第三十七話 松月ビル地下 井戸 受 壱
五月も終わりに近づくと、晴れた日の天神は、昼前からむっとした。梅雨の前の、湿り気だけ先に来たような暑さで、デパートの正面の日陰に、信号待ちの人が寄っていた。
客用の椅子に、男の人が腰を下ろした。
五十の半ばくらいだろうか。紺の作務衣の袖をまくって、白い手拭いを首に掛けている。指の腹が、ところどころ白く粉を吹いていた。乾いた糊だった。
「元祖天神大上屋さん。ここで、よかとですね」
手に、うちの名刺を持っていた。親富孝通りの飲み屋で、レジの脇に置いてあったのを一枚もらってきたという。
「渕上といいます。舞鶴で、表具屋ば、しよります」
表具屋、と訊き返すと、渕上さんは机の上の名刺を指でつまんで、端をぴん、と弾いた。
「紙ば、糊で張る仕事です。掛け軸ば仕立てたり、古うなったとば直したり。屏風も張りますし、襖や障子の張り替えもします。町で、襖・障子張替え、ち看板の出とる店のあるでしょう。あれです」
名刺を机に戻した。
「紙ば何枚も、糊で重ねて張って、何日も乾かすとです。やけん、湿気がいちばんいかん」
舞鶴の古い雑居ビルの地下を、作業場に借りている。先代から数えて、四十年近くになる。
その床の一か所が、毎朝、濡れている。
「濡れとる、ち言うても、水の溜まっとるわけやなかとです。そこだけ、湿っとる。拭いたら乾くとですけど、明くる朝には、また同じところが」
業者を三度呼んだ。上の階の配管も、床下も見てもらった。三度とも、原因は無いと言われた。
「そこに紙ば積んどったら、下の何枚かが波打ちよったとです。張る前の紙は、湿ったら仕舞いです。いまは棚ば動かして、そこには何も置かんごとしとります」
それで困っている、という顔ではなかった。
「いっぺん、拝み屋さんに頼んでみたかったとです」
渕上さんは、少し笑った。
「業者の三度来て分からんなら、そろそろ、そっちの番やろう、ち思うて」
見に行くので一万、と言った。調べて、うちで引き取ることになれば、別に二万。
「お祓い、ちゅうとは、してもらえんとですか」
「うちは、祓いはしよらんとです。引き取ります」
「引き取る」
「祓うところなら、よそにもあります。一時間ほどで済んで、四万くらいでしょう」
渕上さんは、名刺をもう一度、指で弾いた。
「引き取る、ちゅうとが、見てみたかです」
表を閉めて、舞鶴まで歩いた。
本家はこの三日、姪浜のほうの件に出ていて、一本裏の店も閉まっている。朝のうちに、そう一報があった。
昭和通りを渡ると、親富孝通りの飲み屋は、どこも昼のシャッターを下ろしていた。店の前に、空き瓶のケースが積んである。
この通りは、昔は親不孝通りと書いた。予備校が並んでいたころ、浪人生が昼間からたむろしていたのが名の起こりだという。字面が悪いというので、字だけが今のものに替わった。俺が生まれるより前の話で、どちらも聞いただけだ。読みは同じだ。
日の当たる側を避けて、ビルの影を拾って歩いた。二十分かからなかった。
松月ビルは、通りから一本入った、五階建ての古いビルだった。一階が喫茶店で、ガラスの扉に、コーヒー、とだけ白く書いてある。その横に、地下へ降りる細い階段が口を開けていた。
降りるにつれて、空気がひやりとした。
作業場は、思ったより広かった。蛍光灯が白く点いている。真ん中に、畳を二枚並べたほどの作業台があって、刷毛が大小、柄を揃えて並べてあった。糊を煮た匂いがした。甘いような、湯気のような匂いだ。
壁には、張りかけの襖が、何枚も立てかけてあった。紙の地の上に、別の紙が、四隅を残して重ねてある。
「乾かしよるとです。ああやって、三日、四日」
奥の隅に、それがあった。
コンクリートの床が、そこだけ色が濃い。丸く、差し渡しで両腕を広げたくらいの大きさだった。縁が、ぼんやりとしている。
