第三十六話 水やり
五月も半ばを過ぎると、天神の昼は、じっとりと重くなった。梅雨にはまだ早いのに、空が薄い灰色に曇ったまま動かない日が続いて、デパートの正面を行く人が、上着を腕に掛けて歩いていた。
昼過ぎ、客用の椅子の前に、男の人が立った。
三十の半ばくらいだろうか。深い緑のポロシャツの胸に、葉の形の印と、脇山緑化、の四文字が縫い取ってある。腰の革のケースから、鋏の柄がのぞいていた。
「元祖天神大上屋さん」
確かめる声ではなかった。書いてあるものを、そのまま読み上げる声だった。手に、うちの名刺を持っていた。
「はい。大上です」
「溝口と申します。貸し植木ば、しよります」
溝口さんは椅子に座ると、肩に掛けた鞄から、伝票の束を出した。黄色い控えの紙が、クリップで留めてある。それを机の縁に立てて、とん、とん、と二度落とした。紙の端が、ぴたりと揃った。
ビルのロビーや、店や、医院の待合に、鉢植えの木を貸している。月に一度、弱りかけた木を引き上げて、元気な木と入れ替える。
「引き上げた木は、圃場で養生させて、また別のお客さんに回すとです」
圃場、と訊き返すと、会社の畑です、と溝口さんは言った。
「西新の、宮原歯科さんです。待合に、大きな鉢のあるとです。先生の、お母さんの形見で」
その鉢に、会社の木を入れさせてもらっている。黒いプラ鉢ごと、すっぽり収まる大きさなのだという。
「それが、ひと月もたんとです。二週もすると根の腐って、下の葉から落ちよります」
「水のやりすぎですか」
「水は、私しかやりよらんとです」
溝口さんは、束をもう一度、机の縁で揃えた。
「鉢の底に、水の溜まっとるとです。私のやっとらん日でも」
「誰か、ほかに」
「おらんとです。受付の方にも、先生にも訊きました」
うちの名刺は、その宮原歯科の、受付の小窓の横に貼ってあったという。誰が貼ったのかは、受付の人も覚えていなかった。
「鉢の怪しか、とは思うとです」
溝口さんは、そこで少し声を落とした。
「ばってん、先生のお母さんの鉢ですけん。この鉢が木ば枯らします、とは、よう言わんです」
言えば、鉢はやめて床置きの木にしましょう、という話になる。先生とは前の担当のころからの付き合いで、待合のほかにも、診療室と廊下に六鉢入れてもらっている。
「会社には」
「言うとりません。二週で替えるとは、私の判でしよります」
約束は月に一度なので、そのぶんの木と手間は、溝口さんの持ち出しに近い形になっている。この春からで、もう四本、余計に替えた。
「伝票の、合わんとです」
それがいちばん困る、という顔だった。
見に行くので一万、調べが要れば二日で二万、と言った。溝口さんは、控えの束のいちばん上に、何か書きつけた。
「今晩、見られますか。七時で閉まるとです」
「行きます」
西新までは、地下鉄で十分ほどだった。
地上に出ると、商店街はもう店じまいにかかっていた。八百屋の前で、店の人が青いシートを畳んでいる。鞄を提げた学生が三人、並んで追い越していった。空はまだ明るかったが、雲が低く、どこからか雨の匂いがした。
宮原歯科は、商店街から一本入った、古い二階建ての一階だった。硝子戸に、金の文字で医院の名前が書いてある。
溝口さんが、硝子戸の前で待っていた。
待合は、長椅子が二つと、雑誌の棚と、受付の小窓だけの、狭い部屋だった。消毒の匂いがした。
小窓の奥から、受付の人が出てきた。五十の手前くらいで、薄い水色の上っ張りを着ている。話しながら、小窓の硝子を布巾で拭いていた。拭くところが無くなっても、まだ拭いていた。
「戸締まりまで、おりますけん。どうぞ、ごゆっくり」
鉢は、小窓の脇の床に据えてあった。
膝の高さほどもある、口の広い大鉢だった。白地に藍で、唐草がぐるりと描いてある。縁に一か所、小さな欠けがあった。
中に、黒いプラ鉢が収まっていた。幸福の木、と溝口さんは言った。まっすぐな幹の先から、細長い葉が噴き出すように出ている。下のほうの葉が黄色く垂れて、先が茶色く枯れていた。
「先週の月曜に入れた木です」
溝口さんがプラ鉢の縁に指を掛けて、持ち上げた。
大鉢の底に、水が溜まっていた。指の一節ぶんくらいの深さで、灯りを映したまま、ほとんど動かない。
溝口さんは、腰のケースから小さな物差しを出して、底に立てた。目盛りを読んで、控えの紙に書きつけた。
「今日は、ここまで減っとります」
目印を三枚、貼った。小窓の下の腰板と、窓際の長椅子の端の壁と、硝子戸の脇の柱。離して貼る。
短い祝詞をあげた。八文字。
