番外 交差点
一月の終わりに、浜地から電話があった。
中学で一緒だった男で、前原で板金屋をやっている。親父さんの工場を継いだと聞いていた。年に一度か二度、向こうからかけてくる。こちらからかけたことはない。
「安藤、お前、まだあげな仕事しよるとや」
「しよる」
「ほんならちょっと、見てほしかとこがあるったい」
浜地の工場に入ってくる車が、同じ交差点のものばかりだという。前原の外れの、田んぼの中を国道が抜けていくあたりで、県道と十字に交わる。信号のある、見通しのいい交差点だ。
「見通しのよかけん、余計おかしかろうが」
「事故は、警察の仕事やろ」
「そげなことは分かっとるくさ」
浜地は笑った。笑ってから、少し黙った。
「ぶつけた人がくさ、みんな、青やったち言うとよ」
街に来て、冬を何度か越していた。
六畳は同じところを借りたままで、窓際に紙を漉く道具を据えてある。冬の水は指が痛むほど冷たい。冷たいほうが、紙はよく締まる。
電話を切ってから、鞄の中を数えた。祓いが五枚、留めが十二枚、目印が七枚。年が明けてから漉いたぶんは、まだ乾ききっていない。
見るだけなら、足りる。
見て、足りなければ受けない。そう決めてある。
三日後に、筑肥線で前原へ出た。
地下鉄がそのまま地上に出て、海の見えるあたりを走る。姪浜を過ぎると、窓の外が急に広くなった。
筑前前原の駅前に、浜地が車で来ていた。客の車を直すあいだに貸す、代車だという。助手席の足元に、誰かの忘れた飴の袋が落ちていた。
浜地は作業着の上にジャンパーを着ていた。声が大きい。喋りながら、爪の間に入った黒いのを親指でこそげる。中学のころからそうだった。
「三日。一万」
「金は角の酒屋が出すけん。俺は口ききだけたい」
「お前は、損やろ」
「なんがや」
「客が減る」
浜地はまた笑った。
「人が死によるとぞ」
田んぼは刈ったあとで、黒い土に霜が残っていた。北のほうに、裾の広い山が一つ見える。可也山だと浜地が言った。糸島富士とも言うらしい。言われてみれば、そういう形をしていた。
玄界灘のほうから風が吹いていて、電線が鳴っていた。空の半分が、低い雲に塞がれていた。
国道を西へ走って、浜地が速度を落とした。
「あそこたい」
田んぼの中に、交差点が一つあった。角に酒屋が一軒と、向かいにガソリンスタンドの跡。ほかは田んぼと、電柱と、ガードレールだけだった。どちらから来る車も、遠くから見える。
信号は、青だった。
浜地は止まった。
停止線の手前で、きちんと止まった。後ろの車も止まった。
「なんで止まると」
「赤やろうが」
もう一度見た。
赤だった。
目の前を、県道から来た軽トラックが横切っていった。荷台に、ブルーシートをかけた何かが載っていた。
浜地が、こちらの顔を見ていた。
「お前、いま」
「なんでもなか」
信号が青になって、浜地は交差点を渡った。渡るとき、ハンドルを握る手に少し力が入っていた。
目を疑う気は起きなかった。見えたものは、見えたものだ。
ハンドルを握っていたのが俺だったら、と思った。思って、やめた。
酒屋の店先で、波多江さんが待っていた。
六十を過ぎたくらいの、背の低い人で、綿入れの半纏の上から前掛けをしている。喋るあいだ、目を交差点から離さなかった。こちらを向いていても、目だけがあちらに残っている。
シャッターの右の端が、そこだけ新しい色に替わっていた。
「去年の夏に、一回。その前にも一回」
向かいの電柱の根元に、牛乳瓶が一つ置いてあった。挿してある菊は、茶色くなっていた。
「年の暮れの、原付の人たい。あれは、うちが替えよります」
誰のぶんかは、訊く前に言われた。
「浜地さんから聞いとります。見てもろうて、どげんかなるもんなら」
「見るのに三日です。一万。祓うなら、もう二万」
「祓うち、何ば」
「まだ分からんです」
分からないことを分からないと言うと、たいていの客は不安な顔をする。波多江さんは、そういう顔をしなかった。交差点を見たまま、頷いた。
浜地は工場へ戻った。夕方に迎えに来ると言った。
酒屋の前の自販機で、缶コーヒーを一本買った。
開けずに持って、交差点の角に立った。
こういう場所に長く立つには、手に何か持っていたほうがいい。何も持たない男が道端に二時間立っていれば、人は寄ってくる。缶を一本持っていれば、誰も寄ってこない。
