第四十一話 大上方 蚊取り線香 受 壱
姪浜の旧道は、車一台ぶんの幅で西へ延びている。昼過ぎの日が、瓦屋根の並びの片側にだけ当たっていた。梅雨の入りが近いと朝のラジオが言っていたが、空はまだ高かった。
小金丸さんの家は、格子の入った二階建ての町家だった。昔は米屋だったそうで、軒の上に、看板を外した跡が四角く残っている。
七十の半ばくらいの、小柄な女の人だった。白い髪を後ろで小さくまとめて、べっ甲の櫛を一本挿している。藤色のブラウスの上に紺の前掛けをしていて、話しながら、ときどきそのポケットに手をやる。中に何か入っているのを、確かめるような手つきだった。
「奥です。蔵の」
土間を抜けて、裏庭に出た。紫陽花が、まだ色づききらずに固まっている。その向こうに、土蔵が建っていた。
外の壁は、くすんだ灰色だった。腰には黒い板が張ってあって、ところどころ反っている。観音開きの重い扉が、左右に開け放してあった。
「中だけ、塗り直したとです。市の補助の出るけん、ち言われて」
内側の引き戸を開けると、白かった。
壁も、天井の際も、塗ったばかりの漆喰が裸電球の明かりを跳ね返している。床は板張りで、長持と木箱が壁際に寄せてあった。奥に箱階段があって、その上が中二階になっている。
窓は一つ、北の高いところにあった。鉄の格子の内側に、新しい網が張ってある。
跡は、その窓のまわりにあった。
小指の先ほどの、手の形だった。指が五本、開いていて、指先が丸い。灰色で、白い壁の上だとよく見えた。窓の下から斜めに、電球のほうへ、点々と続いている。
「毎朝、増えとるとです」
後ろで、男の声がした。
三十を少し過ぎたくらいだろうか。作業着の膝と袖口に、乾いた白がこびりついている。
辛島です、と言って、壁の前に立った。跡に顔を寄せ、指の背で、跡の脇を軽く撫でた。掌は当てなかった。
「ヤモリです。見たまんま」
「ヤモリは、おるとですか」
「おらんとです」
辛島さんは、窓の網を顎で指した。
「塗る前に、隙間は全部埋めました。網も張った。糞も落ちとらん。それで、朝来たら、これです」
上塗りを、二度やり直したという。二度とも、三日で跡が戻った。
小金丸さんが、窓を見上げた。
「家守さんの、帰ってきなさったとかもしれんですね」
辛島さんは、返事をしなかった。
「辛島さんのお父さんには、主人のずっとお世話になっとったとですよ」
小金丸さんが、前掛けのポケットに手をやった。
「これ以上、ただでやり直してもらうわけにはいかんとです。十日したら、市の人の、出来上がりば見に来らすけん」
目印を三枚、出した。
壁に向けたところで、辛島さんが言った。
「そこには、貼らんでください。まだ締まっとらんです」
柱と、梁と、長持の蓋に貼った。木なら、剥がしても跡は残らない。離して貼る。
短い祝詞をあげた。八文字。
次の日の昼に、もう一度来た。
三枚とも、薄く焦げていた。焦げは、生き物の色だ。焼けの中心が、どれも窓のほうへ寄っている。一枚が示すのは向きではなく線で、三本を延ばすと、窓の上の梁で交わった。
跡は、また四つ増えていた。
三日目の昼には、焦げが一回り広がっていた。進んでいる。何かが、居る。
「夜に、見させてください」
「よかですよ。私も、居ります」
「遅うなります」
「他人様ば、蔵に一人で置いとくわけにはいかんとです。主人の代から、そうしとりますけん」
責める声ではなかった。蔵とは、そういうものらしかった。
夕方、本家に一報を入れた。今夜は姪浜の蔵で遅くなる。本家のほうは、吉塚の件で夜通し見ると、昼のうちに寄越していた。
日が落ちてから、蔵に入った。
