↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
43/67

第四十一話 大上方 蚊取り線香 受 壱

 姪浜(めいのはま)の旧道は、車一台ぶんの幅で西へ延びている。昼過ぎの日が、瓦屋根の並びの片側にだけ当たっていた。梅雨の入りが近いと朝のラジオが言っていたが、空はまだ高かった。

小金丸(こがねまる)さんの家は、格子の入った二階建ての町家だった。昔は米屋だったそうで、軒の上に、看板を外した跡が四角く残っている。

七十の半ばくらいの、小柄な女の人だった。白い髪を後ろで小さくまとめて、べっ甲の櫛を一本挿している。藤色のブラウスの上に紺の前掛けをしていて、話しながら、ときどきそのポケットに手をやる。中に何か入っているのを、確かめるような手つきだった。

「奥です。蔵の」

土間を抜けて、裏庭に出た。紫陽花が、まだ色づききらずに固まっている。その向こうに、土蔵が建っていた。

外の壁は、くすんだ灰色だった。腰には黒い板が張ってあって、ところどころ反っている。観音開きの重い扉が、左右に開け放してあった。

「中だけ、塗り直したとです。市の補助の出るけん、ち言われて」


 内側の引き戸を開けると、白かった。

壁も、天井の際も、塗ったばかりの漆喰が裸電球の明かりを跳ね返している。床は板張りで、長持と木箱が壁際に寄せてあった。奥に箱階段があって、その上が中二階になっている。

