第二十四話 点検
十月も終わりに近い昼で、空は高く晴れていた。日なたにいれば暖かいが、ビルの陰に入ると風が冷たい。
その人は看板の前で一度立ち止まって、腕時計を見てから、机の前に来た。
二十代の終わりくらいの人だった。紺の背広にネクタイを締めて、首から社員証を提げている。社員証は裏返しになっていた。
「拝み屋さん、ですよね」
「はい」
「ちょっと、ご相談なんですけど」
客用の椅子に座ると、その人は携帯を机に置いた。画面を下にして置いた。置いてから、一度だけ指で押さえた。
「花田といいます。不動産の管理会社で、大名のビルをいくつか担当してまして」
名刺をもらった。会社の名前の下に、花田、と刷ってある。こちらも名刺を渡した。二枚渡した。
花田さんは二枚を見比べて、両方とも名刺入れにしまった。
ビルは大名二丁目にある。五階建てで、持ち主の名前をとってツルタビルという。
「三階にバーが二軒入ってるんですけど、片方の店長さんから、苦情が来てまして」
店を閉めて片付けをしていると、上の階で足音がする。三時を回ったころだという。
「上は四階で、空き室なんです。二部屋とも」
「足音は、毎晩ですか」
「毎晩みたいです。うちも昼に見に行きましたけど、何もないです」
花田さんは、伏せた携帯の上に手を置いた。
「僕は、正直、そういうのは信じてないんです」
「はい」
「ただ、何もしてません、とは返せないんですよね。店長さん、けっこう本気で怖がってて。上に言ったら、じゃあ何かやったことにしろ、と」
言ってから、言い過ぎたという顔をした。
「見て回ってもらうだけで、いくらですか」
見て回る、と言われて、少し考えた。
『番』を一晩回せば、戸ごとの数が出る。合っているか、合っていないか。それだけだ。何が多いのかも、なぜかも出ない。だが、見て回ってほしいという頼みには、それで足りる。
値段を先に言った。作法だ。
「一部屋、千五百円です。十部屋あるなら、一万五千円」
「……それだけですか」
「それだけです。見るとは、夜のうちにやります。昼のうちに一遍、建物ば案内してもらえますか」
「夜中に、来られるんですか」
「来んでよかとです」
花田さんは、少し困った顔をした。携帯を裏返して時刻を見て、また伏せた。
「四時でいいですか。鍵、持ってきます」
路地の口まで歩いて、夕方から大名へ出る、と本家に言った。本家は、はい、と言った。
ツルタビルは、大名の細い通りに面していた。古着屋とカフェの並ぶあたりで、夕方になると学生くらいの歳の客が増える。
細長い五階建てで、一階の真ん中を通路が抜けている。表の通りから裏の通りまで、人が二人すれ違えるくらいの幅だ。通路の両側に、古着屋とカフェの戸があった。奥にエレベーターと階段がある。裏の通りに出たところに、屋根の付いた駐輪場があった。三方を金網で囲って、テナントの自転車が並んでいる。
花田さんと、一階から順に上がった。
二階は美容室とネイルの店。三階はバーが二軒で、どちらもまだ閉まっていた。重たそうな木の扉に、小さな看板が掛かっている。四階は戸が二つとも閉まっていて、表札の枠が空いていた。五階は小さな事務所が二つ。
戸の前に立つたびに、戸を見た。取っ手の形と、表札と、戸の前の床の色を見た。
今夜、寝る前にこのビルのことを考える。考えたところへ、『番』が行く。覚えておくのが、今日の仕事だ。
「……何を見てるんですか」
「戸です」
花田さんは、そうですか、と言った。
四階の奥の部屋を開けてもらった。苦情の出ている店の、真上だ。
がらんとした部屋だった。ブラインドが下りていて、床はコンクリートに灰色の塗装がしてある。隅に流しが一つ。前の借り手が置いていったのか、壁際に丸椅子が一脚あった。
空き室にしては、床がきれいだった。埃が溜まっていない。
「掃除は、されとるとですか」
「空き室は、月に一回、業者が入ります」
札を三枚貼った。入口の脇に一枚。窓の横に一枚。流しの上に一枚。離して貼る。
短い祝詞をあげた。八文字だ。
花田さんは、少し後ろで見ていた。何か訊きたそうにして、訊かなかった。
帰りに、鍵を二本借りた。ビルの通用口のと、四階の奥の部屋のだ。
三階のバーは、三時に閉まる。
数が動いているあいだは、『番』は読めない。店が閉まって、客がはけて、店の人が帰ってからでないと、あのビルは止まらない。
