第二十三話 長浜ハイツ 取次 受 壱
秋も深くなってきた昼過ぎで、雲が低くなっていた。雨にはならず、渡辺通りを走る車の音だけが、いつもより近くに聞こえた。
その人は、看板を二度読んでから机の前に立った。
六十を半ば過ぎたくらいの人だった。痩せていて、白髪を短く刈り込んでいる。灰色のジャンパーの前を、いちばん上まで閉めていた。背広を着ていないのに、背広を着ているような立ち方だった。
「拝み屋さん、ですか」
「はい」
「……相談だけでも、お金はかかりますか」
「話ば聞くとは、ただです」
その人は客用の椅子を引いて、浅く座った。座ってから、ジャンパーの引き手を指でつまんだ。いちばん上まで閉まっているのを、確かめるような手つきだった。
「樋口と申します。長浜のマンションで、今年、理事長ばしとります」
輪番で、今年たまたま回ってきたのだという。そこまで言ってから、樋口さんは膝の上で手を組み直した。
「玄関の鍵が、勝手に開くとです」
古いマンションで、玄関が二重になっている。外の自動ドアを入ると呼び出しの盤があって、その奥にもう一枚、鍵のかかった扉がある。住人は鍵で開ける。客は部屋番号を押して、中から開けてもらう。
盤には、部屋番号とは別に、管理人室を呼ぶボタンがある。
「それを押すと、返事のするとです。はい、どうぞ、ち。それで、扉の開くとです」
「管理人さんは」
「おらんとです。三年前から、管理会社の人が週に三回、午前中だけ来よります。午後と夜は、あの部屋は空です」
管理会社は機械を調べた。どこも壊れていなかった。開いた記録は残っていて、どれも管理人室から開けたことになっている。
「前の管理人さんの声ですか」
樋口さんは、少し黙った。
「……似とる、ち言う人のおります」
困っていることは、いくつかあった。
誰でも入れるのなら、防犯にならない。気味悪がって、理事会に言ってくる住人がいる。来月は総会がある。
「総会で訊かれたら、理事長が答えることになるとです」
樋口さんはそう言って、それから付け足した。
「私の年に、こげなことにならんでもよかったとですけど」
言ってから、少し恥ずかしそうな顔をして、また引き手をつまんだ。
値段を先に言った。作法だ。
「調べるとに二晩で一万。引き取ることになったら、別に二万です」
「引き取る」
「うちは、祓わんとです。引き取る店です」
樋口さんは、それ以上は訊かなかった。手帳を出して、一万、二万、と書いた。
「管理人室の鍵は、お借りできますか」
「合鍵のあります。玄関と管理人室のと、理事会で二組、預かっとります」
鍵を受け取って、名刺を渡した。
樋口さんは名刺を上から下まで読んで、財布にしまった。
「よろしくお願いします」
立ち上がって頭を下げ、渡辺通りを北へ歩いていった。一度も振り返らなかった。
昼過ぎに、路地の口まで歩いた。
「今晩、長浜に出る」
「はい。表は、暮れるまで見ときます」
本家は厄除けの束を揃えながら、そう言った。
長浜に着いたのは、日が落ちてからだった。日の暮れるのが、ひと月前よりだいぶ早い。どこかの店で豚骨を炊いている。その匂いが、通りまで流れてきていた。
長浜ハイツは、魚市場のほうから二本入った通りにあった。七階建てで、外壁のタイルがところどころ色違いになっている。貼り替えたところだけが新しい。
外の自動ドアを入ると、狭い風除室だった。壁に呼び出しの盤がある。数字の並んだボタンの下に一つだけ離れて、管理人室、と書いたボタンがあった。字が擦れて、白くなっている。盤の上の小さい丸いガラスは、カメラだろう。
内側のガラス扉の向こうが玄関ホールで、左手の壁に小窓がある。管理人室の窓口だ。カーテンが引いてあった。
合鍵で内側の扉を開けて、管理人室に入った。
四畳半ほどの部屋だった。窓口に向けて机が一つ、椅子が一脚。壁に鍵を掛ける板があって、フックの半分が空いている。机の上には受話器の付いた機械が据えてあって、小さい画面が暗くなっていた。玄関の盤と繋がっているやつだ。
