番外 名札
二月の、午前二時だった。
天神の、大通りから一本入ったところにあるコンビニで、俺は深夜のシフトに入っていた。時給が千百円で、深夜は二割五分増えて千三百七十五円になる。週に四日、二十二時から翌六時まで。手取りは十三万そこそこだった。家賃が四万二千円で、残りで食っていた。
三つ目のバイト先だった。二つ目までは、続かなかった理由をちゃんと言える。ここについては言えない。辞めなかったから、まだ理由が要らなかった。
午前二時から四時までは、客が来ない。
来ないというのは正確ではなくて、一時間に二人か三人は来る。タクシーの運転手、始発待ち、酔い覚まし。ただ、その二人か三人のあいだが長い。長いあいだ、店の中には俺と、冷蔵ケースの音と、天井の蛍光灯しかない。
暖房は入っているが、自動ドアの前だけはいつも寒かった。ガラスの向こうの駐車場には、車が一台も停まっていない。
最初にそれを聞いたのは、その時間帯だった。
バックヤードで検品をしていた。段ボールを開けて、伝票と中身を突き合わせて、数を書く。おにぎりが二十四、サンドイッチが十八、肉まんが三箱。数えるのは嫌いではなかった。数え終わると、そのぶんだけ何かが片づいた気になる。
背中の、扉のほうから、声がした。
名前を呼ばれた気がした。
振り向いたら誰もいなかった。売り場も無人で、自動ドアも鳴っていない。冷凍庫のコンプレッサーが回りだして、止まった。
空耳だ、と思った。実際、そう思う以外にやることがない。
翌週、また聞いた。
今度は、少しはっきりしていた。二文字か三文字の名字に、くん、が付いている。
俺の名字ではなかった。
三度目からは、数えるようになった。
一晩に一回。だいたい三時前後。バックヤードのとき、たまに売り場のとき。呼ばれる名前は毎回同じで、聞き取れる日と聞き取れない日があった。
聞き取れた日に、俺はそれをレシートの裏に書いた。
ヒロセくん。
書いてから、しばらく見ていた。字にすると、ただの名字だった。うちの店に、その名前の人間はいない。店長も、昼の主婦のパートも、朝方に入る留学生も、みんな違う。
シフト表を見に行った。バックヤードの壁に、月ごとの表が画鋲で留めてある。手書きだ。店長の字は右上がりで、七の横棒が長い。
ヒロセは、いなかった。
俺の欄は、ちゃんと俺の欄だった。大上、と書いてある。
店長に訊いたのは、その週の引き継ぎのときだった。
「前に、ヒロセっていう人おらんかったですか」
店長は五十くらいで、いつも眠そうな顔をしている。夜勤明けの俺より眠そうなのが不思議だった。
「ヒロセ?」
「はい」
「おらんと思うけどねえ」
少し考えてから、こう言った。
「まあ、深夜は入れ替わるけん。三日で来んごとなる子とかおるし。そういうとは、覚えとらんもんね」
覚えとらんもんね、と言うときの顔が、本当に何も覚えていない顔だった。
俺はそれで引き下がった。引き下がったが、頭からは離れなかった。三日で来なくなった子は、シフト表に一度は名前が載ったはずだ。載ったものが、どこへ行ったのか。
名札に気づいたのは、二月の半ばだった。冷たい雨が、何日か続いていた。
胸に付けている、プラスチックのやつだ。差し込み式で、紙に印字した名字が入っている。うちの店は苗字だけで、下の名前は入れない。
その紙の字が、滲んでいた。
水に濡れたのではない。インクが紙に負けたような、輪郭だけが甘くなった滲み方だった。大上、の上の字が、特に読みにくい。
新しいのに差し替えた。事務所のプリンタで刷って、切って、入れた。
三日でまた滲んだ。
その晩、俺は返事をした。
したというより、出た。検品の途中で、背中から呼ばれて、はい、と言った。言った瞬間に自分でも何を言ったのか分からなかった。
冷凍庫が止まった。
止まるときの音ではなく、止まっているときの音でもない、その間の音がした。
俺は段ボールを持ったまま、動かなかった。何かが増えたわけでも減ったわけでもない。ただ、部屋が一つぶん静かになった。
売り場に出て、レジ横の鏡で名札を見た。
読めなかった。
滲んでいるのではない。字はある。二文字ある。二文字あるのに、それが何と書いてあるのか、目が受け取らなかった。
自分の名字だ。二十二年使っている。それが読めない。
声に出して言おうとした。
