第四十二話 大橋中央病院 恨み 受 壱
梅雨に入って、十日ほどになる。朝から細い雨が降ったりやんだりしていて、歩道のタイルが乾く暇がなかった。
机には透明なビニールを掛けて、厄除けの束はその下に入れてある。向かいのデパートの入口では、店員が傘袋の台を出したり引っ込めたりしていた。
昼を過ぎたころ、紺の傘が一本、客用の椅子の前で止まった。
傘の下から、三原さんの顔が出てきた。首から社員証を下げている。手に、うちの名刺を持っていた。角の丸くなった、あの一枚だった。
那の津の印刷会社で、総務をしている人だ。ひと月あまり前にも、この椅子に座った。
毎朝、機械の刷り出しの一枚目が真っ黒に上がる。
機械の前に立つと後ろから覗かれている気がして、春に入った子が三人続けて辞め、四月に入った子が四人目になりかけている。
上に話が行く前に、なんとかしたい。そう言っていた。
会社の名前で拝み屋を呼んだことには、したくない人だった。
見積書にはお祓いと書かないでくれと頼まれて、点検とも書けないと返すと、建物調査で手を打った。そう書いてから、少し笑っていた。
あの件は、うちでは受けなかった。祓いの要る仕事だったので、播谷さんに回した。
播谷さんが一晩で打って、収まった。十日ほどして、収まったげな、と三原さんから電話があった。
その、三原さんが来ていた。
「元祖天神大上屋さん、で……」
「はい。大上です」
三原さんは、俺の顔を見て、少し息をついた。
「よかった。場所の、うろ覚えで」
傘をすぼめて椅子の脇に立てかけ、座った。社員証のストラップを、指に巻きつけた。今度は、ほどかなかった。
「また、出よるとです」
先週の月曜からだという。
朝、機械を回すと、一枚目が黒く上がる。そこまでは前と同じだった。
「それが、一枚目だけやなかとです。途中で、何枚目か分からんとですけど、黒かとが一枚、混じるとです。三台とも」
ストラップが、指の付け根まで巻きついていた。
「金曜に、四月の子が、機械の前で押されたとです」
「押された」
「後ろから、背中ば。紙ば送り込む口のほうに、こう」
三原さんは、手のひらで前を押す仕草をした。
「職長が、すぐ横におったけん、襟ば掴んで引き戻したとです。……おらんやったら、ち、職長が言うとります」
四月の子は、それでも辞めるとは言っていないという。
「播谷さんにも、と思うたとですけど。紹介していただいたのは大上さんですけん、先に、と」
「見に行きます」
値段は、見てから言います、と言った。三原さんは、うなずいて、ストラップをほどいた。指に、赤い筋が残っていた。
夕方、路地の口まで歩いて、本家に今夜は那の津だと言った。はい、と本家は言った。
那の津は、雨の中だと匂いが重かった。岸壁の内に溜まった海が、前に来たときより低いところに淀んでいる気がした。倉庫の屋根の向こうの、競艇場の大きな屋根が、雨で煙っていた。
丸二印刷の通用口で、三原さんが待っていた。
目印を三枚、貼った。一台目の脇の柱と、奥の壁と、通用口の横。
短い祝詞をあげた。八文字。
翌朝、七時半に通用口をくぐった。
職長さんが、耳に鉛筆を挟んで一台目の前に立っていた。俺を見て、顎を一度しゃくった。
八時に、機械が回った。
一枚目は、黒かった。二台目も、三台目も。
三台目の前に、若いのが一人立っていた。機械に背を向けないように、半身になっている。紙が落ちるたびに、肩越しに後ろを見た。後ろには、誰もいなかった。
十何枚目かで、吐き出す側の台に、黒いのが一枚落ちた。前後の紙は、白地に赤と青で刷れていた。職長さんが、それを黙って抜いて、箱に放った。
機械が落ち着いてから、目印を見て回った。
三枚とも、焦げていた。前より濃い。
