第三十五話 刷り
連休が明けて、どんたくが終わると、天神は急に夏の顔になった。昼を過ぎると日差しが机の天板まで届いて、厄除けの束に載せた石が、触るとぬるかった。デパートの正面を行く人の腕が、先週より白く見えた。
三時ごろ、女の人が客用の椅子の前で足を止めた。
四十の手前くらいだろうか。紺のカーディガンに灰色のスラックスで、首から社員証を下げている。昼休みに抜けてきたにしては、遅い時刻だった。
「元祖天神大上屋さん、で合っとりますか」
手に、うちの名刺を持っていた。角が丸くなっている。
「はい。大上です」
「三原と申します」
三原さんは椅子に座って、社員証のストラップを指に一度巻きつけた。巻きつけてから、ほどいた。
那の津の印刷会社で、総務をしているという。名刺をもらった。丸二印刷株式会社、総務課、三原。
「うちの名刺は、どこで」
「工場の者のロッカーに、貼ってあったとです。誰が貼ったかは、分からんとですけど」
三原さんは、歩道のほうを一度見た。人が通っていくだけだった。
毎朝、機械を回すと、最初に出てくる一枚が真っ黒になる。どの機械でも、誰が回しても、その一枚だけ紙いっぱいにインクが乗って上がってくる。二枚目からは、何ともない。
「刷りはじめの何枚かは、どうせ捨てる紙ですけん、工場の者も最初は気にしとらんかったとです。去年の秋ごろからで」
ストラップが、また指に巻きついた。
「それが、この春に入った子が、三人続けて辞めまして。機械の前に立っとると、後ろから覗かれとる気のする、ち言うて」
「三人とも、ですか」
「三人とも、です。四月に入った子が、四人目になりそうで」
上に話が行く前に、なんとかしたいのだという。
「ただ、どこに頼んでよかか分からんとです。会社の名前で、そういう人ば呼んだ、ちなると、ちょっと」
三原さんは、そこで言葉を切った。そういう人の前で言ったのに、気づいたらしかった。
「すみません」
「よかです。そういう人ですけん」
見に行くので一万、調べが要れば二日で二万、と言った。
三原さんは、手帳を出した。
「見積書ば、先にもらえますか。これくらいなら私の判で通せるとですけど、紙は要るとです」
「明日、持っていきます」
「それで、中身のところなんですけど」
ボールペンの先が、手帳の上で止まった。
「お祓い、とかは書かんでいただけたら。設備の点検、とかにしていただけると」
「点検は、別に売りよるとです」
三原さんは、手帳から顔を上げた。
「一部屋、千五百円で。今度のは点検やなかけん、点検とは書けんとです」
しばらく、俺の顔を見ていた。冗談を言われたのかどうか、測っている顔だった。冗談ではなかった。
「……建物の調査、ではどうですか」
「それなら、します」
三原さんは、手帳に、建物調査、と書いた。書いてから、少し笑った。
夕方、路地の口まで歩いて、本家に今夜は那の津だと言った。はい、と本家は言った。
那の津までは、天神から歩いて二十分ほどだった。昭和通りを渡って長浜を抜けると、倉庫と工場の並ぶ一角に出る。倉庫の屋根の向こうに、競艇場の大きな屋根が見えた。
海の匂いがした。潮の香り、というほど澄んだものではない。岸壁の内に溜まった海の、重たい匂いだった。
丸二印刷は、灰色の三階建てだった。一階が工場で、シャッターが半分下りている。
三原さんが、通用口で待っていた。工場の者は、もう帰したという。
中は、インクと洗い油の匂いがした。外の匂いは、戸口を越えると消えた。
機械が三台、並んでいた。どれも俺の背丈より大きく、紙を送り込む側から吐き出す側まで、十歩ほどある。灯りを落とした工場の中で、機械の緑のランプだけが点いていた。
「辞めた子たちは、ここに立っとったとです」
三原さんは、吐き出す側の台を指した。刷り上がった紙が、そこに積まれていくのだという。
目印を三枚、貼った。一台目の脇の柱と、奥の壁と、通用口の横。離して貼る。
短い祝詞をあげた。八文字。
三原さんは通用口のところで、ストラップを握っていた。
翌朝、七時半に通用口をくぐった。
