↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/67

第二十六話 春吉三丁目 朝掃き 渡 壱

 十二月に入って、風の向きが変わった。北から吹いて、ときどき時雨を連れてくる。濡れた歩道に、デパートの灯りが滲んでいた。

夕方、傘を畳みながら、女の人が机の前に立った。

六十の半ばを過ぎたくらいだろうか。灰色のコートを着て、髪を後ろで小さくまとめている。コートの袖口から、白い割烹着の袖が覗いていた。

「名刺ば、いただいてきました」

一本裏の行が足していない、古いほうの名刺だった。

「春吉(はるよし)の江頭(えがしら)さんからです。朝の音ば止めてもろうた、ち聞きました」

客用の椅子を出した。

「末永(すえなが)です。西中洲(にしなかす)で、小料理屋ばしよります」

座りながら、末永さんは割烹着の袖を、指で一つ折り返した。


 「店の裏に、路地のあるとです。勝手口ば出たところ」

店を閉めたあと、その勝手口の戸が鳴るのだという。外から誰かが手をかけたように、がたがたと。開けても誰もいない。

「別の晩は、足音です。うちの板場の子が、煙草ば吸いに出て、聞いとります」

「別の晩」

「毎晩、違うとです。灰皿の落ちとった朝もあります」

二週間前から、勝手口の脇に盛り塩を置いている。朝来ると、崩れているそうだ。

「気休めですけど」と末永さんは言った。「気休めにも、なっとらんです」

それから、袖をもう一つ折り返した。

「年内で、店ば閉めるとです」

ビルが売れて、年が明けたら取り壊す。跡にはホテルが建つという。四十年やってきた店だと言った。

「最後の月ですけん。予約も入っとります。板場の子に辞められたら、回らんとです」

「調べるとに三日いただきます。三日で二万です」

「そのあとは」

「そのあとは、見てから決めます」

末永さんは頷いた。金額のことは何も言わなかった。


 その晩、寝る前に、その日受けた客を本家と言い合った。西中洲の小料理屋、とだけ言った。本家は、はい、と言った。


 次の日の昼過ぎに、西中洲へ行った。表は本家に任せた。

天神から川のほうへ歩くと、通りが細くなる。料理屋と小さなバーが、軒を並べていた。昼のうちは、どこも戸が閉まっている。

ちとせは、古い三階建ての一階にあった。小料理、ちとせ、と書いた木の看板が出ている。暖簾はまだ掛かっていない。隣の店の戸には、閉店のお知らせが貼ってあった。

末永さんに通されて、店の中を抜けた。カウンターが七席と、奥に小上がりが一つ。出汁の匂いがしていた。

勝手口を出ると、路地だった。

東西に抜けている。幅は二メートルほどで、両側に室外機が並び、魚の入っていた発泡スチロールの箱が積んであった。ところどころに落ち葉が溜まっている。川沿いの並木から、風で吹き込んでくるのだろう。