中心は、やはり無かった。紙の面がどこも同じ濃さで焦げている。
そして、裂けていた。
柱の一枚も、奥の壁の一枚も、通用口の一枚も、紙の真ん中から裂けが入っていた。三枚とも、同じところからだった。
裂けは、色とは別に読む。黄ばみでも、焦げでも、湿りでも、その上に乗って出る。由来は問わない。
出ていれば、向こうは人を害しにかかっている。
修行の初めの日に、一覧で教わった。一覧の最後に、安藤さんはこう付け足した。
「裂けとったら、放っとけば人の死ぬと」
教わってから今まで、自分の貼った札に出たのを見たことは、一度も無かった。
三枚とも、縁から縁まで、もう一度見た。見直しても、裂けは裂けのままだった。
剥がして、鞄に入れた。
事務所の衝立の陰で、三原さんに言った。
「受けます」
三原さんは、ストラップを握ったまま、俺を見た。前は断られた、という顔だった。
「……おいくらに、なりますか」
「まだ、言えんとです」
値段が、立たなかった。立たないまま、言った。
「言えんけど、受けます」
井尻の駅で降りて、踏切を渡った。雨はやんでいて、細い道の片側に水たまりが残っていた。
角の煙草屋では、奥さんが店先の台を拭いていた。
二つ先の家の軒先に、トマトの鉢が三つ並んでいた。実が付いていた。青いのと、赤くなりかけたのと。
戸は閉まっていた。呼び鈴を押しても、誰も出てこなかった。表札は、名前が二つ並んだまま掛かっていた。
煙草屋まで戻った。
「安武さんね」
奥さんは、布巾を止めた。
「先月の終わりに、倒れなさったとよ。朝、トマトに水ばやりよって、そのまま」
救急車が来て、大橋中央病院に運ばれた。それきり、家には戻っていないそうだ。
「この前、見舞いに行ったとやけど。顔だけ見て帰った。意識の、戻らんげな」
奥さんは、二つ先の軒先のほうを見た。
「トマトは、私がやりよると。誰もやらんけん」
大橋中央病院は、那珂川の近くにあった。白い大きな建物で、正面の車寄せにタクシーが何台も並んでいた。
中は空調が効いていて、消毒の匂いがした。雨を吸った靴の底が、床で鳴った。
煙草屋の奥さんに聞いた階で、エレベーターを降りた。
廊下の突き当たりの、一つ手前の部屋だった。突き当たりには、非常口の緑の灯りの下に、鉄の扉があった。病室の戸は開いていて、入口の脇に名札が差してあった。
安武修二 様
一つだけだった。
中は、カーテンが引いてあった。何かの機械が、小さく、規則正しく鳴っていた。
病室の前に、しばらく立っていた。
「ご家族の方ですか」
後ろから、看護師さんに声をかけられた。
「……いえ」
「ご家族以外の方は、いまはご遠慮いただいとるとです」
頭を下げて、廊下を戻った。カーテンの向こうは、見なかった。
夕方、表の店に戻ると、本家が立っていた。ガードレール沿いに少し離れて、安藤さんにかけた。
「なんか用か」
「那の津の印刷会社です。前に、話した」
「ああ」
「また、出とります。焦げで、前より濃かです」
少し置いてから、言った。
「裂けの、入っとります。三枚とも、同じとこから」
電話の向こうで、何かが動く音がした。それきり、静かになった。
「本人は」
「病院です。倒れて、意識の戻らんとです。……生きとります」
「受けるな」
「前のときは、祓うてもらいました。同業の人に。止まって、一月で戻ってきたとです。今度は、裂けて」
「そうか」
「祓うたら、また戻ってくると思います。戻ってきたら、今度は何ば持って戻ってくるか分からんとです。放っとったら、人の死にます」
返事は無かった。
「じゃあ、どげんすればよかとですか」
雨の音がしていた。ガードレールの横桟から、滴が一つずつ落ちていた。
