第二十七話 権藤塾 昼寝 受 壱
正月の飾りが街から消えて、寒さが底まで下りてきた。北から来る風が、夕方になるとみぞれを混ぜる。
その晩、寝る前に、その日受けた客を本家と言い合った。俺のほうは二件で、どちらも厄除けが一枚ずつ出ただけだった。
「美野島の塾です」と本家は言った。
十日ほど前にも、同じ名を聞いている。自習室で生徒が寝る、厄除けを一枚置いてきた、と。
「収まっとらんとです」
「厄除けは」
「見に戻ったら、焦げとりました」
本家は鞄から茶封筒を出して、畳の上に置いた。
「寝るち、どげん寝ると」
「座っとる者が、一時を過ぎると寝るとです。三時に、揃うて起きます」
「揃うて」
「目覚ましの鳴ったごと、いっぺんに顔ば上げます」
「お前も座ったとか」
「座ってみました。三時まで、起きられんでした」
「生徒は、何て言いよる」
「慣れとります。寝ても、誰も騒がんです。騒いどるとは、親御さんと、権藤さんのほうで」
権藤さんというのが、塾長だという。
「今年の子は根ば詰める、ち言いよりました。疲れとるとです、ち」
本家はそれだけ言って、電気の紐に手を伸ばしかけ、やめた。俺が封筒を開けるのを待っていた。
中には、札が四枚と、畳んだ紙が一枚入っていた。
三枚は目印で、どれも黄ばんでいた。一枚は右から、一枚は左の下から、一枚はほとんど真ん中から。
残りの一枚は厄除けだった。うちで千円で売っているものだ。真ん中が黒く焦げて、焦げの縁が茶色く波打っている。字はもう読めない。
紙を開いた。
本家の字だった。家計簿で毎月見ている。見慣れているのは、それが俺の字だからでもある。
美野島二丁目、権藤塾。一階が八百屋で、塾は二階。奥の部屋を自習室にしている。
十二月、冬期講習から、昼も開けるようになった。
ストーブを消しても同じ。窓を開けても同じ。
目印三枚、黄ばみ。交わるのは奥の押し入れ。三日貼り替えて、三日とも同じ。
二階は、二十年ほど前まで保育所だった。一階の八百屋の話。押し入れは、そのころのもの。
調べ、一万。
厄除けを一枚、押し入れの襖に。千円。七日、誰も寝らんかった。八日目の昼に寝た。
いちばん下に、一行空けて書いてあった。子どもば休ませよる、と見る。
「休ませよる、か」
「そこに書いとるとおりです」
本家は、それ以上言わなかった。どうしますか、とも訊かない。
「もう一枚貼れば、また一週間は保つやろ」
「保つと思います」
「その次も、一枚」
「はい。一週間ずつなら」
そこで、どちらも黙った。
俺は、紙の上の一行を見ていた。十二月から昼も開けるようになった、の行だ。
本家は、権藤さんの話から読んだ。
俺には、この行のほうが気になった。
「明日、行く」
「はい。表は、俺が立ちます」
本家は電気の紐を引いた。
朝、安藤さんに電話した。出なかった。
訊きたいことは一つだけだった。誰もいない部屋でも、怪異は何かしているものなのか。
留守電には何も入れなかった。
昼前に、美野島へ歩いた。
渡辺通りから那珂川のほうへ下っていくと、古い商店街に出る。乾物屋と、布団屋と、閉まったままの豆腐屋が並んでいた。風が抜けるたびに、どこかのシャッターが鳴る。
八百屋の店先には、割引の札を付けた鏡餅が三つ残っていた。脇の階段を上がると、硝子戸に白い字で、権藤塾、とあった。その下に、小さく、自習室あり。
戸を開けると、正面の机にいた男が顔を上げた。
六十の手前くらいだろうか。厚手のカーディガンを着て、老眼鏡を額に押し上げている。机の上には、答案の束と赤ペンと、天満宮の合格鉛筆を挿した湯呑みがあった。
「ああ。先日は、どうも」
権藤さんは立って、頭を下げた。下げながら、指先を擦り合わせていた。チョークの粉を払うような手つきだった。後ろの壁にあるのはホワイトボードで、チョークはどこにも無い。
同じ顔で来たのだから、こうなる。
「また来てもろうて、すんません。札の、焦げてしもうて」
「見せてもらいます」
「それと、名刺ば、もう一枚いただけますか。前にいただいたとが、どこにいったか」
一本裏の行を足した、新しいほうを渡した。
権藤さんは老眼鏡を下ろして、しばらく読んでいた。
「元祖……。こげな名前でしたかね」
「はい」
権藤さんは名刺を、机のマットの下に挟んだ。
「共通テストまで、十日ですけん」
直前の二週間は昼から自習室を開ける、と親御さんに言ってある。家では勉強のできない子が来る。来て、寝て帰る。
「寝かせるために、開けとるわけじゃなかとです」