勝手口の脇に、小皿が一枚あった。上の塩は崩れていた。

路地の奥で、男の子が煙草を吸っていた。二十を過ぎたくらいで、白い和帽子を被ったまま、肩をすくめている。俺を見て、煙草を消した。

「足音、ち聞きましたけど」

「……はい」男の子は東の口を指した。「あっちから来て、ここで止まるとです」

勝手口の前だった。

「振り向いたら、誰もおらんとです」


 札を三枚貼った。勝手口の柱に一枚、路地を挟んだ向かいのビルの壁に一枚、東の口の雨樋に一枚。離して貼る。

短い祝詞をあげた。八文字だ。

男の子は、札のほうを見ないようにして、店に戻っていった。


 翌朝、帳面の最後の頁を見た。前の晩、路地のことを考えながら寝ている。

ちとせ、と店の名があって、合、とだけ出ていた。路地のことは何も無い。道は読まない。前からそうだ。


 昼に、剥がしに行った。

三枚とも出ていた。

柱のは黄ばんでいた。壁のは焦げていた。雨樋のは湿っていた。

しばらく、三枚を並べて見ていた。

色は、相手の出どころだ。黄ばみは場、焦げは動物か人、湿りは木か物。同じ一つの相手から、三つの色は出ない。

それでも、出た側を見て、線を延ばしてみた。三本は、どこでも交わらなかった。

三枚は、それぞれ別のものを指している。


 もう一度、同じところに貼った。

次の朝は、柱が焦げていて、壁が湿っていて、雨樋は白かった。

末永さんに訊くと、昨夜は戸が鳴ったという。一昨夜は、何も無かった。

一つではない。入れ替わっている。来て、居ついて、また別のが来る。

区切りの無い場所には、よそから来るものが居つく。境目の札の書き方を教わったとき、一緒に聞いた話だ。家の中なら、その家の記憶が居座っていて、よそのものは入りづらい。道には、居座るものがいない。

これでは書けない。どれを何と呼べばいいのか分からず、いくつと数えることもできない。品名も数も立たないものは、受けられない。

祓いは打たない。打っても、明日には別のが来る。

路地の両方の口に境目の札を貼れば、区切りは立つ。ただ、区切りは貼った日から効くものではない。時間をかけて馴染んで、場所が自分でよそのものを拒むようになるまで、何か月もかかる。

この建物は、年が明けたら無い。


 その晩、本家が寝てから、帳面を開いた。

主のいない場所に、よそのものが溜まる。それなら、主を置けばいい。育つのを待たずに、よそから連れてくればいい。

うちには、在庫がある。

頁を繰った。

純喫茶まりもの、煙草の匂い。四十年ぶん、店じゅうに染みていたものだ。あれなら路地いっぱいに居座るだろう。

匂いは空気だ。渡と書くことはできるだろう。受けたときは、あの店の、あの煙草の匂いで、壱だった。

困るのは、そのあとだ。壁も戸も無い路地に放てば、居つくのか、風に散っていくのか分からない。散ってしまえば、どこからどこまでがあの匂いなのか、もう言えない。言えないものは、受け直せない。

白金(しろがね)一丁目の野良猫。猫を寄せる。寄ってきた猫が、路地に居ついてくれるかもしれない。

だが、白金で見ている。茶トラは居ついて、食わなくなった。よその店の裏で、生きた猫を一匹ずつ痩せさせることになる。

メゾン平尾(ひらお)三〇一号の、居間の敷居。線を引く力だ。区切りそのものだから、いちばん向いている。

そう思ってから、指が止まった。出せば、出てくるのは敷居だ。あれが線を引いていたのは、あの居間と廊下のあいだに嵌まっていたからだ。路地に出したところで、木が一本、室外機の横に転がるだけだろう。

ほかの行も似たようなものだった。『回り犬』を出せば、赤坂(あかさか)の道順を路地でなぞるだけだ。『仕舞い』を出せば、もう無い店を閉めにかかるだけだ。

春吉三丁目、朝掃き。

春吉の道を、夜明け前に掃いてきたもの。いつから掃いていたのかは分からない。四時十分に、十一往復。人には触らない。軽いものしか動かさない。何をするのかは、全部分かっている。