「安藤さんやったら、どげんしますか」
「現場は、どこや」
「那の津の工場です。競艇場の近くの」
電話の向こうで、安藤さんは黙っていた。長いこと、黙っていた。
「受けられん」
それだけ言った。知らん、とも、分からん、とも言わなかった。
それで切れた。
播谷さんにも、かけた。
後ろで、店内の放送が流れていた。
「また出たとか」
「出とります。今度は、裂けの入っとります」
「裂けね。そんなら、なおさら早う打たんと」
段ボールを台に置くような音がした。
「もういっぺん打とうか。今度も、見に行くとは取らんけん」
何も間違っていなかった。播谷さんの手で打てば、明日の朝には止まる。
「……今度は、うちでやります」
「そうね」
播谷さんは、それ以上訊かなかった。
「なんかあったら、電話して」
それで切れた。
表に戻って、本家に、明日は朝から大橋だと言った。
本家は、机のビニールを畳む手を止めずに、はい、と言った。
大橋に何があるのかは、言わなかった。
薬院までの道で、考えた。
引き取れば、止まる。品名は、立っている。
けれど、あれは、あの人から出たものだ。城戸さんの時計は、巻き癖と書いて、時計ごと入った。
渕上さんの作業場では、井戸と書けば井戸ごと入ると確かめてから書いた。入るものが、ほかに無かったからだ。
今度は、ある。
祓えば、止まる。播谷さんなら、一時間で済む。
一度、祓った。一月で戻ってきた。戻ってきたときには、裂けていた。もう一度祓えば、次は何を持って戻ってくるのか。
跳ねを据えれば、一度は逸らせる。一度働けば、反って落ちる。機械は三台ある。毎朝、何枚据え直せばいいのか。何日。何月。
放っておけば、誰かが、送り込む口へ押される。
三つとも、塞がっていた。
四畳半に着いたとき、本家はまだ帰っていなかった。
次の日の昼過ぎに、大橋中央病院へ行った。
面会の時間が始まったばかりで、エレベーターの前に、見舞いの紙袋を提げた人が何人も並んでいた。
エレベーターには乗らなかった。一階の廊下の端の、鉄の扉を押して、階段を上がった。
非常階段は、灰色だった。手すりの塗装が剥げかけていた。上からも下からも、足音はしなかった。
あの階で、扉を開けた。
廊下の突き当たりだった。斜向かいが、病室の入口だった。名札は、昨日のまま差してあった。
扉から入口まで、歩いて数えた。五歩だった。
階段室に戻った。扉を閉めかけて、手を止めた。
扉を開け放して、鞄を下に挟んだ。扉の向こうに見えるのは、廊下の向こうの壁と、手すりだけだった。
下りの段の、いちばん上に腰を下ろした。扉は、背中の側になった。正面に、下の踊り場の小さな窓が見えた。曇った空が、四角く切り取られていた。
膝の上で、帳面を開いた。
品名は、とうに立っている。
行の頭は、大橋中央病院。品名は、恨み。壱。
人の名前では、書かない。
あの日、踏切の前では、ここで止まった。
どうか、恨みだけを、持っていってくれ。
筆ペンの蓋を抜いた。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
あたりが張った。
廊下で、足音が止まった。しばらく、何の音もしなかった。それから足音は、来たほうへ、足早に遠ざかっていった。
筆を下ろした。
大橋中央病院 恨み 受 壱
いつもと同じだった。四十秒ほどで、張ったものが落ちた。
帳面を閉じた。扉の下から鞄を抜いて、帳面を入れた。肩に掛けると、前より重かった。
扉を閉めた。廊下には、出なかった。
階段を、下りた。
次の朝、八時を少し回ったところで、携帯が鳴った。
三原さんだった。
「止まったとです」
声が、少し高かった。
