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第三十三話 喫茶白鳥 常連 受 壱

 四月に入ってから、朝晩がまた冷えるようになった。昼は日が差すのに、風だけが冬の匂いを残している。机の上の厄除けが飛ばないように、文鎮がわりの石を一つ置いた。

歩道を、女の人が通っていった。小さい男の子の手を引いている。

去年の十月に、厄除けを一枚買っていった人だ。子どもが熱ばかり出す、と言っていた。千円札を、財布の奥から丁寧に出した。

名前は、聞いていない。

男の子は、もう熱を出しそうな顔をしていなかった。

女の人は看板のほうを見なかった。手を引いたまま、地下街に下りるガラスの階段へ入っていった。


 昼を過ぎて、年配の男の人が机の前で足を止めた。

六十の後半くらいだろうか。白いシャツに黒いベストを着て、その上に薄手のコートを羽織っている。仕事の途中で抜けてきたような格好だった。看板を上から下まで読んでから、客用の椅子に座った。

座ると、机の上の厄除けの束に手を伸ばした。取るのかと思ったら、少しずれていた角を揃えて、元に戻した。

「すみません。癖で」

「元祖天神大上屋の、大上です」

名刺を渡すと、両手で受け取って、机の縁と平行になるように、自分の前に置いた。

「野中(のなか)と申します。天神で、喫茶店をしよります」

白鳥(しらとり)という店だという。天神の西の外れの、古いビルの二階。四十年やっている。

「窓際の席に、お客さんの座っとる、ち言うとです。うちのアルバイトの子が」

朝の九時、店を開けると、窓際の二人掛けに年寄りが一人座っている。お冷やを出しても、注文をしない。声をかけても、顔を上げない。十時ごろには、いなくなっている。

「帰るところは、誰も見とらんとです。お冷やだけが、残っとる」

「野中さんは」

「私には、見えんとです。あの子が、誰もおらん席に、お冷やば置きに行きよる」

野中さんは、名刺の角を指で揃えた。揃っていた。

「その席は、十年ばかり、毎朝一番に来よった常連さんの席でした。秋吉(あきよし)さん、ち言います。一月に、亡くなりました。お通夜には、私も行きました」

秋吉、という名前には、何も浮かばなかった。

「それからは、誰も座らせとらんとです。あそこは空けとります」

アルバイトの子は、春休みから来てもらっている大学生で、秋吉さんのことは知らない。知らないまま、毎朝、窓際に座っている年寄りにお冷やを出した。

「その子が、今週いっぱいで辞めたい、ち言いよります。よう働く子で。朝の支度ば任せられるごとなって、やっと膝の休まるち思いよったとですけど」

野中さんは、右の膝に手を置いた。

「私一人じゃ、朝の店の回らんとです」

いくらかかるか、と訊かれた。

見に行くので一万、と言った。

野中さんは頷いて、明日の朝の九時に来てもらえますか、と言った。

帰りぎわに、客用の椅子を、机に対してまっすぐに戻していった。


 夕方、路地の口まで歩いて、本家に言った。

「明日の朝は、出る。昼前には戻る」

「はい。朝から表ば開けときます」


 翌朝、九時の少し前に、天神の西の外れまで歩いた。

空は晴れていたが、日陰に入ると息が白くなりそうだった。

古い雑居ビルの一階に、白い字で、喫茶白鳥、と書いた置き看板が出ていた。字の白が、ところどころ剥げている。狭い階段を上がると、硝子の扉に鈴が付いていた。押すと、鳴った。

中は、思っていたより明るかった。カウンターに五席、テーブルが四つ。壁は煙草の脂で飴色になっていて、今は禁煙、と小さい貼り紙がしてある。窓際に、二人掛けが一つ。窓の向こうに向かいのビルの壁があり、その手前に桜が一本、半分ほど咲いていた。

