第二十八話 渡辺通二丁目 群れ鳩 受 壱
大寒を過ぎて、朝の歩道に霜が残るようになった。渡辺通りを北から吹き下ろす風が、看板のベニヤ板を鳴らす。
その男は、昼過ぎに客用の椅子に座った。
五十の手前くらいだろうか。灰色のコートの下に背広を着て、襟に小さな社章をつけている。座るなり眼鏡を外して、レンズに息を吐きかけ、ハンカチで拭いた。
「信じとらんとですけど」
眼鏡をかけ直して、そう言った。
「この先の、永野ビルの者です。持ち主の」
男は、通りの南のほうを顎で指した。
「去年、建て替えたとです。……毎朝、ここば通りよるとですけどね。こげな店のあったとは、知らんかった」
名刺を渡した。永野さんは読んで、背広の胸にしまった。
「八階に入っとる事務所が、出るち言いよるとです。三月いっぱいで」
「何か、ありましたか」
永野さんは、また眼鏡を外した。
「鳥の音のするち」
朝と夕方に、窓の外で羽の音がする。窓を影が横切る。一つや二つではない。
「鳥は、おらんとです」
業者を入れて、屋上も外壁も見てもらった。糞も羽も落ちていない。巣の跡も無い。鳩よけの針も網も、建てたときに付けたとおりになっている。業者は、鳥はいません、と言って帰った。
「建てるときに、テナントさんに言うたとですよ。前のビルは鳩のひどかったけど、今度は対策は万全ですけん、ち」
それで、鳥の話にはできないのだという。鳥がいないのに鳥の音がする、では、業者に頼み直す筋も立たない。
「前のビルには、鳩がいたんですか」
「おりました。そりゃあ、もう」
永野さんは眼鏡をかけた。
「見るだけ、見てもらえますか。音の正体の分かれば、それでよかです」
永野ビルは、デパートの角から南へ、歩いて十分と少しのところにあった。
八階建てで、外壁に白いタイルを貼っている。一階はコンビニと歯医者。入口の上にガラスの庇が張り出していて、その縁にも、細い針が一列に並んでいた。
八階の事務所は、図面を描く仕事をしているところだった。三十の半ばくらいの男の人が出てきて、佐伯です、と言った。セーターの袖を肘までまくって、耳に鉛筆を挟んでいる。話しながら、何度もその鉛筆に指をやった。
「五時過ぎです。いつも」
窓は、はめ殺しの大きな硝子だった。西の空が、向かいのビルの縁だけ赤く残っていた。
五時を回って、しばらくしたころだった。
硝子の向こうで、羽の音がした。
一つや二つではない。窓の外を影が次々に横切って、上へ抜けていく。机の上の図面を、影がいくつも撫でていった。
窓の外には、何もいなかった。
「これです」
佐伯さんは鉛筆に指をやった。
「朝も、同じです。八時前に、今度は上から下りてきて、どっかへ行く」
永野さんは、窓から目を離さずに、眼鏡を拭いていた。
鍵を借りて、屋上に上がった。
何も無い屋上だった。灰色の防水の床に、室外機が並んでいる。縁の立ち上がりは膝の高さほどで、その上にも針が並んでいた。囲うものは何も無い。北に天神のビルが見えた。
風が強かった。
「前のビルには、ここに給水塔のあったとです」
永野さんが、屋上の真ん中あたりを指さした。
「鳩は、あそこと、表の庇に並んどりました。昔の庇は、ずっと長かったけん」
いまは、何も無いところだった。
「調べに、三日ください。一万です」
「三日も、要るとですか」
「朝と夕方を、何度か見ないと分からないので」
永野さんは頷いて、眼鏡をかけ直した。
目印を三枚貼った。階段の出口の脇と、室外機の台と、縁の立ち上がり。離して貼る。
短い祝詞をあげた。八文字だ。
次の日の昼に見に行った。
三枚とも、焦げていた。焦げは生き物の色だ。
ただ、薄い。三枚とも同じくらいに薄く、しかも広い。どこか一点から浴びた焼け方ではなかった。中心がぼやけて、札の半分ほどに広がっている。
線を引こうとしても、引けなかった。どの札も、源がある向きを指していない。あちこちから、少しずつ浴びている。
前に、同じような詰まり方をしたことがある。そのときは五十枚を並べて、焼け方の違いから位置を割った。
同じことをした。屋上いちめんに、間を空けて五十枚貼った。
次の日、五十枚とも、同じように薄く焦げていた。