夜は戸を閉めて、風を入れないように、と辛島さんから言われている。塗った漆喰が、むらなく締まるようにだそうだ。小金丸さんが、内側の引き戸に手をかけた。
重い戸だった。外の面にも漆喰が塗り込めてあって、厚みが掌ほどある。手を貸して、二人で引いた。
戸は、閉まる手前で、がくんと沈んだ。
床が、鈍く鳴った。
閉まってはいた。引いても、動かない。押しても、動かない。下を覗くと、戸の端が敷居の溝から外れて、板の上に乗っていた。戸車が外れたらしい。
持ち上げようとした。指の掛かるところが無い。二人で肩を当てて押した。戸は、少しも動かなかった。
携帯を出した。圏外だった。小金丸さんの携帯も、同じだった。土の壁は、厚い。
「……出られんですね」
「出られんですねぇ」
小金丸さんは、前掛けのポケットに手をやった。それから、長持のほうへ歩いていった。
「娘が、毎朝七時に電話してくるとです。私が出らんやったら、来ますけん。室見から、二十分」
「朝まで、ですか」
「朝まで、ですね」
長持の蓋を開けて、座布団を二枚、出した。
鞄を開けた。
内側のポケットに、輪ゴムで留めた伝票が七枚入っている。
いちばん上は、マット、四。座布団が出せなくなってから、リサイクルショップで折りたたみのウレタンマットを四枚買って、入れておいた。人が落ちてくるときに、膝をついて書いている暇は無い。
その下に、品名と数を先に書いておいたものが続く。水、弐。乾パン、壱。寝袋、壱。カイロ、拾。ライター、壱。炎、壱。
まず、水を出した。
帳面を開いた。短い祝詞をあげた。八文字。伝票を一枚、添えた。
あたりが張って、すぐに落ちた。ペットボトルが二本、膝の前に立っていた。
小金丸さんが、こちらを見ていた。ペットボトルを見て、俺の顔を見て、もう一度ペットボトルを見た。前掛けのポケットに、手をやった。
「……拝み屋さんは、こげなことも、しなさるとですね」
「うちのやり方です。うちにあるもんしか、出せんとですけど」
小金丸さんは、しばらく黙っていた。それから息をついて、座布団の上で座り直した。
「主人が見たら、腰ば抜かしたでしょうね」
乾パンの缶を出したときには、もう目を丸くしなかった。缶を見て、長持のほうへ行った。今度は、隅の甕の蓋を取った。
「うちの蔵にも、あるとですよ」
梅干しだった。三年ものだそうだ。
乾パンに、梅干しを一つずつ載せて食べた。乾パンだけより、ずっと食べられた。
九時を過ぎて、蚊が出た。
戸を閉める前に、庭から入っていたらしい。電球のまわりを、細い音が回っている。小金丸さんが、団扇で足元を払った。団扇も、長持から出てきたものだ。米屋の名前が刷ってある。
「家なら、蚊取り線香のあるとですけどね」
蔵には、無かった。鞄にも無い。帳面にも、入れていない。束に残っているのは、冬に切ったカイロの伝票だった。
小金丸さんの、くるぶしが赤くなっていた。
頼めば、また貸してくれるのだろう。
そう思ったのは、厄除けが一枚、帳面の脇に置いてあった朝だった。頼む気には、ならなかった。
今は、手元に何も無かった。
「上ば、見てきます」
箱階段を上がった。中二階は天井が低く、腰をかがめないと歩けない。こちらには電球が無くて、下の明かりが床の口から四角く上がってくるだけだった。
床の口には、蓋が付いていた。下ろした。
真っ暗になった。
携帯の明かりを点けて、床に帳面を開いた。いちばん新しい頁だ。
柳橋の講帳では、払えなかった店の者が、掌を押していた。厄除けの朝、帳面は俺の手を押した。俺は、何も書いていない。
作法が二つあるはずがない。祝詞、名乗り、申し立て。そのあとは、手だ。
左手を開いた。右は、筆を持つ手だ。