アルバイトの子は、二十歳くらいだった。髪を後ろで一つに結んで、黒いエプロンをしている。空の盆を、胸の前に抱えていた。

野中さんが、拝み屋さん、と俺を紹介した。アルバイトの子は、盆を抱えたまま頭を下げた。

カウンターの端に座らせてもらった。野中さんがコーヒーを淹れてくれた。代金を出すと、首を振られた。仕事で来てもらっているのだから、という。

野中さんは、カウンターの上のカップの取っ手を、一つずつ右に向けて並べ直していた。

九時になった。野中さんは扉の札を、営業中、に返した。

客は、まだ誰も上がってこない。

アルバイトの子が、窓のほうを見た。

窓際の二人掛けに、年寄りが座っていた。

七十の半ばくらいだろうか。灰色のハンチングをかぶって、茶色の上着を着ている。新聞を縦に四つに畳んで、片手で持って読んでいた。窓の光が、帽子のつばに当たっている。

生きている人にしか、見えなかった。

見た顔だった。

どこで見たのかは、出てこなかった。昨日聞いた名前を当ててみても、どこにも引っかからない。

「あの人です」

アルバイトの子は、普通の声で言った。客が来たのを知らせる声だった。

盆にお冷やを一つ載せて、窓際へ持っていった。いらっしゃいませ、と言って、テーブルに置いた。

年寄りは、新聞から目を上げなかった。

アルバイトの子は少し待って、それから戻ってきた。盆を胸に抱えていた。

野中さんは、窓際を見た。誰もいない席にお冷やが一つ置かれているのを、しばらく見ていた。それから、またカップの取っ手を揃えはじめた。


 年寄りは、一時間ほど新聞を読んでいた。

ときどき、畳んだ面を裏に返した。広げることはなかった。

その間、アルバイトの子は二度、窓際のほうを見た。注文を待つ顔だった。年寄りは、一度も顔を上げなかった。

十時が近くなって、階段を上がってくる足音がした。最初の客だった。扉の鈴が鳴った。

窓際を見ると、誰もいなかった。立つところは、見えなかった。

お冷やのグラスが、汗をかいて残っていた。

アルバイトの子は、入ってきた客に水を出してから、窓際のグラスを下げに行った。中を覗いて、流しにあけた。


 客が二人になって、店が落ち着いたころ、アルバイトの子がカウンターの端に来た。

盆を胸に抱えていた。

「最初は、予約のお客さんやと思ったとです。あそこだけ、店長が誰も通さんけん」

来て三日目の朝だったという。九時に扉の札を返して、振り向いたら、窓際に年寄りが座っていた。階段を上がってくる足音も、鈴の音も、聞いていなかった。

「お冷やば出して、ご注文は、ち訊いたとです。返事のなかったけん、耳の遠か人かなち思って、あとでまた行こうて」

戻ってきたら、いなかった。お冷やは、口も付けずに残っていた。

次の朝も、その次の朝も同じだった。三度目で、店長に訊いた。あそこに座る人は誰ですか、と。

「そしたら、店長が、秋吉さんの席ち言うて。一月に亡くなったお客さんやち」

盆を抱える腕に、力が入っていた。

「死んだ人ち言われても、分からんとです。どう見ても、生きとる人です。新聞もめくりよるし」

窓際のほうを、ちらりと見た。

「ただ、何も頼まんで、一時間座って、いつの間にかおらんとです。お冷やだけ残って」

盆の縁を、指でなぞった。

「それが、なんか、気持ち悪くて」

野中さんは、カウンターの内側で、黙ってカップを拭いていた。


 「秋吉さんは、九時に来て、ブレンドば一杯飲んで、新聞ば読んで、十時には帰りよりました」

客の注文を受けてから、野中さんが言った。

「毎朝です。十年、毎朝」

市役所を勤め上げてから、通うようになったのだという。注文は、最初の何日かだけだった。そのうち、座れば黙ってブレンドが出るようになった。新聞は店のものを読まず、自分で買ってきたものを、縦に四つに畳んで読んだ。

