第三十八話 柳橋 月掛け 受 壱
五月も末になると、朝から空が低かった。降りそうで降らない雲が、デパートの屋上にかかっている。歩道の敷石が、乾いているのに湿った色をしていた。
昼前、女の人が客用の椅子の前で足を止めた。
四十を少し過ぎたくらいだろうか。ゴムの長靴に、紺の前掛けを締めている。腰の横の結び目から、紐が片方だけ長く垂れていた。
「元祖天神大上屋さん、ですね」
うちの名刺を持っていた。角に、茶色い染みが付いている。
「柳橋の市場で、組合の事務ばしよります。大庭です」
椅子に座る前に、大庭さんは前掛けの紐をほどいて、結び直した。
名刺は、市場の乾物屋から借りてきたという。そこの奥さんが去年の暮れに表の店で厄除けを買って、帳場の引き出しにしまっていた。
覚えのない客だった。覚えていないのは、向こうも同じはずだった。
「月末になると、シャッターの叩かれるとです」
市場が閉まる時分、下ろしたシャッターを、外から叩く音がする。一軒ずつ、並びの順に回ってくる。叩いたあとで、声がかかる。
月掛けです。
「開けても、誰もおらんとです」
古い店の人は、それで構わないのだという。ご苦労さまです、と返して、それきりになる。
「困っとるとは、新しゅう入った店のほうで」
空いた区画には、組合が借り手を探して入れている。若い人が多い。入った店が、長くもたない。
「今おる子も、月末で出る、ち言いよって。それに」
大庭さんは、前掛けの紐に手をやって、やめた。
「シャッターに、手の跡の付くとです。黒か、手の形の」
カビか煤だと思って、何度か塗り直した。塗っても、また付く。
「ほかにも、口では言いにくかことのあって。見てもろうたほうが早かです」
見に行くので一万、と言った。
「組合の金になりますけん、今日の今日は出せんとですけど」
「あとで構いません」
大庭さんは、前掛けの紐を、もう一度結び直した。
表を閉める前に、路地の口まで歩いた。
高架の下の路地は、昼でも薄暗い。室外機の吐く風が、積んだビールケースの角をぬるく撫でていた。本家は机に雨よけのビニールを広げて、四隅を洗濯ばさみで留めているところだった。梅雨に入る前に、もう一枚重ねておくのだという。
「柳橋に行ってくる。市場の組合から」
「はい。表ば見ときます」
本家は洗濯ばさみを一つ口にくわえて、ビニールの端を引いた。くわえたまま、器用に訊いた。
「帰りは」
「夕方には戻る」
「なら、晩は魚にしましょうか。柳橋なら、安かでしょう」
「見てくる」
本家は最後の洗濯ばさみを留めて、ビニールを手のひらで撫でた。皺が一本、端のほうへ逃げていった。
路地を出ると、表の通りは、まだ曇ったままだった。
柳橋の市場は、那珂川の橋の袂から、屋根のかかった細い通りが奥へ延びていた。両側に、魚屋と乾物屋と蒲鉾屋が、肩を寄せて並んでいる。
通路が濡れていた。魚屋の台から溶けた氷の水が流れて、敷石の目地を伝っていく。発泡スチロールの箱が、店先に積み上がっていた。生臭さと、干した昆布の匂いが、屋根の下に籠もっている。
昼を過ぎて、人通りはまばらだった。
大庭さんは、並びの中ほどの乾物屋の前で足を止めた。
奥から出てきたのは、六十を過ぎたくらいの女の人だった。白い割烹着の袖をまくって、昆布の束を抱えている。
香月さんです、と大庭さんが言った。
「あら。あんたが拝み屋さん」
香月さんは、昆布の束を台の上で揃えながら喋った。手を止める様子はなかった。
「厄除け、買うたとよ。どこで買うたか、忘れとったけど」
「月末の音のことを、聞かせてもらえますか」
「八尋さんよ」
あっさりした声だった。
「月掛けの親。昔、この並びの十二軒で、頼母子ばしよったと」
頼母子というのは、仲間うちで毎月金を出し合って、集まったぶんを一人ずつ順に受け取る仕組みのことだ。
