第二十二話 お尋ね
封書は、四畳半の中を少しずつ動いていた。
最初は鞄の奥にあった。口から覗いていたのを本家が出して、机の端に置いた。飯のときに、本家が机の端から窓の桟へ移した。窓を開けるときに、俺が窓の桟から机へ戻した。
茶色の封筒で、宛名は「大上大介 様」だ。
その上に、いまは厄除けの束と、筆ペンと、コンビニのレシートが載っている。載せたのは俺だ。
「開けんとですか」
本家が訊いた。四度目までは数えていた。
「開ける」
「はい」
「あんたが開けてもよかぞ」
「元祖さん宛てです」
「どっちも大上大介やろうが」
「元祖さん宛てです」
本家は茶碗を二つ並べて、飯をよそった。
開けたのは、その晩、本家が風呂に行っているあいだだった。
中には紙が何枚かと、返信用の封筒が入っていた。いちばん上の紙に、お尋ね、とあった。
事業をしているなら、その中身を書いて送り返してくれ、という紙だった。何を売っているか。いくら入って、いくら出たか。欄が並んでいて、いちばん下に期限があった。二週間先だ。
怒られてはいなかった。少なくとも、字の上では。丁寧な文章で、丁寧なぶん、何を言われているのかが分かるまでに三回読んだ。
なんで分かったとやろう、と思った。
開業届は出していない。出していないのだから、国はうちを知らないはずだった。
それから、領収書のことを思い出した。何枚も切っている。会社にも、町内会にも。屋号を書いて、名前を書いて、判子を押した。客は店を忘れる。紙のほうは、どこかの引き出しに残っている。
どの一枚が、どこを通ってここまで来たのかは分からない。分からないが、来ている。
布団に入ってから、携帯で調べた。
調べないほうがいいのは分かっていた。分かっていて、指が止まらなかった。
無申告、と打った。罰、と出た。追徴、と出た。知らない言葉ほど、字面が強い。
拝み屋 税金、と打ち直した。
霊感商法、と出た。摘発、と出た。何十万もする壺の写真が出た。
うちの厄除けは千円だ。壺は置いていない。
ついでに、道路使用許可、と打った。
これは前にも一度、打ったことがある。
歩道に机を出すのに許可が要ることは、知っていた。店を出してすぐのころ、三つ隣の占いのおばさんが、あんたも取っとらんとやろ、うちも取っとらんけどね、と笑った。屋台の親父には、兄ちゃん、あそこは本当は警察の許可の要るとばい、と言われた。言われたのはそれだけだった。
知ってはいた。何という紙を、どこへ出せばいいのかが分からなかった。分からないまま、机を出す朝が続いた。
画面には、前に見たのと同じことが書いてあった。この街で、実績も何も無い新参に、歩道で店を開く許可はまず下りない。
出しても通らない。通らないなら、出さないのと同じだ。
前に見たときも、同じところで同じことを考えた。
携帯を伏せた。本家が戻ってきて、電気の紐を引いた。暗くなってから、もう一度だけ開いて、壺の値段を確かめた。桁は変わっていなかった。
翌日、別府のホームセンターへ行った。
看板のペンキが剥げかけていた。それは本当だった。ここに来れば、あの男がいる。それも本当だった。どちらが先だったかは、自分でも決めなかった。
塗料の棚の前で、前掛けの男が脚立に乗って、値札を替えていた。
「播谷さん」
播谷は脚立の上から、こっちを見た。
「おう、大上くん」
名前はすぐに出た。
「あんた、どこで商いよったっけ」
店のほうは出てこなかった。名刺を渡した。播谷は、ああ、と言って、前掛けのポケットに入れた。
ペンキを一缶選んでから、封書の話をした。播谷は脚立を下りた。
「開業届は」
「出しとらんとです」
「……申告は」
「しとらんとです」
「領収書は」
「切っとります」
播谷は値札の束を持ったまま、しばらく俺を見ていた。
「切っとるとに、出しとらんと」
「はい」
「あんた、ようそれで、いままで平気な顔しとったね」
平気な顔をしていたつもりはない。ただ、そう見えていたのなら、悪い気はしなかった。
「播谷さんは、出しよるとですか」
「出しよるよ。昼の勤めのあるけん、こっちが二十万越えた年は出さんといかん。親父のころからそげんしよる」
「業種は、何て書くとですか」
「知らん。親父の書きよったとおりに書きよる」
それから、少し考える顔をした。
「拝み屋、ち書いたら、向こうも困ろうね」
「困りますか」
「知らん。たぶん困る」
播谷はレジのほうを見て、声を落とした。