机の端に、紙が一枚貼ってあった。宅配の会社の名前と、来る曜日が、手書きで並んでいる。紙は黄ばんでいて、書き足した跡は無かった。
札を三枚貼った。
窓口の枠に一枚。鍵の板の脇に一枚。奥の、流しの上の壁に一枚。離して貼る。
短い祝詞をあげた。八文字だ。
部屋を出て、ホールの隅に立った。
九時を回ったころ、外の自動ドアが開いた。
段ボールを二つ抱えた男の人が、風除室に入ってきた。四十くらいの、首まで日に焼けた人で、制服の帽子をかぶっている。箱を片膝に載せて、盤のボタンを押した。管理人室のボタンだった。
小窓の向こうで、機械が鳴った。
「はい、どうぞ」
年寄りの、低い声だった。
内側の扉が開いた。男の人は箱を抱え直して、ホールに入ってきた。
「どうも」
小窓のほうへ、そう言った。カーテンは引いたままだ。
男の人は郵便受けの並びの前で箱を下ろして、伝票を見ていた。
「いま、誰が返事したとですか」
訊くと、男の人はこっちを見た。
「管理人さんでしょ」
帽子のつばを、指で押し上げながら言った。
「管理人さんは、もうおらんげなですよ」
「え」
男の人は小窓を見て、それから首をかしげた。
「……奥におらすとでしょう」
この区域を回って、十五年になるという。十五年、このボタンを押して、この返事で入ってきた。
男の人は箱を一つ棚に置いて、もう一つを抱えて階段を上がっていった。
男の人が出ていってから、風除室に出た。
内側の扉が閉まるのを待って、管理人室のボタンを押した。
機械が鳴った。
返事は無かった。
もう一度押した。鳴って、それきりだった。扉は開かなかった。
盤の上の丸いガラスが、こっちを向いていた。
合鍵で、中に戻った。
翌朝、札を読みに入った。
三枚とも焦げていた。濃い。人ひとりぶんはある。裂けは入っていない。
窓口の枠の一枚は、中心が狭く鋭い。鍵の板の一枚は右寄りから、流しの上の一枚は左の下から焦げている。
一枚では、線が一本引けるだけだ。三本を延ばした。
交わったのは、窓口に向けた椅子だった。
札を剥がして、鞄にしまった。
昼に、樋口さんに電話した。
「前の管理人さんは、いま、どげんしよらすとですか」
「末次さん、ち言うとです。二十年、あそこにおらしたです」
辞めたのは三年前で、七十を越えていた。そのあとは娘さんのところへ移ったと聞いている。
「亡くなったげな、とは聞いとります」
「げな、ですか」
「はっきりは知らんとです。管理会社に訊いても、教えてくれんとです」
これは確かめなければならなかった。
生きとるもんは、受けたらいかん。安藤さんにそう言われている。なぜかと訊いたら、知らん、と言われた。知らないまま、線だけが引いてある。
「末次さんと親しかった人は、おらんですか」
「四階の江藤さんが、いちばん長かです」
江藤さんは八十を過ぎていて、明日は病院だという。明後日の昼なら、と樋口さんが取り次いでくれることになった。
「一つ、訊いてよかですか」
「はい」
「樋口さんが押したら、返事は来ますか」
「来ます。一遍、鍵ば忘れたときに押しました」
返事が来て、開いた。三年前まで毎日のように聞いていた声だった、と樋口さんは言った。
電話の向こうで、少し黙った。
俺が押しても、返事は来なかった。宅配の人が押したら、来た。
末次さんは、画面の顔を見て開けていたのだと思う。
二晩目も、ホールの隅にいた。
八時過ぎに、若い女の人が風除室に入ってきた。部屋番号を押す前に、指が迷って、管理人室のボタンに触れた。
機械が鳴って、それきりだった。
女の人はしばらく盤を見ていた。それから部屋番号を押して、中の人に開けてもらった。ホールに入ってくると、小窓の前を足早に通り過ぎた。
十時過ぎに、年寄りの男の人が帰ってきた。鍵を出すのが面倒だったのか、管理人室を押した。
「はい、どうぞ」
男の人は、ああ、とだけ言って入ってきた。
帰りに、合鍵を樋口さんの郵便受けに返した。
アパートに戻ると、本家はもう布団を敷いていた。
「明日の昼は、出ます」
「ああ。俺は明後日の昼に出る」