「店の新聞ば広げたら、隣の迷惑になるけん、ち言うて。朝の九時に、隣には誰もおらんとですけど」

野中さんは、拭いたカップを棚に戻した。取っ手が右を向いていた。

「一月からは、九時に一杯目ば淹れとらんです。淹れても、飲む人のおらんけん」


 昼前に、天神の西の外れから渡辺通りまで歩いた。

歩きながら、あの顔をもう一度思い浮かべた。

灰色のハンチング。つばの下の、薄い眉。頬の、少したるんだところ。

見た顔だ。それは確かだった。

依頼人だろうか。牛島(うしじま)さん、平田さん、城戸(きど)さん。違う。依頼人なら、名前も一緒に出てくる。

現場の近所の人か。地下鉄で乗り合わせたか。

出てこなかった。

表の店に戻ると、本家が机の前に立って、通りを見ていた。

「戻った」

「はい」

本家は、机の上の厄除けを俺のほうへ寄せて、路地の口へ帰っていった。


 店が閉まってから、もう一度上がらせてもらった。

目印を三枚、貼った。窓枠の右の端と、奥の壁と、カウンターの端。離して貼る。

短い祝詞をあげた。八文字。

レジの横の柱に、札が一枚貼ってあるのが目に入った。厄除けだった。よその店の札を、じろじろ見るものではない。そのときは、それだけだった。


 翌朝、十時を回ってから、三枚を見た。

三枚とも、焦げていた。濃い。人ひとりぶんの焦げで、裂けは出ていない。

窓枠のは左から、奥の壁のは右の下寄りから、カウンターのは真ん中より少し左から。一枚で引けるのは線が一本だ。三本を延ばした。

交わったのは、窓際の二人掛けだった。窓を右手に見る側の椅子。

今朝も、あの人はそこに座っていた。新聞を四つに畳んで。


 目印を剥がして、振り返ると、レジの横の柱が目に入った。

厄除けは、白いままだった。四隅がきちんと柱に付いている。

近くで見た。

同じ角度、同じ皺、同じ糊のはみ出しかた。

うちの札だった。

「この札は」

「ああ」

野中さんは、カウンターの向こうで手を止めた。

「秋吉さんが、去年の夏に持ってきたとです。貼っとけ、ち言うて」

「どこで買うた、ち言いよりましたか」

「天神で、ち。どこの店か訊いたら、そのうち、忘れた、ち言いよりました。自分で買うたとに、ち言うて、笑うとりました」

野中さんは、柱の札の角を、指で押さえた。剥がれかけてはいなかった。

「私は、縁起は担がんとですけど。秋吉さんの持ってきたもんやけん」


 七月の半ばだった。

本家が路地の奥に机を出して、まだ何日も経っていなかった。昼の熱が歩道から上がってきて、パイプ椅子の座面が触れないほど熱かった。

その日、客用の椅子に座った年寄りがいた。この暑いのに、灰色のハンチングをかぶっていた。

厄除けを一枚、と言った。

「行きつけの店に貼る。あそこの親父は、縁起も何も担がん男やけん」

千円札を一枚出して、札を受け取ると、四つに畳みかけて、やめた。畳まずに、上着の胸のポケットに差した。

それだけの客だった。

名前は、訊いていない。札を売るのに、名前は要らない。


 あの人は、店を忘れた。

俺は、顔を覚えていて、名前を知らなかった。


 その晩、四畳半で本家に話した。

本家は座卓の上で、厄除けを刷る紙を百枚ずつに分けていた。

毎朝九時に、窓際の席に座って、十時に帰る。店主は十年、その席を空けてきて、亡くなってからも空けている。

本家は、紙を数える手を止めた。

「空けてあるけん、来よらすとでしょう」

「逆やろう。あの人が来るけん、空けとるとたい」

「来よらしたとは、亡くなってからでしょう。空けとるとは、その前からです」

「十年、毎朝来よった人ぞ」

本家は、しばらく俺の顔を見ていた。それから、また紙を数えはじめた。

それ以上は、言わなかった。

同じ話を聞いて、同じ頭で考えて、向きだけが逆になっている。

