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第三十四話 今泉 夕涼み 受 壱

 天神の桜がすっかり葉になって、昼は上着を脱いで歩く人が増えた。机の上の石は、もう文鎮の役をしていない。風の無い日が続いている。

客用の椅子に、知らない男の人が座って、しばらく携帯を見て、立っていった。こちらを一度も見なかった。


 夕方近くになって、女の人が机の前で足を止めた。

五十くらいで、髪を短く切っている。黒いシャツの袖を、肘までまくっていた。

篠原(しのはら)さんだった。

「あんた、まだここでやりよったとね」

低い声は、去年の夏のままだった。

客用の椅子に座ると、篠原さんは膝の上で手を組んだ。

「今泉(いまいずみ)のビルね、持ち主の替わったとよ。去年の暮れに」

新しい持ち主は、屋上をビアガーデンにするという。業者はもう入っていて、来週の金曜に開ける。

「反対したとよ。前に人の落ちたとこやけん、て。取り合うてもらえんやった」

「そうですか」

「いまも、夜中に上がっていく音のすると。扉の前まで行って、降りてくる。うちの天井の上ば、行ったり来たりしよる」

篠原さんは、一度だけ目を伏せた。

「そこに、酒の入ったお客さんば上げるとよ。前のごとなるかもしれん」

あの屋上の縁を、俺は思い出していた。柵の内側に残った、古い穴の列。昔そこが座る場所だったから、座ろうとした人の、丁寧な手つき。

「あのときの仕事ば、済ませとらんとです」

そう言うと、篠原さんは少しだけ口の端を上げた。

「覚えとったね」

「持ち主の方に、会えますか」

「昼間は、上で業者さんと一緒におらすよ。日高(ひだか)さん、ち言う人」


 翌日の昼、今泉まで歩いた。

ビルは、九ヶ月前と同じ顔をしていた。タイル張りの壁に、塗り重ねた看板。いちばん下の層に、消えかけた「洋裁」の字が透けている。一階の篠原さんの店は、まだ閉まっていた。

外階段の下にトラックが二台停まっていて、荷台から木の板と、畳んだテーブルが下ろされていた。

四階と屋上のあいだの踊り場に渡してあった柵は、外されていた。屋上の扉は開け放してあって、錠の付いたまま、壁に寄せて留めてあった。


 屋上は、明るかった。

コンクリートの上に、木の床が半分まで張られていた。職人が二人、膝をついて板を打っている。頭の上には電球を連ねた線が縦横に渡してあって、昼の光の中で、どれも点いていなかった。隅に、背の高い電気ストーブが四台、ビニールを被ったまま並んでいる。