受付の人は、小窓を拭く手を止めて、それを見ていた。
翌日の晩、もう一度、宮原歯科に行った。
三枚とも、湿っていた。
紙が水を吸ったように波打って、乾いた跡のような色が残っている。湿気で濡れた紙の手触りではない。吸った側の湿りだった。
小窓の下の一枚は、左寄りから来ていた。長椅子の一枚は、右の下のほうから。柱の一枚は、真ん中より少し左。一枚では、線が一本引けるだけだ。三本を延ばすと、小窓の脇の床で交わった。
大鉢だった。
湿りは、植物と物で同じ色が出る。色では、木か鉢かは割れない。
ただ、木は替わっている。この春から、四本。植物の記憶は急がない。十日前にここへ来た木が、ここまで覚えているはずがなかった。
「鉢ですね」
「……やっぱり、そうですか」
溝口さんは、驚きもしなかった。確かめに来ただけの顔だった。
分からないのは、鉢が何をしているのか、のほうだった。木が憎いのなら、もっと早く枯らしそうなものだ。二週もかけて、根から腐らせる理由が無い。
「水の溜まっとった日は、分かりますか」
溝口さんは、鞄から束を出した。長椅子の座面の縁で、とん、とん、と揃えた。
控えの一枚ずつに、日付と、木の名前と、器底、水、と深さが書いてある。来るたびに測っていたらしい。
溝口さんは、黙って一枚ずつ繰った。繰りながら、指で日付をなぞっていた。
「……月曜です」
束を、膝の上で揃え直した。
「月曜の朝に来たときが、いちばん深かとです。火曜に来たら、ちょっと減っとる。木曜なら、半分くらい。日曜は休診ですけん、誰も入っとらんとに」
小窓の硝子を拭いていた受付の人が、布巾を止めた。
「月曜なら、大奥さんの日ですね」
先生のお母さんのことを、医院の中ではそう呼んでいたという。受付の人は、ここに勤めて二十年になると言った。
「大奥さんが、月曜の朝に、市場の帰りに花ば抱えて来よったとです。前の週の花ば抜いて、鉢ば洗うて、水ば張って、生け替えて。それが済んでから、開けよったとです」
三年前に亡くなるまで、一週も欠かさなかった。
「先生が、空けとくとは寂しか、ち言うて。それで、木ば入れてもらうごとなったとです」
受付の人は、また小窓を拭きはじめた。
西新の駅のホームで、帰りの電車を待った。
品名は、立っていた。
あの鉢は、月曜ごとに水をやっている。溝口さんは、私しかやりよらん、と言った。そうではなかった。もう一人、いや、もう一つ、やっているものがいる。
行の頭は、宮原歯科。品名は、水やり。壱。
書けば、入る。
トンネルの奥から、電車の来る風が吹いてきた。
藤崎の、小引き出しの音を思い出した。
巻き癖と書いて、時計ごと入った。巻き癖は、時計から出たものだった。
水やりは、あの鉢から出たものだ。
書けば、鉢ごと入る。先生の、お母さんの鉢が。
また、これだった。
戸が開いて、閉まった。乗らなかった。次の電車が来るまで、ホームの端に立っていた。
帳面は、鞄から出さなかった。
鉢は、木を枯らそうとしているのではない。
月曜の朝に、水を張る。前の週のものは、替わる。何十年か、そうやって世話をされてきた鉢が、その世話を覚えている。花のための世話を。
木には、それが合わない。切った花は水に浸けておくものだが、根のある木は、浸けておけば腐る。
それだけのことなら、合うものを入れればいい。
花だ。
あの鉢は、花を待っているのだ。月曜の朝に、市場の帰りの花が来るのを。三年も。
翌朝、溝口さんに電話をした。
一週間だけ、木を抜いて、花を入れてみたい、と言った。
「花、ですか」
電話の向こうで、紙を揃える音がした。
「先生に、訊いてみます」
昼過ぎに、折り返しがあった。受付の人から、先生に通してもらったという。
「よかよ、ち、先生が。月曜の朝、八時に開けてもらえます。木は、私が引き上げます」
日曜の晩に、天神の地下街の花屋で、花を買った。
何を買えばいいのか分からなかったので、一週間もつものを、と店の人に言った。白い菊と、黄色い小菊と、名前の分からない緑の枝を、新聞紙で包んでくれた。千五百円だった。
表の店に戻ると、本家が路地の口で、看板を下ろしていた。
「花ですか」
「仕事たい」
「はい」
本家は看板を壁に立てかけた。それから、俺の腕の中の新聞紙を見た。
「水に浸けとかんと、明日の朝までもちませんよ」
「分かっとる」
分かっていなかった。
「バケツ、店にありますけん」
本家は、一本裏の店のほうへ戻っていった。頭の上を、電車が通っていった。
月曜の朝、八時に宮原歯科の硝子戸をくぐった。
