿りで」

「割れたか」

「割れんとです」

「そうか」

少し待った。病院の非常階段で書いてから、安藤さんと話すのは初めてだった。

安藤さんは、何も訊かなかった。俺も、何も言わなかった。

それで切れた。


 四畳半で、座卓に帳面を置いた。

割る手立ては、もう残っていなかった。目印は、何日貼っても同じ答えを返す。宮原さんのところには、植木屋の伝票があった。蒲池さんには、根元を覚えている人がいた。畳には、何も付いていない。

物の名前で書いて、中身が草だったら、どうなるのか。草の名前で書いて、物だったら。

どちらも、やったことがなかった。

見立ての二日は、もう済んでいる。週末までは、三日しかない。

どっちでも、いいのではないか。

そう思ったのは、どっちでもいい理由に思い当たったからではなかった。割る手立てが、無かったからだ。


 次の朝、障子を閉めて、床前の一枚の前に膝をついた。

畳の目を一本、親指の爪で押した。藺草は乾いていて、爪の下で小さく折れた。

生きているものを受けてはいけない、と安藤さんに言われている。どうしてなのかは、もう知っている。

カウンターで仕込みをしていた瓜生さんに、障子越しに訊いた。

「床前の畳は、いつのですか」

「母が嫁に来たときのち、聞いとります」

五十年近く前になる。藺草は、そのとき刈られて、干されて、織られた。

それだけは、確かめた。


 引き取りは二万円で、と言った。瓜生さんは、すぐにうなずいた。畳一枚の新調より、少し高いくらいだという。

「そのあいだ、お店のほうにおってもらえますか」

瓜生さんは、カウンターに戻った。障子を閉めた。

畳、と書けば、六枚のどれか分からない。瓜生さんは、床前と言っていた。畳屋の言い方だ。

草とは、書かない。

床前の一枚の脇に膝をついて、帳面を開いた。筆ペンの蓋を抜いた。

短い祝詞をあげた。八文字。

「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」

あたりが張った。


  ひさご 床前畳 受 壱


 畳が、無くなった。床板が、畳の形に出た。古い新聞紙が、四角く残っていた。

四十秒ほどで、張ったものが落ちた。

通った。

物の名前で書いて、通った。中身が草だったのかどうかは、分からないままだった。

帳面は、どちらでもかまわなかったのかもしれない。そう思うと、通ったことが、かえって気味悪かった。

障子を開けると、瓜生さんが布巾を手に入ってきた。床板を見下ろして、あら、と言った。

「どこに、行ったとですか」

「うちが、引き取りました」

「なんで、あげなことになっとったとでしょう」

「立っとりたかったとやと思います。寝かされとるとが、性に合わんで」

瓜生さんは、また鼻に皺を寄せた。

「畳がですか」


 昼過ぎに、畳屋が来た。六十を過ぎた人で、膝に当て布をしたズボンを穿いていた。床板の四角に曲尺を当てて、何か所か測った。

「一週間で、入れられます」

畳屋が帰ると、瓜生さんは座敷の入口に立って、床板を見ていた。

「週末、どげんしよう」

渡と書けば、さっきの畳は出る。高さごと出る。

「畳の入るまで、一枚、置かせてもらえますか」

瓜生さんは、こちらを見た。

「うちのを、貸します。お代は要りません」


 瓜生さんが仕込みに戻ってから、障子を閉めた。

床板の四角の、真ん中に膝をついた。帳面を床板に置いて、いちばん新しい頁を開いた。

左手を開いた。

畳を一枚、と頭に置いた。日限は、十日。畳屋の言った一週間に、三日足した。畳屋が遅れることは、よくあると聞く。

短い祝詞をあげた。八文字。

「元祖天神大上屋、大上大介がお借りします」

あたりが張った。

掌を、頁に押しつけた。

紙が、一度だけ脈を打った。手を離すと、黒い手の形が残っていた。その横に、字が浮いてきた。


  大上 畳 手形 壱 十日


 膝の横に、畳が一枚、横たわっていた。

縁は擦り切れかけていて、藺草は飴色に焼けていた。隅のほうに一か所だけ、四角く、畳の目が白く残っていた。何かを長く積んでいた跡だった。

見たことがある気がした。どこで見たのかは、出てこなかった。

左の掌は、平らになっていた。

畳を起こして、床板の四角に落とし込んだ。

瓜生さんが、茶を盆に載せて入ってきた。足を止めた。

「あら。どこから、出てきたとですか」

「……うちのです」

瓜生さんは、しばらく畳を見ていた。それから、笑った。

「拝み屋さんは、何でも出てくるとですね」

盆を置いて、その畳の上に座った。床の間を背にして、膝を揃えた。

「低か」

「低かですか」

「普通です」

代わって、座った。床は、あるべきところにあった。卓の向こうの瓜生さんと、目の高さが同じだった。

湯呑みは、右手で受け取った。左手は、ズボンのポケットに入れた。


 週が明けて、一日、春吉(はるよし)の見立てに出ていた。表には本家が立った。

晩に四畳半へ戻ると、本家が湯を沸かしていた。

「住吉の瓜生さんが、表に見えました」

「……何て」

「週末の十人は、みんな、最後まで座っとったそうです。畳、ありがとうございました、と」

本家は、湯を急須に注いだ。

「俺に、言われました」

瓜生さんは、気がつかなかったのだという。本家も、言わなかった。

「畳、貸したとですか」

「貸した」

本家の目が、座卓の上の、俺の左手に行った。

「手の滑りますよ」

本家は、湯呑みを俺の右手の側に置いた。


 畳屋の来る朝、一時間早く、ひさごの障子を閉めた。

借りた畳の脇に、膝をついた。

受けるのは、ものの在るところからだ。在るのは、ひさごの床前だ。

筆ペンの先を下ろしかけて、止まった。

同じ字を、もう一度書くことになる。

書いた。


  ひさご 床前畳 受 壱


 畳が、無くなった。床板の四角が、また出た。

隣の行に、字が浮いてきた。


  大上 畳 皆済


 張ったものが落ちた。左の掌が、痒くなった。見ると、筋が戻っていた。

頁の手の形からは、皺が抜けていた。

同じ字の行が、二本並んでいる。片方の下にだけ、小さく、返済と付いていた。どちらがどちらかは、その二文字でしか分からなかった。


 畳屋は、十時に来た。新しい畳を肩から下ろして、床板の四角に落とし込んだ。

座敷の青が、六枚揃った。藺草が匂った。

瓜生さんは、借りた畳のぶんを払うと言った。

「畳屋の来るまでの、つなぎですけん」

三日目のぶんも、取らなかった。見立ての一万と、引き取りの二万を受け取った。

瓜生さんは、新しい一枚の上に座って、床の間を背にした。

「普通です」

鼻の頭に、皺が寄った。

それから押入れを開けて、座布団を出した。今夜のぶんだという。座敷の隅に、一枚ずつ重ねていった。

重ねるたびに、山が少し傾いた。

その様子を見て、さっき返した畳をどこで見たのか、思い出した。

坂口(さかぐち)の家の八畳間にも、座布団が積んであった。重ねきれずに、崩れかけていた。

帳面に書くと、山は音もなく無くなった。畳の目が、そこだけ白く残っていた。

借りた畳の隅に残っていたのは、あの白さだった。

瓜生さんが、山のいちばん上から一枚取って、床前に置いた。


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