第三十一話 樋渡医院 呼出 受 壱
三月に入って、雨が続いた。
降っては止み、止んだと思うとまた降る。傘を差すほどでもない雨が、歩道のタイルを一日じゅう濡らしていた。
その日は昼過ぎに上がった。机を出して、看板の紐を締め直していると、男が一人、名刺を手にして立ち止まった。
五十の半ばくらいだろうか。紺の背広の袖に、事務員が付けるような黒い腕カバーを付けたままだった。外すのを忘れて出てきたらしい。手の名刺と看板を、二度見比べた。
「こちらが、元祖……」
「はい」
「樋渡医院で、事務長をしとります。牛島と申します」
牛島さんは、腕カバーの縁を引いて、手首のところで直した。
名刺は、受付の者が待合で拾ったのだという。長椅子の隙間に挟まっていた。誰が落としていったのかは分からない。
配ったどこかから、流れていったのだろう。
「診察券が、出るとです」
牛島さんは、客用の椅子に浅く腰かけて言った。
「受付の箱に、診察券が入っとる。受付して、順番が来て、名前を呼ぶ。来られん。そういうのが、この一月ほどで十何回」
「来られん、というのは」
「待合に、おらんとです。券だけ入っとって、本人はおらん」
牛島さんは、また腕カバーを直した。
「待合の人数と、受付の数が合わんとです。勘定が合わんのは、私も困ります。ただ、そげなことは信じとらんとです。受付の子が、怖がりまして」
「辞める、と」
「言いよります。いまどき、受付は、人が見つからんとですよ」
それから、いくらですか、と訊いた。
見に行くので一万、引き取ることになれば別に、と言った。
牛島さんは、背広の内ポケットから手帳を出して、一万、と書いた。
鳥飼の、住宅地の中だという。
翌朝、城南方面のバスで鳥飼へ行った。
バス通りから一本入った住宅地に、四階建ての白いビルがあった。一階の軒に、樋渡医院、内科・外科、と緑の字で出ている。二階から上は病室で、どの窓にも同じ色のカーテンが引いてあった。
玄関の脇に、梅が一本植わっていた。花はもう終わりかけで、夜のうちの雨に打たれた花びらが、植え込みの土に散っていた。
自動ドアが開くと、小さく鈴が鳴った。
待合には、長椅子が四列並んでいた。九時を回ったばかりなのに、半分が埋まっている。マスクをした人が多い。花粉の時期だ。隅で加湿器が白い湯気を吐いていて、壁の高いところのテレビが、音を消したまま天気予報を映していた。
受付は、ガラスの小窓の向こうに二人いた。手前に座っているのが平田さんだと、牛島さんが言った。
二十をいくつか過ぎたくらいの女の人で、薄い水色の事務服を着て、髪を後ろで一つに括っている。受け取った保険証と診察券を、カウンターの上で揃えて、とん、と一度叩いてから、パソコンの脇に置く。一枚受け取るたびに、そうしていた。
小窓の手前に、透明な箱が置いてあった。蓋に細長い口が開いていて、診察券をお入れください、と貼り紙がしてある。
受付が一息ついたところで、平田さんが奥の事務室に来た。
椅子を勧められても座らず、机の端に両手を揃えて立った。
「変なこと言いよる、ち思われるでしょうけど」
先にそう断ってから、話しはじめた。
来た人は、箱に券を入れて、長椅子に座る。受付はそれを入った順に取り出して、受付を済ませ、順番が来たら名前を呼ぶ。
「私、待合ば数える癖があるとです。受付した数と、座っとる人の数。合うとったら、安心するけん」
気づいたのも、それでだという。受付した数が、座っている人より一つ多い。
「呼んでも、誰も立たんとです。三回呼んで、来られんかったら、後ろに回します。回して、また呼んで。それでも立たん」
平田さんは、机の引き出しから、輪ゴムでまとめた束を出した。
十三枚あった。
「同じ人のが、何回も出るとです。ここに仕舞っとったとに、また入っとる」
名前は、八人ぶんだった。
「看護師さんたちは、来られんかったとやろ、で済むとです。先生も。私だけ、済まんとです」
平田さんは束を揃えて、とん、と叩いた。
「ここ、辞めたくはなかとです。お年寄りの方が、私の名前ば覚えてくれるけん。……でも、あの名前ば呼ぶとは、もう嫌です」
事務室の戸口を、白衣の女の人が通りかかった。看護師長だという。六十の手前くらいで、胸のポケットにペンライトと体温計を挿している。
「来られんかった人のことは、気にせんでよかとよ」
平田さんにそう言って、階段を二階へ上がっていった。
平田さんは、返事をしなかった。束をもう一度揃えて、とん、と叩いた。
目印を三枚、貼らせてもらった。
受付の小窓の脇の柱と、待合のいちばん奥の壁と、玄関を入ってすぐの風除室の内側。離して貼る。患者さんの目に留まらないよう、どれも低いところにした。
短い祝詞をあげた。八文字だ。長椅子の何人かが顔を上げて、すぐにテレビへ戻った。