その晩は起きていた。本家は十二時前に寝た。電気を消して、窓から入る明かりで、百均のノートを開いたり閉じたりした。
二時を回ると、アパートの前の道も静かになった。冷蔵庫の唸る音が、いつもより大きかった。
三時半まで待って、横になった。
目を閉じて、戸を一つずつ思い出した。古着屋の、真鍮の取っ手。カフェのガラス戸。裏の駐輪場の、錆の浮いた金網。二階へ上がる階段の、角の欠けたタイル。三階の木の扉。四階の、表札の空いた枠。
五階まで上がったところで、寝たらしい。
起きると九時だった。本家はもういなかった。香椎の厄除けを見に、朝から出ると言っていた。
机の上で、帳面が開いていた。最後の頁だ。
寝床から這い出して、膝をついた。
大名二丁目 ツルタビル一〇一 員数 合
同所 ツルタビル一〇二 員数 合
同所 ツルタビル駐輪場 員数 合
同所 ツルタビル二〇一 員数 合
同所 ツルタビル二〇二 員数 合
同所 ツルタビル三〇一 員数 合
同所 ツルタビル三〇二 員数 合
同所 ツルタビル四〇一 員数 合
同所 ツルタビル四〇二 員数 壱多し
同所 ツルタビル五〇一 員数 合
同所 ツルタビル五〇二 員数 合
薬院四丁目 当方アパート 員数 合
四階の奥の部屋だけが、壱多しだった。
通路の行は無かった。
ノートに写した。字が薄れる前に、一字ずつ。写し終えてから、四〇二の行をもう一度見た。
出た、と思った。
昼前に、ツルタビルへ行った。表は閉めたままにした。
通用口の鍵で入って、階段を上がった。昼のビルは、どの階も物音がしていた。二階で、ドライヤーの音がしている。
四階の奥の部屋に入った。
札は、三枚とも白かった。
入口の脇も、窓の横も、流しの上も、貼ったときのままだ。焦げも、黄ばみも、湿りも無い。
記憶なら、色が出る。弱くても出る。一つ余分にいるものが記憶なら、出ないはずがない。
一つ多い。だが、記憶ではない。
それなら、なんの変哲もない物か、生きている動物だ。もちろん、人も含まれる。
部屋を見回した。丸椅子が一脚あるだけで、ほかに物は無い。昨日と同じだ。
だが、一度数えただけだ。この丸椅子が、その壱なのかもしれない。
昼のビルは動いている。だが、この部屋は動いていない。誰も入ってこない。
札を剥がして鞄にしまい、部屋を出て、戸を閉めた。昨晩の行は、ノートに写してある。
戸に向かって立った。表札の空いた枠が、目の高さにある。
帳面を開いて、『番』を回した。
手を触れていないのに、頁が勝手にめくれて、最後の一枚で止まった。昨晩の行が薄れて、その上に字が浮かんでくる。
大名二丁目 ツルタビル四〇二 員数 合
丸椅子は、あの部屋の数のうちだ。
夜に一つ多いのは、丸椅子ではない。夜のあいだだけ、あの部屋に何かが増えている。
もう一度、戸を開けて中に入った。
床は、今日もきれいだった。月に一回業者が入るにしては、きれいすぎる。
流しの下の戸を開けた。小さい箒と、ちりとりが入っていた。どちらも新しい。
流しの前の床に、取りそこねたらしい埃が、ほんの少し溜まっていた。ちりとりの縁を当てたあたりだ。
花田さんには、まだ電話しなかった。
その晩は、四階の廊下にいた。
二時に通用口から入った。三階からは、まだ話し声と、グラスの触れ合う音が上がってきていた。階段の明かりは、人が通ると点く。点かないように、踊り場の手前の暗がりに立った。
夜は、もう冷える。上着の前を合わせて、壁にもたれた。
三時を少し過ぎたころ、下でシャッターの下りる音がした。続けて、もう一枚。話し声が遠ざかって、エレベーターが一度動いた。
しばらく、静かだった。
三時二十分に、階段で足音がした。
上がってくる。ゆっくりした足音だった。一段ごとに、少し休む。
階段の明かりが点いた。
女の人だった。五十の半ばくらいで、髪を後ろで一つにまとめている。黒いシャツの上に、カーディガンを羽織っていた。腕に、丸めたマットを抱えている。
四階に上がりきったところで、その人は片手を腰に当てた。当ててから、こっちに気づいた。
「……誰ね」
「すみません。管理会社さんから頼まれて、見に来た者です」
名刺を二枚出した。その人は階段の明かりの下で読んで、マットを抱え直した。
「拝み屋さん」
「はい」
「お化けの出るち、言われよったとね。このビル」
「上で、足音のするち」
その人は、あら、と言った。それから、廊下の奥の戸を見た。
