第二十話 浄水通り 大銀杏 受 壱
客用の椅子に、男の人が座っていた。
机と椅子を出して、看板をガードレールに縛り終えたときには、もう座っていた。四十代の半ばくらいで、膝の上に紙袋を載せている。息を整えているふうだった。
「すんません。ちょっと、座らせてもろうて」
「どうぞ」
しばらくして、男の人は顔を上げた。机の上の厄除けを見て、それから俺を見た。
「ここは、何屋さんですか」
「拝み屋です」
男の人は、看板のほうを見た。見たが、読んだ顔ではなかった。
「……拝み屋さん」
紙袋を持ち直した。
「木ば拝んでもらう、っちゅうとは、できんとですか」
吉武さんといった。浄水通りで眼鏡屋をやっている。親の代からで、三十年になる。
店の前の歩道に、銀杏が一本ある。並木の中で、その一本だけがひときわ大きい。このあたりで大銀杏と言えば、その木のことだという。根が歩道のタイルを持ち上げて、段になっている。
「先月、お客さんの転んだとです」
七十過ぎの女の人だった。遠近両用を作り直して、受け取って、店を出て、三歩目だった。
「手ば突いて、手首ば折りました」
吉武さんは、自分の手首を押さえた。
「うちで作った眼鏡ば掛けて、うちの前で転んだとです」
区役所には電話したという。
「木ば切ってくれ、ち言うたとです。そしたら、街路樹やけん切れん、ち」
来たのは赤いコーンが一本だった。段のところに置いて、帰っていった。
「それと、もう一つあるとです」
吉武さんは、少し言いにくそうにした。
「夕方になると、あの木の下で、みんな止まるとです」
買い物帰りの人も、学生も、犬を連れた人も、その一本の下に来ると一度立ち止まって、上を見て、また歩き出す。
「転んだお客さんも、止まって、上ば見よったとです。それで、足元ば見とらんかった」
「止まった人に、訊いたことはありますか」
「あります。なんで止まったとですか、ち」
吉武さんは首を振った。
「みんな、分からん、ち言うとです」
「あの木には何かあるとやないか、ち、近所でも言いよります」
怖がっている顔ではなかった。困っている顔だった。
「切れんとなら、せめて拝んでもろうて、大人しゅうしてもらえんかと思うて」
木に大人しくしてもらう、というのがどういうことなのかは、分からなかった。吉武さんにも分かっていないのだと思う。ほかに頼むところが無いのだ。
値段を先に言った。作法だ。
「見に行くとに一万です。引き取ることになったら、別に二万いただきます」
「引き取る」
「持って帰る、ちゅうことです」
吉武さんは、木を担いで帰る図でも思い浮かべたような顔をした。それから、お願いします、と言った。
本家の携帯に、浄水通りに行く、とだけ入れた。
浄水通りは、薬院から歩いて十分ほどだった。
両側に並木があって、低い建物の一階に店が並んでいる。服屋と、菓子屋と、花屋。吉武さんの眼鏡屋は、その並びの中ほどにあった。
銀杏はすぐに分かった。
並木はどれも、大人が腕を回せば届くくらいの太さだった。その一本だけ、二人がかりでも届きそうになかった。幹の皮が厚く割れて、下のほうに古いこぶがいくつもある。枝は、両隣の木の上まで張り出していた。
根元の四角い囲いから、根がはみ出していた。囲いの縁石が浮いて、その先のタイルが三枚、割れて持ち上がっている。段の上に、赤いコーンが一本置いてあった。
しゃがんで、段を測った。メジャーは、前にホームセンターで買った安物だ。いちばん高いところで、四センチあった。
夕方まで待った。
吉武さんの店の前に立っていると、客の邪魔になる。道を渡って、向かいのバス停のベンチに座った。
日が傾いてくると、人が増えた。
銀杏の下に来ると、人は止まった。
全員ではない。急いでいる人は、そのまま抜けていく。自転車も止まらない。歩いている人の、半分くらいが止まった。止まって、上を見て、何を見たのか分からない顔をして、また歩き出す。止まるのは一歩か二歩ぶんで、長くても三つ数えるほどだった。