商店街では、リヤカーを引いてきた人が、もう店を広げていた。キャベツと、玉ねぎと、朝採りだという胡瓜が並んでいる。空は、相変わらず低く曇っていた。
溝口さんと、受付の人が待っていた。受付の人は、上っ張りを着て、もう小窓を拭いていた。
溝口さんが、プラ鉢を持ち上げた。
大鉢の底に、水が張ってあった。
このあいだより、ずっと深い。手の幅ほどもある。灯りを点ける前の、薄暗い待合の中で、水は澄んでいた。埃ひとつ浮いていない。汲んだばかりの水のようだった。
溝口さんが物差しを立てて、読んで、書いた。
目印の三枚を見て回った。木曜より、湿りが濃くなっていた。
木は、プラ鉢ごと、溝口さんが車へ運んでいった。
残った大鉢に、花を入れた。
新聞紙を開いて、菊を束のまま差し入れた。倒れた。枝を足した。枝のほうへ、菊がまとめて寄りかかった。
受付の人が、見かねて小窓から出てきた。
「ちょっと、よかですか」
受付の人は菊を一度抜いて、茎の先を鋏で斜めに切り、枝を奥に、菊を手前に差した。小菊を、あいだに散らした。それだけで、花が鉢の口の中に、ちゃんと立った。
「大奥さんの、見よう見まねです」
張ってあった水は、足しも抜きもしなかった。ちょうど、茎が浸かる深さだった。
それから一週間、宮原歯科には行かなかった。
表の店に立って、厄除けを売った。曇りの日が続いて、二度、小雨が降った。
次の月曜の朝、また八時に硝子戸をくぐった。
菊は、一週間ぶん萎れていた。小菊の花びらが、いくつか床に落ちていた。緑の枝だけが、まだ青かった。
溝口さんが、花を束ごと、そっと持ち上げた。
水は、張ってあった。
澄んでいた。一週間、花を浸けておいた水ではなかった。茎のぬめりも、濁りも無い。深さは、先週の月曜と同じだった。溝口さんが物差しを立てて、それを確かめた。
受付の人は、日曜は誰も来ていないと言った。
目印の三枚は、先週と変わっていなかった。濃くも、薄くもなっていない。
昼の休みに、先生に会った。
待合の長椅子に、並んで座った。先生は六十を少し過ぎたくらいで、白衣の袖を肘までまくっていた。両手を膝のあいだで組んで、話すあいだ、組んだ親指の先をずっと擦り合わせていた。
見たことを、そのまま話した。
月曜の朝ごとに、この鉢は水を張っている。中のものは、一週間で替わるものだと覚えている。花のための世話を、覚えている。木には、それが合わない。根が、水に浸かったままになる。
先生は、黙って聞いていた。途中で一度だけ、鉢の中の萎れた菊を見た。
「母は、水替えだけは、人にさせんかったとです」
親指が、止まった。
「花は、花屋さんに届けてもろうた週もあったとですけど。水だけは、自分で替えよりました。月曜の朝に」
「お母さんの花ば、待っとったとやなかでしょうか」
先生は、しばらく鉢を見ていた。
「……待たせとったとですね。三年も」
それきり、先生は何も言わなかった。小窓の奥で電話が一度鳴って、止んだ。
「花に、します」
長椅子の端で、溝口さんが、伝票の束を膝の上で揃えた。
「生け込みは、うちでも請けよります。月曜の朝、私が持ってきます」
「お願いします」
先生は立って、白衣の袖を下ろした。診療室へ戻りかけて、戸口のところで一度、鉢のほうを振り返った。
三日後、溝口さんが表の店に来た。
椅子に座ると、封筒と伝票の束を出して、束のほうを机の縁で二度揃えた。
見に行ったぶんと、あとの調べを合わせて、二万と言ってあった。溝口さんは、封筒から二万円を出して机に置いた。それから、千円札と五百円玉を、その横に並べた。
「これは」
「花代です」
「あれは、うちが勝手に買うたもんですけん」
「伝票の、合わんとです」
溝口さんは、それ以上言わなかった。千五百円は、机の上から動かなかった。
受け取った。晩に本家に言って、家計簿に付けてもらうことにした。
「会社のほうは、よかったとですか」
「生け込みは、私の判で足ります。木より、花のほうが単価の高かとです」
溝口さんは、少しだけ笑った。
束の中から控えを一枚抜いて、俺のほうへ向けた。
宮原歯科の欄だった。上から、ドラセナ、交換、の行が、日付を変えて何本も並んでいる。その下に一本、ほかより新しいインクで書き足してあった。
宮原歯科 大鉢 生け込み 毎週月曜
溝口さんの字だった。行の端に、溝口、と判が押してあった。
溝口さんは控えを束に戻して、机の縁で、とん、とん、と揃えた。揃えた束を鞄にしまって、帰っていった。
行が一本、立っていた。うちの帳面ではなかった。




