第三十二話 城戸方 巻き癖 受 壱
三月も半ばを過ぎると、昼の空が白っぽく霞むようになった。黄砂らしかった。机の上を指でなぞると、うっすら黄色いものが付いた。
その人は、三つ隣の占いのおばさんのところから立ってきた。手相を見てもらった帰りに、看板が目に入ったのだという。
五十の半ばくらいだろうか。ベージュの薄いコートに、布の手提げを提げていた。客用の椅子に座ると、右の指で左の手首を押さえた。袖口から覗いた手首には、何も着けていなかった。
「城戸と申します。藤崎から来ました」
「元祖天神大上屋の、大上です」
名刺を渡すと、城戸さんはそれを読んで、手提げの内ポケットに仕舞った。それからまた、手首を押さえた。
「時計が、鳴るとです」
父の時計だという。手巻きの腕時計で、父親が勤めに出たときに買ったものだった。
「毎晩、十時になると、ジ、ジ、ち。巻く音がするとです。簞笥の引き出しに仕舞うとるとですけど、朝になったら、動いとる」
「誰も巻いとらんとに」
「誰も」
城戸さんは、手首から指を離さなかった。
「父が、毎晩十時に巻きよったとです。寝る前に。三十何年、同じ時間に」
お父さんは、去年の暮れに亡くなったのだという。
「その時計は、父から借りとったとです。十五年前に、息子の高校の受験の日に、時計の無かったけん。父が、これ持っていけ、ち貸してくれて」
返すけん、と言って、そのまま自分で使っていた。お父さんは安い電池の時計を買い直して、巻かんでよかとは楽やね、と笑っていたという。
「一回も、返せち言われんやったです。私も、返さんやった」
葬式が済んでから、着けるのをやめた。簞笥の引き出しに入れた。鳴り出したのは、それからだ。
「返せ、ち言われよる気のして。眠れんとです」
玄関の下駄箱に移したこともある。その晩は、玄関で鳴った。
「主人は、何も聞こえんち言います」
いくらですか、と訊かれた。
見に行くので一万、と言った。
城戸さんは頷いて、それから、今晩でも来てもらえますか、と言った。
夜の九時に、藤崎の駅を出た。
駅から少し歩いた住宅地に、城戸さんの家はあった。古い二階建てで、門の脇に、背の低い木が植わっている。春先になると、そこらの家の門や垣根でよく見かける木だ。名前は知らない。花よりも先に、甘い匂いが届く。暗くて花は見えなかったが、門をくぐる前から匂った。
茶の間に通された。六畳に、座卓と、古い簞笥が一棹ある。隣の部屋から、テレビの音がしていた。ご主人は、挨拶に顔だけ出して、また戻っていった。
簞笥の、いちばん上の小引き出しだという。
目印を三枚、貼らせてもらった。廊下への戸口の柱と、窓の横の壁と、簞笥の向かいの襖の上。離して貼る。
短い祝詞をあげた。八文字。
それから、十時を待った。
城戸さんは、座卓の向こうで膝を揃えていた。茶を淹れてくれて、自分の湯呑みには手をつけなかった。
十時を、壁の時計が少し回ったころだった。
ジ、と鳴った。
小引き出しの中からだった。ジ、ジ、ジ、と、同じ間で続く。竜頭を指で送る音だ。十何回か鳴って、止まった。
それから、ずっと小さな音がしはじめた。
秒を刻む音だった。引き出しに耳を寄せなければ聞こえないくらいの。
城戸さんは、右の指で左の手首を押さえていた。
隣の部屋では、テレビがまだ鳴っていた。ご主人は、出てこなかった。
翌朝、また藤崎へ行った。
三枚とも、湿っていた。
戸口の柱の札は右の下寄りから、窓の横の札は左から、襖の札はほとんど真ん中から。
湿りは、植物か物の色だ。茶の間には、鉢の一つも無い。
三本の線を延ばすと、簞笥のいちばん上で交わった。小引き出しの、ちょうど中だった。
城戸さんに、それを話した。
「お父さんではなかです。時計のほうが、覚えとるとです」
城戸さんは、しばらく黙っていた。
「……父やなかとですか」
「人なら、焦げが出ます。これは焦げやなかです」
城戸さんは、手首を押さえていた指を、ゆっくり離した。
五十年、毎晩巻かれてきた時計だ。巻かれなくなれば、止まる。止まりたくないのだろう、と思った。だから自分で巻いている。
「うちが、引き取ります」
手順どおりに、そう言った。
「引き取れば、音はしなくなります。そのかわり、時計も一緒に、うちの帳面に入ります。ここからは無うなります」
城戸さんは、首を横に振った。
「持って行かれるとは、困ります」
「うちが、持つことになります」
「そちらに置いとってもらうとも、嫌です」
城戸さんは、膝の上で両手を重ねた。
「お借りしとるもんを、よそ様に渡すわけにはいきません。返す相手のおらんけん、せめて、うちに置いとかな」
