第二十一話 包み
朝、本家が紙袋をまたいで台所へ行った。
四畳半の隅にある。坂口の家から持って帰ったもので、札で包んで、五つに分けて入れてある。箸が五膳、湯呑みが四つ、スリッパが三足、歯ブラシが五本、スニーカーが二足。三か月ほど、そこに置いたままだ。
本家はまたぐ。俺はよける。
どちらが先にそうし始めたのかは、覚えていない。
電話が来たのは、机を積んで表に出る前だった。
「拝み屋の、大上さん、ちゅう方ですか」
「はい」
「那の川の、楢崎と申します」
不動産屋の引き出しに、うちの名刺が入っていたという。家を売る話をしているときに、担当の人が引き出しを開けて、こういうとに詳しか人がおります、と言って出してきたそうだ。
名刺は三行ある。屋号と、拝み屋 大上大介と、怪異 引き取り・厄除け・ご相談。どれを読んで詳しいと思われたのかは、訊かなかった。
用件は、押し入れだった。
那の川の実家に、母親が一人で住んでいた。去年から施設に入っていて、家は空いている。今度売ることになって、片付けている。
「押し入れの奥に、包みのあるとです」
「包み」
「布で包んで、紐のかけてあります。抱えるくらいの大きさで」
楢崎さんは、そこで一度息を継いだ。
「うちの母が、触るなち言いよったとです。子供のころから、ずっと」
「何が入っとるとですか」
「知らんとです」
五十年、訊かなかったし、触らなかったという。
「お母さんには」
「訊きました」
少し黙った。
「もう、答えられんとです」
値段を先に言った。作法だ。
「見に行くとに一万です。何か出てきて、引き取ることになったら、別にいただきます。いくらかは、見てから言います」
「引き取る、ちゅうのは」
「持って帰る、ちゅうことです」
間があった。
「持って帰ってもらえるとですか」
声の調子が変わった。それまでは事務の人の声だったのが、そこだけ違った。
「引き渡しの日の、決まっとるとです」
来月の頭だという。それまでに家を空にしないといけない。
「ほかのもんは、全部出しました。あれだけです」
本家に、那の川に行く、と言った。表は頼む、と。
「そうですか」
それで済んだ。
那の川は、薬院から歩いて十五分ほどだった。
大きい通りを渡って、一本入る。細い道の両側に家が並んでいて、建った年がばらばらだった。楢崎さんの実家は、そのうちの一軒だ。二階建てで、玄関の脇に物置がある。表札は外してあった。
中は空だった。畳の上に、家具の脚の跡が四つずつ残っている。台所も、風呂も、全部出したあとだった。
一階の奥の六畳に、押し入れがある。上の段の、いちばん奥に、それはあった。
布は晒しだった。もとは白かったのだろうが、上の面だけ茶色く灼けている。紐は麻で、二重にかけて、上で結んである。
埃はほとんど積もっていなかった。
「拭かれましたか」
「拭いとりません。触るなち言われとりますけん」
なら、母親のほうが拭いていたのだ。触るなと言った人が、自分では触っていた。
「今日は、開けんとですか」
「開けます。ただ、その前に少し調べます」
「調べる」
「この家のことと、お母さんのことです。三日ほどください」
楢崎さんは、よく分からないという顔をした。
「包みば見てもらうとに、家のことが要るとですか」
「要るときと、要らんときがあります」
要らなかったことのほうが少ない。それは言わなかった。
登記を取った。家が建ったのは昭和四十六年で、土地も建物も母親の名前になっている。前の持ち主から買ったのは、その年だ。
楢崎さんに訊くと、母親が嫁に来たのは翌年の春だった。父親は十年前に亡くなっている。
「お母さんの、ご実家は」
「……よう知らんとです」
法事に行ったことも、正月に行ったことも無い。母方の親戚という人に会った記憶が無い。
「おらんとやろう、ち思うとりました。訊いたことも無かとです」
向かいの家に、八十を越えた女の人がいた。
このあたりで昔からいるのは、もうその人だけだという。玄関先で、楢崎さんの母親のことを訊いた。
「あんた、あそこの人ね」
「いえ。息子さんに頼まれとります」
女の人は、頼まれとると、と繰り返して、それから話し始めた。若い嫁さんが来た年のことを覚えていた。
「秋に、庭で焼きよらしたよ」
「焼く」
「ドラム缶ば持ってきてね。二日か三日、焼きよらした」
何を焼いていたのかは覚えていない、と言った。
「箪笥の中のもんやったろうかね。反物のごたるとの、見えたけん」
その年のうちに、庭のドラム缶は無くなった。それきり、あの家で何かを焼いた人はいない。
楢崎さんの家のアルバムを見せてもらった。
段ボールの中に三冊あった。いちばん古いのは、結婚してからのものだった。式の写真が数枚あって、そのあとは楢崎さんが生まれてからの写真が続く。
母親が若いころの写真は、一枚も無かった。
「うちの母は、何も言わん人でした」
楢崎さんは、アルバムを閉じた。
「言わんけん、訊かんかったとです」
