↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/67

第三十五話 刷り

 連休が明けて、どんたくが終わると、天神は急に夏の顔になった。昼を過ぎると日差しが机の天板まで届いて、厄除けの束に載せた石が、触るとぬるかった。デパートの正面を行く人の腕が、先週より白く見えた。

三時ごろ、女の人が客用の椅子の前で足を止めた。

四十の手前くらいだろうか。紺のカーディガンに灰色のスラックスで、首から社員証を下げている。昼休みに抜けてきたにしては、遅い時刻だった。

「元祖天神大上屋さん、で合っとりますか」

手に、うちの名刺を持っていた。角が丸くなっている。

「はい。大上です」

「三原(みはら)と申します」

三原さんは椅子に座って、社員証のストラップを指に一度巻きつけた。巻きつけてから、ほどいた。

那の津(なのつ)の印刷会社で、総務をしているという。名刺をもらった。丸二印刷株式会社、総務課、三原。

「うちの名刺は、どこで」

「工場の者のロッカーに、貼ってあったとです。誰が貼ったかは、分からんとですけど」

三原さんは、歩道のほうを一度見た。人が通っていくだけだった。

毎朝、機械を回すと、最初に出てくる一枚が真っ黒になる。どの機械でも、誰が回しても、その一枚だけ紙いっぱいにインクが乗って上がってくる。二枚目からは、何ともない。

「刷りはじめの何枚かは、どうせ捨てる紙ですけん、工場の者も最初は気にしとらんかったとです。去年の秋ごろからで」

ストラップが、また指に巻きついた。

「それが、この春に入った子が、三人続けて辞めまして。機械の前に立っとると、後ろから覗かれとる気のする、ち言うて」

「三人とも、ですか」

「三人とも、です。四月に入った子が、四人目になりそうで」

上に話が行く前に、なんとかしたいのだという。

「ただ、どこに頼んでよかか分からんとです。会社の名前で、そういう人ば呼んだ、ちなると、ちょっと」

三原さんは、そこで言葉を切った。そういう人の前で言ったのに、気づいたらしかった。

「すみません」

「よかです。そういう人ですけん」

見に行くので一万、調べが要れば二日で二万、と言った。

三原さんは、手帳を出した。

「見積書ば、先にもらえますか。これくらいなら私の判で通せるとですけど、紙は要るとです」

「明日、持っていきます」

「それで、中身のところなんですけど」

ボールペンの先が、手帳の上で止まった。

「お祓い、とかは書かんでいただけたら。設備の点検、とかにしていただけると」

「点検は、別に売りよるとです」

三原さんは、手帳から顔を上げた。

「一部屋、千五百円で。今度のは点検やなかけん、点検とは書けんとです」

しばらく、俺の顔を見ていた。冗談を言われたのかどうか、測っている顔だった。冗談ではなかった。

「……建物の調査、ではどうですか」

「それなら、します」

三原さんは、手帳に、建物調査、と書いた。書いてから、少し笑った。


 夕方、路地の口まで歩いて、本家に今夜は那の津だと言った。はい、と本家は言った。


 那の津までは、天神から歩いて二十分ほどだった。昭和通りを渡って長浜(ながはま)を抜けると、倉庫と工場の並ぶ一角に出る。倉庫の屋根の向こうに、競艇場の大きな屋根が見えた。