本家の読みなら、帳面は要らない。あの席に、ほかの客を座らせればいい。空いていなければ、来る先が無い。

試す値打ちは、あった。


 翌朝、野中さんに頼んでみた。

「いっぺん、あの席に、ほかのお客さんば通してみてもらえんですか」

野中さんは、カップを拭く手を止めた。

「あそこは、秋吉さんの席ですけん」

「亡くなっとってもですか」

「亡くなったけん、ち言うて、よそのお客さんば座らせるとは、私のできんとです。十年、空けてきましたけん」

野中さんは、拭いたカップの取っ手を、右に向けて置いた。

「それなら、うちが引き取ります。引き取れば、あの人は、もうここには来ません。別に、二万かかります」

野中さんは、窓際の席を見た。今朝も、あの人が座っていた席だ。今は、日が当たっているだけだった。

「私には、もともと見えんとです」

少しして、お願いします、と言った。


 帰り道で、品名を考えた。

秋吉、とは書かない。名前は、野中さんが知っていた。俺は、知らなかった。

俺が覚えていたのは、顔のほうだ。

帳面に書くのも、あの人そのものではない。毎朝九時に窓際の席に座って、新聞を四つに畳んで読んで、十時に帰る。その一続きのほうだ。

アルバイトの子は、あの人のことを、お客さん、と言った。野中さんは、名前を言う前に、常連さん、と言った。

常連。

行の頭は、喫茶白鳥。

壱。


 翌朝、八時半に階段を上がった。

扉には、準備中の札が下がったままだった。野中さんには、階段の下で待ってもらった。アルバイトの子は、十時から来ることになっている。

店の中は、まだ暖房が回りきっていなかった。

窓際の二人掛けの前で、床に膝をついて、帳面を開いた。

九時を回った。

窓の光の中に、あの人が座っていた。

新聞を縦に四つに畳んで、片手で持っている。

短い祝詞をあげた。八文字。

「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」

あたりが張った。

あの人が、顔を上げた。

新聞から目を離して、床に膝をついた俺を見た。

知らない者を見る目だった。

去年の夏、客用の椅子に座ったときも、この人はこういう目で俺を見た。初めて通りかかった店の、初めて見る若いのを見る目だ。

あのときは、本当に初めてだった。

新聞を持った手は、膝の上で止まっていた。


  喫茶白鳥 常連 受 壱


 書き終えると、張ったものが落ちた。

窓際の椅子は、空いていた。

座面に、窓の光が四角く落ちていた。


 階段の下に声をかけると、野中さんが上がってきた。

窓際の席を見て、それから俺を見た。

「済みましたか」

「済みました」

野中さんは、カウンターの下から封筒を出した。三万、入っていた。支度してあったのだ。封筒を俺の前に置くとき、カウンターの縁に合わせて、まっすぐにした。

それから、レジの横の柱を見た。

「あの札は、剥がしたほうがよかですか」

「そのまま、貼っといてください。何か来たら、札のほうが先に傷みますけん」

野中さんは、そうですか、と言った。

扉の札を、営業中、に返した。九時を、十分過ぎていた。

一杯飲んでいってください、と言われて、カウンターの端に座った。ブレンドだった。


 十時の少し前に、アルバイトの子が階段を上がってきた。

扉の鈴が鳴った。エプロンを着けて、空の盆を取って、窓のほうを見た。

しばらく、見ていた。

盆を胸に抱えたまま、何も言わなかった。

窓際の二人掛けは、空いていた。野中さんは、その席に客を通さなかった。

レジの横の柱で、厄除けは白いままだった。


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