第二十五話 中島屋 足踏みミシン 受 壱
十一月も下旬になると、風がビルの間を抜けてくる。机の上の名刺が飛ぶので、名刺入れを重しに載せた。日なたは暖かいが、日が陰ると指先が冷たくなる。
昼を過ぎたころ、歩道の向こうから、男が真っ直ぐに歩いてきた。襟のあるシャツに綿のジャンパーを羽織っている。作業着ではなかった。
「こんなとこで商いよっとか」
播谷守だった。
「大上くん。名刺の住所ば見て来た。二枚もろうとったろ。一枚失くしたけん、助かったわ」
客用の椅子に腰を下ろして、播谷さんは道の向かいを見た。デパートの正面に、昼の日が当たっている。
「あんたに、頼みたか仕事のある」
それから、少し言いにくそうにした。
「先に、安藤さん、ち言う人に電話した。親父の名簿に番号のあったけん」
「はい」
「断られた。札が足らん、ち」
播谷さんは膝の上で手を組んだ。
「仕入れの回っとらんとですか、ち訊いたら、それきり切られた」
一年に五十枚だ。紙を漉くところから作って、墨を摺って、一枚に二時間かかる。買ってくるものだと思っている人間には、足らんという言葉がただの品切れに聞こえる。
「そうですか」と俺は言った。それ以上は言わなかった。
仕事の話になった。
春吉の古道具屋で、屋号を中島屋という。播谷さんの親父さんの代からの客だそうだ。
「足踏みのミシンたい。売れるやろ。ほんで、返ってくる」
「返ってくる」
「三遍。三遍とも、金ば返しとる」
買い主の家で、朝になると向きが変わっているのだという。二センチか三センチ。誰も動かしていない。
「留めば貼ったら、止まった。二遍とも止まった」
「祓わんで、留めだけですか」
「古か木の、覚えとるだけやろうけん。留めときゃ落ち着くち思うたと」
「落ち着いたとですか」
「落ち着いた。ばってん、次の買い主のところで、また出る」
播谷さんはジャンパーの袖を直した。
「三遍目は、祓わないかんと思うとる。ばってん、祓いの札の切れとってね。次の仕入れまで間があると」
それで安藤さんに振った。断られて、こっちに来た。
「あんた、持って帰るとやろ」と播谷さんは言った。「持って帰ってくれんね」
店を畳んでから、安藤さんに電話した。
「播谷さんの件、断ったとですか」
「札が足らん」
それだけだった。理由を訊いたのはこっちなのに、答えを聞くと、訊かなければよかったような気になった。
「うちが受けます」
「そうか」
切れた。
次の日の昼に、春吉へ出た。表は本家に任せた。
中島屋は那珂川寄りの通りにあった。間口が狭くて、奥が深い。硝子戸の脇に、古道具、中島屋、と縦書きの板が下がっている。
中に入ると、細長い土間が奥へ延びていた。
両側の壁際に、古いものが並んでいる。簞笥が重ねてあって、その上に木の編みかごが載り、天井の近くまで届いていた。隣には、柱時計が立てて置いてある。火鉢があり、透かし彫りの板があり、硝子の笠の電灯がある。どれも値札を下げていた。あいだに残った土間は、人ひとり通れるだけの幅しかない。
硝子戸から入る日は、奥まで届いていなかった。天井から裸電球が一つ下がっている。古い簞笥のような匂いがした。防虫剤だろうか。
奥から、店の人が出てきた。
六十くらいの人だった。白髪を短く刈って、毛玉の浮いたカーディガンを着ている。手に布を持っていた。話しながら、近くにあった真鍮の燭台を、その布で拭いた。
「中島です。播谷さんから聞いとります」
名刺を二枚渡した。中島さんは老眼鏡を額に上げて、二枚とも勘定台の引き出しに入れた。
ミシンは、奥の壁際にあった。簞笥と火鉢のあいだに挟まっている。
黒い頭に、金の飾り文字が入っていた。木の台と、鉄の脚と、足踏みの板。ペダルの真ん中だけが、すり減っている。
「この足踏みは、委託ですけん。うちのもんやなかとです」
中島さんは布をカーディガンのポケットに入れた。
「高宮の宮崎さん、ちゅう方が、亡くなられて。二年前です。娘さんが東京におらすとですけど、こっちには来られんけん、まとめてうちが預かった」
値札が下がっていた。足踏みミシン、二万四千円、とある。
「売れたら、三割がうちの取り分です。残りは東京に送る」
三度売って、三度返って、そのたびに金を返した。
「品は悪うなかとですよ」と中島さんは言った。「うちが売ったもんに、まがいもんはなか」
それは、俺が言うことではなかったので、はい、とだけ言った。