「うちが世話になっとる先生のおる。親父の代から。薬院」
前掛けのポケットからレシートを一枚出して、裏に番号を書いた。前にもこうして番号をもらった。この男の書く番号は、いつもレシートの裏だ。
「税理士さん。女の先生」
ペンキの代金を払って、レシートをもらった。財布に入れた。
帰り道で、安藤さんにかけた。
報告することは無かった。訊きたいことが一つだけあった。
「安藤さんは、税金とか、どげんしよるとですか」
少し間があった。
「訊くな」
「はい」
「ほかに用は」
「なかです」
切れた。
切れてから、訊くことでもなかったと思った。
薬院の事務所には、三回目でかけた。
一回目は番号を押して、呼び出しの前に切った。二回目は、呼び出し音が一つ鳴ったところで切った。
「はい、さいしょ税理士事務所です」
女の人の声だった。播谷さんの紹介で、と言うと、はい、と言った。
「お尋ねが届いた、ということですね」
「はい」
「明後日の二時は、空いていますか」
「空いとります」
「届いた書類と、通帳を持ってきてください」
それで切れた。一分もかからなかった。
本家に、明後日の昼に税理士事務所へ行く、と言った。表は頼む、と。
本家は、苦しそうな顔で「はい」と言った。たぶん、俺も同じ顔をしている。
襟のあるシャツは、一枚しかない。
前の週にそれを着て大濠の客に会いに行ったのは本家で、洗って、窓の桟に干してあった。封書が載っていたあたりだ。
当日の朝、取り込んで、皺を見た。アイロンは無い。風呂場に吊るして湯気を当てれば伸びる、と携帯に書いてあったので、やった。
伸びなかった。
「皺の寄っとります」
本家が言った。
「分かっとる」
事務所までは、アパートから歩いて十五分だった。
税理士さん、という人に会うのは、生まれて初めてだった。
歩きながら、言うことを考えた。
拝み屋とは何か。怪しいものではないこと。壺は売っていないこと。祓いは売らないこと。厄除けは千円であること。引き取りとは何か——そこまで考えて、引き取りは省くことにした。説明すると長くなる。長くなるほど怪しくなる。
信号を二つ待つあいだに、三回、頭の中で言い直した。
雑居ビルの二階だった。戸に、さいしょ税理士事務所、と書いたプレートが貼ってあった。
戸を開けると、部屋は一つだった。机が一つと、客用の小さいテーブルが一つ。壁が一面の棚で、背の揃ったファイルが並んでいる。どの背にも、手書きの付箋が貼ってあった。
「大上さんですね。どうぞ」
三十代半ばくらいだろうか。綺麗な人だった。紺の上着で、髪を後ろでまとめている。
座る前に、名刺を出していた。
手が勝手に出した。店が忘れられるようになってから、人に会えば出すのが癖になっている。
差し出してから、そこに何が書いてあるかを思い出した。渡辺通り沿いの歩道、デパートの正面、地下街に下りる階段の裏。
その人は名刺を受け取って、目を落とした。上から下まで読んだ。
俺は息を止めていた。
「頂戴します」
名刺は、机の上のファイルに挟まった。それだけだった。
代わりに、向こうの名刺が一枚、テーブルに置かれた。
税理士 税所和美
「税所です」
さいしょ、は、こう書くらしい。
名刺には、ほかに事務所の住所と番号が刷ってあった。刷ってある、と思った。俺のは筆ペンで書いたものだ。
「お尋ねを、見せてください」
封筒ごと渡した。税所さんは中の紙を出して、一枚ずつめくった。めくるのが速かった。
「開業は、いつですか」
「五月の終わりです」
「届けは」
「出しとらんとです」
「申告は」
「しとらんとです」
播谷さんのときと同じ順番だった。同じ順番で訊かれると、同じ順番で情けなくなる。
「はい」
税所さんは付箋に何か書いて、お尋ねの紙に貼った。
「お仕事は」
来た、と思った。
「拝み屋です」
用意してきた説明の、最初の一行を言おうとした。
「はい」
税所さんは、付箋にそう書いた。拝み屋、と三文字。
拝み屋です、と名乗って、はい、とだけ返されたのは、初めてだった。
「どういう収入がありますか」
「厄除けの札ば、売っとります。それと、依頼ば受けて、その、家とか、店とかに、行きます」
「お祓いですか」
「祓いは、しとらんとです」
「はい。では」
「引き取りと、ご相談です」
「はい」
付箋に、厄除け販売、依頼、と書き足した。引き取りとは何か、は訊かれなかった。壺の話にもならなかった。