この並びでは、毎月の晦日に、一軒五千円ずつ出す。集まったぶんを、その月の番の店がまとめて受け取る。十二か月で、一回りする。
「まとまったお金の要るときは、番ば早うに回してもろうて。うちは、あれで冷蔵のケースば入れたとよ」
八尋さんが集金袋を提げて、閉店どきに一軒ずつ回ってきた。シャッターを叩いて、月掛けです、と言った。
「払えん月も、あったとよ。うちの父の入院したときやったかね」
昆布の束が、台の上で、とん、と揃った。
「母が、今月は待ってください、ち言うたら、八尋さんは講の帳面ば出して、母に手ば押させたと。墨ば付けて、ぺたっち。それで、次の晦日まで、ち」
香月さんは、次の束を取った。
「次の晦日にも、半分しか払えんやった。そしたら、それでよか、ち。残りは、その次」
「その次も、払えんやったら」
「立て替えよらしたとよ。八尋さんが、自分の財布から」
香月さんは、そこで初めて手を止めた。
「取り立てられたことは、いっぺんも無か。待ってもろうてばっかり」
それから、また手を動かした。
「八尋さんのおらんごとなって、講は立ち消えになったと。ばってん、晦日になったら来よらすとよ。うちらは封筒に五千円入れて、シャッターの下から出しよる。朝には、無うなっとる」
「毎月、ですか」
「毎月。十八年になるかね」
事もなげな声だった。
「無うなるだけやなかとよ。そのぶん、どこかの店に入っとる」
晦日の翌朝、どこか一軒の店の中に、封筒の束が置いてある。前の晩、シャッターの向こうで、月掛けば持って来ました、と声のした店だという。
「困っとる店に行くとよ。うちの主人の倒れた年は、うちに来た。向かいの蒲鉾屋さんは、川の水の出たあとに来た。八尋さんは、どこの台所の苦しかか、よう見よらしたけんね」
香月さんは、揃えた束を台の端に積んだ。
「そやけん、出し渋る人はおらん。いつ自分の番の来るか、分からんとやけん」
それから、少し笑った。
「払いよったら、八尋さんは優しかとよ」
大庭さんが、前掛けの紐を握っていた。
「八尋さんは、亡くなったとですか」
「亡くなったよ。十八年前の三月。お葬式には、並びのみんなで行ったと。うちは受付に立った」
香月さんは、束を揃える手を少し緩めた。
「その月の晦日に、もう来よらしたとよ。月掛けです、ち」
大庭さんに連れられて、入口のほうへ少し引き返した。
香月さんの店の隣は、シャッターの下りた区画だった。ペンキの色が、周りより新しい。
その隣に、コーヒーの小さな店があった。間口一間ほどの区画で、手書きの黒板が立てかけてある。
若い女の人が、カップを拭いていた。二十代の半ばくらいで、髪を後ろで一つにまとめている。小柳さん、と大庭さんが呼んだ。
小柳さんは、カップを置いて、シャッターのほうへ目をやった。
半分上げたシャッターの、腰の高さに、それがあった。
黒い、手の形だった。右手。指を開いて、掌を押しつけた跡だった。墨で押したように黒く、縁がくっきりしている。
掌の皺が、写っていた。太い筋も、細い筋も、指の節の横皺も、一本ずつ見て取れた。
「三月の、晦日の次の朝です」
小柳さんは、自分の右手を、台の上に出した。掌を上にして。
何も無かった。
皺が一本も無い。指の腹の渦も無い。粘土を平らに均したような掌が、蛍光灯の下にあった。
「皮膚科に、二軒行きました。分からん、ち言われました」
小柳さんは、手を裏返して、また表に返した。
「晦日の晩に、シャッターの叩かれたけん、開けたとです。誰もおらんで。朝、来たら、これが付いとって。手の、こうなっとって」
四月の晦日の晩は、怖くて開けなかった。
翌朝、店の豆が、袋ごと無くなっていた。釣り銭の箱も、中身ごと無かった。鍵は掛かっていた。
「それと、こっちも」
