第二十六話 春吉三丁目 朝掃き 渡 壱
十二月に入って、風の向きが変わった。北から吹いて、ときどき時雨を連れてくる。濡れた歩道に、デパートの灯りが滲んでいた。
夕方、傘を畳みながら、女の人が机の前に立った。
六十の半ばを過ぎたくらいだろうか。灰色のコートを着て、髪を後ろで小さくまとめている。コートの袖口から、白い割烹着の袖が覗いていた。
「名刺ば、いただいてきました」
一本裏の行が足していない、古いほうの名刺だった。
「春吉の江頭さんからです。朝の音ば止めてもろうた、ち聞きました」
客用の椅子を出した。
「末永です。西中洲で、小料理屋ばしよります」
座りながら、末永さんは割烹着の袖を、指で一つ折り返した。
「店の裏に、路地のあるとです。勝手口ば出たところ」
店を閉めたあと、その勝手口の戸が鳴るのだという。外から誰かが手をかけたように、がたがたと。開けても誰もいない。
「別の晩は、足音です。うちの板場の子が、煙草ば吸いに出て、聞いとります」
「別の晩」
「毎晩、違うとです。灰皿の落ちとった朝もあります」
二週間前から、勝手口の脇に盛り塩を置いている。朝来ると、崩れているそうだ。
「気休めですけど」と末永さんは言った。「気休めにも、なっとらんです」
それから、袖をもう一つ折り返した。
「年内で、店ば閉めるとです」
ビルが売れて、年が明けたら取り壊す。跡にはホテルが建つという。四十年やってきた店だと言った。
「最後の月ですけん。予約も入っとります。板場の子に辞められたら、回らんとです」
「調べるとに三日いただきます。三日で二万です」
「そのあとは」
「そのあとは、見てから決めます」
末永さんは頷いた。金額のことは何も言わなかった。
その晩、寝る前に、その日受けた客を本家と言い合った。西中洲の小料理屋、とだけ言った。本家は、はい、と言った。
次の日の昼過ぎに、西中洲へ行った。表は本家に任せた。
天神から川のほうへ歩くと、通りが細くなる。料理屋と小さなバーが、軒を並べていた。昼のうちは、どこも戸が閉まっている。
ちとせは、古い三階建ての一階にあった。小料理、ちとせ、と書いた木の看板が出ている。暖簾はまだ掛かっていない。隣の店の戸には、閉店のお知らせが貼ってあった。
末永さんに通されて、店の中を抜けた。カウンターが七席と、奥に小上がりが一つ。出汁の匂いがしていた。
勝手口を出ると、路地だった。
東西に抜けている。幅は二メートルほどで、両側に室外機が並び、魚の入っていた発泡スチロールの箱が積んであった。ところどころに落ち葉が溜まっている。川沿いの並木から、風で吹き込んでくるのだろう。
勝手口の脇に、小皿が一枚あった。上の塩は崩れていた。
路地の奥で、男の子が煙草を吸っていた。二十を過ぎたくらいで、白い和帽子を被ったまま、肩をすくめている。俺を見て、煙草を消した。
「足音、ち聞きましたけど」
「……はい」男の子は東の口を指した。「あっちから来て、ここで止まるとです」
勝手口の前だった。
「振り向いたら、誰もおらんとです」
札を三枚貼った。勝手口の柱に一枚、路地を挟んだ向かいのビルの壁に一枚、東の口の雨樋に一枚。離して貼る。
短い祝詞をあげた。八文字だ。
男の子は、札のほうを見ないようにして、店に戻っていった。
翌朝、帳面の最後の頁を見た。前の晩、路地のことを考えながら寝ている。
ちとせ、と店の名があって、合、とだけ出ていた。路地のことは何も無い。道は読まない。前からそうだ。
昼に、剥がしに行った。
三枚とも出ていた。
柱のは黄ばんでいた。壁のは焦げていた。雨樋のは湿っていた。
しばらく、三枚を並べて見ていた。
色は、相手の出どころだ。黄ばみは場、焦げは動物か人、湿りは木か物。同じ一つの相手から、三つの色は出ない。
それでも、出た側を見て、線を延ばしてみた。三本は、どこでも交わらなかった。
三枚は、それぞれ別のものを指している。
もう一度、同じところに貼った。
