第三十話 申告
二月の終わりに、南から強い風が吹いた。
昼過ぎから吹きはじめて、ガードレールに縛った看板が、ときどき鳴った。ガムテープの端がめくれて、ばたばたと音を立てる。机の上の名刺は、厄除けの束を重しにして押さえた。
向かいのデパートの前を、コートの前を開けた人が歩いていく。風は、もう冷たくなかった。
弟子入りしたのが、去年の二月の終わりだった。
一年になる。
その一年ぶんを、国に申し立てる時期が来ていた。
税理士に、顧問をしてもらっている。
薬院の雑居ビルの二階で、一人で事務所をやっている人だ。名前を、税所という。月に一万五千円払って、月に一度、本家のつけた家計簿を持っていく。持っていくたびに、付箋が増える。
申告の書類は、その人が作ってくれる。作ってくれるが、そのためには、こちらが一年ぶんを全部出さなければならない。
気が重かった。
怪異の現場なら、何が出てくるかは分からなくても、何をすればいいかは分かる。こっちは、何を訊かれるのかが分からない。訊かれて、何と答えればいいのかも分からない。
路上の店が許可も無しに毎日出ていることも、店番が二人いることも、帳面のことも、あの人は知らない。知らないままにしておくつもりでいる。一年ぶんを出せば、どこかから、どれかがはみ出してくる気がした。
先月、家計簿を持っていったとき、税所さんは言った。
「来月は、申告の書類を作ります。一年ぶんの家計簿と領収書を持ってきてください。それと、年末に手元に残っていた商品があれば、書き出してきてください」
商品、というのが何を指すのかは、訊かなかった。訊けば、はい、と言われて、同じことをもう一度言われる気がした。
その晩、四畳半の低い机の上に、領収書の束が並んだ。
本家が月ごとに輪ゴムでまとめていた。六月の束がいちばん薄くて、十二月の束がいちばん厚い。
「年末に残っとった商品ば、書き出せ、ち」
「はい」
本家は家計簿をめくった。
「仕入れた、ち書いとるとは、ミシンだけです」
十一月に、春吉の古道具屋で二万四千円で買ったものだ。本家の字で、仕入、ミシン、とある。
「厄除けは」
「作ったもんも、入るとですか」
「たぶん、入る」
「はい」
「ミシンは、どこにあることにしますか」
本家は鉛筆を持ったまま訊いた。
「どこにあることにする、て何や」
「訊かれますよ」
「手元や」
本家は少し間を置いて、「……はい」と言った。
家計簿の新しいページに、横書きで、ミシン、一台、と書いた。
帳面なら、壱と書くところだ。
その下に、厄除け、と書いて、枚数を書いた。大晦日に数えてあったらしい。
薬院の事務所は、窓が少し開いていた。壁一面のファイルの背で、付箋が何枚か、風にそよいでいた。
税所さんは家計簿をめくった。ひと息にめくって、最初に戻って、ゆっくりめくり直す。
指が止まった。
「これは何ですか」
「仕入です」
「何を仕入れられましたか」
「ミシンです」
「売られましたか」
「……売っとらんです」
「では、在庫ですね」
税所さんは付箋に書いて、その行の横に貼った。
在庫 ミシン
「いま、どちらにありますか」
「……手元に」
鞄は膝の上にある。帳面は、その中にある。ミシンは、帳面の中にある。
「はい」
税所さんは、本家が書き出したページの、次の行に指を移した。
「厄除けの札は、一枚作るのに、いくらかかりますか」
「……ほとんど、かかっとらんです」
「ほとんど、では書けません」
「紙と、墨と、糊です」
「その領収書は、ここにあるぶんで全部ですか」
左の山に、紙と墨と糊の領収書が何枚か入っている。
「全部です」
「この一年で、何枚作られましたか」
答えられなかった。刷るたびに枚数は決めているが、一年ぶんを足したことはない。
「家計簿に、売れたぶんは書いてあります」