小柳さんは、左手を出した。
同じだった。
それから、少し黙った。
「父の声の、思い出せんとです。去年、亡くなったとですけど。顔は覚えとるとです。何ば言いよったかも。声だけ、無かとです」
「留守電とかは」
「残っとるとです。ばってん、聞いても、こげな声やったか、ち思うて」
小柳さんは、両手を前掛けで拭いた。拭くものは、何も付いていなかった。
「今度の晦日で、出ます。ここは」
目印を三枚、貼った。小柳さんの区画の脇の柱と、通路の向かいの蒲鉾屋の柱と、天井から下がった看板の裏。離して貼る。
短い祝詞をあげた。八文字。
それから大庭さんに頼んで、隣の空いた区画のシャッターを、端のほうだけ削らせてもらった。大庭さんは鍵の束を握ったまま、しばらく迷って、うなずいた。
小刀の刃を寝かせて、新しいペンキを薄く剥いだ。下から、古い色が出てきた。
その上に、黒いものがあった。
手の形だった。
その隣にも、あった。その下にも。
削る幅を広げた。手の形は、指を開いて、横に並んでいた。一段に、十二。その下に、また十二。
どれにも、皺が無かった。
掌の形だけが、黒く、平らに抜けている。押す手の無いところに、それでも押せば、こうなるのかもしれなかった。
「ここは、何年、空いとったとですか」
「……七年です」
大庭さんの声が、少し掠れていた。
削る手を止めた。まだ上のほうしか、削っていなかった。
翌日の昼、目印を見に行った。
三枚とも、焦げていた。濃い。人ひとりぶんより、ずっと濃かった。
裂けは、無かった。三枚とも、縁から縁まで見た。どこにも入っていない。
それが、いちばん寒かった。
害しにかかっているのではない。何か別のものを、合わせにかかっている。
一枚ずつ、線を延ばした。三本は、一点では交わらなかった。柱の一枚は、小柳さんの区画のシャッターを指していた。蒲鉾屋の一枚は、七年空いた区画を。看板の裏の一枚は、並びの奥の、別の空いた区画を。
どれも、手の形の付いたシャッターだった。
並びの入口の角に、大きな魚屋があった。庇に、荒巻鮮魚、と書いてある。
主人は六十前後の、腹の出た男の人だった。ゴムの前掛けで両手を拭いてから、俺の名刺を受け取った。
「講のことなら、うちが最後の番たい」
八尋さんが亡くなったのは、最後の晦日の十日前だったという。
「集金の無うて、うちは受け取りそびれた。十一か月、払うとったとにね」
それで、講の店がそれぞれ、自分の出したぶんを封筒に入れて、荒巻さんの父親のところへ持ってきた。
「親父は、要らん、ち言うたげなけどね。みんな置いて帰ったげな。そやけん、うちは損はしとらん。とうに済んだ話たい」
荒巻さんは店の奥へ入って、神棚の下の引き出しを開けた。綴じた帳面を一冊、前掛けで手を拭いてから出してきた。表紙に、講帳、と筆で書いてある。
「八尋さんの奥さんが、これも持ってきたげな。済んだ証文に、ち」
「晦日の音は、こちらにも」
「来るよ。毎月、最後にうちに来る。うちも封筒ば出す。うちで集金の終わって、そのあとで、どこかの店に、持って来ました、ち声のする」
荒巻さんは、もう一度、前掛けで手を拭いた。
「うちも、いっぺんもろうた。冷凍庫の壊れた年に」
講帳を、開かせてもらった。
一頁目に、講の決まりが、筆で短く書いてあった。その下に、名前が一つ。親、八尋善次。横に、墨の手の形が押してある。大きな掌だった。皺が深い。
次の頁から、月ごとに十二軒の名前が並んでいた。払った月は、名前の下に丸が付いている。
丸の付いていない行が、ところどころにあった。
四月晦日 香月 手形 日限次ノ晦日
五月晦日 香月 内入 二千五百
六月晦日 香月 皆済
手形の行の横に、手の形が押してあった。小さな掌だった。皺が、細かく写っていた。