「はい。明後日は、表におります」
「明日は、俺が表におる」
「お願いします」
本家は電気の紐を引いた。
翌日は、一日表にいた。
厄除けが三枚売れた。
その晩、本家の帰りは遅かった。千早の厄除けを見に戻ってから帰る、と電話があった。俺は先に寝た。朝は、本家のほうが先に出ていた。
江藤さんの部屋は、四階の角だった。
呼び鈴を押すと戸が開いて、小さいお婆さんが顔を出した。白い髪をネットでまとめて、カーディガンのボタンを一つ掛け違えている。耳が少し遠いのか、話すたびに顔をこちらへ寄せてくる。
「あら」
江藤さんは、俺の顔を見て笑った。
「昨日のお兄さん」
昨日、俺は表の店にいた。
「……樋口さんから、ご紹介いただいて」
「なんば言いよると。昨日も来たろうが」
上がんなさい、と言われて、上がった。
居間は南向きで、ベランダの鉢植えの影が畳の上まで伸びていた。座卓に、茶が出てきた。
「末次さんのことやろ」
江藤さんは座卓の下の箱から、葉書を一枚出した。
「昨日も見せたろうが」
喪中の葉書だった。去年の暮れの日付で、差出人は娘さんの名前になっていた。父が十月に、八十歳で永眠いたしました、とある。
末次さんは、亡くなっていた。
「昨日のお兄さんにも言うたけど、あの人は、住人の顔ば全部覚えとんしゃった。孫の顔まで。一遍来ただけの人でも、次に来たら、はい、どうぞ、たい」
江藤さんは茶をすすった。
「昨日も、下のボタンば押してくれち言うけん、押してやったろうが」
昨日。
俺は表の店にいて、厄除けを三枚売った。
明日の昼は出ます、と言ったのは、本家だった。
「今日も押そうか」
「……今日は、よかです」
江藤さんは、あら、と言った。
茶を飲んで、礼を言って、帰った。
同じことを二日続けて訊かれて、同じ葉書を二日続けて見せたことになる。江藤さんのほうは、同じ人に見せたと思っている。
顔は、同じだ。
その晩、低い机を挟んで座った。
「長浜か」
「長浜です」
本家は鞄から、札を三枚出した。俺も出した。
六枚並んだ。
窓口の枠の一枚が、二枚。鍵の板の脇が、二枚。流しの上が、二枚。焦げの中心も、広がり方も、濃さも、同じだった。一日空けて、同じ男が同じところに貼ったのだ。貼った高さまで同じだったのだろうと思う。
六枚並べても、三枚ぶんのことしか分からなかった。
「頼まれたとは、いつや」
「一昨日の昼です。路地に来られて」
「表で、俺にも頼んどる」
「はい。一軒では心もとないけん、ち言うとられました」
樋口さんは、拝み屋に頼んだことは覚えていた。どこで、誰に頼んだのかは、覚えていなかった。俺の名刺は、財布の中にある。
「名刺は」
「同じのば、渡しました」
「値段は」
「二晩で一万。引き取りになれば、別に二万です」
同じだった。
「樋口さんは、二軒ぶん払うつもりでおられると思います」
「一件たい」
「調べは、二人ぶんやっとります」
本家は、それだけ言った。
二晩見て、三枚貼って、江藤さんに葉書を見せてもらった。それを、二人ともやった。本家の言っていることは、勘定としては合っている。
「頼まれたとは、一件たい」
「はい」
本家は、それ以上は言わなかった。
「合鍵は、どげんした」
「今朝、樋口さんの郵便受けに返しました。紙ば一枚、付けとります」
表の店と同じ店の者です。続きは、表の者が伺います。
そう書いた、と本家は言った。
「いつ気づいた」
「昨日、江藤さんが、明日の昼にも拝み屋の来るげな、ち樋口さんから聞いたそうで」
明後日の昼に出る、と俺は言っていた。
江藤さんの部屋で、俺はまだ何も考えていなかった。
「助かった」
「はい」
翌朝、安藤さんに電話した。
「長浜のマンションです。前の管理人さんが、玄関ば開けよります。顔ば見て、知った人だけ入れよります」
「ああ」
「去年亡くなった人です。喪中の葉書ば見ました」
「そうか」
「それと、同じ仕事ば、二人で受けとりました」
少し間があった。
「二人おるなら、二人ぶん考えろ」
それで切れた。
