第四十話 大上方 厄除け 受 壱
降らない朝だった。窓を開けても風が無くて、畳が湿気を吸っている。
米は、炊けていた。本家が茶碗を二つ並べて、飯をよそった。
受け取った茶碗が、手から抜けた。
座卓の角に当たって、畳に転がった。よそったばかりの飯が、半分こぼれた。割れてはいなかった。
「すんません。濡れとりましたか」
「いや」
拾おうとして、また滑った。左手だった。指に力は入っている。入っているのに、茶碗の肌に掛からない。
掌を見た。
皺が、無かった。
太い筋も、細い筋も、指の節の横皺も無い。指の腹の渦も無い。粘土を平らに均したような掌が、窓の明かりの下にあった。
柳橋の市場で、同じ掌を見た。コーヒー店の、小柳さんの手だ。
右手を開いた。右は、あった。
本家が、布巾を持ったまま寄ってきた。俺の左手を見て、それから、自分の左手を見た。
「元祖さん」
本家は、座卓の端を見ていた。
帳面が置いてある。ゆうべ鞄から出して、そこに置いて寝た。紺の表紙を上にして、閉じている。
その脇に、札が一枚あった。
厄除けだった。
置いた覚えは無い。うちの厄除けは残りが三枚で、三枚とも鞄の中にある。寝る前に本家が数えて、刷ってください、と言った。明日の朝、と俺は答えた。
鞄を開けた。三枚、あった。
座卓の一枚を取って、並べた。同じ角度、同じ皺、同じ糊のはみ出しかた。うちの札だった。
四枚目が、ある。
帳面を開いた。
いちばん新しい頁に、黒い手の形があった。
左手だった。指を開いて、掌を押しつけた跡だ。墨で押したように黒く、縁がくっきりしている。皺が、一本ずつ写っていた。
本家が、自分の左手を頁の上にかざした。触れはしなかった。指の長さも、親指の付け根で二股に分かれる筋も、同じだった。
「元祖さんの手です」
本家は手を引いて、膝の上に置いた。
手の形の横に、行が一本、立っていた。
大上 厄除け 手形 壱 次ノ晦日
俺の字だった。書いた覚えは無い。筆ペンは鞄の中で、蓋は閉まっている。
「夜中に、開いとりました」
本家が言った。
「いつものやつやと思うて、見とらんです」
毎晩、最後の頁に点検の行が出る。そのことだ。
次ノ晦日。
俺なら、次の晦日、と書く。手帳にはそう書いた。柳橋、二万、次の晦日。市場の組合に、引き取りの払いを待つと言ったときの行だ。
片仮名で書くのは、柳橋で写させてもらった講帳の書き方だった。講の親だった八尋さんの字が、そう書いていた。
書いたのは、帳面だ。前にも、あった。本家が路地に出てきたときの一行も、俺は書いていない。
手形。
講帳では、払えなかった月の行に、そう書いてあった。払えなかった店の者が、掌に墨を付けて押した。それで八尋さんは、次の晦日まで待った。
払えなかったのは、厄除けが一枚。
押したのは、俺の手。
借りた、ということらしい。
頼んだ覚えは無い。無いが、札はここにある。貸してくれたのだ。柳橋で受けたものが。
引き取ったものは、こちらが使うと決める前に働き始める。今度のは、働くついでに、俺の手相を持っていった。
返せる当てのなかもんに、手ば出すな。
安藤さんは、雨の中でそう言った。借りとらんです、と俺は答えた。
借りていた。
日限は、次の晦日。それまでに納めなければ、どうなるか。払わなかった店は、豆と、釣り銭を持っていかれた。店の人は、父親の声を持っていかれた。
「返す」
「今ですか」
「今」
当ては、目の前にある。借りた一枚を、そのまま返せばいい。
帳面を座卓の真ん中に置いた。四枚目を、その横に置いた。筆ペンの蓋を抜いた。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
あたりが張った。本家は、流しのほうを向いていた。
筆を下ろした。
大上方 厄除け 受 壱
札が、無くなった。
張ったものは、まだ落ちなかった。
筆を離した。隣の行に、字が浮いてきた。上から順に、俺の筆順で。
大上 厄除け 皆済
そこで、落ちた。
左の掌が、痒くなった。見ると、筋が戻っていた。太いのも、細いのも、二股のところも。
頁の手の形からは、皺が抜けていた。指を開いた掌の形だけが、真っ黒に、平らに残っている。柳橋で、七年空いた区画のシャッターから削り出したのと、同じ形だった。