窓は一つ、北の高いところにあった。鉄の格子の内側に、新しい網が張ってある。

跡は、その窓のまわりにあった。

小指の先ほどの、手の形だった。指が五本、開いていて、指先が丸い。灰色で、白い壁の上だとよく見えた。窓の下から斜めに、電球のほうへ、点々と続いている。

「毎朝、増えとるとです」

後ろで、男の声がした。

三十を少し過ぎたくらいだろうか。作業着の膝と袖口に、乾いた白がこびりついている。

辛島(からしま)です、と言って、壁の前に立った。跡に顔を寄せ、指の背で、跡の脇を軽く撫でた。掌は当てなかった。

「ヤモリです。見たまんま」

「ヤモリは、おるとですか」

「おらんとです」

辛島さんは、窓の網を顎で指した。

「塗る前に、隙間は全部埋めました。網も張った。糞も落ちとらん。それで、朝来たら、これです」

上塗りを、二度やり直したという。二度とも、三日で跡が戻った。

小金丸さんが、窓を見上げた。

「家守さんの、帰ってきなさったとかもしれんですね」

辛島さんは、返事をしなかった。

「辛島さんのお父さんには、主人のずっとお世話になっとったとですよ」

小金丸さんが、前掛けのポケットに手をやった。

「これ以上、ただでやり直してもらうわけにはいかんとです。十日したら、市の人の、出来上がりば見に来らすけん」


 目印を三枚、出した。

壁に向けたところで、辛島さんが言った。

「そこには、貼らんでください。まだ締まっとらんです」

柱と、梁と、長持の蓋に貼った。木なら、剥がしても跡は残らない。離して貼る。

短い祝詞をあげた。八文字。

次の日の昼に、もう一度来た。

三枚とも、薄く焦げていた。焦げは、生き物の色だ。焼けの中心が、どれも窓のほうへ寄っている。一枚が示すのは向きではなく線で、三本を延ばすと、窓の上の梁で交わった。

跡は、また四つ増えていた。

三日目の昼には、焦げが一回り広がっていた。進んでいる。何かが、居る。

「夜に、見させてください」

「よかですよ。私も、居ります」

「遅うなります」

「他人様ば、蔵に一人で置いとくわけにはいかんとです。主人の代から、そうしとりますけん」

責める声ではなかった。蔵とは、そういうものらしかった。

夕方、本家に一報を入れた。今夜は姪浜の蔵で遅くなる。本家のほうは、吉塚(よしづか)の件で夜通し見ると、昼のうちに寄越していた。


 日が落ちてから、蔵に入った。

夜は戸を閉めて、風を入れないように、と辛島さんから言われている。塗った漆喰が、むらなく締まるようにだそうだ。小金丸さんが、内側の引き戸に手をかけた。

重い戸だった。外の面にも漆喰が塗り込めてあって、厚みが掌ほどある。手を貸して、二人で引いた。

戸は、閉まる手前で、がくんと沈んだ。

床が、鈍く鳴った。

閉まってはいた。引いても、動かない。押しても、動かない。下を覗くと、戸の端が敷居の溝から外れて、板の上に乗っていた。戸車が外れたらしい。

持ち上げようとした。指の掛かるところが無い。二人で肩を当てて押した。戸は、少しも動かなかった。

携帯を出した。圏外だった。小金丸さんの携帯も、同じだった。土の壁は、厚い。

「……出られんですね」

「出られんですねぇ」

小金丸さんは、前掛けのポケットに手をやった。それから、長持のほうへ歩いていった。

「娘が、毎朝七時に電話してくるとです。私が出らんやったら、来ますけん。室見(むろみ)から、二十分」

「朝まで、ですか」

「朝まで、ですね」

長持の蓋を開けて、座布団を二枚、出した。


 鞄を開けた。

内側のポケットに、輪ゴムで留めた伝票が七枚入っている。

いちばん上は、マット、四。座布団が出せなくなってから、リサイクルショップで折りたたみのウレタンマットを四枚買って、入れておいた。人が落ちてくるときに、膝をついて書いている暇は無い。

その下に、品名と数を先に書いておいたものが続く。水、弐。乾パン、壱。寝袋、壱。カイロ、拾。ライター、壱。炎、壱。

まず、水を出した。

帳面を開いた。短い祝詞をあげた。八文字。伝票を一枚、添えた。

あたりが張って、すぐに落ちた。ペットボトルが二本、膝の前に立っていた。

小金丸さんが、こちらを見ていた。ペットボトルを見て、俺の顔を見て、もう一度ペットボトルを見た。前掛けのポケットに、手をやった。

「……拝み屋さんは、こげなことも、しなさるとですね」

「うちのやり方です。うちにあるもんしか、出せんとですけど」

小金丸さんは、しばらく黙っていた。それから息をついて、座布団の上で座り直した。

「主人が見たら、腰ば抜かしたでしょうね」

乾パンの缶を出したときには、もう目を丸くしなかった。缶を見て、長持のほうへ行った。今度は、隅の甕の蓋を取った。

「うちの蔵にも、あるとですよ」

梅干しだった。三年ものだそうだ。

乾パンに、梅干しを一つずつ載せて食べた。乾パンだけより、ずっと食べられた。


 九時を過ぎて、蚊が出た。

戸を閉める前に、庭から入っていたらしい。電球のまわりを、細い音が回っている。小金丸さんが、団扇で足元を払った。団扇も、長持から出てきたものだ。米屋の名前が刷ってある。