「一枚目の、ちゃんと刷れて。途中のも、一枚も黒うならんで。四月の子も、今朝は普通に機械の前に立っとります」
「よかったです」
「請求書ば、お願いできますか。今日のうちにでも」
「昼過ぎに、持っていきます」
電話を切った。本家は、もう出ていた。
座卓の下から、請求書の綴りを出した。表紙の隅に、ホームセンターの値札が付いたままだった。
調べの二日で、二万。
引き取りは、三万にした。ほかに、付けようが無かった。
但し書きの欄で、筆が止まった。
建物調査、と書いた。その後ろに、および引き取り、と足した。何を、とは書かなかった。
天神を抜けて、那の津へ歩いた。
路地の口の手前で、電器屋の店先に並んだテレビが、どれも同じ建物を映していた。
白い大きな建物で、正面に車寄せがあった。車寄せの前に、人が何人も立っていた。
音はガラスの内側で鳴っていて、聞こえなかった。画面の下に、字が出ていた。
南区の病院で、入院中の六十代の男性の行方が分からなくなっている。
昨日の午後。病室を出る姿は、どの防犯カメラにも映っていない。
背広姿の壮年の男性が、憔悴した顔で取材を受けていた。行方は、捜索中。
画面が切り替わって、天気図になった。梅雨の前線が、九州の上に長く伸びていた。
足を止めていたのは、少しのあいだだった。
丸二印刷の事務所の、衝立の陰で、請求書を渡した。
衝立の向こうで、機械の低い音がしていた。
三原さんは、但し書きのところで目を止めた。
「引き取り、ですか」
「はい」
三原さんは、少し置いて、うなずいた。
「上には、これで通します」
判を押す欄を、指でなぞった。前と同じ手つきだった。
それから立ち上がって、頭を下げた。ストラップが、胸の前で揺れた。
「本当に、ありがとうございました。誰も、怪我せんで済みました」
「……はい」
「月末に、振り込みますけん」
四畳半に戻って、帳面を開いた。
本家は、まだ表に立っている。
いちばん新しい行を、読んだ。
大橋中央病院 恨み 受 壱
恨み、と書いてある。俺の字だった。
坂口方の母の行が、座布団に読み替わっていた晩を思い出した。あのときも、頁と中身が合っていなかった。
あのときと、同じだ。
そこから先は、出てこなかった。
行は消せない。直すなら、書き足すしかない。
何と書き足せばいいのかが、分からなかった。書けば、それが本当になる気がした。
筆ペンの蓋を抜いた。
渡と書けば、出る。座布団も、炎も、寝袋も、そうやって出した。
けれど、書いたとおりのものが出てくるとは限らない。それも、知っている。
渡と書けば、出てくるのは恨みかもしれない。裂けたままの。
人が出てきたとして、それがあの人だと、俺には確かめようがない。
筆の先が、頁の上で止まっていた。
蓋を、戻した。
あの人は——
そこで、止まった。
書いたものは、帳面の中に在る。座布団も、『朝掃き』も、『番』も。力が使えるのは、中に在るからだ。
あの人の恨みには、裂けがあった。害意があった。害意のある力を帳面に入れたのは、初めてだった。
力は、まだ働いていない。働くまでには、いつも間がある。
帳面を閉じた。
日が暮れて、本家が帰ってきた。
表は雨で、客が少なかったという。厄除けが二枚出た。本家はそれを家計簿に付けて、湯を沸かした。
本家は、那の津のことを訊かなかった。
訊かれたら、答えるつもりでいた。
本家は袋麺を二つ茹でて、丼に分けた。卵が一つしかなかったので、半分に割った。
食い終えると、本家は流しに立って、丼を洗いはじめた。
水の音がしていた。
鞄は、机の上に置いてあった。
安藤さんは、受けるなと言った。
播谷さんは、もういっぺん打とうかと言った。
これで、本当によかったのだろうか。