気がつくと数えていた。一時間で四十三人が通って、二十六人が止まった。
何も見えなかった。枝のあいだから空が覗くだけで、鳥もいない。
立って、道を渡った。銀杏の下まで歩いた。
止まっていた。
上を見ていた。枝が重なっていて、その向こうが明るかった。何を見ようとしたのかは、自分でも言えなかった。
後ろから来た人が、俺をよけて抜けていった。
札を三枚、貼らせてもらった。
吉武さんの店のシャッターの脇と、並木を二本先へ行った街灯の柱と、道を渡ったバス停の標識の柱。
短い祝詞をあげた。八文字だ。
翌日の昼に来た。
三枚とも、濃く湿っていた。高砂の駐輪場で見たのより、まだ濃い。黄ばみも焦げも、裂けも無い。
三本の線は、銀杏の幹で交わった。
二日目も三日目も、交わるところは同じだった。湿りは、濃くなってもいない。薄くなってもいない。
通うあいだに、話を聞いて回った。
並びの中でいちばん古いのは、角の酒屋だった。店番をしていたのは八十近い主人で、銀杏のことを訊くと、大銀杏ね、と言った。
「あれは、道の広うなる前から立っとったとよ」
昔はこのあたりに大きな屋敷があって、その庭の隅の木だった。道を広げるときに屋敷の塀が下がって、木だけが歩道に残った。ほかの並木は、そのあとに植えたものだという。
「わしの子供の時分から、あれだけは太かった」
「あの下で、人の止まるとは」
「止まるね」
主人は、当たり前のことを訊かれたような顔をした。
「昔から止まりよったよ。わしも止まる」
それより先の話は出なかった。誰かが死んだ話も、祀った話も、切ろうとして何かあった話も無かった。屋敷の家の名前も、主人は覚えていなかった。
区役所にも電話した。古い木なので、根に手を入れるのは慎重にしている、と言われた。根を切れば弱る。弱れば倒れる。
調べて出てきたのは、それだけだった。百年ぶんの木が、百年ぶん立っていた。
四日目の夕方、また銀杏の下に立った。
また止まった。上を見た。
品名は、とうに立っていた。
場所は浄水通り。並木の銀杏は何本もあるが、大銀杏と呼ばれているのはこの一本だけだ。吉武さんも、酒屋の主人も、そう呼んだ。数は一本。
帳面を出して、膝をついて、八文字をあげて、名乗って、書けば入る。
入れば、ここで人は止まらなくなるのだろう。
浄水通り 大銀杏 受 壱
頭の中で書いてみた行は、どこにも引っかからなかった。
引っかからないのが、気味が悪かった。
帰り道に、安藤さんに電話した。
「浄水通りに、大銀杏ち呼ばれとる木のあります。下で、人の止まるとです。湿りの、ずいぶん濃かとです」
「そら、木たい」
「怪異やなかとですか」
「木が百年立っとったら、そらそうなろうもん」
「受けようと思うとです。品名も数も立っとります」
少し間があった。
「その木は、生きとるとか」
高砂のときも、この人は同じようなことを訊いた。
「生きとります」
「生きとるもんは、受けたらいかん」
「なんでですか」
「知らん。やったことなか」
それで切れた。
携帯を下ろして、しばらく歩道に立っていた。
生きているものなら、前に受けたことがある。坂口の家で書いた晩に。
安藤さんは、それを知っている。知っていて、知らん、と言った。
やったことがない、というのは、あの人の話だ。俺の話ではない。
それでも、帳面は出さなかった。
翌日、吉武さんの店に行った。
「木は、引き取りません」
吉武さんは、眼鏡を拭いていた手を止めた。
「……拝むとも、できんとですか」
「拝むほどのことが、あの木には無かとです。百年立っとる木です。百年立っとったら、ああなります」
「そんなら、あの、止まるとは」
「止まっても、あの木は何もしよらんとです」
言ってから、少し足した。
「みんな、挨拶しよるとやなかですか。古か木やけん」