次の朝は、柱が焦げていて、壁が湿っていて、雨樋は白かった。
末永さんに訊くと、昨夜は戸が鳴ったという。一昨夜は、何も無かった。
一つではない。入れ替わっている。来て、居ついて、また別のが来る。
区切りの無い場所には、よそから来るものが居つく。境目の札の書き方を教わったとき、一緒に聞いた話だ。家の中なら、その家の記憶が居座っていて、よそのものは入りづらい。道には、居座るものがいない。
これでは書けない。どれを何と呼べばいいのか分からず、いくつと数えることもできない。品名も数も立たないものは、受けられない。
祓いは打たない。打っても、明日には別のが来る。
路地の両方の口に境目の札を貼れば、区切りは立つ。ただ、区切りは貼った日から効くものではない。時間をかけて馴染んで、場所が自分でよそのものを拒むようになるまで、何か月もかかる。
この建物は、年が明けたら無い。
その晩、本家が寝てから、帳面を開いた。
主のいない場所に、よそのものが溜まる。それなら、主を置けばいい。育つのを待たずに、よそから連れてくればいい。
うちには、在庫がある。
頁を繰った。
純喫茶まりもの、煙草の匂い。四十年ぶん、店じゅうに染みていたものだ。あれなら路地いっぱいに居座るだろう。
匂いは空気だ。渡と書くことはできるだろう。受けたときは、あの店の、あの煙草の匂いで、壱だった。
困るのは、そのあとだ。壁も戸も無い路地に放てば、居つくのか、風に散っていくのか分からない。散ってしまえば、どこからどこまでがあの匂いなのか、もう言えない。言えないものは、受け直せない。
白金一丁目の野良猫。猫を寄せる。寄ってきた猫が、路地に居ついてくれるかもしれない。
だが、白金で見ている。茶トラは居ついて、食わなくなった。よその店の裏で、生きた猫を一匹ずつ痩せさせることになる。
メゾン平尾三〇一号の、居間の敷居。線を引く力だ。区切りそのものだから、いちばん向いている。
そう思ってから、指が止まった。出せば、出てくるのは敷居だ。あれが線を引いていたのは、あの居間と廊下のあいだに嵌まっていたからだ。路地に出したところで、木が一本、室外機の横に転がるだけだろう。
ほかの行も似たようなものだった。『回り犬』を出せば、赤坂の道順を路地でなぞるだけだ。『仕舞い』を出せば、もう無い店を閉めにかかるだけだ。
春吉三丁目、朝掃き。
春吉の道を、夜明け前に掃いてきたもの。いつから掃いていたのかは分からない。四時十分に、十一往復。人には触らない。軽いものしか動かさない。何をするのかは、全部分かっている。
分かっているものしか、出す気はなかった。
昼に、ちとせへ行った。末永さんはカウンターの中で、里芋の皮を剥いていた。
「うちで預かっとるもんを、一月、ここに置かせてもらいます」
「何ば置くと」
「朝の掃除です」
包丁が止まった。
「掃除」
「夜明け前に、この裏の路地ば掃きます。姿はありません。音だけします」
「……それで、止まるとですか」
「止まるかどうかは、置いてみらんと分かりません」
主のおらん場所に、よそのもんが溜まるとです、と言った。先に一つ、居らせとくとです、と。
末永さんは包丁を置いて、袖を折り返した。
「なんぼですか」
「調べの二万と、置きに来るとに一万、引き上げに来るとに一万です」
「一月おって、一万」
「来るとは、二回だけですけん」
末永さんは何か言いかけて、やめた。
「……引き上げばするときに、話しましょう」
その晩、店が閉まるのを待った。
最後の客が出て、末永さんと男の子が帰ったのは、一時を回ったころだった。
路地は暗かった。向かいのバーの換気扇だけが回っている。北風が抜けて、落ち葉がかさかさと鳴った。乾いた晩だった。
勝手口の前に、膝をついた。前を掃くものだから、前には戸があったほうがいい。そう思っただけで、確かめようはない。