二日目の晩に、安藤さんに電話した。
「那の川に、五十年触っとらん包みのあります」
「開けたとか」
「まだです」
「開けてみらんと分からん」
「はい」
「開けて、何も無かったら、それで終いたい」
それで切れた。この人の言うことは、たいてい短い。短いぶん、外れない。
三日目に、楢崎さんの前で紐を解いた。
麻の紐は、結び目のところだけ固くなっていた。引くと、ほどけた。
晒しの下に、新聞紙が入っていた。四つ折りにして、二重に巻いてある。広げると、日付が出た。昭和四十七年の、秋の新聞だった。
新聞紙の下から、布が出てきた。
端切れだった。
木綿で、大きいもので手拭いほど、小さいものは掌に収まるくらいだ。数えると十二枚あった。花柄と、縞と、無地。どれも色が褪せていて、端はほつれている。高いものではなかった。仕立てたあとの余りだ。
それだけだった。ほかには何も入っていなかった。
楢崎さんは、しばらく何も言わなかった。
「これ、ですか」
「これです」
「……これに、触るなち」
手を出しかけて、止めた。まだ触っていない。
札を三枚、貼らせてもらった。
押し入れの中と、六畳の鴨居と、庭に面した掃き出し窓の枠。短い祝詞をあげた。八文字だ。
端切れは、新聞紙ごと畳の上に置いておいてもらった。
翌日の昼に来た。
三枚とも白かった。黄ばみも、焦げも、湿りも無い。裂けも無い。
その次の日も同じだった。
高砂の楠は、貼った翌日に三枚とも湿っていた。浄水通りの銀杏は、それより濃かった。ここは何も出ない。貼る前と、紙が変わっていない。
「いま、何も無かとです」
楢崎さんは、畳の上の端切れを見た。
「何も」
「はい」
「昔も、何も無かったとですか」
「そこは、分かりません」
三日置いたのは、いま動いているのかを知るためだ。一日目と、二日目と、三日目を見比べる。
動いていれば、いまも動いている。動かなければ、いまは何もしていない。
どちらにしても、昔のことは出ない。見えるのは今のことだけだ。
「うちが見よるとは、今のことだけです。昔のことは、札には出らんとです」
「引き取ってもらえんとですか」
楢崎さんが言った。声の調子が、電話のときと同じになった。
「持って帰ってもらえたら、いちばんよかとですけど」
「引き取るとは、何かが入っとらんと、できんとです」
「入っとらんと」
「うちのやり方は、帳面に書くとです。書いたもんが入ります。書く中身の無いもんは、書けません」
「書けんかったら、どうなるとですか」
「書いたら、どうなるか、です」
楢崎さんは、待った。
九月に、一度やっている。
あのころ、帳面に自分の物を入れていた。みやこビルの踊り場で暗い思いをして以来の癖だ。
寝袋、水、非常食、ライター、蝋燭。必要そうなものを少しずつ買っては、アパートで書いた。うちで書けば、品名の頭はどれも大上方で通る。
炎も入れてみた。火種ではなく、炎そのものだ。
点けたガスコンロを前にして、炎と書いた。コンロの火が消えて、ガスが吐き出されるばかりになった。
その場で出してみた。目の前の中空に、ぼ、と軽い音を立てて炎がともった。そして、そのまま消えた。
燃えるものが無ければ、出したところで一瞬の炎でしかない。ライターのほうが役に立つ。
入れるものが増えたので、中の物を一度整理しようと思った。怪異と人はそのままにして、物だけ並べて書き出しておこう、と。そのためには一度出して、数えないといけない。
座布団から出すことにした。
六、と書いた。
手元にあるのは五枚だ。一枚は血が染みて、警察が持っていっている。頭の中の数が、六のままだった。
六枚出た。
四畳半に、座布団が積み上がった。山のいちばん上の一枚が、ほかと違っていた。
布ではなかった。皺の寄った、人の皮膚のような質感だった。厚みは座布団のぶんだけある。四隅に房も付いていた。ただ、白く細い房だった。白髪のように。
脈打っていた。
動けずにいると、ふわりと匂った。年寄りの家に上がったときの、あの匂いだ。押し入れと、畳と、古い薬の混じったような。
あらまぁ、と言う、坂口家の母の姿が頭に浮かんだ。
本家が、茶碗を洗う手を止めて、こちらを見ていた。唖然としていた。たぶん俺も同じ顔をしていた。
触ってみた。暖かかった。
それは、手から逃げるように身を捩った。
帳面を見た。
坂口方の母の行が、無かった。
代わりにあったのは、これだ。
坂口方 座布団 弐
消した痕は無かった。書き足した痕も無かった。墨の色も、筆の入りも、行の並びも、俺が書いたときのままだ。最初からそう書いてあった顔をしている。
俺が覚えているのは、坂口方 母 弐、という一行だけだ。それだけがこちらにあって、頁にはもう無い。
一枚足りないぶんを、帳面はどこからも持ってこなかった。増やしもしなかった。中にあるものを見て、これは座布団だ、と決めただけだ。
どう見ても座布団で、どう見ても肉だった。
捨てれば騒ぎになる。置いておくわけにもいかない。