吉武さんは目を丸くして、それから笑った。
「挨拶はしよらんでしょう。誰も、頭は下げとらんですよ」
その通りだった。止まって、上を見て、行くだけだ。頭を下げた人は、一人もいなかった。
手帳を破って、渡した。
段の高さと、割れたタイルの枚数と、測った日付が書いてある。
「困っとるとは、木やなくて、段のほうでしょう」
吉武さんは、紙を見た。
「区役所には、木のことやなくて、歩道の段のこととして言うてください。お客さんの転んだ日と、けがと、この四センチ。木ば切ってくれ、は通らんでも、段ば直してくれ、は向こうの仕事です」
「……拝み屋さんの仕事やなかですね」
「はい。うちの仕事やなかとです」
「せめて、何か置いといてもらえんですか」
吉武さんが言った。
「札でもなんでも。また誰か転んだときに、うちは何もしとらん、ち、なるとがいちばんきつかとです」
厄除けは、鞄に何枚か入っている。
「あの木には、除けるもんの無かとです。厄除けは、貼っても紙のままです」
吉武さんは、しばらく紙を見ていた。
鞄の底に、境目の札が入っていた。赤坂の路地のときに書き起こして、使わずに残っていたものだ。
「効くかどうかは、分からんとですけど」と俺は言った。「境目の札、ちゅうとがあります。区切りば作る札です」
「区切り」
「木の周りに貼っとくと、木の声が、通る人に聞こえにくうなるかもしれんです」
吉武さんは顔を上げた。
「お願いします」
「札代で、千円いただきます」
二人で表に出た。
銀杏の根元の、四角い囲いの縁石。その四隅に一枚ずつ貼った。短い祝詞をあげた。八文字。
何も起きなかった。紙は白いまま、縁石に貼りついている。
吉武さんは、四枚を順に見て回った。それから、赤いコーンを段の真上に置き直した。
「これで、何もしとらん、ち、ならんで済みます」
封筒を出した。一万円と、千円札が一枚入っていた。
夕方の浄水通りを、薬院のほうへ歩いた。
並木を三本ぶん行ったところで、一度だけ振り返った。
銀杏の下で、女の人が一人止まって、上を見ていた。赤いコーンの横だった。
女の人は、また歩き出した。
俺も前を向いた。
次の日は、昼から店を出した。
千円のことを、まだ考えていた。効くかどうか分からない、と自分で言って、取った千円だ。
三つ隣の占いのおばさんのところに、若い女の人が座っていた。手を出して、おばさんがそれを見ている。
十五分ほどして、女の人は立った。立ってから、おばさんの机の端にある小さな袋を一つ手に取って、千円札を出した。
開運御守、と書いてある袋だ。中に何も入っていないのは、知っている。墨も、紙も入っていない。布に紐を通しただけのものだ。
女の人は袋を両手で持って、何か言って、笑った。来たときより、背が伸びて見えた。
それから通りを歩いていった。俺の机の前は、素通りだった。
あれには、何の力も無い。
それでも、あの人は来たときより軽くなって帰っていった。
おばさんが、こちらを見た。
「あんた、何ば売りよると」
何度目に訊かれたのかは、もう数えていない。
「札です。厄除け」
おばさんは俺の机を覗いて、千円の値札を見た。
「そんなら、ああいうとも一緒に置いたらよかとに。千円で売れるよ」
うちのは、と言いかけて、やめた。
おばさんは、もう次の客のほうを向いていた。
日が落ちて、店を畳んだ。
机と椅子を片付けて、路地の口まで歩いた。本家も、ちょうど看板を下ろしたところだった。
「浄水通りは」
「受けんかった」
「そうですか」
本家は鞄の口を閉めかけて、手を止めた。
「これ、もらいました」
小さな袋だった。開運御守、と書いてある。
「三つ隣の方が、開店祝いち言うて」
どの開店のことかは、訊かなかったらしい。
本家は袋を指で押した。中では何も鳴らなかった。
それから、鞄の内ポケットにしまって、口を閉めた。