信号二つぶん言い直した説明は、一つも要らなかった。
「月に、どれくらい入りますか」
「三十万くらいです」
二人で、とは言わなかった。
「事務所は、どちらですか」
「薬院の、アパートです。ここから歩いて十五分の」
「お客さんは、そちらに来られますか」
「現場に出向く商売ですけん」
これは本当だった。
「机も椅子も、ちゃんとあります」
これは訊かれていなかった。
机と椅子は、屋台の親父に預けてある。
税所さんは、はい、と言った。何も書かなかった。
路上の店のことは、言わなかった。通らない許可を、通さないまま出している店だ。言えば、次に何を訊かれるのかは分かる。答えは一つも持っていない。
「屋号は、ありますか」
「元祖天神大上屋です」
税所さんの手が止まった。止まったように見えた。
「……もう一度」
「元祖、天神、大上屋です」
付箋に書いた。七文字だった。
「開業の届けを出すときに、屋号も書かれますか」
すぐには答えられなかった。
屋号は、名乗るものだ。名乗って、申し立てて、受ける。うちの商売は、そこから始まる。その名前を、国の紙に書く。書いたら何が起きるのか、見当がつかなかった。
「考えさせてください」
「はい。次までに決めておいてください」
付箋が一枚増えた。
「顧問の契約をさせていただけますか。お尋ねは、こちらで書いて出します」
「お願いします。払います」
言ってから、いくらなのかを聞いていないことに気づいた。
税所さんは気にする様子もなく、紙を一枚出した。
「顧問料は、月に一万五千円です」
厄除けで、十五枚。
「……払います」
二度目の払いますは、一度目より少し小さかった。
「申告のときのぶんは、その時期に、また別にご相談します」
別に、と言った。聞かなかったことにした。
「帳簿は、ご自分でつけられますか。こちらでつけることもできますが、別料金になります」
「自分で、書きます」
「いま、何かつけていらっしゃいますか」
「家計簿なら、あります」
「それで結構です。次に、それと領収書を持ってきてください。ひと月ぶんで」
契約書に名前を書いた。大上大介。判子を押した。
税所さんは契約書に付箋を貼って、ファイルに綴じた。背に一枚、新しい付箋が増えた。大上様、とあった。
それから何日かして、表の店に出ていた。
昼過ぎで、人通りは多かった。厄除けが一枚売れて、それきりだった。
歩道の向こうから、紺の上着が歩いてきた。鞄を提げて、携帯を見ながら歩いている。顔を上げた。
税所さんだった。
目が合った。逸らす間が無かった。
「大上さん」
「……先生」
税所さんは、机と、椅子と、ガードレールに縛った看板を、順に見た。
「こちらは」
「ちょっと、出店ば、しとるとです」
出店、という言葉がどこから出てきたのかは分からない。祭りでもないのに。
「出店」
「はい」
税所さんは看板を見ていた。上から下まで読んでいるように見えた。読んで、何も言わなかった。
机の上に厄除けが並んでいる。千円、と書いた紙が立ててある。
「この売上も、家計簿に入っていますか」
「入っとります」
これは本当だった。本家が毎晩つけている。
「はい。この近くの顧問先の帰りで」
そこで、税所さんは携帯の時計を見た。
「あ、いかん。次のあるけん、これで」
そのとき、税所さんの肩越しに、本家が見えた。
路地の口のほうから、缶コーヒーを二本提げて歩いてくる。差し入れだ。ときどきやる。
本家の足が止まった。
税所さんの背中を見て、俺の顔を見た。口が、うおっ、の形に開いた。
来るな、と思った。
本家は回れ右をした。まずか、と口が動いたのが見えた。
合図は出していない。出すまでもなかった。
本家は缶を二本提げたまま、来た道を戻って、路地の口に入っていった。
それきりだった。
税所さんは、もう駅のほうへ歩き出していた。一度も振り返らなかった。振り返る理由が、向こうには何も無い。
その晩、低い机の上に缶コーヒーが二本あった。
ぬるくなっていた。
「見えとったか」
「見えとりました」
本家は一本を、俺のほうへ押した。二人で一本ずつ飲んだ。
それで終わりだった。
飲み終えてから、本家が家計簿を出してきた。
スーパーで二百円ほどの、横書きのノートだ。表に、家計簿、と印刷してある。つけているのは本家で、俺は財布から出てきたレシートを渡すだけにしている。
「ひと月ぶんです。領収書は、ここに挟んどります」
「ああ」
開いて、閉じた。中身は本家が知っている。