蚊帳を一張り、と頭に置いた。蚊帳なら、二人とも入れる。日限は、七日。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお借りします」
あたりが張った。
掌を、頁に押しつけた。
紙は、冷たかった。張ったものは、張ったまま動かなかった。手の下で、帳面はこちらを向いている。向いていて、そのうえで、何も寄越さない。
みやこビルの踊り場で、閉じ込められた晩に、一度だけこうなった。
手を離した。
頁は、白かった。手の形も、行も無い。掌を明かりにかざすと、筋は全部あった。
張ったものが、ゆっくり落ちた。
断られた。
蚊帳は、大きかったのかもしれない。一晩の蚊に、一張りは過ぎる。講の親だった八尋さんは、困った店を回って、要るぶんだけ渡していたと聞いた。
頭の中のものを、小さくした。蚊取り線香を、一巻。日限は、同じ七日。
もう一度、祝詞をあげた。名乗った。
掌を押しつけた。
今度は、来た。
掌の下で、紙が一度だけ脈を打った。手を離すと、黒い手の形が残っていた。皺が、一本ずつ写っている。その横に、字が浮いてきた。上から順に、俺の筆順で。
大上 蚊取り線香 手形 壱 七日
帳面の脇に、緑の渦が一巻、転がっていた。見慣れた色だった。
左の掌は、平らになっていた。
蓋を上げて、下りた。
「ありました」
渦巻きを見せた。小金丸さんは、目を細めた。
「上に、あったとですか」
「……ありました」
嘘ではなかった。
左手は、ズボンのポケットに入れた。
鞄からライターの伝票を出そうとしたとき、しゅっ、と音がした。小金丸さんが、前掛けのポケットからマッチ箱を出して、擦っていた。
「仏さんの線香用です。いつも入れとるとです」
炎の伝票は、束の中で、輪ゴムに挟まったままだった。
台が要る、と思ったら、小金丸さんがまた長持を開けた。素焼きの、豚の形の蚊遣りが出てきた。
「蔵には、何でもあるとですよ」
渦巻きの先が赤くなって、細い煙が上がった。
十一時を過ぎたころ、蛾が来た。
どこから入ったのか、白い蛾が二匹、電球にぶつかっては離れている。一匹が、窓の下の壁に止まった。
その手前に、跡が一つ、増えた。
見ていた。何も見えなかった。壁の白の上に、指の開いた小さな手の形が一つ、浮いてくるように付いた。灰色だった。次の一つが、その少し上に付いた。
窓の下から、蛾のほうへ。
蛾の手前で、止まった。
蛾は、しばらくして飛んだ。跡はそこで止まったまま、次の一つが、電球のほうへ向きを変えて付いた。
小金丸さんも、見ていた。団扇を、膝に置いていた。
「家守さん、仕事のしよらす」
声を落としてそう言って、少し笑った。
塗り直した壁を、確かめているのだと思った。
歩き慣れた壁が、ある日、白くなった。どこまでが前と同じで、どこからが違うのか。窓から電球まで、毎晩、足で確かめている。だから、跡が付く。慣れるまでは、続くのかもしれない。
そう読んだ。
蚊は、夜半から来なくなった。線香が効いたのか、ほかの何かなのかは、分からなかった。
寝袋の伝票を出した。祝詞をあげて、添えた。小金丸さんは、今度は顔を上げなかった。
寝袋は、床に広げた。小金丸さんは中には入らず、その上に横になって、座布団を二つ折りにして枕にした。
俺は長持にもたれて、壁を見ていた。朝までに、跡は九つ増えた。
七時を回った。圏外の携帯は、鳴らなかった。
八時前に、戸の向こうで声がした。
「お母さん?」
小金丸さんが戸の前まで行って、返事をした。娘さんの声が、いっぺん高くなって、それから急に落ち着いた。
「辛島くん、呼ぶけん。待っとって」
辛島さんは、二十分で来た。
戸の外で短いやりとりがあって、ごとん、と鳴った。戸が一度持ち上がって、溝に落ちた。
するすると開いた。
