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第三十九話 蒲池ビル 蔦 受 壱

 梅雨に入って四日目に、晴れた。朝のうちに歩道の敷石が乾いて、デパートのひさしの下にも、雨宿りの人はいなかった。

三つ隣の占いのおばさんが、ビニール袋を提げてこちらへ来た。

「はい、これ。八百屋さんの、余り」

新玉ねぎが二つ、机の上に転がった。皮が薄くて、白い肌が透けている。

礼を言うと、おばさんは袋の口を縛りながら、通りの向こうに目をやった。

「ひさしの下に立ちよった人、最近見らんね」

「こないだの雨の日に、来とりましたよ」

「そうね」

おばさんは、ひさしの下を見たままだった。

「……どげな人やったかね」

「紺のジャンパーの」

「ああ、そうそう。そげな感じやった」

玉ねぎは薄う切って水にさらさんね、と言って、おばさんは自分の店へ戻っていった。

玉ねぎを、机の端に寄せた。


 昼を過ぎて、男の人が客用の椅子の前に立った。

六十の半ばくらいだろうか。半袖の開襟シャツに、灰色のズボンを穿いている。右の耳に、平たい鉛筆を一本挟んでいた。大工の使う、芯の太いやつだ。

「元祖天神大上屋さん」

うちの名刺を、指の先でつまんでいた。

「蒲池(かまち)といいます。大手門で、小さかビルば持っとります」

座る前に、耳の鉛筆に手をやって、挟み直した。

名刺は、二階を借りている写真館の奥さんから渡されたという。客が置いていったのを、レジの脇に取っておいたらしい。

「壁に、染みの出るとです」

ビルの北側の外壁に、下から上へ、筋のような染みが這い上がってくる。塗り直せば消える。消えて、半年もすると、また同じ形で出てくる。

「親父の代からのビルですけん、四十年になります。古かとは古か。雨の染みるとでしょう」

塗り直しは、自分の代になってから三度。

「塗れば消えるとです。半年は」

蒲池さんは、そこで少し口を曲げた。

「それが今年は、二階の中の壁にまで出てきまして」

二階の写真館で、証明写真を撮る白い壁に、筋が写り込むようになった。奥さんが一枚ずつ直して渡している。この秋が、契約の更新だという。

「三階と四階は、空いとります。写真館さんにまで出ていかれたら、かないません」

「それで、うちに」

「写真館の奥さんが、いっぺん拝み屋さんに見せてくれ、ち言うとです」

蒲池さんは、名刺を机に置いた。

「見せたら、塗ってよかでしょう。何も無か、ち言うてもろうたら、奥さんも安心しなさるやろうし」

見に行くので一万、と言った。

「何も無かっても、一万ですか」

「見に行くぶんですけん」

蒲池さんは、鉛筆を耳から抜いて、また挟んだ。

「よかです。塗り屋の見積もりに比べたら、安かもんです」


 大手門までは、天神から西へ二十分ほど歩いた。明治通りから一本入ると、急に人が減る。古いビルと新しいマンションが、交互に並んでいた。

蒲池ビルは、角の丸い、四階建てのビルだった。一階の硝子戸に、蒲池不動産、と金の字が剥げかけている。

北側は、隣の月極駐車場とのあいだの、細い路地に面していた。

日が、回ってこない。昼の二時だというのに、路地は夕方のような色をしていた。舗装の目地まで乾いていて、草の一本も生えていない。エアコンの室外機が一台、黙って据わっていた。

壁は、灰色の吹き付けだった。

その上に、筋が這っていた。

地面から、上へ。茶色がかった細い筋が、途中で分かれ、分かれた先でまた分かれて、四階の窓の下まで届いている。ひびのようにも、地図に引いた川のようにも見えた。触ると、壁は乾いていた。筋のところだけ、塗装の下から色が浮いている。

「半年で、あそこまで来ます」

蒲池さんが、上を指した。

壁の下のほう、手の届く高さに、鉛筆の線が何本も引いてあった。筋の先に合わせて横に短く一本、脇に日付。一週間ごとに、少しずつ上がっていく。子どもの背丈を柱に刻むのと、同じやり方だった。

「上のほうは、三階の窓から引いとります。身ば乗り出して」

「危なかでしょう」

「落ちたことは、なかです」

二階に上がって、写真館も見せてもらった。奥さんは五十くらいで、撮影の合間に、白い背景の壁を見せてくれた。北側の壁だった。床から腰の高さのあたりに、外と同じ筋が、薄く浮いていた。