鞄から帳面を出した。筆ペンの蓋を取る。コンクリートが冷たかった。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお渡しします」
春吉三丁目 朝掃き 渡 壱
あたりが張って、書き終えると落ちた。
何も出てこなかった。
座布団を出したときは、空気が鳴って、そこに六枚が積まれていた。今度は何も無い。出てくるものが、はじめから姿を持っていない。
出たのかどうかは、四時十分にならないと分からない。
発泡スチロールの箱を一つ借りて、腰を下ろした。手をポケットに入れた。川のほうから、風が来る。
三時を過ぎると、バーの換気扇も止まった。
四時十分だった。
シャッ。
勝手口の西側、室外機の手前からだった。シャッ、シャッ、と間を置いて、東へ寄ってくる。勝手口の前を過ぎて、少し先で止まり、また西へ戻っていった。
数えた。十一往復だった。始まってから、六分と少し。
音が止んでから、立って歩いてみた。掃いてあったのは、十歩ちょっとの幅だった。
春吉の、あの間口の幅だった。
西の端に、落ち葉が寄せてあった。低くて、横に長い山だ。箒の目が残っている。
勝手口の脇を見た。小皿は残っていたが、上の塩が崩れて、筋になって西へ流れていた。
塩は、掃かなくてよかった。
とはいえ、言っても聞かないだろう。聞くのなら、掃くこと自体、とっくにやめているはずだった。
薬院に帰ったのは、六時前だった。外はまだ暗い。本家は布団にいた。
台所に立って、炊飯器に手を伸ばした。
米は、出がけに研いで、水に浸けておいた。今朝は、自分で押すつもりでいた。
『朝掃き』は出してきたのだから、ここのボタンを押すものは、もういない。そう思っていた。
指が届く前に、保温のランプが点いているのに気づいた。
蓋を開けると、湯気が上がった。炊けていた。
本家のほうを見る。出がけに見たときと、全く同じ姿勢で寝ていた。
俺は寝相がいいらしい。こいつと暮らして、初めて知ったことだ。
起きてはいないだろう。とすると、ボタンを押したのは本家ではない。
ここのところ、いつもこのボタンを押していたもの。
『朝掃き』だ。
『朝掃き』は、いま西中洲の路地にいるはずだ。渡と書いて、出してきた。それでも、ここのボタンは押された。
向こうで掃いて、こっちで押した。
渡とは書いたが、手放したつもりはない。一月経ったら、引き上げに行く。貸しているだけで、あれは今も、うちのもののはずだ。
うちのものなら、うちで働いても、おかしくはない。
『番』も、そうなのかもしれない。
毎晩、帳面を机に置いたまま天神を歩いて、朝には最後の頁に書いている。
夏からずっとそうなのに、一度も不思議に思ったことがなかった。
辻褄は、合っている。合っているような気がする。
渡しても、帳面からいなくなるわけではない。そう考えると、気になることがあった。
帳面には、「大上大介 壱」の行がある。あとから帳面が自分で書いた、「大上大介 渡 壱」の行もある。
いままでは、渡せば帳面の中からはいなくなるのだと思っていた。
だが、『朝掃き』は今もこのアパートで、俺の習慣をなぞって飯を炊いている。
受けの行があれば、帳面の中に在り続けるということなのか。
であれば、大上大介は今も帳面の中に在る。
そして、外にもいる。
本家は、壁のほうを向いたままだった。静かに、規則正しい寝息をたてていた。
あの行が今、何を指しているのか。考えかけて、考えないことにした。
米の炊けた匂いがしていた。茶碗を二つ出した。
それから、昼のうちに何度か、ちとせへ寄った。
三日目に、末永さんが言った。
「戸は、鳴らんです」
男の子は、毎朝ちりとりを持って路地に出るようになっていた。
「毎朝、掃いてあるとです。女将さんが早う来て、掃いとるとかち思いよりました」
末永さんは、盛り塩をやめた。
「塩まで掃いていきよるけん」
怒っている口ぶりではなかった。
夜、通りがかりに覗くと、暖簾の向こうはいつも埋まっていた。忘年会らしい声が、表まで聞こえていた。