香月さんの母親の手だった。
頁を繰った。どの年にも、手形の行が何本かあった。どの手形の行にも、手の形があった。そのあとには、内入か、皆済が続いていた。続いていない行には、同じ字で、立替、と書き添えてあった。
最後の頁は、満会の月だった。
満会 荒巻 皆済
字が、違った。
ほかの頁は、どれも同じ手だった。細くて、右上がりの字。最後の一行だけが、太くて、四角い。
「親父が書いたとよ。封筒の揃うたあとで。済んだ、ち」
荒巻さんは、その行を指で叩いた。
「書いても、来るとやけどね」
同じ頁の、同じ墨で、字だけが違った。
しばらく、その一行を見ていた。
写させてもらえますか、と頼んだ。荒巻さんは、店の奥の丸椅子を貸してくれた。
手帳に、一頁目から写した。決まりの文句と、十二軒の名前と、月ごとの丸と、手形と、内入と、皆済と、立替。手の形のところは、四角で囲んで、中に名前を書いた。
受けるなら、何を受けたのか、あとで分かるようにしておきたかった。
写し終えるころには、台の上の氷が、半分溶けていた。
二年前に、あの区画を借りていた人がいた。惣菜屋を三か月やって、出ていったという。大庭さんが、今の勤め先を教えてくれた。
博多駅の裏の、弁当の工場だった。昼の出荷が済んだ時分に、裏口で会ってもらった。
四十の手前くらいの、痩せた男の人だった。石橋です、と言って、白い帽子を脱ぎ、手の中で丸めた。
「手ですか」
何も訊かないうちに、石橋さんは右手を開いた。
皺が無かった。左手も、同じだった。
「こげなもんです。ゴム手袋ばしとれば、誰も見らんけん」
三か月のうちに、冷蔵ケースの中身が二度、空になった。
「最後の晦日のあとで」
石橋さんは、帽子を丸めたまま、携帯を出した。写真を一枚、見せてくれた。
運動場だった。赤い鉢巻の子どもたちが、並んで走っている。手前に、ビデオを構えた男の背中が写っていた。
「俺です。娘の、年長の運動会」
石橋さんは、画面を見ていた。
「行ったとは、分かっとるとです。写真のあるけん。嫁も、来とったち言う」
画面が暗くなった。石橋さんは、指で点け直した。
「覚えとらんとやなかとです。行っとらんとです。俺は」
携帯を、しまった。
「それで、出たとです。次は何ば持っていかれるか、分からんけん」
博多駅から天神まで、地下鉄に乗らずに歩いた。
手相。店の品物。父親の声。運動会の一日。
並べてみても、次に何が来るのかは分からなかった。並びに筋が無い。筋の無いものは、読めない。
香月さんの母親は、待ってもらった。待っても払えなかったぶんは、八尋さんが自分の財布から立て替えた。
立て替える財布は、もう無い。
講は、閉じていない。閉じないまま、十八年、回り続けている。集めて、困った店に渡す。払われなかったぶんは、どこかで埋めなければならない。
埋めるものを、選んではいない。
小柳さんの手には、もう押す皺が無い。
生きとるもんは、受けたらいかん。
八尋さんが亡くなったことは、市場の誰もが知っていた。並びの店は揃って葬式に出て、香月さんは受付に立った。
引っかかっていたのは、そこではなかった。
十八年前に死んだ人の記憶が、今年、どこの店が苦しいかを知っている。
知っているのは、生きている誰かではないのか。
大庭さんに頼んで、八尋さんの奥さんのいる施設を訪ねた。長尾の、坂の上の施設だった。
日の入る談話室で、奥さんは車椅子に座っていた。九十近いという。小さな人で、膝の上の手を、ときどき指を折るように動かしていた。
柳橋の市場から来た、と言うと、奥さんは顔をほころばせた。
「主人は、晦日で出とります。遅うなりますけん」
大庭さんが、何か言いかけて、やめた。
講の話をした。集めた掛け金が、困った店に行く、という話を。
奥さんは、膝の上で指を一つ折った。