一瞬だけ、埋めてしまおうか、と思った。
結局、六枚とも帳面にしまった。座布団として。
それきり、あの棚からは何も出していない。
「書くと、数の合わんことのあります」と俺は言った。「合わんとき、帳面が自分で合わせます。何が出てくるかは、こっちで選べません」
楢崎さんは、しばらく考えていた。
「そんなら、これは」
「捨ててよかとです」
言ってから、自分の声を聞いた。よそ行きの、商売の声だった。
「ただの布です。五十年、そこにあっただけです」
楢崎さんは、端切れを見ていた。
手を出さなかった。
「捨てられんとです」
「はい」
「うちの母が、触るなち言うたとです。理由も言わんで、五十年」
「はい」
「それだけで、こっちは五十年、触っとらんとですよ」
声が少し大きくなった。それから、すみません、と言った。
新聞紙を畳んで、晒しで包み直した。
俺の手でやった。楢崎さんは見ていた。
紐は、もとと同じに二重にかけて、上で結んだ。結び目の位置まで同じにできたかどうかは、自信が無い。
「これで、触ったことになりますか」
「なりません」
「なりませんか」
「解いたとは、うちです。楢崎さんは触っとらんとです」
楢崎さんは、包みを両手で持ち上げた。
「持っていきます」
新しいところへ、ということだった。そこにも押し入れはある。
封筒には、一万円が入っていた。
先に言ってある額だ。多くも少なくもなかった。
玄関を出るとき、楢崎さんが言った。
「うちの母は、何ば焼きよったとですかね」
「分かりません」
「訊いても、もう答えんとです」
「はい」
分からないままになることは、ある。そう言おうとして、やめた。言わなくても、この人は知っている。
大きい通りまで出て、携帯を出した。
安藤さんの番号を呼び出して、そのまま見ていた。
何も無かったです、で済む話だ。済む話を報告するのに、ついでに九月のことを言う理由は無い。
携帯をポケットに戻した。
そういう理由を、これで何度目か数えたことはない。
その晩、本家が先に飯を作っていた。
「厄除け、在庫のなくなったけん、刷ってくれませんか」
「ああ」
「明日は大濠に行きます。貼った厄除けの焼けとりました」
「分かった」
飯を食って、茶を飲んだ。
本家が風呂に行って、戻ってきて、布団を敷いた。それから、紙袋をまたいで電気の紐を引いた。
暗くなってから、隅のほうを見ていた。
五十年、誰も触らなかった端切れが、ただの布だった。触るなと言った人は、自分では拭いていた。
起き上がって、鞄から目印を一枚出した。
紙袋の口を開けて、いちばん上の包みに貼った。短い祝詞をあげた。八文字だ。
本家は何も言わなかった。寝ていたのかもしれない。
朝に見た。
黄ばんでいた。濃い。
胃のあたりが落ちた。やはり何かあるのだ、と思った。
それから、出かたを見た。
中心が、包みの側ではなかった。札の、外へ向いていたほうの端から広がっている。源は包みの中ではない。反対だ。
二枚足した。台所の柱と、押し入れの襖に一枚ずつ。翌朝、三枚とも黄ばんでいた。
線を三本、頭の中で延ばした。
交わったのは、机の上だった。
帳面が置いてある。
閉じているのに、出ている。
持ち歩くだけでは何も起きない、と思っていた。起きてはいない。ただ、漏れてはいた。同じ部屋で一晩過ごせば、紙に出るくらいには。
現場に貼った札に出たことがないのは、あれが二日か三日で、しかもそのあいだ俺は帳面ごと帰っていたからだ。那の川の三枚が白かったのも、そういうことだ。
そして、紙袋については何も分からなかった。札が見ていたのは、ずっと机の上のほうだった。
札では分からない。
分かるのは、理屈のほうだった。
増えるのは、物のほうが悪いからではない。帳面が、自分の足したものを覚えているからだ。覚えている先が数えていなければ、その物はただの物に戻る。
坂口家は、もう数えていない。数えているのは、うちの帳面だ。そして、うちの帳面が数えているのは、うちの店の員数と内訳だけだ。この十九点は、そこに一行も入っていない。足した覚えも、足された覚えも、どこにも残っていない。
増える理由が、どこにも無かった。
増やす力だと思っていた。三か月ほど、そう思って、この隅をよけて歩いていた。
そうではなかった。あれは、数を合わせているだけだ。座布団を六と書いた晩も、増やしはしなかった。中にあるものを見て、そういうことにしただけだ。
札を剥がした。
包みを開けて、中の札を並べた。留めが五枚、祓いが四枚、目印が一枚。坂口の家に行った晩に鞄にあった十枚を、全部この五包みに回してある。
祓いが四枚あった。
開業してから一度も打っていない。打つ気になったことも、まだ無い。
札を元のとおりに掛け直して、五つとも包み直した。箸と、湯呑みと、スリッパと、歯ブラシと、スニーカー。中身は数えなかった。数えなくても知っている。
紙袋に戻して、隅に置いた。
台所へ行くのに、その上をまたいだ。
よけなかった。