真ん中のも、縁のも、室外機の陰のも。濃いところも、薄いところも無い。
どこにいるのかは、分かった。この屋上いちめんに、薄く広がっている。
何羽ぶんなのかは、分からなかった。
濃さには、記憶の強さと、源までの距離の両方が乗る。一羽ぶんの記憶が屋上いちめんに広がっているのか。百羽ぶんが、それぞれ少しずつ浴びせているのか。札は、どちらも同じ色で焼ける。
その晩、寝る前に、七階と八階の戸を思い浮かべた。
朝、帳面の最後の頁に、いつもの字が並んでいた。
渡辺通二丁目 永野ビル七階 員数 合
渡辺通二丁目 永野ビル八階 員数 合
屋上の行は、無かった。
戸の無い駐輪場は、前に読んだ。通り抜けの通路は、読まなかった。屋上は、通路のほうらしい。
どこを読んで、どこを読まないのか。『番』には『番』の決めがあるのだろう。俺にはまだ、それが掴めていない。
夕方、もう一度屋上に上がった。
五時を過ぎると、音が来た。
南のほうから来て、頭の上を一度回り、降りてくる。影が、足もとの床をいくつも横切った。羽をたたむ音が、縁で、室外機の上で、あちこちでした。
上には、何もいない。
気づくと、数えていた。
影が一つ横切るたびに、指を折る。十を過ぎて、二十を過ぎて、三十の手前で、どれを数えたのか分からなくなった。初めからやり直した。三十七まで数えたところで、音が止んだ。
階段を下りる途中で、自分が何をしていたかに気づいた。
確かめようとして、数える。みやこビルでは、それで入った。
それ以来、数える癖が出るたびに自戒してきた。
今回も、何も起きていなかった。
次の朝は、本家に行ってもらった。
「八時前に、屋上。出ていくところば見てきてくれ」
「はい。店は、昼から開けます」
その晩、四畳半で、本家は言った。
「七時半過ぎでした。北のほうへ、出ていきました」
「何羽やった」
本家は、少し間を置いた。
「二十六です」
「数えたとか」
「数えました」
俺も数えた、とは言わなかった。本家も、それ以上は言わなかった。どちらにも、何も起きていない。
「夕方は、三十七やった。次の日は、四十一」
「朝は、全部は出ていかんとかもしれません」
「夕方も、全部は帰ってこんとかもしれん」
言ってから、同じことを言っているのだと思った。本家も、たぶん同じことを思っていた。
二十六と、三十七と、四十一。
書けば、数が立つ。
四十と書いて三十しかいなければ、足りないぶんを、帳面が何かで埋める。何で埋めるかは選べない。あのとき、六枚目に何が出てきたかを、俺は知っている。
二十と書けば、残りはあの屋上に居残る。
本家が電気の紐を引いた。暗い中で、しばらく目を開けていた。
次の日の夕方、店を畳みかけたところで、斜向かいのデパートのひさしの下に、紺のジャンパーが立っているのに気づいた。安藤さんだ。
道を渡った。
「数の読めんとか」
「……分かるとですか」
安藤さんは答えなかった。
話した。音と影のこと。目印が屋上いちめんに、薄く焦げたこと。数えても毎回違うこと。本家も数えたこと。
数えた、のところで、安藤さんは空を見た。ねぐらに帰る鳥の群れが、ひとつの生き物のように飛んでいた。
「群れは、なんぼで一つね」
「……分からんとです」
「決めり」
それだけだった。
安藤さんの手には、何もなかった。
この前ひさしの下に立ったときも、持っていなかった。中洲の件の、次の日だ。たまにはそういう日もあるのだろうと、そのときは気にしなかった。
「今日も、缶は持っとらんとですね」
安藤さんは、何のことだという顔をした。
右手が、左手のほうへ動いた。腹の前で、何も無いところを持ち替えて、止まった。
今度は、二人とも見ていた。
安藤さんは、自分の左手を見下ろした。指を一度握って、開いた。
「……いつからや」
「中洲の次の日には、もう持っとらんでした」
安藤さんは、しばらく左手を見ていた。
「持っとったとは、知っとる」
「好きやったでしょう。コーヒー」
「そうらしいな」
安藤さんは、通りのほうを見た。しばらく、何も言わなかった。
「なんで持ちよったとか、分からん」
左手を上着のポケットに入れて、安藤さんは歩いていった。
道を渡って、机を畳んだ。