海の匂いがした。潮の香り、というほど澄んだものではない。岸壁の内に溜まった海の、重たい匂いだった。

丸二印刷は、灰色の三階建てだった。一階が工場で、シャッターが半分下りている。

三原さんが、通用口で待っていた。工場の者は、もう帰したという。

中は、インクと洗い油の匂いがした。外の匂いは、戸口を越えると消えた。

機械が三台、並んでいた。どれも俺の背丈より大きく、紙を送り込む側から吐き出す側まで、十歩ほどある。灯りを落とした工場の中で、機械の緑のランプだけが点いていた。

「辞めた子たちは、ここに立っとったとです」

三原さんは、吐き出す側の台を指した。刷り上がった紙が、そこに積まれていくのだという。

目印を三枚、貼った。一台目の脇の柱と、奥の壁と、通用口の横。離して貼る。

短い祝詞をあげた。八文字。

三原さんは通用口のところで、ストラップを握っていた。


 翌朝、七時半に通用口をくぐった。

工場には、もう人が入っていた。作業着の男が五、六人、それぞれの機械の前で何かしている。インクの匂いが、昨夜より濃かった。

三原さんが、年配の男の人を連れてきた。職長だという。六十に手が届くくらいで、額の上の髪がすっかり薄く、耳に鉛筆を挟んでいた。

「拝み屋さんね」

それだけ言って、一台目の機械のほうへ顎をしゃくった。

八時に、機械が回った。

低い音が床から上がってきて、紙が送られていく。吐き出す側の台に、一枚目が落ちた。

黒かった。

紙の端から端まで、墨を流したように黒い。刷られるはずの字も絵も、何も見えない。

二枚目は、白い紙に赤と青で刷れていた。スーパーのチラシだった。三枚目も、四枚目も、同じだった。

職長さんは、黒い一枚を抜いて、台の脇の箱に放り込んだ。箱の底には、同じ黒い紙が何枚も溜まっていた。

二台目も、三台目も、一枚目だけが黒かった。

三台目の前に立っていた若いのが、一度、肩越しに後ろを振り返った。後ろには、誰もいなかった。


 機械が落ち着いてから、目印を見て回った。

三枚とも、焦げていた。濃い。人ひとりぶんはある。

中心が、無かった。

柱の一枚も、奥の壁の一枚も、通用口の一枚も、紙の面がどこも同じ濃さで焦げている。どちらから浴びたのか、一枚も言っていなかった。線が一本も引けないので、交わる先も出ない。