受の行の下にも、小さく字が添えてあった。返済。
手形、と呼ぶことにした。講帳の言葉で、頁に残っているのも手の形だ。ひねりも何もない。
『手形』は、無いものを一つ、先に出す。払いは、あとで来る。
頼めば、また貸してくれるのだろう。頼む気には、ならなかった。
「飯、よそい直します」
本家が言った。茶碗は、今度は滑らなかった。
食ってから、鞄の三枚を三十枚にした。借りるまでもなかったのだ。
昼前に、表の店を開けた。曇りのまま蒸して、机の天板がべたついた。三十枚の束に、石を載せた。
一時を少し回ったころ、男の人が机の横に立った。
四十に少し届かないくらいだろうか。半袖のワイシャツで、首から下げた社員証を、胸のポケットに押し込んでいる。椅子を勧めたが、座らなかった。通りに背を向けて、机の端に立った。
顔は、覚えていた。年の瀬に、コートの襟を立てて来た人だ。あのときも、通りに背を向けていた。
「これ」
机の上に、札を一枚置いた。名刺が一枚、重ねてあった。うちの名刺で、角が丸くなっている。
「効かんかったです」
厄除けだった。
手に取った。表も裏も、白い。焦げも、裂けも、湿りも無い。四隅まで見た。裏の糊は乾いたままで、一度も貼られていない。
何も、受けていなかった。
「どこに置いてありましたか」
「車です。運転席の、日よけの裏に挟んで」
男の人は、肩越しに歩道を一度見てから、続けた。今村、と名乗った。
二月に、財布を落とした。会社の送別会の帰りで、タクシーに乗ったところまでは覚えている。出てこなかった。
四月に、車をぶつけた。長住のスーパーの立体駐車場で、柱に左の後ろをこすった。修理に八万かかった。
先月、若久の実家で、母親が玄関先の石段から落ちた。腰の骨を折って、まだ入院している。
「嫁が、病院に行くとに車ば出して、日よけば下ろしたら、これの落ちてきたとです」
今村さんは、札のほうを見なかった。
「買うたことは、言うとらんやったとです。今年が前厄やけん、ち思うて、ここば通ったついでに。千円やったし」
「はい」
「嫁が、あんたが変なもんば買うたけん、ち言うとです。姉も、同じことば言う」
胸のポケットから、銀行の封筒を出した。財布の代わりらしかった。出して、何も抜かずに、また戻した。
「千円が惜しかとやなかです。返してもろうたら、それで話の終わるけん」
「これは、身代わりの札です」
俺は言った。
「悪かもんの来たら、札のほうが先に傷みます。焦げるか、裂けるか、湿るか。形に出ます」
「白かですよ」
「白かです。何も、来とらんです」
今村さんは、初めて札を見た。
「来とらん、ち。悪かことの、三つも続いたとですよ」
「運ば良うする札では、なかとです」
「そげなことは、聞いとらんです」
「……言うとらんです」
言っていなかった。
千円です、と言った。千円札を受け取って、札を一枚、押し出した。名刺を添えた。それだけだった。何の札か、今村さんは訊かなかった。訊かれなかったから、言わなかった。
机の上に、紙が立ててある。厄除け、千円。書いてあるのは、それだけだ。
厄年の厄も、うちの札の厄も、同じ字だった。
「二日、ください」
「二日」
「札は、車にあったとでしょう。車の中のことなら、この札で分かります。車の外で起きたことは、この札では分からんです。お母さんの石段ば、見させてください」
「見て、どげんするとですか」
「何か来とって、札の届かんやったとなら、うちの売り方が悪かです。何も来とらんやったとなら」
そこで、詰まった。何も来ていなかったら、どうするのかは、決めていなかった。
「金は、要りません。うちの札の話ですけん」
今村さんは、腕の時計を見た。昼休みが終わるのだろう。
「家には、来んでください」
「行きません」
「実家は、誰もおらんけん。外からなら」
若久の番地を、名刺の裏に書いてもらった。
札は、預かった。
路地の口で本家に声をかけて、表を頼んだ。
若久までは、天神からバスで三十分ほどかかった。大橋を過ぎると、道が上りになる。バス通りから一本入ると、古い分譲地だった。ブロック塀と、伸びた庭木と、車一台ぶんの車庫が、坂に沿って並んでいる。