「そら、私たい」
園田さんといった。三階の手前の店をやっている。
家は二日市で、店を閉めると電車が無い。タクシーで帰れば、その晩の売上のいくらかが消える。
「鶴田さんがね。空いとるうちは使いんしゃい、ち言うて、鍵ば貸してくれたと。始発まで、横にならせてもらいよると」
鶴田さんは、このビルの持ち主だ。
「管理会社さんは、ご存じですか」
「……鶴田さんが言うとらすと思うとったけど」
園田さんは、また腰に手を当てた。
「言うとらんとやろうね。あの人、そういうとこ、おおらかやけん」
奥の戸の鍵を開けて、園田さんは電気を点けた。
「壁の、あのお札。あれ、あんたね」
「はい」
「気味の悪かけん、見らんごとして寝よった」
「すみません。昼に剥がしました」
「そうね」
園田さんは、マットを床に広げた。流しの前の、埃の溜まっていたあたりだった。
「朝、掃いて出よるとよ。借りとるけん」
「下の店に、足音の聞こえるそうです」
「ああ。あの子、片付けの遅かけんね」
園田さんは、少し笑った。困ったような笑い方だった。
「怖がらせとったとね。悪かったね」
「管理会社の人には、言います」
「そうして。鶴田さんに迷惑のかからんごと、言うて」
それは、うちが約束できることではなかった。はい、とだけ言った。
階段を下りた。明かりが点いて、背中の後ろで消えた。
報告書は、百均の便箋に書いた。横書きで、部屋の番号を頭に置いて、一部屋一行。
四〇二は、見たとおりに書いた。
ほかの九部屋で、手が止まった。
『番』の行には、合、とある。数が合っている、という意味だ。何もいない、という意味ではない。数えられるものが、数えたとおりにある。それだけだ。
異常なし、とは書けなかった。
変わりありません、と書いた。駐輪場のぶんも入れて、十回書いた。
花田さんとは、大名のコーヒーショップで会った。昼過ぎで、窓際の席に日が当たっていた。
花田さんは便箋を受け取って、上から読んだ。四〇二の行で、目が止まった。
「……人、ですか」
園田さんのことを話した。鶴田さんの鍵のことも話した。
花田さんは、しばらく黙っていた。伏せた携帯の上に、手を置いていた。
「鶴田さんが、ですか」
「はい」
「オーナーさんなんですよね」
「はい」
花田さんはコーヒーを一口飲んで、カップを置いた。
「やめてください、って、僕が言うんですかね」
答えなかった。そこから先は、花田さんの会社の仕事だ。うちの仕事は、数えて、見に行って、見たとおりに書くところまでだった。
「この、変わりありません、っていうのは」
「数の、合うとります」
「数」
「前と同じだけのもんが、ある、ちいうことです」
花田さんは便箋を見た。
「異常なし、ってことですよね」
「異常なしとは、書けんとです。うちが見たとは、そこまでですけん」
「上に出すとき、異常なし、のほうが通りがいいんですけど」
「すみません」
花田さんは息を一つ吐いた。ボールペンで便箋の端に何か書きかけて、やめた。
「あと、一階の通路は。入ってないですよね」
「通路は、見られんとです」
「見られない」
「はい」
なぜかは、よく分かっていない。あそこは『番』が何も書いてこない。
白金の道路でもそうだった。『番』は、通路を見ない。
いままでは、戸が立っているところしか見ないものだと思っていた。
だが、このビルの報告で、『番』は駐輪場を合と書いてきた。
ここの駐輪場には、戸がない。戸がなくとも、見るところはあるようだ。
いま分かるのは、『番』なりの基準がある、ということだけだ。
便箋のいちばん下に、一行足した。
一階通路 見られず
花田さんは、それも読んだ。何も言わずに、便箋を二つに折った。
「代金は、会社から振り込みます。一万五千円で」
「はい」
「二晩、来てもらったんじゃないですか」
「先に言うた値段です」
花田さんは、折った便箋を鞄にしまった。しまってから、少し考える顔をした。
「来月も、お願いできますか。毎月見てもらってる、ってことにしておくと、上にも言いやすいんで」
「はい。月の頭に、電話ください」
花田さんは名刺入れを出して、うちの名刺が二枚入っているのを確かめた。
「じゃあ、月の頭に」
代金は、翌週に振り込まれた。
十一月になった。
月の頭が過ぎて、一週間が過ぎた。
電話は来なかった。
こちらからは、かけなかった。
十一月の半ばに、薬院へ行った。家計簿を持っていく日だ。