この工場のどこか、ではない。工場ぜんたいに、かかっている。

裂けは、無かった。三枚とも、縁から縁まで見た。どこにも入っていない。

焦げているだけだった。

三枚を剥がして、鞄に入れた。


 昼の休みに、職長さんに話を聞いた。

工場の裏の、灰皿の置いてあるところだった。職長さんは煙草に火を点けて、一口目を横に吐いた。

「去年の秋から、ち聞きました」

「そうたい。最初はインクの出の悪かとかと思うて、ローラーば見たり、版ば替えたりしたけどね。どこも悪うなか」

「前にも、こういうことは」

「なか。四十年おって、なか」

「七年でも、十年でも。何か変わったことは、なかったですか」

職長さんは、しばらく煙草の先を見ていた。

「変わったとは、七年前たい」

製版の部屋が無くなった、と職長さんは言った。

二階の奥に、暗い部屋があった。フィルムを焼いて、それを版に焼きつける部屋だった。何人かいて、いちばん長い人は三十年いた。

「それが、機械で直に版ば焼けるごとなってね。フィルムの要らんごとなった。部屋ごと、要らんごとなった」

誰が決めたわけでもない、と職長さんは言った。よそもみんな、そうなった。そうしなければ、会社のほうが無くなる。

「若かとは、新しか機械ば覚えて残ったよ。長かとは、配送に回って、一年ぐらいで辞めた」

「その人は」

「安武(やすたけ)さん」

職長さんは、煙草を灰皿の縁で叩いた。

「毎朝、機械の回ったら、いちばんに刷り出しば見に下りてきよった。一枚目ば光に透かして、ルーペで覗いて。版の具合は刷り出しば見れば分かる、ち言うてね」

一枚目。

「恨んどるとしたら、あの人くらいやろうね。……ばってん、亡くなったげなよ」

「いつですか」

「二年ぐらい前かね。安武さんのところ、亡くなったげな、ち誰かが言いよった。通夜には、誰も行っとらんと思う。辞めた人やけん」

職長さんは煙草を揉み消して、工場のほうへ戻っていった。


 生きとるもんは、受けたらいかん。安藤さんにそう言われている。

げな、では足りなかった。

三原さんに頼んで、古い社員の名簿を見せてもらった。個人のことですけん、と三原さんは一度渋って、住所だけなら、と言った。

南区の井尻(いじり)だった。


 西鉄(にしてつ)の井尻の駅から、踏切を渡って、細い道を入った。

古い家が並んでいる。どの家も、軒が低い。昼過ぎの日が、道の片側だけを照らしていた。

角の煙草屋で、店番の奥さんに安武さんの家を訊いた。

「安武さん。二つ先の、トマトの鉢の出とる家よ」

「亡くなったち、聞いたとですけど」

「亡くなったとは、奥さん。美代子(みよこ)さん。二年前やったかね」

奥さんは、店先の台を布巾で拭きながら言った。

「ご主人は元気よ。毎朝、あのトマトに水ばやりよらす」

礼を言って、二つ先まで歩いた。

間口の狭い、二階建ての家だった。軒先に、トマトの苗の鉢が三つ並んでいる。黄色い花が、一つ二つ付いていた。

表札は、木の板に墨で書いたものだった。名前が二つ、並んでいた。


  安武修二

    美代子


 二年経っても、そのまま掛かっていた。

呼び鈴を押すと、しばらくして戸が開いた。

六十を過ぎたくらいの男の人だった。白髪を短く刈って、首にタオルを掛けている。灰色のポロシャツの胸ポケットに、小さなルーペが一つ差してあった。

名刺を出して、丸二印刷のことで話を聞いて回っている、と言った。嘘ではなかった。

安武さんは、名刺を目から少し離して読んだ。

「拝み屋」

「はい」

「丸二が、拝み屋ば雇うたとね」

笑いもしなかったし、怒りもしなかった。上がり框(かまち)に腰を下ろして、俺にも座れと言った。

「何か、出よるとね」

「まだ、分からんとです」

「そうね」

それ以上は、訊いてこなかった。

工場の昔の話を、と頼むと、安武さんは少し話した。二階の奥の暗い部屋。フィルムの酢っぱい匂い。朝いちばんの刷り出し。

「一枚目ば見れば、その日の版の具合の分かると。網の点が潰れとるか、飛んどるか」

胸のポケットのルーペに、指が触れた。取り出しはしなかった。

「もう、見る版も無かけどね」

「会社のことは」

安武さんは、軒先のトマトの鉢を見ていた。

「恨んどるよ」

あっさりした声だった。

「会社は、なんも悪うなか。そやけん、腹の立つ」

それだけだった。

恨み言を並べることもなかったし、誰かの名前を出すこともなかった。今朝トマトに水をやったかどうかを思い出しているような顔で、しばらく黙っていた。

俺は、黒い一枚のことを言わなかった。

帰りぎわ、安武さんは戸口まで出てきて、鉢の一つの向きを少し変えた。花を、日の当たるほうへ向けていた。


 井尻の駅まで、来た道を戻った。

あの黒い一枚は、あの人から出ている。

そう読んだ。人ひとりぶんの焦げ。去年の秋から。毎朝いちばんに刷り出しを見に下りてきた人。会社は悪くない、だから腹が立つ、と言った人。

品名は、立つ。

行の頭は、那の津。品名は、安武修二(しゅうじ)。壱。

書けば、入る。

坂口(さかぐち)の家で、自分の名前を書いたことはある。人の名前を書いたことは、無い。

書くのは、あの人ではない。工場にかかっているもののほうだ。

恨み。

行の頭は、那の津。品名は、恨み。壱。

そこで、藤崎(ふじさき)の小引き出しの音を思い出した。

城戸(きど)さんの時計のときも、こうやって品名を替えた。時計ではなく巻き癖と書けば、時計は引き出しに残る。そう読んで、書いた。

時計ごと、入った。

巻き癖は、時計から出たものだった。

恨みは、あの人から出たものだ。

踏切が鳴りはじめた。遮断機が下りてきて、目の前で止まった。電車が通っていくあいだ、そこに立っていた。