樋口さんとは、マンションの玄関で会った。
朝からの雨で、風除室のガラスが白く曇っていた。
樋口さんの手に、本家の書いた紙があった。
「表の店と同じ店、ち書いてありましたけど」
「はい。表と、一本裏と、二つ出しとります。同じ店です」
樋口さんは、紙と俺の顔を見比べた。
「本店と、支店のごたるもんですか」
「……そげな感じです」
樋口さんは財布を出して、名刺を二枚抜いた。郵便受けの並びの上に、並べて置いた。
同じ名刺だった。同じ字で、同じ屋号と、同じ場所が書いてある。
「同じですね」
「同じです」
樋口さんは、しばらく二枚を見ていた。
「二軒に頼んだほうが、確かやと思うたとです」
「はい」
「私の年のことですけん」
引き手を、つまんだ。それ以上は言わなかった。言い訳をしている顔でもなかった。
樋口さんはジャンパーの内ポケットから、封筒を二つ出した。どちらにも、ボールペンで小さく、一、二、と書いてある。
「三万ずつ、入れてきました」
「一つで結構です」
「調べは、二軒ぶんしてもろうとるとでしょう」
本家と同じことを言った。
「頼まれたとは、一件です。払いは、済んでからで」
二と書いた封筒は、内ポケットに戻っていった。
樋口さんには、外の自動ドアの向こうにいてもらうことにした。俺が電話を一回鳴らしたら、管理人室のボタンを押してもらう。
管理人室に入って、戸を閉めた。窓口のカーテンも閉めたままにした。
帳面を出して、床に置いた。
品名は、来る道で決めてあった。
末次さんとは書かない。ここに残っているのは人ではなく、毎日くり返されていた一続きのほうだ。ボタンが鳴る。画面の顔を見る。知った顔なら返事をして、開ける。
来た人を、中へ取り次ぐ。管理人の仕事の言葉だ。
行の頭は、長浜では広すぎる。このマンションの名前にする。
数は、壱だ。返事をするのも、開けるのも、ひとつの取次の中にある。
携帯で樋口さんを一回鳴らして、切った。
机の上の機械が鳴った。
暗かった画面に、風除室が映った。樋口さんが、盤の前に立っている。
膝をついた。筆ペンの蓋を歯で外す。
短い祝詞をあげた。八文字。
「はい、」
声が、机の上から出た。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
続きは来なかった。
壁の鍵の一本ずつまで、数えられていた。
長浜ハイツ 取次 受 壱
筆を上げた。
画面の中で、樋口さんが扉のほうを見ていた。扉は開かなかった。
樋口さんは、もう一度ボタンを押した。機械が鳴った。返事は無かった。
画面はしばらく樋口さんを映していて、それから暗くなった。
ホールに出ると、樋口さんが自分の鍵で内側の扉を開けて、入ってきた。
「開かんやったです」
「はい」
樋口さんは小窓のほうを見た。カーテンは引いたままだ。
「末次さんは、住人の顔と名前ば、全部覚えとらしたとです。孫の名前まで」
「江藤さんからも、聞きました」
樋口さんはうなずいて、一と書いた封筒を出した。三万入っていた。
「総会では、直りました、とだけ言います」
「はい」
「何が、とは、訊かれんでしょう」
訊かれないと思います、と言った。
樋口さんは、少しだけ笑った。
その晩、低い机に名刺を一枚置いた。
いつも配っている一枚だ。本家も、同じものを配っている。
「一本裏のことば書いとかんと、また同じことの起きる」
「はい」
無地の紙を名刺の大きさに切って、一から書き直した。屋号と、名前と、請ける仕事と、場所。いつもの場所の下に、一行足した。
一本裏、高架の下にも、おります
「おります、でよかとですか」
本家が訊いた。
「どっちにも、おるけんな」
「はい」
寝る前に、その日受けた客を言い合うことにした。言い出したのは俺で、本家は、はい、と言った。
増やすのは、明日にした。
前の名刺は、鞄にも部屋にも、まだ何十枚もある。捨てれば湧く。配り終えるまで、配るしかない。
新しい一枚を、前の一枚の上に重ねて、輪ゴムで留めた。
明日からは、二枚ずつ渡す。