月の半ばに、もう一度、目印を貼った。柱と、壁と、雨樋に。
翌朝、三枚とも黄ばんでいた。柱のは下から、壁のは左寄りから、雨樋のは右寄りから広がっている。焦げも、湿りも無い。
線を延ばすと、勝手口の前で交わった。
うちのだ。
よそから来ていたものが、どこへ行ったのかは分からない。川沿いの、別の路地へ移っただけかもしれない。追いかける手立ては、俺には無い。
最後の晩は、暖簾を下ろしてから行った。
カウンターには、洗い上げた皿が重ねてあった。男の子は先に帰っていた。小上がりの隅に、段ボールが三つ積んである。
末永さんは、封筒を二つ出した。
「こっちが、四万。こっちが、掃いた人のぶん」
「掃いた人」
「一月、毎朝、掃いてあったろうもん。日当たい」
「あれは、人やなかとです」
「人やなかろうが、働いたとやろ」末永さんは言った。「あんたの店の者やろうが」
「……うちのもんです」
「そんなら、あんたの店に払う」
四万の封筒だけを取って、もう一つを押し戻した。
「来とらん日のぶんは、もらえんとです。俺が来たとは、二回だけです」
「あんたが来たかどうかは、訊いとらん」
末永さんは袖を折り返した。二つ折り返して、それから、押し戻された封筒を見た。
「四十年、人ば使うてきたけど、ただで働かせたことは、いっぺんもなかとよ」
答えが出てこなかった。
末永さんは封筒を取り上げて、しばらく手の中で持っていた。それから、カウンターの上の神棚に載せた。
「裏ば掃いてくれよるとは、明日の朝も、おるとね」
「おります。明日の朝、引き上げに来ます」
「置いていったら、よかたい」と末永さんは言った。「どうせ、年が明けたら壊すとやけん」
「置いていけんとです」
「なんで」
「ここに居つきます。建物がのうなっても、ここに居ります。ホテルが建っても、夜明け前に掃きます」
末永さんは、それも悪うなかね、という顔をした。
「うちは、引き取る店ですけん。置いていく店やなかとです」
末永さんは、少し笑った。
「変わった店やね」
三時に、表を通って路地に入った。木の看板は、もう外してあった。
勝手口の硝子に、長い間ありがとうございました、と書いた紙が貼ってあった。
待った。
四時十分だった。
シャッ、と室外機の手前から始まった。
勝手口の前に膝をついて、鞄から帳面を出した。筆ペンの蓋を取る。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
あたりが張った。
箒の音が、止まった。
西中洲 朝掃き 受 壱
書き終えて、顔を上げた。
路地は静かなままだった。
止まったのは、五往復目の途中だった。落ち葉が、半分だけ西へ寄っている。
待った。
来なかった。
帳面を閉じる前に、頁を戻した。
春吉で受けた行があって、その左に、出した行があって、その左に、いま書いた行がある。一つのものに、三行だ。
『朝掃き』は、出した場所で、朝掃きをした。春吉の幅で、春吉の時刻に、西中洲の路地を掃いた。
帳面の、最初の頁を開く。
この頁には、他のどの行よりも重い存在感を放つ行がある。
坂口方 員数 七
ここに入っているのは、坂口家に棲んでいた、数を合わせるもの。
『家』だ。
書けば入り、書けば出る。この帳面がそうなっているのも、おそらくこの行のためだ。
であるならば、この行も、書けば出る。
『家』を出せば、出した場所で、『家』をする。
あの家で見たものを思い出した。一膳ずつ増えていく箸と、三人になった母親だ。
おそらく、あれと同じようなことを、出された場所でやるのだろう。
『朝掃き』を出したとき、『朝掃き』はそれでも俺の飯を炊いた。
『家』が出たときは、どうなるのか。この帳面は、どうなるのか。
正直、まったく分からない。
分からないものは出さない、と決めた。
金は増やさない。祓いは売らない。その決めごとの隣に、それを置いた。
帳面を閉じた。