引き取るというのは、客から見れば、よそへ持って行かれることだ。言われてみれば、そのとおりだった。
帰りの地下鉄で、品名を考えた。
時計、と書けば、時計が入る。
平田さんが名前を呼ばされていた医院では、受付とは書かなかった。書けば、受付が消える。呼出と書いて、余分な一つだけを受けた。小窓も箱も、あそこに残っている。
ここでも、時計を書かなければいい。
あの時計は、止まりそうになるたびに、自分で自分を巻いている。毎晩十時に。五十年、そうされてきた形だ。
巻き癖。
書くのは、癖のほうだけだ。時計は、引き出しに残る。
天神に戻ってから、城戸さんに電話した。
「時計は、書きません。巻きよる癖のほうだけ、引き取ります」
しばらく黙ってから、城戸さんは、それなら、と言った。
その晩、また九時に藤崎の門をくぐった。
十時の少し前に、城戸さんには隣の部屋に移ってもらった。ご主人の見ているテレビの音が、襖越しに聞こえていた。
簞笥の前に膝をついて、帳面を開いた。
十時を回った。
ジ、と鳴った。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
あたりが張った。
城戸方 巻き癖 受 壱
書き終えると、張ったものが落ちた。
ジ、の続きは鳴らなかった。
秒を刻む音も、しなかった。
小引き出しを開けた。
何も入っていなかった。
襖を開けると、城戸さんがこちらを見た。
立ってきて、小引き出しを覗いた。そのまま、しばらく動かなかった。
「……時計は」
「入りました」
それしか言えなかった。
城戸さんは、右の指で左の手首を押さえた。強く押さえていた。
「返してください」
声は、大きくなかった。
「お借りしとるもんです。返してください」
帳面を、もう一度開いた。
入ったものは、出せる。書けば出る。座布団も、『朝掃き』も、そうして出してきた。
うちは、返す店ではない。そう言ってきた店が、返すことになった。
城戸さんには、もう一度、隣の部屋に移ってもらった。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお渡しします」
城戸方 巻き癖 渡 壱
小引き出しの底で、ことり、と音がした。
開けると、時計があった。白い文字盤で、革のベルトは替えてある。止まっていた。
城戸さんは時計を両手で受け取って、長いこと、文字盤を見ていた。
その晩は、それで帰った。
翌朝、城戸さんから電話があった。
「鳴りました」
十時に、ジ、ジ、と。朝には、動いていたという。
癖は、時計と一緒に出てきた。
「消してください」と城戸さんは言った。
「祓うことは、できます。祓えば、音は消えます。時計は残ります。ただ、何やったとかは、もう分からんごとなります」
城戸さんは、すぐに答えた。
「時計が残るなら、それでよかです」
この人は、分かっていて言っている。
「明日の晩に、伺います」
今晩でもよかった。打てば、一時間で済む。最初から分かっていた。
昼に、安藤さんにかけた。
「何か」
「藤崎で、時計の件です。癖だけ引き取ろうとしたら、時計ごと入りました。出して返したら、また鳴りよります」
「ああ」
「祓うてくれ、ち言われました」
「なら、祓いば打て」
「消したら、何やったとか、分からんごとなります」
「分からんでよか」
少し黙った。
「前に、拝み屋の仕事は祓うことたい、ち言いよりましたね。清川のときに」
間があった。
「そげなこと言うたか」
言ったのだ。八万円を貸したまま死んだ人が、清川の家の戸の前に立っていたときだ。朝いちばんに、この電話で。ため息まで、覚えている。
「……言いました」
「なら、そうたい。打て」
それで切れた。
携帯を、しばらく耳から離せなかった。
その晩、四畳半で鞄を開けた。
祓いは、一枚だけ入っている。梅野さんのところ、死人をなぞらせようとしたあの家から帰った晩に書いた札だ。
あの晩、俺は祓いを持っていなかった。持っていなかったぶん、あの人が削れた。だから帰って、二時間かけて一枚書いた。増やさずに、鞄に入れた。
それから半年、一度も出していない。鞄の底で、紙の端が少し丸くなっていた。
座卓の上に置いて、指で端を伸ばした。伸ばしても、少し戻った。
本家は、座卓の向こうで仕事の帳簿を広げていた。表紙には、家計簿、と書いてある。
「明日の藤崎は、いくらですか」
「三万」
本家は鉛筆を持ち直した。
「何と書きますか」
祓い、とは書けなかった。売り物ではない。
「手間」
本家は、手間、と書いた。
「明日は、表ば見ときます」
「頼む」
本家は帳簿を閉じて、湯を沸かしに立った。