工場には、もう人が入っていた。作業着の男が五、六人、それぞれの機械の前で何かしている。インクの匂いが、昨夜より濃かった。
三原さんが、年配の男の人を連れてきた。職長だという。六十に手が届くくらいで、額の上の髪がすっかり薄く、耳に鉛筆を挟んでいた。
「拝み屋さんね」
それだけ言って、一台目の機械のほうへ顎をしゃくった。
八時に、機械が回った。
低い音が床から上がってきて、紙が送られていく。吐き出す側の台に、一枚目が落ちた。
黒かった。
紙の端から端まで、墨を流したように黒い。刷られるはずの字も絵も、何も見えない。
二枚目は、白い紙に赤と青で刷れていた。スーパーのチラシだった。三枚目も、四枚目も、同じだった。
職長さんは、黒い一枚を抜いて、台の脇の箱に放り込んだ。箱の底には、同じ黒い紙が何枚も溜まっていた。
二台目も、三台目も、一枚目だけが黒かった。
三台目の前に立っていた若いのが、一度、肩越しに後ろを振り返った。後ろには、誰もいなかった。
機械が落ち着いてから、目印を見て回った。
三枚とも、焦げていた。濃い。人ひとりぶんはある。
中心が、無かった。
柱の一枚も、奥の壁の一枚も、通用口の一枚も、紙の面がどこも同じ濃さで焦げている。どちらから浴びたのか、一枚も言っていなかった。線が一本も引けないので、交わる先も出ない。
この工場のどこか、ではない。工場ぜんたいに、かかっている。
裂けは、無かった。三枚とも、縁から縁まで見た。どこにも入っていない。
焦げているだけだった。
三枚を剥がして、鞄に入れた。
昼の休みに、職長さんに話を聞いた。
工場の裏の、灰皿の置いてあるところだった。職長さんは煙草に火を点けて、一口目を横に吐いた。
「去年の秋から、ち聞きました」
「そうたい。最初はインクの出の悪かとかと思うて、ローラーば見たり、版ば替えたりしたけどね。どこも悪うなか」
「前にも、こういうことは」
「なか。四十年おって、なか」
「七年でも、十年でも。何か変わったことは、なかったですか」
職長さんは、しばらく煙草の先を見ていた。
「変わったとは、七年前たい」
製版の部屋が無くなった、と職長さんは言った。
二階の奥に、暗い部屋があった。フィルムを焼いて、それを版に焼きつける部屋だった。何人かいて、いちばん長い人は三十年いた。
「それが、機械で直に版ば焼けるごとなってね。フィルムの要らんごとなった。部屋ごと、要らんごとなった」
誰が決めたわけでもない、と職長さんは言った。よそもみんな、そうなった。そうしなければ、会社のほうが無くなる。
「若かとは、新しか機械ば覚えて残ったよ。長かとは、配送に回って、一年ぐらいで辞めた」
「その人は」
「安武さん」
職長さんは、煙草を灰皿の縁で叩いた。
「毎朝、機械の回ったら、いちばんに刷り出しば見に下りてきよった。一枚目ば光に透かして、ルーペで覗いて。版の具合は刷り出しば見れば分かる、ち言うてね」
一枚目。
「恨んどるとしたら、あの人くらいやろうね。……ばってん、亡くなったげなよ」
「いつですか」
「二年ぐらい前かね。安武さんのところ、亡くなったげな、ち誰かが言いよった。通夜には、誰も行っとらんと思う。辞めた人やけん」
職長さんは煙草を揉み消して、工場のほうへ戻っていった。
生きとるもんは、受けたらいかん。安藤さんにそう言われている。
げな、では足りなかった。
三原さんに頼んで、古い社員の名簿を見せてもらった。個人のことですけん、と三原さんは一度渋って、住所だけなら、と言った。
南区の井尻だった。
西鉄の井尻の駅から、踏切を渡って、細い道を入った。
古い家が並んでいる。どの家も、軒が低い。昼過ぎの日が、道の片側だけを照らしていた。
角の煙草屋で、店番の奥さんに安武さんの家を訊いた。
「安武さん。二つ先の、トマトの鉢の出とる家よ」
「亡くなったち、聞いたとですけど」
「亡くなったとは、奥さん。美代子さん。二年前やったかね」
奥さんは、店先の台を布巾で拭きながら言った。
「ご主人は元気よ。毎朝、あのトマトに水ばやりよらす」
礼を言って、二つ先まで歩いた。