「家なら、蚊取り線香のあるとですけどね」

蔵には、無かった。鞄にも無い。帳面にも、入れていない。束に残っているのは、冬に切ったカイロの伝票だった。

小金丸さんの、くるぶしが赤くなっていた。

頼めば、また貸してくれるのだろう。

そう思ったのは、厄除けが一枚、帳面の脇に置いてあった朝だった。頼む気には、ならなかった。

今は、手元に何も無かった。

「上ば、見てきます」

箱階段を上がった。中二階は天井が低く、腰をかがめないと歩けない。こちらには電球が無くて、下の明かりが床の口から四角く上がってくるだけだった。

床の口には、蓋が付いていた。下ろした。

真っ暗になった。


 携帯の明かりを点けて、床に帳面を開いた。いちばん新しい頁だ。

柳橋(やなぎばし)の講帳では、払えなかった店の者が、掌を押していた。厄除けの朝、帳面は俺の手を押した。俺は、何も書いていない。

作法が二つあるはずがない。祝詞、名乗り、申し立て。そのあとは、手だ。

左手を開いた。右は、筆を持つ手だ。

蚊帳を一張り、と頭に置いた。蚊帳なら、二人とも入れる。日限は、七日。

短い祝詞をあげた。八文字。

「元祖天神大上屋、大上大介がお借りします」

あたりが張った。

掌を、頁に押しつけた。

紙は、冷たかった。張ったものは、張ったまま動かなかった。手の下で、帳面はこちらを向いている。向いていて、そのうえで、何も寄越さない。

みやこビルの踊り場で、閉じ込められた晩に、一度だけこうなった。

手を離した。

頁は、白かった。手の形も、行も無い。掌を明かりにかざすと、筋は全部あった。

張ったものが、ゆっくり落ちた。

断られた。

蚊帳は、大きかったのかもしれない。一晩の蚊に、一張りは過ぎる。講の親だった八尋(やひろ)さんは、困った店を回って、要るぶんだけ渡していたと聞いた。

頭の中のものを、小さくした。蚊取り線香を、一巻。日限は、同じ七日。

もう一度、祝詞をあげた。名乗った。

掌を押しつけた。

今度は、来た。

掌の下で、紙が一度だけ脈を打った。手を離すと、黒い手の形が残っていた。皺が、一本ずつ写っている。その横に、字が浮いてきた。上から順に、俺の筆順で。


  大上 蚊取り線香 手形 壱 七日


 帳面の脇に、緑の渦が一巻、転がっていた。見慣れた色だった。

左の掌は、平らになっていた。


 蓋を上げて、下りた。

「ありました」

渦巻きを見せた。小金丸さんは、目を細めた。

「上に、あったとですか」

「……ありました」

嘘ではなかった。

左手は、ズボンのポケットに入れた。

鞄からライターの伝票を出そうとしたとき、しゅっ、と音がした。小金丸さんが、前掛けのポケットからマッチ箱を出して、擦っていた。

「仏さんの線香用です。いつも入れとるとです」

炎の伝票は、束の中で、輪ゴムに挟まったままだった。

台が要る、と思ったら、小金丸さんがまた長持を開けた。素焼きの、豚の形の蚊遣りが出てきた。

「蔵には、何でもあるとですよ」

渦巻きの先が赤くなって、細い煙が上がった。


 十一時を過ぎたころ、蛾が来た。

どこから入ったのか、白い蛾が二匹、電球にぶつかっては離れている。一匹が、窓の下の壁に止まった。

その手前に、跡が一つ、増えた。

見ていた。何も見えなかった。壁の白の上に、指の開いた小さな手の形が一つ、浮いてくるように付いた。灰色だった。次の一つが、その少し上に付いた。

窓の下から、蛾のほうへ。

蛾の手前で、止まった。

蛾は、しばらくして飛んだ。跡はそこで止まったまま、次の一つが、電球のほうへ向きを変えて付いた。

小金丸さんも、見ていた。団扇を、膝に置いていた。

「家守さん、仕事のしよらす」

声を落としてそう言って、少し笑った。

塗り直した壁を、確かめているのだと思った。

歩き慣れた壁が、ある日、白くなった。どこまでが前と同じで、どこからが違うのか。窓から電球まで、毎晩、足で確かめている。だから、跡が付く。慣れるまでは、続くのかもしれない。