脚を折りながら、輝国の晩のことを考えていた。
あの晩、安藤さんは缶を輝国まで持ってきて、最後まで開けなかった。帰り道の街灯の下で、右手から左手に持ち替えた。今日使うたぶんは、と俺が訊いたときだ。
缶を持っているあの人を見たのは、あれが最後だった。
安藤さんは、力を使うたびに少しずつ消える。あの晩、俺はそう考えた。名前はもう無いと、あの人は言っていた。だから、持っていかれるのは名前のような、大きなものだと思っていた。
好きだったということだけが抜けて、手が残った。
あの晩、俺は祓いを持っていなかった。
それが、あの人を削った。缶コーヒーが好きだ、という部分を。
次の朝、七時過ぎに永野ビルへ行った。
入口の前を、女の人が掃いていた。六十の半ばくらいで、紺の作業着に毛糸の帽子をかぶっている。片方だけ軍手を外して、外したほうを、もう片方の手に握っていた。
前のビルのときから、ここの掃除をしているという。
「二十、何年になるかね」
「鳩は、いましたか」
「おったおった。表の庇に、ずらっと並んで。朝、掃くとの大変でね」
「何羽くらい」
女の人は笑った。
「数えたことはなかです。多か時は、そら、百はおったかもしれん。少なか時は、二十か三十か」
それから、握っていた軍手で、庇のあったあたりを指した。
「ばってん、あれは一群れですたい。ずっと一緒に動きよった。朝、揃うて出ていって、夕方、揃うて帰ってくる。一羽だけ遅れて、ちゅうとは見たことなか」
「壊すときには、どうなったとですか」
「散りました。足場の組まれて、網の張られてから、しばらくは向かいの電線におったけど。そのうち、ばらばらになって」
女の人は、軍手をはめ直した。
「いまごろ、そこらの鳩になっとるとでしょう。警固の公園やら、駅のほうやら」
俺は、屋上を見上げた。
「まだ、帰ってきよるとですね」
「そうですかね」
女の人は、また掃きはじめた。
帰り道で、考えた。
百か、二十か。数えても、決まらない。
あの人は、一群れと言った。
そこらの鳩になった、とも言った。警固の公園でパン屑を拾っている何羽かは、あの庇に並んでいた鳩なのかもしれない。
生きとるもんは、受けたらいかん。安藤さんにそう言われている。三十と書けば、その三十が何を指すのか、俺には分からない。
一群れなら、分かる。庇に並んで、揃って出ていって、揃って帰ってきた一つだ。それはもう、どこにもいない。
群れは、なんぼで一つか。
一つだ、と決めた。
夕方、永野さんに鍵を借りた。永野さんは、一階のロビーで待っていると言った。
屋上は、風が止んでいた。西の空が、ビルの隙間だけ赤い。
階段の出口の脇で、帳面を開いた。
五時を少し過ぎた。
南のほうから、音が来た。
頭の上を一度回って、屋上いちめんに降りてくる。羽をたたむ音が、縁で、室外機の上で、俺の足もとでした。
給水塔のあったあたりが、いちばん賑やかだった。何も無い宙で、羽をたたむ音がする。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
羽の音が止んだ。
渡辺通二丁目 群れ鳩 受 壱
書き終えても、音は戻らなかった。
五十枚の札が、薄く焦げたまま床に並んでいた。一枚ずつ剥がして、鞄に入れた。
下りると、永野さんがロビーのソファから立った。
「どげんでした」
「済みました」
永野さんは天井を見上げた。八階ぶん上を見ているような顔だった。
二日して、永野さんが店に来た。
名刺を手に持っていた。それを見ながら、ここまで歩いてきたらしい。
「朝も夕方も、鳴らんそうです。佐伯さんのところ、残ってくれるち」
永野さんは客用の椅子に座って、眼鏡を外した。
「やっぱり、鳥やったとですね」
「はい。鳩でした」
永野さんは、レンズに息を吐きかけた。
「調べで一万、引き取りで二万です」
永野さんは封筒を出した。三万入っていた。
「管理費で、落とせる額ですね」
眼鏡を拭きながら、永野さんは言った。安心したような顔だった。
次の朝、店を出した。
地下街に下りる階段の脇で、鳩が何羽か、歩道をつついていた。人が来ると少しだけ飛んで、また下りる。
何羽いるのかは、数えなかった。