今村さんの実家は、道より一段高いところに建っていた。門柱のあいだから玄関まで、石段が五つある。
石は、縁が丸く減っていた。日の当たらない側の半分に、苔が付いている。手すりは、無かった。
雨戸が閉まっていた。
目印を三枚、貼った。門柱の内側と、石段の脇の塀と、郵便受けの裏。道から手の届くところだけにした。離して貼る。
短い祝詞をあげた。八文字。
「今村さんとこに、ご用ね」
隣の庭から、声がした。七十くらいの女の人が、剪定ばさみを提げて、塀越しにこちらを見ていた。つばの広い帽子の紐を、顎の下で結んでいる。
「息子さんに頼まれて、石段ば見に来ました」
「ああ。手すりの人」
違います、と言う前に、女の人は続けた。
「やっと付けるとね。何べんも言うたとよ。雨のあとは滑るけん、ち。うちの人も、回覧板ば持っていって、そこで尻餅ばついた」
はさみの先で、下から二つ目の段を指した。
「今村さんは、まだ若かけん、ち言いよらした。七十四よ」
落ちた朝のことも、聞かせてくれた。前の晩に降って、朝は上がっていた。ごみを出しに下りるところだった。つっかけを履いていた。
「救急車ば呼んだとは、うちよ」
女の人は、帽子の紐を結び直して、庭木のほうへ戻っていった。
下から二つ目の段を、指で押してみた。苔が、ぬるりと動いた。
帰りに、長住のスーパーへ回った。若久からは、歩いて十五分ほどだった。
立体駐車場の二階へ、スロープの端を歩いて上がった。上がりきった角に、太い柱が立っている。車は、そこで大きく切り返す。
柱の腰の高さに、塗料の筋が重なっていた。白、銀、紺、赤、もう一つ白。数えると、九台ぶんあった。角のコンクリートは、欠けて丸くなっている。
目印は、貼らなかった。札は、あのとき車の中にあった。それが白い。
柱のほうには、貼るまでもなく、色が付いていた。
その晩、寝る前に、その日受けた客を本家と言い合った。
本家のほうは、厄除けが四枚。俺のほうは、返しに来た客が一人だった。
「傷んどりましたか」
「白か」
預かった札を、座卓に置いた。本家は手に取って、表と裏を見た。
「働いとります」
「分かっとる」
白い札は、まだ効く札だ。受けるものが、来なかっただけだ。
財布と、車と、母親の石段のことを話した。本家は、札を座卓に戻した。
「それは、うちの札の受け持ちやなかです」
「言うとらんやった、それば」
本家は、少し黙った。
「三千円のときは、訊かれよりました」
「何ば」
「何に効くとね、ち。三千円やけん、訊きます。身代わりです、ち答えよりました」
高架の路地に出てきて、俺に見つかるまでの三日、こいつは値札を三千円に戻して売っていた。
俺は、三千円では一枚も売っていない。三枚並べて、誰も買わなかった。千円に下げてから、売れた。
「千円にしてからは」
「訊かれんです」
千円なら、訊かずに買える。
下げたのは、俺だった。
「若久には、明日も行く。明後日も」
「はい。表は、俺が立ちます」
「金は取らん」
「取らんでよかです。売ったもんば見に行くとは、うちの仕事です」
本家は、札の角を指で揃えた。
「返すとは、別です」
返事をしなかった。
「白かとでしょう。返したら、効かんやった、ちことになります」
それきり、本家は何も言わなかった。電気の紐を引いた。
朝、帳面の最後の頁に、字が出ていた。
若久二丁目 今村方 員数 合
薬院四丁目 当方アパート 員数 合
合。
昼前に、若久へ行った。
門柱の一枚が、縁のほうから薄く黄ばんでいた。塀の一枚と、郵便受けの一枚は、白い。
黄ばみは、場の色だ。四十年、人の住んだ家なら、家が覚えている。
去年の夏、警固の空き家で、同じ色を見た。怪異と読んで二万円もらい、翌日、返しに行った。三日通って、色は進んでいなかった。進まないものを、あのときは読めなかった。
三枚とも、そのままにして帰った。
次の日も行った。
門柱の黄ばみは、前の日と同じところで止まっていた。あとの二枚は、白いままだった。
進めば、何かが居る。止まれば、覚えているだけだ。
この家は、覚えているだけだった。
三枚とも剥がして、糊の跡を指で拭いた。
今村さんは、約束の昼に来た。今度も座らずに、机の端に立った。