「ここでは、動かんとですか」
「動かんです。挟まっとるけん」
札を三枚貼った。ミシンの台に一枚、向かいの簞笥に一枚、土間を挟んだ柱時計の箱に一枚。離して貼る。
短い祝詞をあげた。八文字だ。
中島さんは勘定台で、湯呑みを布で拭いていた。札を貼っているあいだ、一度もこっちを見なかった。
この店は播谷さんの親父さんの代からのお得意だというから、見慣れているのだろう。
翌朝、剥がしに行った。
三枚とも白かった。焦げも、黄ばみも、湿りも無い。
目印が何も出さないのは、何も無いときだけではない。そこらじゅうに同じだけ記憶が満ちていれば、どこから浴びても差が出ず、札は白いままになる。
この店がどちらなのかは、中に貼っただけでは分からない。
外にも貼ることにした。帰りがけに、硝子戸の脇の板壁に、外側から一枚貼った。
その日は高宮へ行った。
委託の票に、宮崎さんの住所があった。バス通りから一本入った坂の途中で、家はもう無い。月極の駐車場になっていて、白い線が引いてある。
向かいの家の前で、年寄りが段ボールを開けていた。中にみかんが入っている。
道を渡って、段ボールの中身を弄っている背中越しに声をかける。
「すみません。こちらの駐車場、前は宮崎さんのお宅やったと聞いて来たとですけど」
「宮崎さんね」
その人は手を止めて、駐車場のほうを見た。
「朝から晩まで、カタカタ言いよったですよ。仕立てばしよらしたけん」
「どのへんに、据えとらしたか分かりますか」
「道に面した部屋。窓際に据えて、そこで踏みよらした」
坂を下りながら、携帯で地図を見た。道は南に面していた。窓も南だ。
播谷さんに電話して、二軒ぶんの控えを聞いた。西新のマンションと、姪浜の一戸建て。三軒目は、中島屋の台帳から番号を聞いて、こっちからかけた。井尻のアパートの人だった。
三軒とも、同じことを言った。朝になると、頭が少しずつ右へ回っている。何日か直しているうちに、面倒になって返した。
向きを訊いた。
西新は北向きの部屋で、ミシンは壁のほうへ回っていた。その壁は南だった。姪浜は南の窓へ向いていた。井尻も南だった。
高宮に帰りたがっているのだと思っていた。だが、三軒から高宮を見れば、方角はばらばらだ。それなのに三軒とも南を向いた。
帰りたいのではなかった。
宮崎さんが座っていた向きに、戻ろうとしているのだと思った。
次の朝、表の一枚を見に行った。
湿っていた。真ん中から、紙いっぱいに広がっている。店の奥から、まともに浴びた湿り方だった。
満ちているほうだったらしい。簞笥も火鉢も柱時計も、どこかの家で長く使われてきたものだ。どの品も、それぞれに覚えているのだろう。
それなら、ミシンだけを外に出せばいい。
その晩、店を閉めてから、中島屋の裏へミシンを出した。
播谷さんが来ていた。勤めの休みだという。二人で簞笥をずらして、土間まで引き出して、抱えて外に出した。鉄の脚が重い。台の手前の縁だけ、ニスが剥げて木の地が出ていた。
裏は那珂川沿いの路地で、軒が張り出している。雨は当たらない。
三枚を離して貼った。壁に一枚、向かいの塀に一枚、軒を支える柱に一枚。八文字をあげた。
貼り終えてから、昨日のことを話した。宮崎さんの家の跡を見に、高宮まで行った。向かいの家の人に聞くと、ミシンは道に面した窓際に据えてあったという。
「高宮まで、行ったとね」
「はい。家は、もう駐車場になっとりました」
「駐車場ば、見に行ったと」
播谷さんは、ふうん、と言った。貼ったばかりの札のほうは、一度も見なかった。
翌朝、路地へ行った。
三枚とも湿っていた。壁のは右寄りから、塀のは左寄りから、柱のは真ん中から広がっている。裂けは無い。
三本を延ばすと、交わったのはミシンのあたりだった。
ミシンは、昨夜据えた向きから、少し回っていた。頭が川のほうから、南へ寄っている。
湿りは、植物と物で同じ色だ。この店に生きた木は一本も無い。だから物のほうだろうと思ったが、思っただけだった。木でできた台が付いているものを前にして、木ではないと言える根拠は、俺には無い。
札を剥がして、中島さんと二人でミシンを店へ戻した。
昼に、中島さんと話した。
「引き取ります。三万です」
中島さんは老眼鏡を下ろした。
「見に行くぶんは、要らんとですか」
「播谷さんがもう行っとりますけん」