そう読んだ。

蚊は、夜半から来なくなった。線香が効いたのか、ほかの何かなのかは、分からなかった。

寝袋の伝票を出した。祝詞をあげて、添えた。小金丸さんは、今度は顔を上げなかった。

寝袋は、床に広げた。小金丸さんは中には入らず、その上に横になって、座布団を二つ折りにして枕にした。

俺は長持にもたれて、壁を見ていた。朝までに、跡は九つ増えた。


 七時を回った。圏外の携帯は、鳴らなかった。

八時前に、戸の向こうで声がした。

「お母さん?」

小金丸さんが戸の前まで行って、返事をした。娘さんの声が、いっぺん高くなって、それから急に落ち着いた。

「辛島くん、呼ぶけん。待っとって」

辛島さんは、二十分で来た。

戸の外で短いやりとりがあって、ごとん、と鳴った。戸が一度持ち上がって、溝に落ちた。

するすると開いた。

「敷居の溝の、浅かとです。勢いつけて閉めたら、跳ねるとです。言うとけばよかったですね」

辛島さんは、戸の縁を指の背で叩いた。十秒も、かかっていなかった。

娘さんは、四十代の半ばくらいで、車の鍵を握ったまま、母親の顔と、蔵の中の座布団と、豚の蚊遣りと、俺を、順番に見た。


 辛島さんは、壁の前に立った。跡の数を、指で追った。

「また増えとる」

「新しか壁ば、確かめよるとやと思います」

夜のあいだに考えたことを、そのまま言った。

辛島さんは、首をかしげた。

「確かめる、ちいうか。前も、歩きよったとでしょう」

「前も」

「古か壁は、煤けとりましたけん。灰色の上に灰色の跡の付いても、誰も見らんです」

辛島さんは、跡の一つを、指の背でなぞった。

「これ、古か壁の色ですよ。塗る前に掻き落とした、下の色」

小金丸さんが、前掛けのポケットに手をやった。

「家守さんは、去年の秋に、窓の溝で乾いとったとです。小さかとが。ずうっと、あの窓におらしたとですけど」

確かめていたのではなかった。

同じ道を、前から歩いていた。見えるようになったのは、壁のほうだった。


 「どげんしますか」

訊いたのは、俺のほうだった。

引き取れる。帳面に入れれば、跡は二度と増えない。

小金丸さんは、壁を見ていた。

「置いとって、よかですか」

「害は、無かと思います。歩くだけです」

「なら、置いとってください。蔵に家守さんのおらんとは、寂しかです」

辛島さんが、指の背を壁に当てた。

「漆喰は、ひと月もすりゃ締まります。締まったら、こげな跡は濡れ雑巾で落ちる。検査の日は、まだ柔かけん、残っとるでしょうけど」

「市の人に、何て言うと」

娘さんが訊いた。

「ヤモリです、ち言います」

辛島さんは、それきり何も足さなかった。本当のことだった。


 見立てに三日で、一万円をもらった。

小金丸さんは、封筒をもう一つ出そうとした。

「夜のぶんです」

「夜は、閉じ込められとっただけですけん」

右手で、一つめの封筒だけを受け取った。左手は、ポケットの中にあった。

小金丸さんは、二つめの封筒を前掛けのポケットに戻した。マッチ箱の隣だった。

寝袋を丸めて、脇に抱えた。出すのは一瞬だが、しまうには書くしかない。

裏庭を出るとき、振り返った。蔵の扉は開け放してあって、中の白い壁が朝の光で明るかった。窓の下から、灰色の小さな跡が、電球のほうへ続いている。

豚の蚊遣りの中で、渦巻きは半分燃えて、消えていた。


 帰りに、薬院(やくいん)のドラッグストアに寄った。

蚊取り線香は、十巻入りの箱で三百八十円だった。高いとも、安いとも思わなかった。今年の夏も、どうせ要る。

四畳半に、本家はまだ帰っていなかった。

箱を開けた。渦巻きは、二巻ずつ組み合わさって入っている。一組を取って、指先で外した。片方は、細いところで少し欠けた。欠けていないほうを、座卓に置いた。

帳面を開いた。筆ペンの蓋を抜いた。

短い祝詞をあげた。八文字。

「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」

あたりが張った。


  大上方 蚊取り線香 受 壱


 渦巻きが、無くなった。

筆を離すと、隣の行に字が浮いてきた。


  大上 蚊取り線香 皆済


 張ったものが、落ちた。左の掌が、痒くなった。

続けて、寝袋を書いた。


  大上方 寝袋 受 壱


 頁を、読み返した。

右のほうに、厄除けの朝の左手が、黒く押してある。

その左に、蔵で出した行が並んでいる。水が弐、乾パンが壱、寝袋が壱。

その左に、もう一つ、左手がある。皺は、もう抜けていた。手形の行と、受の行と、皆済。受の行の下に、小さく、返済。

いちばん左に、寝袋が壱、戻っている。

二つの手は、指の開き方まで同じだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。