税所さんはページを最初から繰って、厄除けの行を拾っていった。電卓を叩いて、年末の枚数を足して、紙と墨と糊の領収書を足して、割った。
「一枚、六円ですね」
「……はい」
「印刷ですか」
「一から自分で作っとるけん、元手はほとんどかかっとりません」
「はい」
付箋が一枚増えた。厄除け、六円、とあった。
刷ったぶんは、一円もかかっていない。六円は、最初に書いた何枚かのぶんを、刷った枚数で割っただけの数だ。
帳面に入っているもので、国の紙に載るのは、ミシン一台だけだった。
それから税所さんは、領収書を二つの山に分けていった。
地下鉄とバスの控えは左。筆ペンと墨は左。携帯二回線の控えは左。
折りたたみテーブルのレシートが出てきた。八百円。店を出すときに、リサイクルショップで買ったものだ。
「これは」
「机です」
「お仕事で使われますか」
「使っとります」
「はい」
レシートは、左に置かれた。
「屋号は、決められましたか」
税所さんは、ファイルの付箋を見ていた。前にこの人が書いた七文字が、そこにある。読み上げはしなかった。
訊かれるのは、三度目だった。
屋号は、名乗るものだ。看板に書いてあって、帳面の中に書いてある。それをもう一か所、国の紙に書く。書けば、そこにも屋号が立つ。
それに、書いたところで、この人は来月、また付箋を読むことになる。
屋号を持たない拝み屋なら、二人知っている。一人は、親父の書いていたとおりに書いていると言った。もう一人は、訊くな、と言った。
「書かんでください」
「届けない、ということですね」
「はい」
「はい」
付箋が一枚増えた。屋号なし、とあった。前の付箋の隣に貼られた。前の付箋は、剥がされなかった。
税所さんは、別の紙に書き込みはじめた。欄が並んでいる。
「ご職業は、拝み屋、で書きます」
「……そのまま、書くとですか」
「そのまま書きます」
播谷さんは、拝み屋と書いたら向こうも困るだろう、と言っていた。困るのは向こうで、この人ではないらしい。
屋号の欄は、空いたままだった。
「納めていただく税金は、四万六千二百円になります」
「はい」
「申告書の作成料は、八万円になります」
厄除けで、八十枚。
「……払います」
三度目の払いますは、いちばん小さかった。
「それから、来年からは、お仕事の帳簿を家計簿と分けてください。一冊、別に」
「別に、ですか」
「お仕事と暮らしが一緒に書いてあると、分けるのに時間がかかりますので」
「はい」
付箋が、家計簿の表紙に貼られた。
帳簿 別に
「控えにお名前をいただくので、来週もう一度来てください」
「はい」
事務所を出て、薬院の交差点で信号を待った。風はまだ吹いていた。
安藤さんにかけた。
報告することは無い。前にも一度、同じことを訊いた。そのときのことは覚えていた。
「安藤さんは、申告、どげんしよるとですか」
少し間があった。
「……知らん」
切れた。
訊くな、よりは、答えに近い気がした。近づいたところで、何も分からないのは同じだった。
信号が青になった。
帰りに、新天町へ回った。
アーケードの中を風が抜けて、どこかの店の幟が鳴っていた。
古い文具店の奥の棚は、あのときと同じ並びだった。上の段に大学ノート、真ん中にバインダー、下の段に和綴じの帳面。紺の表紙が何冊か重ねてあって、千八百円の値札も同じだった。
帳簿を一冊、と言われた。
下の段に手を伸ばしかけて、やめた。
内訳に、帳面、壱、と書いてある。
うちの店の帳簿を一冊買って帰れば、それは店の帳面なのかもしれない。家計簿は家計簿だ。表にそう刷ってある。これは違う。仕事のことを書く、仕事の帳簿だ。
帳面がそれを帳面と読むかどうかは、帳面が決める。俺には分からない。
大学ノートを一冊取った。百八十円。帳面には似ていない。
似ていないから何だ、とは思った。思ったが、紺の和綴じは手に取らなかった。
レジを待つあいだに、考えた。