国道は、思ったより車が多かった。大型が通ると、足元が少し揺れる。
信号は、ふつうに変わった。青が何十秒か、黄色が三秒、赤が何十秒か。ふつうに変わるのを、一時間見た。
二時間目に、一度だけ青が見えた。
国道の車は停止線で止まっていて、県道の車が流れていた。そのあいだ、俺の目には青が見えていた。先頭で止まっている運転手は、ハンドルに顎を載せて、退屈そうに前を見ていた。あの男には、赤が見えている。
瞬きをすると、赤だった。
缶を左手に持ち替えた。指が冷たかった。
目印を三枚出した。
酒屋のシャッターの横の壁、向かいの角の電柱、斜向かいのガードレールの支柱。離して貼って、それぞれの出かたを見て、線を三本延ばす。一枚では線が一本引けるだけで、どちら側かも割れない。
二時間置いた。そのあいだに、時雨が一度通った。
三枚とも、湿っていた。
焦げではない。黄ばみでもない。雨に濡れた湿りとも違った。吸った側の湿りだった。湿りは、植物か物だ。
三枚とも、上のほうから湿っていた。
線を三本延ばした。交わったのは、地べたではなかった。
酒屋の角の柱から、道の上へ腕が一本出ている。腕の付け根に近いところに、灯器が一つ下がっている。国道を東から来る車に向いている一基だ。
交わったのは、そのあたりだった。宙に、木は生えない。
電柱に貼った一枚に、裂けが入っていた。
湿りの真ん中から、紙の目に沿って、爪の長さくらい。
裂けは、害しにかかっている印だ。
受けるかどうかは、そこで決まった。決まっていないのは、どう受けるかのほうだった。
その晩は、浜地の家の二階に泊めてもらった。
浜地の嫁さんが鍋を出した。浜地は焼酎を飲んで、中学のころの話をした。半分は覚えていて、半分は覚えていなかった。浜地のほうが、よく覚えていた。
「お前、あのころからそげな顔しとったぞ」
どういう顔かは、言わなかった。
翌朝、同じ三か所に貼り直した。
一度で決めるな、通って比べろ。そう教わっている。日を追って進むものは怪異で、止まるものはただの記憶だ。
貼っておいて、前原の図書館へ行った。
地元の新聞を、月ごとに綴じたものが置いてあった。地域の面だけをめくっていく。交差点に名前は無いので、国道と県道の番号と、近くの地名で拾うしかない。
去年の暮れから遡った。
暮れに、原付の男が一人死んでいた。その前の夏に、乗用車同士。その前の年に二件。五年ぶん遡って、七件あった。死んだのは、五人だった。
運転していた者が生きている記事には、たいてい同じことが書いてあった。運転していた男性は「信号は青だった」と話しているという。警察は、こちらの車が赤で入ったとみて調べている。
三件とも、そうだった。言い方まで似ていた。
去年の、十月の記事があった。
夜の八時過ぎに乗用車が交差点に入って、県道から来たトラックとぶつかっている。乗用車を運転していた男と、助手席の妻が死んだ。後ろの席にいた子どもは、軽い怪我で済んだ。
死んだ夫婦の苗字は、大上といった。
この記事には、青だったとは書いていなかった。運転していた者が死んでいるからだ。警察は乗用車が赤信号を無視して交差点に入ったとみている、とあった。
綴じた新聞を棚に戻した。紙の匂いが、指に残った。
昼過ぎに戻って、三枚を剥がした。
三枚とも、昨日より濃かった。交わるところは、動いていなかった。あの一基のまま、そこにいる。
裂けは、二枚に増えていた。
夕方、店を閉める前の波多江さんに、去年の十月のことを訊いた。
「夜やったけん、うちは閉めとったとです。音で出たときには、もう」
そこで言葉を切った。目は、交差点に残っていた。
「後ろに男の子が乗っとってね。駐在さんの話やと、救急車ば待つあいだ、青やった、青やったち、ずっと言いよったげな」
「誰か、聞いたとですか」
「聞いたっちゃ、どげんもならんでしょうが。子どもやし、親は赤で入ったことになっとるし」
波多江さんは、前掛けの端で手を拭いた。手は濡れていなかった。
「親戚も、おらんかったげなです。市内の施設に行ったち聞きました」
嘘ではなかった。
俺にも、青に見えた。
見えた者は、青を見ている。見えなかった者には、赤で突っ込んだ車があるだけだ。どちらも本当で、記事に載るのは見えなかったほうになる。
言いに行く先は無かった。行ったところで、俺に言えるのは、俺にも青に見えた、だけだ。それで何かが戻るわけではない。