「ここに立ってもろうたら、ちょうど肩の後ろに来るとです」

奥さんは、困ったように笑った。

目印を三枚、貼った。北の壁の腰と、路地の向かいのブロック塀と、写真館の白い壁の隅。離して貼る。

短い祝詞をあげた。八文字。

蒲池さんは、腕を組んで見ていた。何かを感じている顔ではなかった。


 翌日の昼、また大手門へ行った。

三枚とも、湿っていた。

紙の端が波打って、水を吸って乾いた跡のような色が、じわりと広がっている。

湿りは、植物か、物だ。

路地には、草一本無い。

それに、この染みは上っている。半年で、四階まで。蒲池さんの鉛筆の線が、一週間ぶんずつの上り幅を刻んでいる。

木は動かない。根を張ったところから動かないから、木なのだ。

動くのは、物だ。壁の中を、何かが上っている。

三枚の線を延ばした。

北の壁の一枚は、左の下から来ていた。ブロック塀の一枚は、正面の低いところから。写真館の一枚は、床のほうから。三本は、北の壁の地際で交わった。

路地の舗装に、そこだけ色の違う四角があった。畳半分ほどの、新しいコンクリートだった。水道か何かの工事の跡だろう。

交点は、その端に来ていた。

上を見た。筋の先は、四階の窓の下にある。

物なら、上っていくぶん、源も一緒に上るはずだった。

源は、いちばん下にいた。


 その晩、四畳半で、本家に大手門のことを話した。

本家は流しで、玉ねぎを薄く切っていた。おばさんに言われたとおり、水を張ったボウルに放していく。

湿り。草の無い路地。半年で四階まで上る染み。三度の塗り直し。交点は、地際。

「物なら、源も上に行くはずやろ。それが、足元から動かん」

本家は包丁を置いて、手を拭いた。

「塗料やなかですか」

「塗料」

「三度塗って、三度出たとでしょう。塗るたびに、同じ塗料が運ばれてきて、壁に乗る。動く物なら、そっちです」

ボウルの水の中で、玉ねぎの輪がほどけていた。

考えたことのない読みだった。染みは、塗った上に出る。塗ったものの中から出てくる、と言われれば、そうも見える。

「余った缶が、どこかにしまってあるはずです。塗り屋は、たいがい一缶置いていきますけん」

「なんで分かる」

「塗装のバイトで、置いていきよったでしょう」

覚えていた。足場の上で、ローラーを転がした夏があった。思い出さなかっただけだ。

「……明日、訊いてみる」

本家は、ボウルの水を替えた。


 翌日、蒲池さんに倉庫を見せてもらった。

一階の奥、ビルの東の端の、階段下の物入れだった。塗料の缶が三つ、並んでいた。どれも同じ塗料屋の名前が入っている。蓋の縁に白い垂れの固まったものが二つと、封を切っていないものが一つ。

「四度目のぶんです。先に買うとります」

蒲池さんは、封の切れていない缶の蓋を、拳で軽く叩いた。

北の路地に回った。三枚は、昨日より湿りが濃くなっていた。濃くなるのは、覚えているだけのものではない。

線は、東へは寄っていなかった。三本とも、昨日と同じ、地際の一点を指している。

缶ではなかった。


 その晩、安藤さんに電話をかけた。

三度目の呼び出しで、繋がった。

「なんか用か」

大手門の外壁で、湿りに当たった、と言った。草の無い路地で、染みが下から上へ上っている。物だと読んだ。ところが三本の線は、地際から動かない。塗料の缶でもなかった。

「動く物が、動かんとです」

「動かん物か」

安藤さんは、それだけ繰り返した。

「草木の無かとこで湿るなら、無うなった草木ば探せ」

「無うなった」

切れた。


 翌日、蒲池さんに訊いた。

「この路地に、木の植わっとったことはありますか」

蒲池さんは、路地を端から端まで見た。

「なかです。親父の代から、ずっとこげんです」

駐車場の側にも、ビルの側にも、植え込みの跡は無かった。

無くなった草木は、見つからなかった。

それなら、やはり物だ。

下から読んで分からないなら、上から読めばいい。上っている先に貼れば、上っているものが近くなる。近ければ、線は鋭く出る。

四階は、がらんとした空き室だった。床に、前の借り手の机の脚の跡が、四角く残っている。

北の窓を開けて、身を乗り出した。筋の先が、窓の下の、腕を伸ばせば届くところまで来ていた。その脇に、一枚貼った。窓の横の壁に、もう一枚。

「落ちんでくださいよ」

蒲池さんが、後ろでベルトを掴んでいた。

三枚目は、三階の窓から貼った。


 翌日、四階の窓から、もう一度身を乗り出した。

上の三枚も、湿っていた。

三枚とも、下の縁から来ていた。線は、壁を伝って、ずっと下へ向いている。延ばしていくと、路地の地際の、あの四角の端に行き着いた。

源は、上っていなかった。

窓から身を戻すと、入れ替わりに蒲池さんが身を乗り出して、窓の下の壁に鉛筆で線を引いた。筋の先に合わせて短く一本、脇に日付。

「上っとります。今週も」

蒲池さんは、そのまま鉛筆の尻で、筋を上から下へ指していった。四階から三階、二階、一階と、窓から見下ろせるかぎり。

「はじめは、そこの根元から出よりました」

鉛筆の尻が、路地の地際を指して止まった。コンクリートの四角のところだった。

「根元」

「蔦の根元です」

蒲池さんは、何でもないことのように言った。

「親父が、這わせとったとです。夏に涼しかけん、ち言うて。北向きやけん、よう育たんやったとですけど、それでも四階まで上っとりました。十何年前に枯れて、剥がしました」