机が二つある。客用の椅子が二脚ある。どちらも内訳に書いていない。書いていないものは、数えられていない。あの机は毎日出して毎日しまっているが、一度も何も起きていない。
このノートも、内訳に書かなければいい。
たぶん、大丈夫だ。
たぶん、と付くのが、自分でも気に入らなかった。
あとは、祈るしかなかった。
その晩、ノートを本家に渡した。
「帳簿ば、家計簿と分けろ、ち言われた」
「はい」
「これは、お前が持っとけ。お前がつけろ」
本家はノートを受け取って、表と裏を見た。
「元祖さんの帳簿でしょう」
「お前のや」
本家は少し黙って、「……はい」と言った。
鉛筆を取って、表紙の上で止めた。
「表に、何て書きますか」
「……家計簿、でよか」
本家は俺の顔を見た。それから、家計簿、と書いた。
低い机の端に、家計簿が二冊並んだ。
本家が寝てから、帳面を出した。
電気は消してある。窓の外の街灯で、字は読めた。
最初の頁を開いた。
「坂口方 員数 七」の行が、ほかのどの行よりも重い存在感を放っている。
その隣に、屋号で受け直した行がある。少し先に、本家を見つけたあとで書き足した内訳がある。
元祖天神大上屋 員数 七 内訳
看板 弐
椅子 弐
帳面 壱
店番 弐
数えた。二と、二と、一と、二で、七。
帳面をもう一冊足せば、八になる。
八になれば、七ではない。
七のままにしておくなら、どれかを一つ外すことになる。看板を一枚か、椅子を一脚か。
それか、七のほうを動かすか。
そこで、手が止まった。
書き足せる、のかもしれない。
行は消せない。消して直すものではなく、書き足して直すものだ、と安藤さんは言った。なら、この内訳も、書き足して直せるのかもしれない。
何と書き足せばいいのかは、分からなかった。分からないまま、書き足せるということだけが、頭に残った。
あの七は、あの家の七だ。坂口の家から帳面に移って、屋号で受け直しただけの、同じ七だ。
七でなくなったら、あの家は、ここに居る理由を失くすのではないか。帳面から出ていって、どこかで、また足しはじめるのではないか。
それとも、出ていきはしないで、ただ、もう手を貸さなくなるのか。書いても入らない。刷っても増えない。名乗っても、何も起きない。
どちらが起きるのかは分からなかった。どちらも起きないのかもしれない。それも分からなかった。
何を数えるか書け、と安藤さんは言った。本家を表に連れてきた晩の、電話でだ。書いたから、店は静かになった。静かにしたものを、自分の手で、もう一度開けることになる。
その先を考えようとした。考えは、そこから先へ進まなかった。
筆ペンは、鞄の中にあった。取り出さなかった。
帳面を閉じた。紺の表紙には、何も書いていない。
低い机の端に、家計簿が二冊並んでいる。暗くて、どちらがどちらかは分からなかった。
朝になると、本家は片方を鞄に入れて、一本裏へ出ていった。どちらを持っていったのかは、訊かなかった。
控えに名前を書きに行く前の晩、本家が封筒を数えた。
作成料の八万円と、税金の四万六千二百円。
本家は、札を二度数えた。
「足ります」
「……足りるとか」
「足ります」
どこから出たのかは、訊かなかった。家計簿をつけているのは本家だ。
次の日、薬院へ行った。風は止んでいた。
税所さんは申告書の控えを出して、欄を一つ指した。
「こちらに、お名前を」
書いた。
大上大介
屋号の欄は、空いたままだった。職業の欄に、拝み屋、とある。
作成料の封筒を渡した。税所さんは中の札を数えた。指が速かった。
「八万円、確かに」
税所さんは領収書を書いた。宛名は、大上大介様、とあった。
俺が切る領収書には、屋号が入っている。
「では、また来月」
「はい」
税金は、帰りに銀行で納めた。
財布の中は、百円玉が三枚と、十円玉がいくつかになった。
足りた。
領収書を畳んで、札の入っていたところに入れた。