祓いを鞄に戻して、口を閉めた。
翌晩、九時に藤崎の門をくぐった。
ご主人は、この晩も隣の部屋でテレビを見ていた。
茶の間で、城戸さんは座卓の向こうに座った。茶は、この晩は出てこなかった。座卓の上で、両手を重ねていた。
今度は、隣の部屋に移ってもらわなくてよかった。
簞笥の前に膝をついて、祓いを出した。
十時が近づいた。壁の時計の秒針と、小引き出しの中の小さな音が、少しずれて進んでいた。どちらが遅れているのかは、分からなかった。
五十年、毎晩この時刻に巻かれてきた時計だ。止まりたくないのだろう。そう読んだのは、俺だ。
十時を回った。
ジ、と鳴った。
ジ、ジ。
小引き出しに向けて、札を翳した。
短い祝詞をあげた。八文字。
そのあとに、続けるものが無かった。名乗りも、申し立ても無い。口を閉じた。
三度目は、鳴らなかった。
札が、手の中で黒くなった。端から縮れて、指先が少し熱かった。
茶の間が、静かになった。隣の部屋のテレビの音だけが、襖越しに聞こえていた。
焦げた紙の匂いが、少しした。
それから、小さな音が戻ってきた。
秒を刻む音だった。
城戸さんが立って、小引き出しを開けた。
時計を出して、耳に当てた。
「動いとります」
「巻かれとったぶんは、動きます。明後日の昼ごろには、止まると思います」
城戸さんは、時計を耳から離した。
「巻かんと止まるとは、知っとります。十五年、巻きよったけん」
時計を、引き出しに戻した。閉めるときに、右の指で左の手首を押さえた。
「払いは、一週間見てからで構いません」
城戸さんは、頷いた。
黒くなった札は、鞄に入れた。打ち終わった札だ。
藤崎の駅まで、住宅地の中を歩いた。
風が冷たかった。どの家も、もう灯りを落としかけていた。
指先に、熱が少し残っていた。
二日後の昼過ぎに、携帯が鳴った。
空はまだ霞んでいて、机の上を拭いたばかりだった。
「止まりました」
城戸さんだった。
「十二時の、少し前でした。引き出しば開けて、見よったら、止まりました」
針が止まるところを、見ていたのだという。
「巻かんとですか」
訊いてから、訊かなくてよかったと思った。
少し間があった。
「巻いたら、また私が使うことになるけん」
それから、このままにしときます、と言った。
一週間して、また電話があった。
鳴らない、ということだった。払いを取りに来てほしい、と言われた。
門の脇の木は、花が散りかけていた。枝の先に固まって咲いていた小さな花が、半分ほど落ちて、そこに若い葉が出ていた。
茶の間の簞笥は、前のとおりだった。小引き出しは閉まっていた。城戸さんは開けなかったし、俺も、見せてくれとは言わなかった。
封筒を渡された。三万、入っていた。
「お祓いの代は、別に」
「札の代は、頂きません。手間のぶんだけです」
城戸さんは、それ以上は訊かなかった。
封筒を受け取ると、城戸さんは右の指で左の手首を押さえた。そこには、何も着けていなかった。
帰りも、同じ道を駅まで歩いた。
あちこちの垣根で、門の脇にあったのと同じ木が、同じように花を落としていた。
祓いを打ったのは、開業してから二度目だった。
一度目は、店を出してすぐの三万円の仕事だった。あの晩は帰り道でずっと、いま消したものに名前はあったのか、と考えていた。
今度は、名前を付けた。巻き癖。帳面にも、そう書いた。
それでも、時計ごと入った。
巻き癖は、時計から出たものだった。五十年巻かれてきたのは、時計のほうだ。
だから、時計も受けてしまったのか。
平田さんの医院では、受付を残して、呼出だけを受けられた。何が違ったのか。
何か、方法はなかったのか。
祓ったものは、もう無い。確かめようがなかった。
その晩、四畳半で、祓いを書いた。
鞄の一枚は、藤崎で使った。無いまま歩くわけにはいかなかった。
本家は、先に寝ていた。
紋様を入れて、文章を入れて、込める。
一時間を過ぎたあたりで、筆が重くなった。紙の上の字が、滲んで見えた。瞼が下りてくる。
ジ、と鳴った。
耳で聞いたのではなかった。身体の奥の、どこか分からないところで鳴った。
頭が、はっきりした。
筆が、また動きはじめた。
二時間かかった。書き上がったのは一枚だ。増やさなかった。
鞄に入れて、口を閉めた。
それから、さっきの音のことを考えた。
渡と書いて、時計は返した。癖は、祓って消した。
それでも、受と書いた行は帳面に残っている。
『朝掃き』を小料理屋の裏の路地に出していたあいだも、朝になれば、ここの炊飯器のボタンは押されていた。
これは、あの時計の、巻き癖か。
机の上に置いた帳面を見た。
紺の表紙を上にして、ただそこに在った。