「何も、来とりませんでした」
預かっていた札を、机に置いた。白いままだった。
石段のことを話した。苔と、下から二つ目の段と、隣の奥さんが何べんも言った手すりのこと。駐車場の柱に、九台ぶんの色が付いていたこと。
財布のことは、言いようがなかった。
「ただの、運ですか」
「……はい」
今村さんは、歩道を振り返らなかった。札を見ていた。
「何か憑いとった、ち言われたほうが、嫁には言いやすかったですね」
笑ったようにも見えた。
財布から、千円札を一枚出した。札の横に置いた。
「返します」
「よかとですか。札は、悪うなかったとでしょう」
「何の札か、言うとらんやったけんです。欲しかったとは、違うもんやったでしょう」
今村さんは、千円札を取って、銀行の封筒に入れた。
白い札が、机の上に残った。
今村さんのほうへ、押した。
「これは、持っとってください。傷んどらんけん、まだ働きます」
「要らんです」
「金は、返しました。もう、買うたもんやなかです」
「貰うても、要らんもんですけん」
穏やかな声だった。
「効くとか、効かんとかやなかとです。嫁は、これが車から出てきたとが好かんとです。俺も、もう、持っときたくはなかです」
言い返すことは、あった。この札は、何もしていない。悪いものを呼んでもいない。二日かけて、それを確かめた。
確かめたかったのは、俺のほうだった。
「……分かりました」
札を、手前に引いた。
「手すりは、付けます。姉と話して」
今村さんは、腕の時計を見て、駅のほうへ歩いていった。
名刺は、机の上に置いたままだった。
札を手に取った。角が、少し丸くなっている。半年、日よけの裏に挟まっていた角だ。石の下の三十枚とは、そこだけが違った。
その晩、本家に言った。
「千円、返した」
「はい」
本家は座卓で、仕事の帳簿を開いた。表紙には、家計簿、と書いてある。鉛筆で、一行足した。
返金 千円
「札は」
「戻ってきた」
座卓に置いた。本家は手に取って、表と裏を見た。
「白かです」
「白か」
本家は、鞄から厄除けの束を出した。戻ってきた一枚を、束のいちばん下に差そうとした。
「混ぜるな」
本家の手が、止まった。
「売れますよ。働いとります」
「分かっとる」
「なら、なんでですか」
責める声ではなかった。
答えようとした。効く札だ。何も受けていない。値札は、明日書き直す。束に戻して悪い理由は、一つも無かった。
要らんもんですけん、と言われた札だった。
それは、理由にならない。ならないのに、ほかに出てこなかった。
本家は、待たなかった。
「はい」
一枚を束から離して、座卓の端に置いた。帳面の脇だった。三日前の朝、四枚目が置いてあったところだ。
捨てるわけにもいかなかった。刷った札は、捨てれば湧く。
翌朝、表の机で、値札の紙を新しくした。
厄除け 千円
身代わりの札です 何か来れば 札が先に傷みます
運は 良くなりません
三行目を書くとき、少し手が止まった。止まって、そのまま書いた。
石を載せた。
路地の口まで歩いた。本家の机にも、新しい紙が立っていた。
同じ三行だった。一字も、違わなかった。
「書いたとか」
「書きました」
本家は、厄除けの束を揃えていた。
「売れんごとなるかもしれんですね」
「なるかもしれん」
その日は、二枚売れた。二人とも、紙を読まなかった。
六月の半ばに、薬院へ行った。帳簿を持っていく日だ。
事務所の窓は閉まっていて、冷房が低く鳴っていた。壁のファイルの背に、付箋が並んでいる。
税所さんは、棚から一冊抜いて、背の付箋を読んでから、大上さん、と言った。
帳簿をめくった。ひと月ぶんをひと息にめくって、最初に戻って、ゆっくりめくり直す。
指が止まった。
「これは何ですか」
本家の字で、返金、千円、とある。
「返金です。売った札の代金ば、返しました」
「商品は、戻ってきましたか」
「戻りました」
「はい」
税所さんは付箋を一枚取って、書いた。返品、と二文字。その行の横に貼った。
「戻った商品は、年末の在庫に入れておいてください」
「……はい」
帳簿の上では、それで済んだ。
鞄の内側のポケットに、角の丸い札が一枚入っている。
在庫だった。売り物では、なかった。