蔦。

木が植わっていたかと訊いたとき、蒲池さんは、なかです、と答えた。嘘ではなかった。

「根は、どげんしました」

「掘りました。残っとったら、また出てくる、ち言われて。掘って、コンクリば打ちました」

あの四角だった。

もう一度、筋を見下ろした。途中で分かれ、分かれた先でまた分かれている。ひびにも川にも見えたのは、そう見ていたからだった。

木は動かない。だが、伸びる。

蔦と書けば、蔦ごと入る。その蔦は、根まで掘られて、もう無い。


 四階の空き室で、蒲池さんに話した。

「引き取れます」

「引き取る、ち、何ばですか」

「蔦の、上っとった跡です。引き取れば、もう上ってきません」

蒲池さんは、シャツの胸のポケットから、畳んだ紙を出して広げた。塗り屋の見積書だった。北面のみ、足場共、四十二万。

「あんたは、いくらですか」

「見に行ったぶんとは別に、五万です」

蒲池さんは、見積書と俺の顔を見比べた。

「安すぎる」

「はい」

「塗り屋が四十二万で、半年しかもたん。五万で、なんで止まるとですか」

答えに詰まった。止まる理由は、帳面だとしか言えない。

「半年たって出てきたら、返します」

蒲池さんは、耳から鉛筆を抜いた。

「塗り屋は、そげんこと言わんかった」

見積書の隅に、何か書いた。五万、半年、と読めた。

「よかです。頼みます」

見積書を畳んで、胸のポケットに戻した。

「塗るのは、塗りますけん」

「はい」

止める理由は、無かった。


 夕方、路地に戻った。

蒲池さんには、一階の事務所で待ってもらった。

北の路地は、日の落ちる前から暗かった。駐車場の車は出払って、室外機も止まっている。

コンクリートの四角の脇に、膝をついた。帳面を開いた。筆ペンの蓋を抜いた。

見上げると、筋は暗い壁の上を、四階の窓の下まで這っていた。日の当たらない北の壁を、よく育たないまま、四階まで上ったものだった。

「上りたかとやろ」

口の中で、言った。

「まだ、上れると思うとる」

壁は、何も返さなかった。

短い祝詞をあげた。八文字。

「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」

あたりが張った。

筆を下ろした。


  蒲池ビル 蔦 受 壱


 書き終えると、張ったものが落ちた。

壁を見上げた。

何も変わらなかった。筋は筋のまま、四階の窓の下まで這っていた。消えもしないし、薄れもしない。

半年で半年ぶんしか上らないものは、止まったかどうかも、その速さでしか分からない。

事務所に戻ると、蒲池さんが、終わりましたか、と言った。

「終わりました。染みは、残ります」

「残るとは、塗ります」

蒲池さんは、耳の鉛筆を挟み直した。


 蒲池さんが表の店に来たのは、十日ほどあとだった。

「線ば、越えとらんです」

座るなり、そう言った。

あれから毎日、三階と四階の窓から身を乗り出して、筋の先を見たという。一週間たっても、十日たっても、鉛筆の線から先へ出ない。

「それで、塗りました。四度目」

封筒を出した。六万円だった。見に行ったぶんの一万と、引き取りの五万。

「二階の奥さんも、判ば押してくれました。秋の更新の」

「よかったです」

「半年たったら、また見ます」

「出てきたら、返します」

「返してもらいますけん」

蒲池さんは、耳の鉛筆に手をやって、立っていった。

手帳を出して、書いた。蒲池ビル、五万、半年。

柳橋(やなぎばし)、二万、次の晦日。その行の、すぐ下だった。


 その週の終わりに、大手門まで歩いた。

梅雨の晴れ間で、空が高かった。

蒲池ビルの北の壁は、白くなっていた。四度目の白は、路地の暗がりの中で、そこだけ少し明るく見えた。筋は、どこにも無かった。壁の腰の鉛筆の線も、日付も、一緒に塗り込められていた。

路地のコンクリートの四角は、乾いたままだった。

帰りに、お濠端を回った。

石垣の下の濠を、蓮の葉が一面に覆っていた。水の色が見えないほどだった。花は、まだ無い。丸い葉の幾百が、茎の上に持ち上がって、どれも、空のほうを向いていた。


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