間口の狭い、二階建ての家だった。軒先に、トマトの苗の鉢が三つ並んでいる。黄色い花が、一つ二つ付いていた。
表札は、木の板に墨で書いたものだった。名前が二つ、並んでいた。
安武修二
美代子
二年経っても、そのまま掛かっていた。
呼び鈴を押すと、しばらくして戸が開いた。
六十を過ぎたくらいの男の人だった。白髪を短く刈って、首にタオルを掛けている。灰色のポロシャツの胸ポケットに、小さなルーペが一つ差してあった。
名刺を出して、丸二印刷のことで話を聞いて回っている、と言った。嘘ではなかった。
安武さんは、名刺を目から少し離して読んだ。
「拝み屋」
「はい」
「丸二が、拝み屋ば雇うたとね」
笑いもしなかったし、怒りもしなかった。上がり框に腰を下ろして、俺にも座れと言った。
「何か、出よるとね」
「まだ、分からんとです」
「そうね」
それ以上は、訊いてこなかった。
工場の昔の話を、と頼むと、安武さんは少し話した。二階の奥の暗い部屋。フィルムの酢っぱい匂い。朝いちばんの刷り出し。
「一枚目ば見れば、その日の版の具合の分かると。網の点が潰れとるか、飛んどるか」
胸のポケットのルーペに、指が触れた。取り出しはしなかった。
「もう、見る版も無かけどね」
「会社のことは」
安武さんは、軒先のトマトの鉢を見ていた。
「恨んどるよ」
あっさりした声だった。
「会社は、なんも悪うなか。そやけん、腹の立つ」
それだけだった。
恨み言を並べることもなかったし、誰かの名前を出すこともなかった。今朝トマトに水をやったかどうかを思い出しているような顔で、しばらく黙っていた。
俺は、黒い一枚のことを言わなかった。
帰りぎわ、安武さんは戸口まで出てきて、鉢の一つの向きを少し変えた。花を、日の当たるほうへ向けていた。
井尻の駅まで、来た道を戻った。
あの黒い一枚は、あの人から出ている。
そう読んだ。人ひとりぶんの焦げ。去年の秋から。毎朝いちばんに刷り出しを見に下りてきた人。会社は悪くない、だから腹が立つ、と言った人。
品名は、立つ。
行の頭は、那の津。品名は、安武修二。壱。
書けば、入る。
坂口の家で、自分の名前を書いたことはある。人の名前を書いたことは、無い。
書くのは、あの人ではない。工場にかかっているもののほうだ。
恨み。
行の頭は、那の津。品名は、恨み。壱。
そこで、藤崎の小引き出しの音を思い出した。
城戸さんの時計のときも、こうやって品名を替えた。時計ではなく巻き癖と書けば、時計は引き出しに残る。そう読んで、書いた。
時計ごと、入った。
巻き癖は、時計から出たものだった。
恨みは、あの人から出たものだ。
踏切が鳴りはじめた。遮断機が下りてきて、目の前で止まった。電車が通っていくあいだ、そこに立っていた。
遮断機が上がっても、渡らなかった。
携帯を出して、安藤さんにかけた。
「なんか用か」
「那の津の印刷会社です。工場ぜんたいに、焦げの出とります。濃かです。裂けはなかです」
「ああ」
「出どころは、七年前に部署ごと無うなった職人さんです。……生きとる人から、出とるごたるとです」
間は、無かった。
「受けるな」
「受けられます。品名も立っとります」
「受けるな」
二度目は、声が低かった。一度目より、ずっと。
それきり、何も続かなかった。なんでですか、と訊けば、知らん、と返ってくるのは分かっていた。
「……分かりました」
それで切れた。
後ろから来た自転車が、俺をよけて踏切を渡っていった。
その晩、四畳半に戻ると、座卓の上に白い箱が載っていた。
本家が、ケーキを二つ買ってきていた。苺のショートケーキだった。
なんでかは、訊かなかった。本家も言わなかった。紙の皿を二枚出して、一つずつ載せて、フォークを添えた。
食いながら、那の津のことを考えた。
受けるな、と言われた。受けない。
受けなければ、明日の朝も一枚目は黒く上がる。四月に入った子は、たぶん辞める。
祓えば、止まる。打てば一時間で済む。それは初めから分かっている。
うちは、祓わない。本家も祓わない。
祓う人なら、知っている。
フォークの先で、苺を皿の端によけた。最後に食うつもりだった。
向かいで、本家も苺をよけていた。