言えた。ちゃんと言えた。言えたので、俺は少し安心して、そのあと五分くらい、五回か六回、自分の名字を口の中で繰り返した。
その客が来たのは、翌々日の三時過ぎだった。
自動ドアが鳴って、冷たい空気と一緒に、紺のジャンパーの男が入ってきた。四十くらいに見えた。量販店のズボンで、手ぶらで、髪は寝癖でも整えたわけでもなかった。
そういう客は珍しくない。珍しくないというより、こういう時間はそういう客しか来ない。
男はホットの棚の前で少し立って、缶コーヒーを一本取って、レジに来た。
百四十円。
小銭でちょうど出した。
袋は要らないと言った。それも珍しくない。
珍しかったのは、そのあとだった。男は缶を受け取って、そのままレジの前に立っていた。二歩下がるでもなく、ドアのほうを向くでもなく、俺の顔でもなく、俺の胸のあたりを見ていた。
名札だ、と思った。
そのとき、呼ばれた。
俺は振り向いた。
バックヤードのほうを見て、誰もいないのを確かめて、正面に戻した。
男が、俺を見ていた。
「あんた、いま」
最初の一言が、それだった。
「振り向いたね」
「……はい」
「呼ばれたけん、振り向いたとやろ」
俺は答えなかった。答えなかったのは、隠したかったからではない。訊きたいことのほうが、先に喉まで来ていた。なぜ呼ばれたと分かったのか。この人にも、あれが聞こえたのか。どれから訊けばいいのか決められないうちに、答えるほうが置き去りになった。
男は缶コーヒーをカウンターに置いた。置いて、指で少し押して、俺のほうへ寄せるでもなく、ただ置いた。
「その名札、読めるや」
その人は、名乗らなかった。
名乗らないまま、二つだけ言った。
「返事したらいかん」
「それから?」
「その名札、捨てんどけ」
捨てるな、と言われて、俺は少し変な顔をしたと思う。読めなくなった名札を、後生大事に持っておく理由が分からなかった。
「なんでですか」
「訊かんでいい」
訊かんでいい、という言い方だった。訊くな、でも、知らんでいい、でもなく。
男は財布からレシートくらいの紙を出して、番号を書いた。屋号も名前も書かなかった。
「なんかあったら、ここに」
「あの」
「なんね」
「あんた、誰ですか」
男はそれには答えずに、缶コーヒーを持って出ていった。
自動ドアが閉まってから気づいたが、その缶は、まだ一度も開いていなかった。
次の晩、その人は来なかった。
その次の晩に来た。同じ時間に、同じ缶コーヒーを買って、今度は店の外に立っていた。ガラス越しに、駐輪場のほうを向いて、缶を持ったまま二時間くらい立っていた。
三時に、俺はバックヤードで呼ばれた。
返事はしなかった。歯を食いしばるみたいにして、しなかった。
外に出たら、息が白くなった。その人が振り返った。
「今日は」
「返事、してません」
「よし」
それだけ言って、また前を向いた。
俺はしばらく隣に立っていた。何か言うことがあるかと思ったが、なかった。二月の三時は、思っていたより寒かった。
三日目に、その人は店の中に入ってきた。
缶コーヒーは買わなかった。代わりに、店長に何か話をして、バックヤードに入る許可を取っていた。何と言ったのかは知らない。店長は、点検の業者に対する顔をしていた。
その人は、段ボールを積んである棚の下から、古い書類の束を引っ張り出した。
シフト表だった。
剥がしたやつを月ごとに重ねて、輪ゴムで留めて、放り込んである。いちばん下は四年前だった。埃をかぶって、角が丸くなっていた。
その人は、それを一枚ずつめくった。速くはなかった。速くはないが、迷いもしなかった。書類をめくるのに慣れている人の手だった。
途中で、止まった。
二年半前の、六月の表だった。
深夜の欄に、三日ぶんだけ、名前が入っていた。四日目からは、線で消して、別の名前が書いてある。
広瀬。
店長の字だった。七の横棒が長い、あの字だ。
「三日」と、その人は言った。
「はい」
「店長は、覚えとらんかったとやろ」
「覚えとらん、ち言いよりました」
「そうやろうね」
そのときの言い方が、いまでも耳に残っている。責めてもいなかったし、憐れんでもいなかった。ただ、そうやろうね、と言った。あらかじめ知っていたことを、もう一度確かめた人の言い方だった。
その人は、バックヤードの三か所に札を貼った。
扉の内側、冷凍庫の脇、シフト表の下の壁。俺は横で見ていた。何をしているのか訊いたが、探しよる、としか言わなかった。