物干しの櫓は、無かった。給水塔だけが、前と同じところに立っていた。

柵は付け替えられていた。胸の高さの新しい鉄の柵が、縁から少し内側を囲っている。古い穴の列は、張られたばかりの木の床の下に隠れていた。

「拝み屋さんね」

柵のそばにいた男の人が、こちらへ歩いてきた。

四十前後だろうか。よく日に焼けていて、作業着の上着に、磨いた革靴を履いていた。

名刺を渡すと、日高さんは裏まで見てから、胸のポケットに入れた。天神と大名(だいみょう)で、店を三軒やっているという。

「篠原さんから聞いとるよ。前に、ここで人の落ちたときの」

「はい」

「柵は、見てもろうた?」

日高さんは、新しい柵を拳で二度叩いた。低い音がした。

「基準より高うしとる。酔うたくらいじゃ越えられん」

南西の角に、テーブルが一つだけ、先に据えてあった。椅子が二脚、向かい合っている。

「ここが特等席。天神の灯りの、いちばんよう見える」

あの晩、空気が座っていた角だった。

「夜中に、ここへ上がってくる人がおるそうです」

「それも聞いとる」日高さんは笑った。「人ば呼ぶもんのおるなら、繁盛するやろうもん」

すぐには、返せなかった。

同じことを、俺も考えたことがある。九ヶ月前、ここから天神まで歩いて帰る道で。

「開ける前に、神主さんにも来てもらう段取りはしとる。そこは、ちゃんとせんとね」

日高さんは、もう一度柵を叩いた。

「落ちた人は、自分で上がったとやろ」

分かりません、と俺は言った。

本当に分からなかった。あの人が呼ばれて上がったのか、自分の足で上がって、そこで呼ばれたのか。確かめる前に、あの人は柵の向こうへ流れた。

危ないと言い切れるものを、俺は何も持っていなかった。

「一晩だけ、上がらせてもらえませんか。夜中に」

「それは、ちょっとね」

日高さんは、困った顔をした。悪い顔ではなかった。

「開ける前に何かあったら、うちの責任になるけん」

筋は、向こうに通っていた。

階段を降りるあいだ、板を打つ音が、頭の上でずっと鳴っていた。


 水曜の夕方、篠原さんから電話があった。店に来てくれ、という。

篠原さんの店は、カウンターに八席の、細長い店だった。開ける前の時間で、明かりは半分しか点いていない。篠原さんはカウンターの内側で、氷を割っていた。

「日高さんの話は、聞いたよ」

篠原さんは手を拭いて、カウンターに鍵を一本置いた。

新しい、銀色の鍵だった。

「明日の朝の六時までに、返して」

どうやって、とは訊けなかった。訊いても答えてもらえる気がしなかったし、答えを聞いてどうなるものでもなかった。

あの夏、俺はこの人の一言で引き下がった。人の落ちたばかりのビルで、鍵を貸してくれと言うのか、と。筋が通らないことは、俺にも分かった。

いまも、筋は通っていない。鍵の持ち主は日高さんで、篠原さんではない。

俺は、鍵を取った。

「開けるのは、明後日やけんね」

篠原さんは、また氷を割りはじめた。


 天神に戻って、店を畳んだ。

机と椅子を置き場へ運んでいると、本家が路地の口から出てきて、客用の椅子を一脚持った。

「今晩は、今泉に行く。遅くなる」

「はい」

本家は椅子を抱えたまま、少し黙った。

「屋上のあれ、なんやったとですか」

あの晩のことを、本家は見ていない。表の店に残って、俺が帰るのを待っていた。帰ってきた俺が、取れんやった、と言ったのを聞いただけだ。それから九ヶ月、一度も訊かれなかった。

「人ば呼ぶもんや」

「呼ぶ」

「住み込みの子たちが、晩になると屋上に上がって、縁に並んで涼みよったげな。その続きば、待っとる。上がってくる者ば」

本家は、何も言わなかった。

抱えていた客用の椅子を、一度だけ見下ろした。

それから、置き場に椅子を積んで、自分の店のほうへ戻っていった。


 一時を回ってから、今泉まで歩いた。

風は無かったが、夜はまだ冷えた。篠原さんの店の明かりが、裏の路地に細く漏れていた。

外階段を上がった。

段は数えなかった。五十六あることは知っている。

四階の踊り場で、電球が一つ、切れかけて瞬いていた。

鍵は、すんなり回った。

屋上に出て、扉を閉めた。つまみを回すと、錠の掛かる音がした。

鍵穴は、階段の側にあった。つまみは、屋上の側についている。

錠の上では、屋上のほうが内なのだ。空の下に出てきたのに、俺は、閉じこもる側にいる。

あの夏、この扉に錠は無かった。錠が付いて、俺は戻れなくなった。その錠を、今夜は自分で掛けている。


 屋上は、暗かった。

張り終えた木の床が、天神のほうの明かりを薄く照り返していた。頭の上の電球は、どれも消えている。テーブルは畳まれて壁際に積まれ、椅子は重ねて紐で縛ってあった。ストーブのビニールは、もう外されていた。

南西の角に、特等席のテーブルが据わっていた。

その向こう、新しい柵の外の、縁のところに、あれがいた。

姿はない。輪郭もない。ただ、そこだけ空気が座っている。柵が高くなったことも、床が張られたことも知らない顔で、四十年ぶんそうしてきたのと同じ縁に腰かけて、足を垂らしている。