権藤さんは、また指先を擦り合わせた。
奥の部屋は、六畳ほどだった。長机が三つ、壁に向けて並べてある。窓が低い。大人の腰より下から始まっていて、外の電線が近かった。
押し入れは、襖が外してあった。上の段には段ボールが積んであり、中段には赤本が背を揃えて並んでいる。中段の縁に、色の抜けたビニールテープが一本貼ってあった。平仮名で、おふとん、と読めた。
隅で石油ストーブが燃えていた。机には、高校生が五人。マフラーを巻いたまま、ノートに屈み込んでいる。どの机の端にも、天満宮のお守りが置いてあった。
入口の脇に、女の人が立っていた。
「講師の白石です」
二十代の半ばくらいで、ダウンを着たまま、ホワイトボード用のペンを握っている。親指でキャップを外しては、また嵌めていた。
十二時四十分だった。
「座ってみてよかですか」
「どうぞ」と権藤さんが言った。「前も、そこに座ってみよったですね」
いちばん端の椅子だった。本家も、そこを選んだらしい。
一時を少し過ぎたころ、右隣の男の子の頭が、ゆっくり前に傾いた。
シャープペンが、ノートの上に転がった。その向こうの女の子も、肘をついたまま目を閉じていた。
ストーブの燃える音がしていた。
瞼が重い、と思ったのは覚えている。
目を開けると、五人が一斉に顔を上げたところだった。
壁の時計が、三時を指していた。
首が痛かった。机の木目が、頬に写っている気がした。
「三時です」
白石さんが言った。入口の脇に、さっきと同じように立っていた。
「白石さんは、寝らんとですか」
「座らんけん」白石さんはキャップを嵌めた。「座ったら寝るとです。やけん、一時から三時は立っとります」
五人は何事もなかったようにノートに戻っていた。寝たことには、もう慣れているらしかった。
その日のうちに、本家が貼ったのと同じところに目印を三枚貼った。押し入れの脇の柱と、窓の下の壁と、入口の鴨居。離して貼る。
短い祝詞をあげた。八文字だ。
下りる前に、八百屋でみかんを一袋買った。
店の奥さんは七十近くで、綿入れの半纏を着ていた。みかんを一つずつ掌で転がしてから、袋に入れる。
上は保育園やったとよ、と奥さんは言った。二十年も前、と。
「お昼寝の時間は、うちも静かにしよったとよ。一時から三時は、トラックも店の前に停めんごと言われて」
それから、奥さんは俺の顔を見た。
「あんた、この前も同じこと訊いたろうもん」
「……はい」
みかんを一つ、おまけしてくれた。
翌日の昼、目印を見に行った。
三枚とも黄ばんでいた。柱のは右から、壁のは上から、鴨居のは下から。線を延ばすと、押し入れの中段で交わった。
本家の紙と同じだった。
帰り道で、もう一度考えた。
本家は、休ませよる、と読んだ。今年の子は根を詰める、と権藤さんは言った。向かいに座ってそれを聞いたのは、本家だ。
俺の頭には、別のものが浮かんでいた。
四時十分に、十一往復。
『朝掃き』は、誰も通らない路地でも掃いた。盛り塩があれば、塩まで掃いた。西中洲に出しているあいだも、薬院の炊飯器のボタンを押した。掃く必要があるかどうかは、あれには関係がない。時刻が来れば、なぞる。
あの部屋も、そうなのではないか。
十二月まで、この塾は夕方からだった。二十年、誰もいない部屋に一時が来て、三時が来ていた。そこへ、座る者ができた。
座っている者がいれば、寝かす。昼寝の時間だから。疲れているかどうかは関係ない。俺も寝た。本家も寝た。立っている白石さんは寝ない。昼寝の時間にも、起きている大人が一人はいたのだろう。
トラックを停めるなと言われた、と奥さんは言った。二時間を、そこまで守った部屋だ。
休ませたいのか。時刻をなぞっているだけなのか。
紙の上の行は、どちらにも読める。
読みが違えば、受けに行く時も違ってくる。
本家の読みなら、疲れた者が座っていなければ、あの部屋は何もしない。休みの日の空いた部屋には、受ける相手がいない。受けるなら生徒のいる平日の昼で、寝ている五人の横で書くことになる。
俺の読みなら、一時になれば、誰がいなくてもそこにいる。
休みの日の一時にする、と決めた。
安藤さんに、もう一度電話した。出なかった。
その晩、焦げた厄除けを封筒から出して、畳に置いた。
「千円、返そうかと思う」
本家は布団を敷く手を止めた。
「一週間、誰も寝らんかったとです」
「そうやけど、収まっとらん」
「札は、仕事ばしとります」
本家は焦げたところを指さした。真ん中から焦げている。受けた力を焼いた痕だ。七日ぶん、少しずつ焼いて、八日目に尽きた。