頼まれたのは、交差点のほうだった。
その晩、浜地の家の二階で、鞄を開けた。
祓いが五枚。
相手は物だ。灯器そのものか、灯器の中の何かか、そこまでは割れない。割れなくても、打つ場所は決まっている。交点は、あの一基から動かなかった。
翳しても打てる。下から翳せば、効きが散る。散ったぶんは、もう一枚で埋めることになる。
貼れば、一枚で済む。
脚立が要る、と思った。
鞄の底に、白い布が一枚入っている。
包む手は、まだ試しているところだった。小さいものなら、包めば消える。そこまでは確かめてある。何と引き換えに消えているのかが、まだ分からない。
分からないものは使わない。
布は、底に入れたままにした。
三日目の晩、波多江さんに脚立を借りた。
店の裏から出してきた、アルミの脚立だった。看板の電球を替えるのに使うという。
「夜中に、すみません」
「よかです。どうせ寝られんけん」
二時を過ぎると、国道の車は途切れた。たまに遠くから大型のライトが来て、通り過ぎて、また暗くなる。
信号だけが、誰もいない交差点で、青と黄色と赤を順に出していた。夕方の時雨で、路面がまだ濡れていた。
脚立を、酒屋の角の柱に立てかけた。波多江さんが下を押さえた。
上った。
灯器の背中は、思ったより大きかった。鉄の箱で、霜がうっすら降りていた。正面は道のほうを向いている。俺の側にあるのは、背中だけだ。
顔は、見なかった。
祓いを一枚出して、短い祝詞をあげた。八文字。
背中に貼った。
札は、貼ったところから黒くなった。
端からではない。真ん中から紙が縮んで、色が寄っていく。力を焼いている。
下で、波多江さんが小さく声を出した。
濡れた路面に、灯器の色が映っていた。赤だった。それが一度だけ青になって、すぐに赤へ戻った。
俺は車に乗っていない。見せられても、渡る足が無い。
札は黒くなりきって、灯器の背から離れた。落ちる前に、指で挟んだ。粉が少し落ちた。
脚立を下りて、札をスーパーの紙袋に入れ、口を折った。
朝、店が開くのを待って、また角に立った。
缶コーヒーは、初日に買ったのを持っていた。
信号は、ふつうに変わった。青が何十秒か、黄色が三秒、赤が何十秒か。二時間、立って見た。青は青で、赤は赤だった。
目印を一枚だけ、電柱に貼った。方角はもう要らない。在るか無いかが分かればいい。
二時間置いて、剥がした。
白かった。
波多江さんは、三万円を封筒に入れて出した。
「これで、事故は無くなりますか」
「減ります」
「無くはならんとですか」
「ぶつかる車は、ぶつかります」
波多江さんは、少し笑った。それから、交差点のほうを見た。
目は、すぐに戻ってきた。俺の顔を見て、もう一度頭を下げた。
浜地が、駅まで送ってくれた。
「また飲みに来いや」
「ああ」
筑肥線の中で、缶を開けた。
すっかり冷えていた。冷えていても、うまかった。
六畳は、同じところを借りたままだった。冬を、十いくつ越した。家賃は、二度上がった。
三月に入っても、水は冷たかった。
窓際で紙を漉いていた。簀桁を揺すって、水を切る。指の先から感覚が無くなっていく。
後ろの文机で、大上が型を書いていた。
二月に天神のコンビニで、違う名前で呼ばれていた若いのだ。
片づけたあと、電話を四度かけてきた。弟子は取っていないと断ったが、四度目に折れた。半年だけ、と言ってある。
大上という名に、引っかかるものがあった。どこで引っかかっているのかは、ひと月経っても出てこない。
墨を摺る音が、せわしない。
「大上」
「はい」
「速か。ゆっくり摺れ」
「はい」
硯の音が、また始まった。さっきより遅かった。
表の通りを、救急車が通っていった。サイレンが近づいて、窓の下でいちばん大きくなって、遠ざかった。
簀桁を浸けた水の中で、手が止まった。
思い出した。
救急車ば待つあいだ、青やった、青やったち、ずっと言いよった。
あの交差点にあった店の人間が、そう言っていた。誰も取り合わなかった、と。
その日の昼前に、調べた新聞にあった。
死んだ夫婦の苗字は、大上。
引っかかっていたのは、そこだった。
簀桁を上げた。水が落ちきるまで待った。簀の上に、紙が一枚残った。
後ろで、硯の音がしていた。
「大上」
「はい」
「お前、親は」
「おらんとです、事故で」
硯の音は、止まらなかった。
「そうか」