「台所ば見れば、分かるとです。主人の言いよりました。集金に回ったら、シャッターの閉め方で分かる。冷蔵のケースの唸り方で分かる。油の替わっとらん店は、苦しか」
もう一つ、折った。
「誰にも訊かんとです。訊いたら、言いにくかでしょう。見て回って、分かるとです」
それきり、奥さんは窓の外を見ていた。しばらくして、晦日の支度の話を、もう一度した。
施設を出て、坂を下りた。
誰かに訊いているのではない。回って、見て、分かる。十八年前と同じやり方で、今年の台所を見ている。
主は、あの人だけだ。
その晩、四畳半で、本家に柳橋のことを話した。
本家は、座卓の上で手帳の写しをめくりながら聞いていた。
「払わせたら、どげんですか」
手帳から、顔を上げなかった。
「小柳さんに。封筒に五千円。香月さんたちは、それで十八年、何も無かとでしょう」
それは、考えていた。
「来月も来る。その次も来る。講の閉じとらんけん、ずっと回りよる」
「はい」
「払わん店のあったら、そこから持っていく。石橋さんの運動会も、戻らん」
「はい」
本家は、頁をめくった。
「受けたら、困った店にも、もう何も行かんごとなりますね」
「分かっとる」
「四月のぶんは、もう日限の来とりますね」
分かっていることを、確かめるような言い方だった。
晦日に受ける、と言った。はい、と本家は言った。
本家は、手帳を閉じて、座卓の端に置いた。
晦日は、朝から蒸した。昼過ぎに少し降って、夕方には止んだ。濡れた屋根から、雫が通路に落ちていた。
小柳さんには、今夜は来ないでもらった。代わりに、封筒を一つ預かった。五千円札が二枚、入っている。四月のぶんと、五月のぶん。
「効くかどうかは、分からんとです」
そう言うと、小柳さんは、皺の無い手で封筒を渡した。
大庭さんには、市場の外の、川の側で待ってもらった。
閉店どきになると、店が一軒ずつシャッターを下ろしはじめた。がらがらという音が、屋根の下に重なる。人が出ていく。灯りが落ちていく。
最後に下りたのは、荒巻鮮魚だった。
通路に、俺一人が残った。
小柳さんの区画の前で、封筒を、シャッターの下の隙間に半分差し込んだ。
通路の灯りは、一つおきに点いていた。濡れた敷石が、その下だけ光っている。川の音がした。
奥のほうで、音がした。
シャッターを、平手で叩く音だった。二度。
「月掛けです」
男の声だった。年寄りの、低い、よく通る声だった。
少しして、シャッターの内側から声が返った。ご苦労さまです。封筒が、敷石の上を擦る音がした。
次の区画で、また二度鳴った。月掛けです。ご苦労さまです。
音は、並びの順に、こちらへ来た。
奥の空いた区画の前で、二度鳴った。月掛けです。
返事は無かった。
ぺたり、と、濡れたものを押しつける音がした。
鞄から帳面を出した。筆ペンの蓋を抜いた。小柳さんの区画の前に、膝をついた。膝が、濡れた敷石で冷えた。
香月さんの店の前で、二度鳴った。
「月掛けです」
「ご苦労さまです」
香月さんの声だった。封筒の擦れる音がした。
その隣が、七年空いた区画だった。その隣が、小柳さんの区画だった。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
あたりが張った。
七年の区画のシャッターが、一度だけ鳴った。
二度目は、来なかった。
筆を下ろした。
柳橋 月掛け 受 壱
書き終えると、張ったものが落ちた。
川の音だけが、していた。
待った。叩く音は、来なかった。この区画にも、その先にも。荒巻鮮魚のシャッターの前まで、通路は静かなままだった。
立ち上がって、膝の水を払った。
シャッターの下で、封筒が、半分差し込んだままになっていた。
並びを、奥のほうへ歩いた。