「七日ぶん、代わりに受けとります」
本家は、布団の続きを敷いた。
俺は、しばらく札を見ていた。
権藤さんが千円で買ったのは、札だ。札は、買われたとおりに働いた。
部屋が収まるかどうかは、そのあとの話だった。
次の日、権藤さんに値段を言った。
「引き取りで、二万です」
「調べの分は」
「前に、いただいとります」
権藤さんは頷いた。それから、机の上の答案を揃えた。
「あの札の貼ってあった一週間は、みんな、よう勉強しよりました」
権藤さんは、指先を擦り合わせた。
返すつもりでいた千円のことは、言わなかった。
塾は日曜が休みだという。日曜の昼にさせてもらうことにした。
「鍵は開けときます。私は下の八百屋におりますけん」
「払いは、月曜に生徒さんが寝らんかったのを見てからで構いません」
権藤さんは、少し笑った。
日曜は晴れた。風だけが冷たかった。
商店街は半分ほどシャッターが下りていた。八百屋は開いていて、権藤さんが奥さんと、店先の椅子で茶を飲んでいた。俺を見て、階段のほうを手で示した。
二階は冷え切っていた。ストーブは消えている。長机の上に、生徒のお守りが一つ、置き忘れてあった。
押し入れの前に立った。
中段は、ちょうど腰の高さだった。赤本を端に寄せて、帳面を置いた。
十二時五十分。
立ったまま、待った。
一時になった。
何も来なかった。瞼も重くならない。座れば、寝る。
この部屋がいま、何かをしているのか、何もしていないのか。俺には分からない。
筆ペンの蓋を取った。
本家の紙には、休ませよる、とあった。本家なら、寝かしつけ、と書くだろう。
俺は、朝掃き、と名付けたのと同じやり方をすることにした。
何が起こっているかではなく、何が続いているかだ。
ここで起こっているのは、昼に人が寝るということだ。それだけを見れば、寝かしつけと名付けてもいい。
だが、昔から続いていたことの名でいうと、寝かしつけではない。
周りにも協力してもらって、静けさを保っていた二時間。昼寝だ。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
あたりが張った。
権藤塾 昼寝 受 壱
書き終えると、張ったものが落ちた。
部屋は、何も変わらないように見えた。おふとん、のテープも、そのまま貼ってあった。
帳面を鞄にしまって、いちばん端の椅子に座った。
一時二十分になった。四十分になった。
手が冷たかった。窓の外の電線に、雀が二羽とまって、また飛んだ。
眠くはならなかった。
三時まで、座っていた。
三時になった。誰も起きなかった。はじめから、誰も寝ていない。
月曜の三時過ぎに、権藤さんから電話があった。
「誰も寝らんかったです」
それから、少し間があった。
「白石先生が、座っとります」
火曜に、払いを受け取りに行った。
権藤さんは封筒を出した。二万入っていた。
焦げた厄除けを、封筒から出して机に置いた。
「これは、権藤さんが買われたもんですけん」
権藤さんは老眼鏡を下ろして、焦げた札を手に取った。裏を返して、また表に戻した。
「こいつが、一週間、生徒の代わりに寝よってくれたとですね」
札が寝たわけではない、と言いかけて、やめた。権藤さんは、焦げたところを指でなぞっていた。
それから札を持って奥の部屋へ行き、押し入れの上の壁に、天満宮のお札と並べて画鋲で留めた。
「験のよかけん」
奥の部屋では、白石さんが長机の端に座って、生徒の答案を見ていた。親指で、キャップを外しては嵌めていた。
帰り道、商店街を抜けたところで、携帯が鳴った。安藤さんだった。
「出とった。何か用か」
「もう、済みました」
「そうか」
電話は切れた。
どこへ出ていたのかは、訊かなかった。
天神に戻って、表の店を通り過ぎ、路地の口まで歩いた。四十歩もない。
いつもは、本家のほうが言いに来る。
高架の下で、本家は机に厄除けを並べていた。電車が上を通って、並べた札の端が震えた。
「美野島の塾、受けた」
「はい」
「昼寝、ち書いた」
本家は、厄除けを揃える手を止めなかった。
「俺なら、寝かしつけ、ち書いとります」
「知っとる」
本家は、はい、と言った。
「二万もろうた。厄除けの千円は、そのまま」
「はい」
焦げた札が、いまどこに貼ってあるかを話した。本家は少しだけ、顔を上げた。
四十歩戻って、表の椅子に座った。
昼の陽気が路上に降り注いで、北風がそれを拭っていった。
携帯を見ると、一時を回ったところだった。