目印は、出るまでに時間がかかる。明日の朝に見ることにした。
そのあいだに、事務室で名前を当たらせてもらった。
牛島さんは、パソコンで患者番号を一つずつ引いた。見せられるのは、番号と、通ってきた記録までだという。カルテは出せない。
一人目は、十年通っていた。最後の半年は、二階に入院していた。
画面の端に、転帰、という欄があった。
「転帰、というのは」
「その方の治療結果、ちゅうところです」
「この方は」
「死亡退院、ですね」
牛島さんは、次の番号を引いた。
「こちらも」
その次を引く手が、少し速くなった。
「……こちらも」
八人とも、同じだった。三年前の人もいれば、去年の暮れの人もいた。
牛島さんは、画面から目を離さなかった。マウスに載せた指が、止まっていた。
「全部、うちで看取った方ですね」
それまでより、声が低かった。
「気づかれとらんかったとですか」
牛島さんは、すぐには答えなかった。腕カバーの縁に手をやって、引かずに、そのまま押さえていた。
「気にしとったら、事務の仕事は回りませんけん」
言ってから、八人目の画面を閉じた。
帰りのバスで、窓の外を見ながら考えた。
十年通った人がいる。最後の半年を、二階のカーテンの内側で過ごした人がいる。
世話になった医院だ。亡くなっても、まだ診てもらいに来ている。
券だけが来て本人が来ないのは、来られないからだ。もう、身体が無い。
人の記憶なら、人の心に近い。来たいという気持ちは、分かる気がした。
引き取るなら、名前は書かない。人は、数で書く。患者、八。
ただ、それで済むとは思えなかった。医院だ。これからも、二階で亡くなる人はいる。八を受けても、九人目が来る。
それなら、受けて回るより、入口を固めたほうがいい。玄関に境目の札を一枚貼って、受付に厄除けを置く。ひと月ごとに見に来る。
天神に戻ってから、医院に電話して、牛島さんにそう話した。
「院長に、上げときます」
それから、費用は、と訊かれた。
夕方、店を畳む前に、路地の口まで歩いた。四十歩もない。
高架の下で、本家は机の上の厄除けを、雨よけのビニールの下に並べ直していた。
「鳥飼の医院な。亡くなった患者さんの券が、出よる」
十年通った人のことを話した。境目の札のことも話した。
本家は、手を止めずに聞いていた。
「世話になった病院なら、来たかでしょうね」
「そうやろ」
本家は、最後の一枚をビニールの下に入れた。
「目印は、何色でした」
「まだ見とらん。明日や」
「はい」
本家は、それ以上言わなかった。
電車が上を通って、ビニールの端が震えた。
翌朝、医院が開く前に行った。まだ小雨が残っていた。
風除室の札は、右の上寄りから黄ばんでいた。奥の壁の札は左から。柱の札は、ほとんど真ん中から。
黄ばみだった。
焦げではない。
人の記憶なら、焦げが出る。人も動物だからだ。黄ばみは、場が覚えているときの色だ。
三本の線を延ばした。交わったのは、受付の小窓の内側だった。あの透明な箱の、すぐ後ろだ。
読み違えた。
来ていたのは、患者ではない。
患者、八、とは、まだ書いていなかった。書いていたら、どうなっていたのか。考えないことにした。
境目の札も、まだ貼っていなかった。場が相手なら、区切りを強めれば、強くなるのは向こうだ。
牛島さんには、境目の札の話は無しにしてもらった。
それなら、なぜ、亡くなった人の名前なのか。
今日一日、待合に座らせてほしいと頼んだ。
「診察は、受けられんとでしょう」
「受けんです」
「では、座っとってください」
九時に扉が開くと、待合はすぐに埋まった。
杖をついたお年寄りが二人、同じ長椅子の端と端に座って、どちらからともなく話しはじめた。子どもを抱いた母親が、マスクの中で咳をした。背広の男が腕時計を見て、しばらくして、また見た。
小窓の向こうで、平田さんが券を揃えて、とん、と叩く。
俺は、数えていた。
入ってくる人を数え、呼ばれて奥へ行く人を数え、会計を済ませて出ていく人を数えた。鈴が鳴るたびに、一つ足して、一つ引く。
合っていた。昼まで、一度も狂わなかった。
箱には、来た人の券しか入らなかった。
十二時半に、午前の診療が終わった。
最後の患者が薬の袋を提げて出ていくと、受付の小窓にブラインドが下りた。平田さんは奥の休憩室へ行きかけて、俺のほうを見た。
「お昼は」
「ここにおります」
平田さんは少し迷ってから、休憩室の戸を閉めた。
待合には、俺一人になった。
テレビは消えていた。加湿器の音だけがしている。外では、また雨が降りはじめていた。
長椅子は、四列とも空いていた。朝から、一度も空かなかった椅子だ。
一時を少し過ぎたころ、ことん、と音がした。
受付の小窓の前だった。
立って、見に行った。自動ドアは閉まっている。鈴は、一度も鳴っていない。