濡れて光ってはいなかった。しゃがんで、手のひらを当てた。冷たい。湿っているが、指には何も付かなかった。
渕上さんが、作業台の上から、切れ端の紙を一枚取った。丸の外の床に一度置いて、端を指で弾いた。乾いた、軽い音がした。
丸の内側に置いて、同じように弾いた。
音が、鈍かった。
「ここだけ、音の違うとです」
渕上さんは、丸の縁を、紙で弾きながら、ぐるりと一周してみせた。縁のところで、音がちょうど変わった。
「初めは、朝来たら濡れとるけん気づいたとですけど。弾いたら、どこまでか分かります」
目印を三枚、貼った。作業台の脚と、奥の壁の腰のあたりと、階段の降り口の柱。離して貼る。
短い祝詞をあげた。八文字。
渕上さんは、貼った一枚の端に、そっと指を当てた。
「糊、裏に引いてあるとですか」
「はい」
「よか紙ですね」
それ以上は、訊かれなかった。
翌日の昼、また歩いて舞鶴に行った。
三枚とも、湿っていた。
紙が水を吸ったように波打って、乾いた跡のような色が残っている。地下の湿気で濡れた手触りではない。吸った側の湿りだった。
湿りは、植物と物で同じ色が出る。
この地下には、鉢植え一つ無い。作業台の上の紙は、もとは木だが、もう木ではない。
物だ。
作業台の脚の一枚は、右から来ていた。壁の一枚は、左の下のほう。柱の一枚は、真ん中より少し右。一枚では、線が一本引けるだけだ。三本を延ばすと、奥の隅の、あの丸の真ん中で交わった。
渕上さんが、麦茶を入れてくれた。作業台の端に湯呑みを二つ並べて、丸椅子を勧められた。
「ここの床の下に、何かあったとは、聞いとられますか」
渕上さんは、湯呑みを両手で持ったまま、少し考えた。
「井戸の、あったげなです」
先代の大家から、渕上さんの親父さんが聞いた話だという。このビルが建つ前は、ここは平屋の家で、裏に井戸があった。ビルを建てるときに潰した。
「石は抜いて、土で埋めた、ち聞いとります。四十何年前の話ですけん、大家さんも、もう替わっとります」
渕上さんは、丸のほうへ目をやった。
「そう言われてみたら、丸かですね」
井戸だ。
水は、数えられない。世の中の水を、一つにまとめることはできない。
だが、あの地下の、あの床の下にあった井戸なら、指す先は一つに決まる。
行の頭は、松月ビル地下。品名は、井戸。壱。
湯呑みを持ったまま、城戸さんの時計を思い出した。巻き癖と書いて、時計ごと入った。宮原歯科の鉢は、書けば鉢ごと入ると思って、書かなかった。
井戸と書けば、井戸ごと入る。
その井戸は、もう無い。石も抜いてある。残っているのは、そこに水があった、ということだけだ。
入るものは、それしか無い。
麦茶を飲んだ。よく冷えていた。
「戻りたかとでしょうね。ここに」
「井戸にですか」
渕上さんは、面白そうに丸を見た。
「戻っても、上に紙の棚のあったら、困るでしょうに」
答えなかった。
帰りぎわ、明日の昼にもう一度来る、と言った。
その晩、安藤さんに電話をかけた。
五度目の呼び出しで、繋がった。
「なんか用か」
舞鶴の地下で、水の記憶に当たった、と言った。井戸の跡で、目印は湿って、三本の線は床の一点で交わった。明日、もう一度見てから、受けるつもりでいる。
言い終えても、返事が無かった。
通りの音も、息の音も聞こえない。耳から離して、画面を見た。繋がっていた。
「……安藤さん」
「聞こえとる」
声は、いつもと同じだった。
「水は、数えられん」
「井戸と書けば、一つです」
「そうか」
「安藤さんなら、どうしよるとですか」
「祓う」
それだけだった。
「割に合わんことば、すんな」
切れた。
言い返すことは、何も無かった。
携帯を下ろしてから、さっきの黙っていたあいだを、数えるともなく数えていた。長かった。いつもより。
訊き返す番号は、押さなかった。
三日目の昼、舞鶴に降りた。