香月さんの店の前には、何も無かった。その先の店にも、何も無かった。
奥の空いた区画のシャッターに、携帯の灯りを当てた。塗ったペンキの上に、手の形が一つ増えていた。
皺の無い、黒い手の形だった。まだ、濡れて光っていた。
七年の区画のシャッターには、何も増えていなかった。
市場の外に出ると、大庭さんが川のほうを向いて立っていた。終わりました、と言うと、大庭さんは前掛けの紐に手をやって、そのまま下ろした。
翌朝、市場が開く前に、小柳さんに封筒を返した。
「来んやったとですか」
「来ませんでした。来月からも、来ません」
小柳さんは封筒を受け取って、それから、自分の手を見た。
皺は、戻っていなかった。
「……戻らんとですね」
「戻りません」
ほかに、言いようがなかった。
小柳さんは、しばらく手を見ていた。それから封筒を前掛けのポケットにしまって、シャッターに手をかけた。
腰の高さの黒い手の形が、上がっていくシャッターと一緒に、巻き上げられていった。
市場を出る前に、香月さんの店の前を通った。
香月さんは、台の上で封筒を数えていた。白い封筒が、五つ、六つあった。
「今月は、どこにも来とらんとよ」
手を止めずに言った。
「ゆうべ出したぶんも、戻っとらん。そやけん、みんなにもういっぺん出してもろうとると」
「どこに持っていくとですか」
「向かいの蒲鉾屋さん。ご主人の腰ば痛めて、先月から奥さんが一人で揚げよらすけん。八尋さんも、たぶん、そこにしよらした」
香月さんは、封筒を揃えて、輪ゴムを掛けた。
「来月からは、大庭さんに回ってもらおうかね。講の帳面も、荒巻さんのところにあるとやし」
戻らなかった封筒のことは、言わなかった。
大庭さんが表の店に来たのは、三日後だった。
封筒を出した。一万円だった。
「引き取りのぶんは、総会で通してからになるとです。……次の晦日まで、待ってもらえますか」
「待ちます」
手帳を出して、書いた。柳橋、二万、次の晦日。
大庭さんが、前掛けの紐に手をやった。
「判子は、要りますか」
「要りません」
手帳を閉じた。
六月に入ってすぐ、梅雨入りが出た。
朝から細かい雨で、デパートのひさしの下に、雨宿りの人が並んでいた。その端に、紺のジャンパーが一人、立っていた。
安藤さんは、しばらくそこにいて、それから歩道を渡ってこちらへ来た。
「留めば、十枚」
数えて、渡した。安藤さんは、千円札を一枚、机に置いた。
雨よけのビニールの端から、雫が垂れていた。
帰りかけた安藤さんに、柳橋の話をした。講のこと。講帳のこと。手形の行と、手の形と、立替の字。晦日の叩く音。受けたこと。
「払えん月は、手形ば切らせて、次の晦日まで待ったらしいです。それでも払えんやったら、親が立て替えて」
安藤さんは、通りのほうを見ていた。
「死んだら、立て替える財布の無うなって。払わん店から、持っていきよったとです。手相やら、声やら」
「受けたとか」
「受けました」
安藤さんは、雨の落ちる通りを、しばらく見ていた。答えないときの見方だった。
それから、こちらを見た。鞄のほうではなく、俺のほうを。
「返せる当てのなかもんに、手ば出すな」
「借りとらんです。講の話です」
「そうか」
安藤さんは、札をジャンパーの内に入れて、雨の中を歩いていった。傘は、差していなかった。
その週の終わりに、柳橋へ行った。
雨の上がった昼で、通路にまだ水が残っていた。コーヒーの店は、開いていた。手書きの黒板が、店先に出ている。
一杯、頼んだ。
小柳さんは、豆を量って、挽いて、湯を細く落とした。手つきに迷いは無かった。
カップを、台の上でこちらへ差し出した。右の掌が、上を向いていた。
受け取って、一口飲んだ。熱かった。
五百円玉を出した。釣りの百円玉が二枚、平らな掌から、俺の掌に落ちた。