事務所の窓から、向かいのビルの壁に西日が当たっているのが見えた。
税所さんは家計簿をめくった。ひと月ぶんをひと息にめくって、最初に戻って、ゆっくりめくり直す。いつもの順番だ。
指が止まった。
「これは、何の売上ですか」
本家の字で、大名、一万五千円、とある。
「……点検です」
自分の口から出た言葉を、自分で聞いた。
『番』の書いてくる行を、俺は頭の中でずっと点検と呼んでいた。人に言ったのは、初めてだった。
「何の点検ですか」
「ビルの部屋ば、一つずつ見て回って。どうなっとるか書いて、渡しました」
「はい」
税所さんは付箋を一枚取って、書いた。点検、と二文字。家計簿の、その行の横に貼った。
二文字が、紙の上にあった。俺の字ではなかった。
厄除けのほかに、うちが売ったものに、初めて名前が付いていた。
「継続のお仕事ですか」
「……毎月の、約束でした」
「でした」
「はい」
税所さんは、はい、と言った。付箋には、何も書き足さなかった。
事務所を出たときには、日が傾いていた。
天神へ戻って、店を畳んだ。表は昼から閉めてあった。机と椅子を、屋台の親父のところへ預けた。
五時を過ぎると、もう暗い。ついこのあいだまで、この時刻は明るかった。
渡辺通りの街路樹に、電飾が巻かれはじめていた。点いている木と、まだ点いていない木がある。
勤め帰りの人で、歩道はごった返していた。
その人ごみの、歩く先に、遥さんを見つけた。
坂口遥。あの坂口家の一人娘だ。俺が初めて看板で受けた仕事の、依頼主だ。
仕事帰りなのだろう。依頼を受けたときと同じようなスーツに、薄手のコートを羽織っていた。
声をかけようかと考えて、その隣を見て、やめた。
遥さんは、背の高い男の人と歩いていた。手をつないで、笑った顔をそちらへ向けていた。
あの人にとって、俺は嫌な思い出のかたまりのようなものだ。邪魔をするのは、憚られた。
遠ざかっていく背中を見送って、アパートへ向かう道に折れた。
あの様子なら、結婚も遠くないのだろう。
歩きながら、あの家のことを思い出した。
俺の帳面には、あの人が一人、入っている。
あの家で増えた家人を、俺はこう書いて引き取った。「坂口方 母 弐」。「坂口方 娘 壱」。
母の行は、いまは頁に無い。そこは、座布団だったことになっている。
娘の行は、残っている。坂口方の娘とは、遥さんのことだ。
九月の晩のことは、まだときどき思い出す。
六枚目は、畳の上で、ゆっくり脈を打っていた。一度触れてからは、もう手が伸びなかった。山ごと部屋の真ん中に置いたまま、膝をついた。
名乗っているあいだも、脈は打っていた。書き終えたとき、畳の上には何も無かった。
匂いだけが残った。本家が窓を開けた。三晩、窓を開けて寝た。
あの晩が明けた朝も、帳面の最後の頁には、いつもの一行が出ていた。「薬院四丁目 当方アパート 員数 合」。
四畳半には、あの匂いがまだ残っていた。それでも、合だった。
合というのは、数が合っているということだ。中身が合っているということではない。四〇二の合も、そこに丸椅子があるとは言っていなかった。
帳面の中に入っているのが母でも座布団でも、『番』は合と書く。
帳面も、そうなのかもしれない。
坂口方の母が弐。坂口方の座布団が弐。数は、どちらも同じだ。帳面にとって合っていたのは、はじめから数だけだったのかもしれない。
遥さんが結婚して、子ができたとする。娘だったとする。
遥さんは母になる。坂口家は、祖母と、母と、父と、娘になる。
そういう坂口家に行って、帳面に、坂口方 娘 渡 壱、と書く。
誰が出てくるのか。
あのとき入れた遥さんが、あのときのまま出てくるのだろう。普通に考えれば、そうなる。
だが、そのとき坂口方の娘は、遥さんではない。遥さんの娘だ。帳面にとっては、娘を出したはずが、母を出したことになるのだろうか。
それとも、数さえ合えば、出てきたものが誰でも、帳面は合と読むのだろうか。
帳面が、人をどこまで見分けているのかは分からない。
分かっているのは、帳面が勘定の合わないと見たときに、何をするかだけだ。
合わないと見れば、合うように読み替える。母を、座布団に。
次に勘定が合わなくなったとき、何が起きるのか。
考えたくもなかった。
鞄の紐を、肩に掛け直した。
電飾の点いた木の下を、人が流れていく。その中に、俺も入った。