「那の津は、断る」
「はい」
「祓いの要る仕事やけん、播谷さんに回す」
「はい」
本家は、スポンジを小さく切って口に運んだ。
「調べたぶんは、どげんしますか」
「取る。会社やけん、請求書の要る」
「用紙は、ありますよ」
本家は座卓の下から、請求書の綴りを出した。ホームセンターの値札が、表紙の隅に付いたままだった。いつ買ったのかは、知らなかった。
苺は、二人とも最後に食った。
翌日の昼、丸二印刷の事務所で、三原さんに断った。
事務所の隅を衝立で仕切っただけの、応接だった。衝立の向こうで、電話が鳴っている。
「うちでは、手に負えんとです」
三原さんは、社員証のストラップを指に巻いた。
「お金なら、上に話します。額が大きゅうなるなら、そう言うてもらえたら」
「金のことやなかとです」
「なら、何が」
答えられなかった。
手に負えない、は嘘ではない。けれど、本当のことでもなかった。手はある。品名も立っている。書けば入る。入れてはいけない気がする、というだけのことを、この人にどう言えばいいのか分からなかった。
「……すみません」
三原さんは、ストラップをほどいた。
「四月の子が、今週いっぱいで、ち言うてきとるとです」
「祓いの人ば、知っとります。腕は確かです。今晩のうちに、話ば通します」
三原さんは、しばらく衝立の模様を見ていた。
「その方の見積書も、建物調査で書いてもらえますかね」
「言うときます」
「お願いします」
調べの二日ぶん、二万円の請求書を渡した。但し書きには、建物調査費、と書いた。三原さんは受け取って、判を押す欄を指でなぞった。
晩に、播谷さんにかけた。
何度か鳴ってから、出た。後ろで、店内の放送が流れていた。
「大上くん。いま品出し中やけん、手短に」
「祓いの要る仕事のあるとです。那の津の印刷会社で」
「あんたは」
「うちは、受けられんとです」
播谷さんは、それ以上訊かなかった。段ボールを台に置くような音がした。
「場所は、割れとると」
「割れんとです。工場ぜんたいに、かかっとります。焦げで、濃かです。裂けはなかです」
「ふうん。ぜんたいね」
「毎朝、機械の一枚目が黒う上がるとです」
「一枚目だけね。律儀かね」
何が律儀なのかは、言わなかった。
「下見は、あんたがしたとやろ。なら、三万でよか。見には行くばってん、そっちは取らん」
「お願いします」
「次の休みが水曜やけん、その晩に行く」
総務の三原さん、と言って、番号を読み上げた。播谷さんは、どこかに書きつけているらしかった。
「あ、そういや」
切りかけて、播谷さんが言った。
「この前、親父に、安藤さんに断られた話ばしたとよ。札の足らんち言われた、ち。そしたら、誰ね、ち言われた」
「はあ」
「名簿には載っとるとに。親父の字で。ぼけてきたかねえ」
播谷さんは笑った。
「そうですか」
「ほんなら、水曜に」
それで切れた。
安藤さんには、かけなかった。
十日ほどして、三原さんから電話があった。
表の店で、昼を過ぎたころだった。日差しがもう、机の半分まで来ていた。
「その節は、お世話になりました」
播谷さんは水曜の晩に来て、一時間ほどで帰ったという。
「次の朝から、一枚目の、ちゃんと刷れとるとです。工場のほうから、収まったげな、ち上がってきとります」
げな、と三原さんは言った。総務の机から、工場は見えない。
「四月の子も、残るち言うてくれて」
「よかったです」
「紹介までしていただいて、本当に。あの方の見積書も、ちゃんと建物調査で来ました」
三原さんは、電話の向こうで少し笑った。
「請求書のほうは、月末に振り込みますけん」
「はい」
電話を切った。
机の上で、厄除けの束に載せた石が、日なたに出てぬるくなっていた。
消えたのは、あの人の恨みだ。
祓えば、何だったのかが二度と分からない。だから俺は祓わない。今度は、分かっている。安武修二という人の、会社への恨みだった。分かっていて、消えた。
それでいいはずだった。
何かが、引っかかっていた。何に引っかかっているのかは、自分でも言えなかった。
石を、日陰のほうへ寄せた。