並んで座っているのだ、と思った。何人かが、肩を寄せて。晩になれば一人、また一人と上がってきて、空いたところに座る。その空いたところを、あれは待っている。

目印は、あの夏に黄ばんだ。場の色だ。それは分かっている。分かっていて、俺には、そこに並んだ肩が見える気がした。

並んでいたのが何人でも、覚えているのは、この屋上一つだ。

特等席のテーブルの脇に、膝をついた。

帳面を開いた。筆ペンの蓋を、口で咥えて抜いた。

下で、鉄の音がした。

誰かが、外階段を上がってくる。速くも遅くもない。用事があって歩く速さだった。

あの夏と、同じ足音だった。

俺は、立たなかった。

扉には、錠が掛かっている。

短い祝詞をあげた。八文字。

「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」

あたりが張った。

足音は止まらなかった。四階の踊り場を回って、最後の七段を上がってくる。

筆を下ろした。

扉の向こうで、ノブが回った。

錠に当たって、止まった。


  今泉 夕涼み 受 壱


 書き終えると、張ったものが落ちた。

縁には、何も座っていなかった。新しい柵の向こうに、夜の今泉が低く広がっているだけだった。

扉の向こうは、静かだった。

しばらくして、足音が降りていった。四階の踊り場で一度止まって、それから下まで、同じ速さで降りていった。

誰だったのかは、見なかった。

あの晩は、五秒が足りなかった。今夜の四十秒は、錠が持った。


 すぐには降りなかった。

木の床に、腰を下ろした。まだ新しい木の匂いがした。

天神の灯りが、ビルの隙間に見えた。日高さんが、いちばんよう見える、と言った灯りだ。

帳面を閉じて、膝の上に置いた。

いまの一行で、あれはうちのものになった。

上がってきた理由を、数え直そうとした。篠原さんの依頼がある。済ませとらん、と自分で言った仕事がある。明後日にはこの床を酒の入った客が埋めて、連休になれば、もっと埋める。そこまでは、誰の前でも言える。

その下に、もう一つあった。

机と椅子しか目に入らない店に、人を呼ぶもの。

日高さんは、それを繁盛の種だと言った。口に出して言った。俺は言わなかった。言わなかっただけで、九ヶ月、同じことを考えていた。

危ないから上がったのか。欲しかったから上がったのか。切り分けようとして、切り分けられなかった。どちらか一つだけなら、今夜ここにはいなかったような気もした。

日高さんが繁盛の種だと言ったものを、日高さんの知らないうちに、日高さんの屋上から持って帰る。日高さんの扉に、日高さんの錠を掛けて。

客用の椅子のことを、一度だけ考えた。

それから立って、錠を開けた。

階段には、誰もいなかった。


 篠原さんの店には、まだ明かりが点いていた。

客は、もういなかった。篠原さんはカウンターの内側で、グラスを拭いていた。

鍵を、カウンターに置いた。

「さっき、上がっていく音のしたよ」と篠原さんは言った。「降りてきた」

「はい」

「もう、上がらんと?」

「上がらんと思います」

篠原さんは鍵を取って、エプロンのポケットに入れた。それから、レジの引き出しを開けて、封筒を一つ出した。

白い封筒だった。角がやわらかくなっている。表に、ボールペンで、大上屋 依頼料、と書いてあった。

元祖も、天神も、抜けていた。

「あの夏の、残り」

中に、一万円札が一枚入っていた。

二度、断った金だった。

「頂きます」

受け取ると、篠原さんは、封筒から目を離さずに言った。

「引き取りまでやったら、十万ち言いよったろうが」

「言いました」

「それは」

「オーナーからやったら、貰ったとですけどね」

篠原さんは、はじめ黙って、それから声を上げて笑った。低い声が、誰もいない店の中で二度鳴った。

「日高さんには、言わんよ」

「お願いします」


 金曜の晩、今泉を通った。

用は無かった。天神から、少し遠回りしただけだ。

ビルの下まで来ると、上から笑い声が降ってきた。屋上の縁から、電球の明かりが夜にはみ出している。外階段に、上がる順番を待つ人が並んでいた。篠原さんの店の扉からも、明かりが漏れていた。

歩道を行く人が、みんな上を見上げていた。

灯りが点いているから、見上げていた。

俺も、見上げた。

柵の上に、グラスを持った手が並んでいた。縁に座っている者は、一人もいなかった。

しばらく見てから、天神のほうへ歩いた。


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