透明な箱の底に、診察券が一枚入っていた。
休憩室の戸を叩いて、牛島さんを呼んだ。
牛島さんは、弁当の包みを持ったまま出てきた。箱の蓋を鍵で開けて券を取り出し、事務室のパソコンで番号を引いた。
「前に出とる方です」
八人のうちの一人だった。
「転帰は」
「死亡退院です」
牛島さんは券を、平田さんの引き出しの束に足した。十四枚になった。
待合に戻って、空いた長椅子を見ていた。
朝のうちは、一枚も入らなかった。人で埋まっているうちは入らない。誰もいなくなってから、入った。
診てもらいに来ているのなら、診察の時間に来るのが筋だ。昼休みの、誰もいない待合に券だけ入れて、何になる。
場が、覚えているのだろう。朝から昼まで人で埋まる待合を。その形に戻ろうとしている。
そう思いかけて、違う、と思った。
戻ろうとしているのが待合なら、人を座らせるはずだ。券は、座らない。
券が入れば、受付のすることは決まっている。受け取って、順番をつけて、名前を呼ぶ。
呼ぶのだ。
誰もいない待合では、受付は誰も呼べない。呼ぶ名前が無い。
だから、名前を持ってくる。この先、誰にも呼ばれることのない名前を。
来ていたのは、亡くなった人ではなかった。使われていたのが、亡くなった人の名前だった。
当たっているかどうかは、分からない。黄ばみは、場の色だ。札が言うのは、そこまでだ。
午後の診療の前に、平田さんに訊いた。
「券が入っとるのは、待合が空いとるときですか」
平田さんは、ブラインドの紐に手をかけたまま止まった。
「……そうです。朝いちばんとか。夕方の、最後の人が帰ったあととか」
それから、紐を引いた。ブラインドが上がって、長椅子に灰色の光が入った。
「やけん、怖かとです。誰もおらんとに、呼ばないかんけん」
この人は、誰もいない長椅子に向かって、三回、名前を呼んだのだ。
帰りのバスで、品名を考えた。
樋渡医院、までは決まっている。
受付、とは書けない。書けば受付が消える。あの小窓も、カウンターも、たぶん箱も。
順番、でもない。何の順番なのか、帳面にも俺にも決めようがない。
呼出。
朝から、何十と呼んでいる。呼ばれて、立って、奥へ行く。あれは全部、まっとうな呼出だ。そのうちの一つだけが、余分に立っている。
だから、壱。
余分な一つだけを受ける。
次の日の昼、牛島さんに頼んで、休憩室の戸を閉めておいてもらった。
十二時半に、ブラインドが下りた。待合には、また俺一人になった。
雨は上がっていた。玄関の外で、散り残った梅が薄い日を浴びていた。
受付の小窓の前に立って、帳面を出した。カウンターは胸の高さで、帳面を開くのにちょうどよかった。
一時を回った。
ことん、と箱が鳴った。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
あたりが張った。
樋渡医院 呼出 受 壱
書き終えると、張ったものが落ちた。
箱の底には、券が一枚、残っていた。
加湿器が、湯気を吐いていた。
二時半まで、小窓の前にいた。箱は、もう鳴らなかった。
午後の診療が終わるまで、待合の隅に座っていた。
六時の少し前に、最後の患者が出ていった。長椅子が空いた。
平田さんが、小窓の向こうから箱を見た。俺も見た。
箱は、空のままだった。
平田さんはブラインドを下ろさずに、しばらく、空の箱を見ていた。
券は、十五枚になっていた。
「これは、うちで処分します」と牛島さんは言った。「個人情報ですけん」
引き取るものではなかった。医院の紙だ。
平田さんが、引き出しから束を出した。輪ゴムを外して、カウンターの上で揃えて、とん、と一度叩いた。それから、事務室の奥のシュレッダーに、一枚ずつ入れていった。
一枚入れるたびに、機械が短く唸った。
「調べと、引き取りで、三万です。払いは、一週間見てからで構いません」
牛島さんは手帳を出して、一万の下に、二万、と書き足した。
一週間して、牛島さんから電話があった。
「出ません」
それだけ言って、少し間があった。
「昼は、待合に誰もおりません。当たり前のことですが」
払いを取りに来てほしい、ということだった。
鳥飼の医院は、その日も混んでいた。
牛島さんは事務室で電話をしていて、少し待ってくれ、と手で示した。長椅子の端が一つ空いていたので、座った。
隣のお年寄りが、膝の上で診察券を裏返しては、また表に戻していた。
小窓の向こうで、平田さんが券を揃えて、とん、と叩いた。
名前が、順に呼ばれていった。呼ばれた人が立って、奥へ行く。
事務室から牛島さんが小窓に顔を出して、平田さんに何か言った。平田さんは、カウンターの端に挟んであった名刺に目を落とした。
「……元祖、天神大上屋の、大上さん」
待合の誰も、顔を上げなかった。
「はい」
呼ばれて、立った。