遮断機が上がっても、渡らなかった。

携帯を出して、安藤さんにかけた。


 「なんか用か」

「那の津の印刷会社です。工場ぜんたいに、焦げの出とります。濃かです。裂けはなかです」

「ああ」

「出どころは、七年前に部署ごと無うなった職人さんです。……生きとる人から、出とるごたるとです」

間は、無かった。

「受けるな」

「受けられます。品名も立っとります」

「受けるな」

二度目は、声が低かった。一度目より、ずっと。

それきり、何も続かなかった。なんでですか、と訊けば、知らん、と返ってくるのは分かっていた。

「……分かりました」

それで切れた。

後ろから来た自転車が、俺をよけて踏切を渡っていった。


 その晩、四畳半に戻ると、座卓の上に白い箱が載っていた。

本家が、ケーキを二つ買ってきていた。苺のショートケーキだった。

なんでかは、訊かなかった。本家も言わなかった。紙の皿を二枚出して、一つずつ載せて、フォークを添えた。

食いながら、那の津のことを考えた。

受けるな、と言われた。受けない。

受けなければ、明日の朝も一枚目は黒く上がる。四月に入った子は、たぶん辞める。

祓えば、止まる。打てば一時間で済む。それは初めから分かっている。

うちは、祓わない。本家も祓わない。

祓う人なら、知っている。

フォークの先で、苺を皿の端によけた。最後に食うつもりだった。

向かいで、本家も苺をよけていた。

「那の津は、断る」

「はい」

「祓いの要る仕事やけん、播谷(はりや)さんに回す」

「はい」

本家は、スポンジを小さく切って口に運んだ。

「調べたぶんは、どげんしますか」

「取る。会社やけん、請求書の要る」

「用紙は、ありますよ」

本家は座卓の下から、請求書の綴りを出した。ホームセンターの値札が、表紙の隅に付いたままだった。いつ買ったのかは、知らなかった。

苺は、二人とも最後に食った。


 翌日の昼、丸二印刷の事務所で、三原さんに断った。

事務所の隅を衝立で仕切っただけの、応接だった。衝立の向こうで、電話が鳴っている。

「うちでは、手に負えんとです」

三原さんは、社員証のストラップを指に巻いた。

「お金なら、上に話します。額が大きゅうなるなら、そう言うてもらえたら」

「金のことやなかとです」

「なら、何が」

答えられなかった。

手に負えない、は嘘ではない。けれど、本当のことでもなかった。手はある。品名も立っている。書けば入る。入れてはいけない気がする、というだけのことを、この人にどう言えばいいのか分からなかった。

「……すみません」

三原さんは、ストラップをほどいた。

「四月の子が、今週いっぱいで、ち言うてきとるとです」

「祓いの人ば、知っとります。腕は確かです。今晩のうちに、話ば通します」

三原さんは、しばらく衝立の模様を見ていた。

「その方の見積書も、建物調査で書いてもらえますかね」

「言うときます」

「お願いします」

調べの二日ぶん、二万円の請求書を渡した。但し書きには、建物調査費、と書いた。三原さんは受け取って、判を押す欄を指でなぞった。


 晩に、播谷さんにかけた。

何度か鳴ってから、出た。後ろで、店内の放送が流れていた。

「大上くん。いま品出し中やけん、手短に」

「祓いの要る仕事のあるとです。那の津の印刷会社で」

「あんたは」

「うちは、受けられんとです」

播谷さんは、それ以上訊かなかった。段ボールを台に置くような音がした。

「場所は、割れとると」

「割れんとです。工場ぜんたいに、かかっとります。焦げで、濃かです。裂けはなかです」

「ふうん。ぜんたいね」

「毎朝、機械の一枚目が黒う上がるとです」

「一枚目だけね。律儀かね」

何が律儀なのかは、言わなかった。

「下見は、あんたがしたとやろ。なら、三万でよか。見には行くばってん、そっちは取らん」

「お願いします」

「次の休みが水曜やけん、その晩に行く」

総務の三原さん、と言って、番号を読み上げた。播谷さんは、どこかに書きつけているらしかった。

「あ、そういや」

切りかけて、播谷さんが言った。

「この前、親父に、安藤さんに断られた話ばしたとよ。札の足らんち言われた、ち。そしたら、誰ね、ち言われた」

「はあ」

「名簿には載っとるとに。親父の字で。ぼけてきたかねえ」

播谷さんは笑った。

「そうですか」

「ほんなら、水曜に」

それで切れた。

安藤さんには、かけなかった。


 十日ほどして、三原さんから電話があった。

表の店で、昼を過ぎたころだった。日差しがもう、机の半分まで来ていた。

「その節は、お世話になりました」

播谷さんは水曜の晩に来て、一時間ほどで帰ったという。

「次の朝から、一枚目の、ちゃんと刷れとるとです。工場のほうから、収まったげな、ち上がってきとります」

げな、と三原さんは言った。総務の机から、工場は見えない。

「四月の子も、残るち言うてくれて」

「よかったです」

「紹介までしていただいて、本当に。あの方の見積書も、ちゃんと建物調査で来ました」

三原さんは、電話の向こうで少し笑った。

「請求書のほうは、月末に振り込みますけん」

「はい」

電話を切った。

机の上で、厄除けの束に載せた石が、日なたに出てぬるくなっていた。

消えたのは、あの人の恨みだ。

祓えば、何だったのかが二度と分からない。だから俺は祓わない。今度は、分かっている。安武修二という人の、会社への恨みだった。分かっていて、消えた。

それでいいはずだった。

何かが、引っかかっていた。何に引っかかっているのかは、自分でも言えなかった。

石を、日陰のほうへ寄せた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。