三枚とも、昨日より湿りが濃くなっていた。波打ちが深くなって、色が中心から広がっている。交わるところは、同じだった。
濃くなるのは、覚えているだけのものではない。
上で待っていてもらえますか、と渕上さんに言った。
「見とったら、いかんとですか」
「気分の悪うなるかもしれません」
「それが見たかとです」
渕上さんは、作業台の端の丸椅子に腰を下ろした。
「引き取る、ちゅうとば見たくて、拝み屋さんば呼んだとですけん」
上に行ってもらう理由を、ほかに言えなかった。言えば、何が起きるのかを言うことになる。それは、俺にも分かっていなかった。
それに、ここはこの人の作業場だった。
「声は、出さんでください」
「はい」
渕上さんは、膝の上で両手を組んだ。
地下の扉を閉めた。
蛍光灯の下で、丸の縁に膝をついた。帳面を開いた。筆ペンの蓋を抜いた。
床の色は、今朝も濃かった。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
あたりが張った。
渕上さんの手が、膝の上でほどけた。
目が、丸くなっていた。俺を見ているのではなかった。作業台を見て、立てかけた襖を見て、刷毛の並びを見て、天井の隅を見た。どこを見ても、そこではない、という顔だった。
丸椅子の脚が、床で一度、小さく鳴った。渕上さんの腰が、浮いていた。
立ちかけたまま、渕上さんは俺の手元を見た。動いたらいかんとですか、と訊く顔だった。
それから、ゆっくりと腰を戻した。
筆を下ろした。
松月ビル地下 井戸 受 壱
書き終えると、張ったものが落ちた。
渕上さんが、長く息を吐いた。
「……いま、見られとったですね」
答えなかった。
渕上さんは、自分の手を見て、それから床を見た。
丸の縁が、ゆっくりと引きはじめていた。
渕上さんが丸椅子を降りて、俺の横にしゃがんだ。二人で、それを見ていた。
外側から、内へ。濃い色が、蛍光灯の下で、まわりの床と同じ灰色に戻っていく。真ん中の、手のひらほどのところが最後まで残って、それも消えた。
渕上さんは、作業台から紙の切れ端を一枚取って、丸のあったところに置いた。指で弾いた。
乾いた、軽い音がした。
もう一度、弾いた。同じ音だった。
「面白かあ」
しゃがんだまま、渕上さんは声を出して笑った。
「面白かもんば、見ました。いや、見られたとは、こっちですか」
「あれは、何ですか」
「うちの、帳面です」
帳面、と答えるほかに、答えを持っていなかった。
渕上さんは、ふうん、と言って、切れ端をもう一度弾いた。
四日後の朝、渕上さんが表の店に来た。
椅子に座ると、作務衣の胸元から封筒を出した。
「毎朝、弾きよります。どこも同じ音です」
紙の棚は、もとの隅に戻したという。
封筒の中は、三万円だった。見に行ったぶんの一万と、引き取りの二万。渕上さんは、机の上で札を一枚ずつ数えて、揃えて、こちらへ押した。
「あの帳面は、面白かですね」
それから、机の端の名刺の束を見た。
「これ、何枚か、もろうてよかですか。面白か拝み屋のおるち、人に言いますけん」
五枚、持っていった。一枚ずつ、端を指で弾いてから、作務衣の胸元にしまった。
その日は、表に夕方まで立った。厄除けが、二枚売れた。
店じまいの前に、鞄から帳面を出して、膝の上に置いた。開きはしなかった。
帳面が面白い、とは、考えたことがなかった。
怖いとも、分からないとも、何度も思った。面白いと思ったことは、一度も無い。
拝み屋の仕事は、人から見れば妙なものだろう。道端に机を出して、紙を売って、呼ばれれば、よその家で祝詞をあげる。
だが、帳面は、拝み屋から見ても妙なものだ。安藤さんは水を数えないし、播谷さんは何も書かない。書いて受ける拝み屋を、俺はほかに知らない。
妙なものは、面白いのかもしれない。
紺の表紙の端を、指で弾いてみた。
渕上さんのようには、鳴らなかった。