分かっているものしか、出す気はなかった。


 昼に、ちとせへ行った。末永さんはカウンターの中で、里芋の皮を剥いていた。

「うちで預かっとるもんを、一月、ここに置かせてもらいます」

「何ば置くと」

「朝の掃除です」

包丁が止まった。

「掃除」

「夜明け前に、この裏の路地ば掃きます。姿はありません。音だけします」

「……それで、止まるとですか」

「止まるかどうかは、置いてみらんと分かりません」

主のおらん場所に、よそのもんが溜まるとです、と言った。先に一つ、居らせとくとです、と。

末永さんは包丁を置いて、袖を折り返した。

「なんぼですか」

「調べの二万と、置きに来るとに一万、引き上げに来るとに一万です」

「一月おって、一万」

「来るとは、二回だけですけん」

末永さんは何か言いかけて、やめた。

「……引き上げばするときに、話しましょう」


 その晩、店が閉まるのを待った。

最後の客が出て、末永さんと男の子が帰ったのは、一時を回ったころだった。

路地は暗かった。向かいのバーの換気扇だけが回っている。北風が抜けて、落ち葉がかさかさと鳴った。乾いた晩だった。

勝手口の前に、膝をついた。前を掃くものだから、前には戸があったほうがいい。そう思っただけで、確かめようはない。

鞄から帳面を出した。筆ペンの蓋を取る。コンクリートが冷たかった。

短い祝詞をあげた。八文字。

「元祖天神大上屋、大上大介がお渡しします」


  春吉三丁目 朝掃き 渡 壱


 あたりが張って、書き終えると落ちた。

何も出てこなかった。

座布団を出したときは、空気が鳴って、そこに六枚が積まれていた。今度は何も無い。出てくるものが、はじめから姿を持っていない。

出たのかどうかは、四時十分にならないと分からない。

発泡スチロールの箱を一つ借りて、腰を下ろした。手をポケットに入れた。川のほうから、風が来る。

三時を過ぎると、バーの換気扇も止まった。


 四時十分だった。

シャッ。

勝手口の西側、室外機の手前からだった。シャッ、シャッ、と間を置いて、東へ寄ってくる。勝手口の前を過ぎて、少し先で止まり、また西へ戻っていった。

数えた。十一往復だった。始まってから、六分と少し。

音が止んでから、立って歩いてみた。掃いてあったのは、十歩ちょっとの幅だった。

春吉の、あの間口の幅だった。

西の端に、落ち葉が寄せてあった。低くて、横に長い山だ。箒の目が残っている。

勝手口の脇を見た。小皿は残っていたが、上の塩が崩れて、筋になって西へ流れていた。

塩は、掃かなくてよかった。

とはいえ、言っても聞かないだろう。聞くのなら、掃くこと自体、とっくにやめているはずだった。


 薬院(やくいん)に帰ったのは、六時前だった。外はまだ暗い。本家は布団にいた。

台所に立って、炊飯器に手を伸ばした。

米は、出がけに研いで、水に浸けておいた。今朝は、自分で押すつもりでいた。

『朝掃き』は出してきたのだから、ここのボタンを押すものは、もういない。そう思っていた。

指が届く前に、保温のランプが点いているのに気づいた。

蓋を開けると、湯気が上がった。炊けていた。

本家のほうを見る。出がけに見たときと、全く同じ姿勢で寝ていた。

俺は寝相がいいらしい。こいつと暮らして、初めて知ったことだ。

起きてはいないだろう。とすると、ボタンを押したのは本家ではない。

ここのところ、いつもこのボタンを押していたもの。

『朝掃き』だ。


 『朝掃き』は、いま西中洲の路地にいるはずだ。渡と書いて、出してきた。それでも、ここのボタンは押された。

向こうで掃いて、こっちで押した。

渡とは書いたが、手放したつもりはない。一月経ったら、引き上げに行く。貸しているだけで、あれは今も、うちのもののはずだ。

うちのものなら、うちで働いても、おかしくはない。

『番』も、そうなのかもしれない。

毎晩、帳面を机に置いたまま天神を歩いて、朝には最後の頁に書いている。

夏からずっとそうなのに、一度も不思議に思ったことがなかった。

辻褄は、合っている。合っているような気がする。


 渡しても、帳面からいなくなるわけではない。そう考えると、気になることがあった。

帳面には、「大上大介 壱」の行がある。あとから帳面が自分で書いた、「大上大介 渡 壱」の行もある。

いままでは、渡せば帳面の中からはいなくなるのだと思っていた。

だが、『朝掃き』は今もこのアパートで、俺の習慣をなぞって飯を炊いている。

受けの行があれば、帳面の中に在り続けるということなのか。

であれば、大上大介は今も帳面の中に在る。

そして、外にもいる。

本家は、壁のほうを向いたままだった。静かに、規則正しい寝息をたてていた。

あの行が今、何を指しているのか。考えかけて、考えないことにした。