「敷居の溝の、浅かとです。勢いつけて閉めたら、跳ねるとです。言うとけばよかったですね」
辛島さんは、戸の縁を指の背で叩いた。十秒も、かかっていなかった。
娘さんは、四十代の半ばくらいで、車の鍵を握ったまま、母親の顔と、蔵の中の座布団と、豚の蚊遣りと、俺を、順番に見た。
辛島さんは、壁の前に立った。跡の数を、指で追った。
「また増えとる」
「新しか壁ば、確かめよるとやと思います」
夜のあいだに考えたことを、そのまま言った。
辛島さんは、首をかしげた。
「確かめる、ちいうか。前も、歩きよったとでしょう」
「前も」
「古か壁は、煤けとりましたけん。灰色の上に灰色の跡の付いても、誰も見らんです」
辛島さんは、跡の一つを、指の背でなぞった。
「これ、古か壁の色ですよ。塗る前に掻き落とした、下の色」
小金丸さんが、前掛けのポケットに手をやった。
「家守さんは、去年の秋に、窓の溝で乾いとったとです。小さかとが。ずうっと、あの窓におらしたとですけど」
確かめていたのではなかった。
同じ道を、前から歩いていた。見えるようになったのは、壁のほうだった。
「どげんしますか」
訊いたのは、俺のほうだった。
引き取れる。帳面に入れれば、跡は二度と増えない。
小金丸さんは、壁を見ていた。
「置いとって、よかですか」
「害は、無かと思います。歩くだけです」
「なら、置いとってください。蔵に家守さんのおらんとは、寂しかです」
辛島さんが、指の背を壁に当てた。
「漆喰は、ひと月もすりゃ締まります。締まったら、こげな跡は濡れ雑巾で落ちる。検査の日は、まだ柔かけん、残っとるでしょうけど」
「市の人に、何て言うと」
娘さんが訊いた。
「ヤモリです、ち言います」
辛島さんは、それきり何も足さなかった。本当のことだった。
見立てに三日で、一万円をもらった。
小金丸さんは、封筒をもう一つ出そうとした。
「夜のぶんです」
「夜は、閉じ込められとっただけですけん」
右手で、一つめの封筒だけを受け取った。左手は、ポケットの中にあった。
小金丸さんは、二つめの封筒を前掛けのポケットに戻した。マッチ箱の隣だった。
寝袋を丸めて、脇に抱えた。出すのは一瞬だが、しまうには書くしかない。
裏庭を出るとき、振り返った。蔵の扉は開け放してあって、中の白い壁が朝の光で明るかった。窓の下から、灰色の小さな跡が、電球のほうへ続いている。
豚の蚊遣りの中で、渦巻きは半分燃えて、消えていた。
帰りに、薬院のドラッグストアに寄った。
蚊取り線香は、十巻入りの箱で三百八十円だった。高いとも、安いとも思わなかった。今年の夏も、どうせ要る。
四畳半に、本家はまだ帰っていなかった。
箱を開けた。渦巻きは、二巻ずつ組み合わさって入っている。一組を取って、指先で外した。片方は、細いところで少し欠けた。欠けていないほうを、座卓に置いた。
帳面を開いた。筆ペンの蓋を抜いた。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
あたりが張った。
大上方 蚊取り線香 受 壱
渦巻きが、無くなった。
筆を離すと、隣の行に字が浮いてきた。
大上 蚊取り線香 皆済
張ったものが、落ちた。左の掌が、痒くなった。
続けて、寝袋を書いた。
大上方 寝袋 受 壱
頁を、読み返した。
右のほうに、厄除けの朝の左手が、黒く押してある。
その左に、蔵で出した行が並んでいる。水が弐、乾パンが壱、寝袋が壱。
その左に、もう一つ、左手がある。皺は、もう抜けていた。手形の行と、受の行と、皆済。受の行の下に、小さく、返済。
いちばん左に、寝袋が壱、戻っている。
二つの手は、指の開き方まで同じだった。