一週間後に、また薬院へ行った。
シャツは、今度は皺が少なかった。本家が前の晩から、風呂場に吊るしていた。
出店のことを訊かれたら何と言うか、道々考えた。祭りの出店ではない、というところまでは考えた。その先は出てこなかった。
「大上さん。どうぞ」
名前はすぐに出た。税所さんは棚からファイルを抜いて、開いた。背の付箋を読んで、中の付箋を読んだ。
「……元祖天神大上屋さん」
読み上げる声だった。覚えている声ではなかった。
一週間前に、この人は手を止めて、もう一度、と言って、七文字を書いた。書いた紙は残っている。書いた人のほうから、抜けている。
税所さんは、何とも思っていない様子だった。ファイルがあれば、仕事は回る。
何とも思っていないのは、税所さんだけだった。
「屋号は、決められましたか」
「まだです」
「はい」
付箋が一枚増えた。
「そういえば、先日、天神でお会いしましたね」
背中が固くなった。
「何か、されていたような」
「……出店を」
「ああ。何の出店でしたか」
「厄除けの、です」
「どちらで」
「天神の、あのへんで」
「はい」
付箋に、厄除け販売(天神)、と書き足した。それで終わった。
一週間前、この人は俺の机の前に立って、看板を上から下まで読んだ。千円の紙も見た。
覚えているのは、天神で俺に会ったことだけだった。
『番』に礼を言いたくなったのは、初めてだった。
家計簿を渡した。
税所さんはページをめくった。速かった。ひと月ぶんをひと息にめくって、最初に戻った。
それから、ゆっくりめくり直した。
「これは何ですか」
指が、一つの行の上にあった。
「冷蔵庫です。壊れたとです」
「はい。これは」
「歯医者です」
「はい。これは」
「靴です」
「お仕事で履かれますか」
「……普段も、履きます」
「はい」
税所さんは、机の上に紙を二枚並べた。領収書を、片方ずつに分けていく。地下鉄とバスの控えは左。筆ペンと墨は左。冷蔵庫は右。歯医者は右。靴は右。
「携帯が、二回線ありますね」
「はい」
「どちらも、お仕事で」
「……はい」
二回線とも契約しているのは俺で、片方は本家が持っている。どちらも仕事で使っているのは本当だった。
控えは、左に置かれた。
「これは」
指が、ペンキの行にあった。
九百八十円。
看板の塗り直しに使った。看板は、渡辺通りの歩道にある。
「……ちょっと、塗り直したとです」
「何をですか」
「板を」
「家事ですね」
ペンキのレシートは、右に置かれた。
九百八十円ぶん、余計に払うことになる。いくら余計になるのかは知らない。知らないが、払うのは俺だ。本家にも言わないことにした。言わなくても、あいつは分かる。
「月末の残りが、千二百円ですね」
「はい」
「雑費の欄が、大きいですね」
「冷蔵庫と、歯医者と、靴と」
一つずつ言った。自転車を盗られた。布団をもう一組買った。返した金がある。立て替えて、戻ってこない金がある。
「全部、理由のあるとです」
「はい」
税所さんは、右の山を机の向こうへ押した。俺のほうへ。
「こちらは、お仕事とは関係ありませんので」
左の山だけが、税所さんの手元に残った。右の山は、俺の膝の前に戻ってきた。税所さんは、それをもう見なかった。
冷蔵庫と、歯医者と、靴と、ペンキ。鞄に戻した。
「帳簿は、このノート一冊ですか」
「これ一冊です」
鞄を、膝に載せ直した。
税所さんはノートの最後のページを開いた。並んだ字を、しばらく見ていた。
「これは、どなたが書かれたものですか」
「……俺です」
「はい」
税所さんは付箋を書いて、ノートの表紙に貼った。それから立って、ノートを複合機に載せ、何ページか写した。
ノートは、その日のうちに返ってきた。
「では、また来月」
「はい」
階段を下りた。
帰り道で、どこで嘘をついたのかを探した。
天神で出店をしていた。本当だ。毎日だが。
携帯が二回線あって、どちらも仕事で使っている。本当だ。片方は自分用ではないが。
家計簿は俺が書いた。本当だ。もう一人の俺だが。
何も嘘はついていなかった。
アパートに戻って、ノートを本家に返した。
本家は表紙の付箋を見て、剥がさずに開いた。いちばん新しい行の下に、書き足した。
顧問料 一万五千円
本家はノートを閉じて、低い机の端に置いた。
表紙の付箋には、税所さんの字で、日付と、大上様、とだけあった。
屋号は、どこにも書いてなかった。