二時間置いて、剥がした。
三枚とも、黄色くなっていた。
焦げてはいない。濡れてもいない。日に晒した紙みたいに、色が抜けて、黄ばんでいた。
黄ばみ方は、三枚とも違った。扉の内側のは右の端から、冷凍庫の脇のは左の下から、シフト表の下のは真ん中から、色が抜けていた。
なぜ場所が違うのかは、分からなかった。
「これ、なんですか」
「反応や」
「何の」
その人は答えなかった。三枚を並べて、何かを確かめて、それを畳んでポケットに入れた。
いま思えば、あのとき訊いておけばよかったことが、たぶん三つか四つあった。だが、あのときの俺は、目の前で人が何かをしているというだけで手一杯だった。
その晩の三時だった。
その人は、俺を売り場に出した。バックヤードには入るなと言われた。
扉の向こうで、短い言葉を口の中で言うのが聞こえた。何と言ったのかは聞き取れなかった。長い呪文ではなかった。あんなに短くていいのか、と思ったのを覚えている。
それから、少しのあいだ、何もなかった。
冷凍庫が回りだした。
扉が開いて、その人が出てきた。手に、黒くなった札が一枚あった。角のほうから炭になっていて、指で持つと粉が落ちた。
「終わった」
「終わった、ですか」
「もう呼ばん」
俺は自分の名札を見た。
読めた。大上、と書いてあった。二文字とも、ちゃんと読めた。
安心したはずなのに、そのとき最初に出てきたのは、別のことだった。
「あの」
「なんね」
「呼ばれよったとは、誰やったとですか」
その人は、黒い札をレジ袋に入れて、口を結んだ。ゴミ箱には捨てなかった。
「知らん」
「知らん、ち」
「消したけん、もう分からん」
消したけん、もう分からん。
その言い方に、後悔はなかった。仕事を終えた人の言い方だった。実際、それが仕事なのだろうと思った。
思ったのに、家に帰って布団に入ってから、それが引っかかって眠れなかった。布団が温まっても、足の先だけが冷たかった。
広瀬という人は、三日で来なくなった。店長は覚えていない。俺も会ったことがない。二年半、誰も呼ばなかった名前を、この店だけが呼んでいた。
その、呼んでいたものが消えた。
消えたので、それが広瀬という人と何か関係があったのか、それとも店が勝手に鳴らしていた音なのか、もう誰にも分からない。
分からないままになった。
俺は、分からないままにしておくのが、昔からできない。
テストで間違えた問題を、答えを見るまで寝られない。人の名前が出てこないと、思い出すまで会話が入ってこない。それは頭がいいということではなくて、ただ、途中で止められないというだけだ。
三日後に、俺はあの番号にかけた。
最初は、断られた。
「そういう商売やなか」
「弟子ば取っとらんとですか」
「取っとらん」
二度目も断られた。三度目にかけたとき、その人は電話に出るまでに六回鳴らした。
四度目に、場所を言われた。二月が、終わろうとしていた。
月極めで借りているという六畳間だった。事務所でもなく、家でもない。畳の上に文机が一つと、紙を漉く道具が置いてあった。あんなものを人が家で作っているとは思っていなかった。
火の気の無い部屋で、畳が冷たかった。その人は、茶を出さなかった。
「半年」
「え」
「半年だけ教える。それ以上は無理や」
「なんでですか」
「食えんけん」
食えんけん、と言った。金の話をしているのだと思った。
「それと」
「はい」
「俺のことは訊くな。名前も、住んどるとこも、抱えとるもんも」
「なんでですか」
「訊かんでいい」
あの晩と同じ言い方だった。
三ヶ月で、俺は型を覚えた。
留めと、祓いと、目印と、厄除け。ほかにも、覚えた型がいくつか。作り方と、貼り方と、値段の付け方。祝詞もいくつか教わった。ただ、いつも使うのは八文字のもの一つだけだった。
目印の色が何を指すかも覚えた。その色が出る場所が、怪異の出どころを示すのだ、ということも。
だが、貼った札を日を追って見にいく型は、教わらなかった。
教わる前に、俺が出ていったからだ。
名札は、捨てなかった。
言われたとおりにしたというより、捨てる理由が見つからなかった。ただの名札が一枚、財布の奥に折って入っている。
いまも入っている。
字はもう戻っていて、ちゃんと大上と読める。読めるようになったものを捨てるのは、なんとなく、順番が違う気がした。