それから、引き取るとどうなるかを言った。現物が無くなります、と。
中島さんは、しばらく黙っていた。勘定台の布を取って、算盤の枠を拭いた。
「無くなる、ち」
「無くなります」
「委託品ですけん。東京の娘さんに、何て言えばよかですか」
「うちが買います。値札のとおりで」
布を持った手が止まった。
「まからんよ」
「まけてもらわんでよかとです」
中島さんは値札を外して、勘定台へ持っていった。引き出しから台帳を出して、そこへ何か書いた。書いてから、顔を上げた。
「売れた、ち書きます」
「はい」
二万四千円を払った。中島さんは三万円を封筒に入れて寄越した。手元に残ったのは、六千円だった。
店の外で、控えを鞄から出して、播谷さんに見せた。三軒の間取りと、窓の向きと、ミシンがどっちへ回ったかを書いてある。
播谷さんはそれを上から読んだ。
「三軒とも、南」
「南です」
「……あんた、そげんことまでするとか」
呆れた声だった。褒められたわけではない。それは分かっていて、控えをしまう手が、少しゆっくりになった。
その晩、四畳半で本家が家計簿を開いていた。
百均のノートだ。月末に薬院へ持っていく。
「ミシンば買うた」
本家は鉛筆を止めて、こちらを見た。
「ミシンげな、なんに使うとですか」
「引き取る」
「……買うたもんば受けるとですか」
「そうなる」
本家は少し考えて、諦めたような顔をした。
「いくらですか」
「二万四千」
「何て書きますか」
「……仕入れで、よかろ」
仕入、と書いて、その下にミシン、と書いた。
「来月、税所さんに訊かれますよ」
「訊かれるやろね」
本家はそれ以上言わなかった。ノートを閉じて、明日はどっちが表に立つかを訊いた。明日は表に出て、店を閉めてから春吉に行く、と言った。はい、と本家は言った。
次の日の晩、店を閉めてから中島屋へ行った。
播谷さんも来ていた。勤め帰りらしく、作業着の上にジャンパーを羽織っている。
簞笥をずらして、ミシンを土間の真ん中まで出した。
中島さんには、表に出てもらった。硝子戸を閉めると、通りの音が遠くなった。
播谷さんは残った。棚の前に立って、腕を組んでいる。
膝をついて、鞄から帳面を出した。筆ペンの蓋を取る。
短い祝詞をあげた。八文字だ。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
中島屋 足踏みミシン 受 壱
書いているあいだ、播谷さんは棚のほうを見ていた。
「……なんかおるね」
手は止めなかった。
「古道具屋は、これやけん」
播谷さんは自分でそう言って、腕を組み直した。
書き終えて、顔を上げた。
土間の真ん中には、何も無かった。床に、脚の跡が四つ残っている。埃の薄く積もったところが、そこだけ輪になっていた。
播谷さんは、その四つの跡を見ていた。しばらく何も言わなかった。
中島さんに鍵を返した。
店に入って、中島さんも床を見た。ポケットから布を出して、それから手を下ろした。拭くものが無かった。
「……ご苦労さんでした」
それだけ言って、硝子戸を閉めた。
播谷さんと二人で、春吉橋のほうへ歩いた。
川の上は風が通る。もう冬の風だった。水面に、向こう岸のネオンが伸びている。
「今のは、何ね」
「引き取りました」
「それ、いくつ目ね」
指を折ろうとして、うまく折れなかった。
「匂いが一つ。猫が一つ。木が一つ。朝の掃除が一つ」
「朝の掃除」
「掃くとです。決まった時刻に」
播谷さんが立ち止まった。
「『番』も、おります」
「ばん」
「見回りば、しよったもんです」
播谷さんは、分からんという顔をした。当たり前だった。あれは俺が自分で付けた名前だ。人に言ったところで、通るはずがない。
「あんた、それ、全部持って歩きよっと」
「鞄の中です」
播谷さんは半歩下がった。鞄からではなく、俺から下がったように見えた。
「消してしもうたら、何やったとかが分からんごとなります」と俺は言った。「持っとけば、そのうち、何か返してきます」
「返してくる」
「はい」
播谷さんは、返してくる、ともう一度言った。言ってから、首の後ろを掻いた。
「……そげなもんかね」
そう言って、橋を渡っていった。
橋の上に残って、さっき挙げたものを、はじめからもう一度数えてみた。
鞄の中の帳面は、日増しに重くなっていた。
どこまで重くなるのかは、まだ分からない。