米の炊けた匂いがしていた。茶碗を二つ出した。


 それから、昼のうちに何度か、ちとせへ寄った。

三日目に、末永さんが言った。

「戸は、鳴らんです」

男の子は、毎朝ちりとりを持って路地に出るようになっていた。

「毎朝、掃いてあるとです。女将さんが早う来て、掃いとるとかち思いよりました」

末永さんは、盛り塩をやめた。

「塩まで掃いていきよるけん」

怒っている口ぶりではなかった。

夜、通りがかりに覗くと、暖簾の向こうはいつも埋まっていた。忘年会らしい声が、表まで聞こえていた。


 月の半ばに、もう一度、目印を貼った。柱と、壁と、雨樋に。

翌朝、三枚とも黄ばんでいた。柱のは下から、壁のは左寄りから、雨樋のは右寄りから広がっている。焦げも、湿りも無い。

線を延ばすと、勝手口の前で交わった。

うちのだ。

よそから来ていたものが、どこへ行ったのかは分からない。川沿いの、別の路地へ移っただけかもしれない。追いかける手立ては、俺には無い。


 最後の晩は、暖簾を下ろしてから行った。

カウンターには、洗い上げた皿が重ねてあった。男の子は先に帰っていた。小上がりの隅に、段ボールが三つ積んである。

末永さんは、封筒を二つ出した。

「こっちが、四万。こっちが、掃いた人のぶん」

「掃いた人」

「一月、毎朝、掃いてあったろうもん。日当たい」

「あれは、人やなかとです」

「人やなかろうが、働いたとやろ」末永さんは言った。「あんたの店の者やろうが」

「……うちのもんです」

「そんなら、あんたの店に払う」

四万の封筒だけを取って、もう一つを押し戻した。

「来とらん日のぶんは、もらえんとです。俺が来たとは、二回だけです」

「あんたが来たかどうかは、訊いとらん」

末永さんは袖を折り返した。二つ折り返して、それから、押し戻された封筒を見た。

「四十年、人ば使うてきたけど、ただで働かせたことは、いっぺんもなかとよ」

答えが出てこなかった。

末永さんは封筒を取り上げて、しばらく手の中で持っていた。それから、カウンターの上の神棚に載せた。


 「裏ば掃いてくれよるとは、明日の朝も、おるとね」

「おります。明日の朝、引き上げに来ます」

「置いていったら、よかたい」と末永さんは言った。「どうせ、年が明けたら壊すとやけん」

「置いていけんとです」

「なんで」

「ここに居つきます。建物がのうなっても、ここに居ります。ホテルが建っても、夜明け前に掃きます」

末永さんは、それも悪うなかね、という顔をした。

「うちは、引き取る店ですけん。置いていく店やなかとです」

末永さんは、少し笑った。

「変わった店やね」


 三時に、表を通って路地に入った。木の看板は、もう外してあった。

勝手口の硝子に、長い間ありがとうございました、と書いた紙が貼ってあった。

待った。

四時十分だった。

シャッ、と室外機の手前から始まった。

勝手口の前に膝をついて、鞄から帳面を出した。筆ペンの蓋を取る。

短い祝詞をあげた。八文字。

「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」

あたりが張った。

箒の音が、止まった。


  西中洲 朝掃き 受 壱


 書き終えて、顔を上げた。

路地は静かなままだった。

止まったのは、五往復目の途中だった。落ち葉が、半分だけ西へ寄っている。

待った。

来なかった。


 帳面を閉じる前に、頁を戻した。

春吉で受けた行があって、その左に、出した行があって、その左に、いま書いた行がある。一つのものに、三行だ。

『朝掃き』は、出した場所で、朝掃きをした。春吉の幅で、春吉の時刻に、西中洲の路地を掃いた。

帳面の、最初の頁を開く。

この頁には、他のどの行よりも重い存在感を放つ行がある。


  坂口方 員数 七


 ここに入っているのは、坂口(さかぐち)家に棲んでいた、数を合わせるもの。

『家』だ。

書けば入り、書けば出る。この帳面がそうなっているのも、おそらくこの行のためだ。

であるならば、この行も、書けば出る。

『家』を出せば、出した場所で、『家』をする。

あの家で見たものを思い出した。一膳ずつ増えていく箸と、三人になった母親だ。

おそらく、あれと同じようなことを、出された場所でやるのだろう。


 『朝掃き』を出したとき、『朝掃き』はそれでも俺の飯を炊いた。

『家』が出たときは、どうなるのか。この帳面は、どうなるのか。

正直、まったく分からない。

分からないものは出さない、と決めた。

金は増やさない。祓いは売らない。その決めごとの隣に、それを置いた。

帳面を閉じた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。