第十九話 堤書店 仕舞い 受 壱
大名二丁目の、四階建ての雑居ビルだった。
一階に店が二つ入っている。片方は美容室で、ガラスの向こうに鏡が三枚並んでいた。もう片方は、シャッターが下りている。
そのシャッターの前で、男の人が一人待っていた。
「井手です。電話した者です」
六十を過ぎたくらいの人だった。このビルの持ち主だという。
「ここです」
井手さんは、下りているほうのシャッターを指した。塗装が褪せて、字のところだけが白く浮いている。堤書店。
「古本屋さんが、十八年入っとったとです」
主は堤さんといった。井手さんより少し上で、一人でやっていた。朝の遅い店で、昼前に表の台を出して、夜の十時に閉める。十八年、それが変わらなかった。
「去年、店の中で倒れたとです。そのまま」
見つかったのは朝だった。表の台は中に入れてあって、灯りも消えていた。シャッターだけが、上がったままだった。
それから一年、ここは空いている。
「困っとるとは、二つあるとです」
井手さんは指を一本立てた。
「一つは、中の本です」
堤さんには、奥さんも子供もいなかった。店の中の物は、妹さんのものになった。
その妹さんが、片付けに来ない。
「電話したら、兄のもんは、私のもんやなかとです、ち言われました」
怒った声ではなかった。そう言われた、というだけの調子だった。
荷物が出なければ、次に貸せない。勝手に捨てるわけにもいかない。
井手さんは、二本目の指を立てた。
「もう一つは、音です」
ただ、音のほうは自分で聞いたわけではないという。
「隣が聞いとるけん、隣に訊いてください」
井手さんに連れられて、美容室の戸を開けた。
客はいなかった。鏡の前で若い男の人が、首から上だけの人形の髪を切っていた。奥で女の人が、洗面台を拭いていた。どちらも三十そこそこに見えた。この店を、夫婦でやっている。
音の話は、奥さんのほうがした。
店を閉めたあとに、二人で練習をしている。人形の髪を切って、巻いて、また切る。前は、十時を回ってもここにいることが多かった。
「十時になると、壁の向こうで音のするとです」
奥さんは、隣の側の壁を見なかった。見ないようにしている首の向きだった。
「片付けよる音です。台車ば押すごたる音と、電気ば消す音と」
「毎晩ですか」
「毎晩です。十時ちょうどに始まって、いっつも同じ順番で、最後にシャッターのところで止まります」
「いつからですか」
「去年の、あのあとからです」
奥さんは、あの、とだけ言った。
「隣には、誰もおらんとですよ。鍵のかかっとって」
声が細くなった。
「止まったあとが、いちばん怖かとです。次に何か来るとやないかち思うて、息ば詰めて待つとです。何も来んとです。毎晩」
いまは十時の前に店を出るようにしている、と旦那さんが言った。練習は、人形を家に持って帰ってしている。
「それでも、道具ば忘れて取りに戻った晩のあって」
戻ったら、ちょうど十時だった。
旦那さんはそこまで言って、鋏を置いた。続きは言わなかった。
「夜に、下見に来た人のおったとです」
隣が空いているのを見て、飲み屋をやりたいという人が、夜の人通りを見に来た。まだ閉める前だった。そのついでに、この戸を叩いた。夜はどげんですか、と訊かれた。
「音のします、ち言いました」
旦那さんは、井手さんのほうを見ずに言った。
「嘘は言えんやったです。隣になるかもしれん人やけん」
井手さんは何も言わなかった。その人は、それきり来なかったらしい。
値段を先に言った。作法だ。
「調べるとに二晩で一万。引き取ることになったら、別に二万です」
三人とも、すぐには何も言わなかった。
誰に向けて言ったのか、自分でも決めていなかった。
「井手さんと、お隣と、妹さんで割るなら、一万ずつです」
井手さんが、最初に口を開いた。
「音は、堤さんとこの話でしょう。うちは貸しとっただけやけん」
筋は通っていた。
奥さんが、旦那さんの袖を引いた。旦那さんが、言いにくそうに言った。
「うちは、客やなかとでしょう。聞こえます、ち言うただけで」
それも通っていた。
妹さんは、ここにいない。
「払いは、あとで決めます。今晩から見ます」
言ってから、決まっていないものを受けたのだと気がついた。
本家に電話した。
「大名に行く。夜になる」
「はい。今日は千早の厄除けば見に戻っとります。表は閉めときます」
それで済んだ。
鍵は井手さんから借りた。ビルの廊下の側に、裏口がある。
中は本だった。
壁の三方が棚で、床から天井まで埋まっている。真ん中にも背中合わせの棚が二列あって、通路は人一人ぶんしかない。足元にも紐で括った束が積んである。紙の匂いが、一年ぶん籠もっていた。
奥に帳場があった。小さい机にレジが載っていて、椅子が一脚。
表の側に、車の付いた台が二台寄せてあった。均一の本を並べて、昼は外に出しておくやつだ。台の向こうにガラスの引き戸があって、その向こうにシャッターが下りている。
札を三枚貼った。
帳場の脇の柱に一枚。表の台の棚板に一枚。奥の、右手の棚の側板に一枚。離して貼る。
短い祝詞をあげた。八文字だ。
それから通路の端に腰を下ろして、待った。
十時の少し前に、壁の向こうで戸の閉まる音がした。隣の二人が帰っていった。
十時になった。
表のほうで、台車が動いた。
車輪が床を擦って、止まった。もう一台。
俺は台を見ていた。二台とも、寄せたところから少しも動いていない。音だけが、台の入るところまで来て止まった。
引き戸が閉まる音がした。戸は、初めから閉まっている。
灯りのスイッチの音が、表から奥へ順に来た。三つ。
帳場で、レジの引き出しが閉まった。硬貨が一度鳴った。
椅子が、机の下に押し込まれた。
それから足音が、通路を表へ来た。俺の前を通った。何も見えなかった。紙の匂いも動かなかった。
シャッターの前で、金具が鳴った。棒を取る音と、その先をシャッターの下の縁に引っかける音だ。
それで、止まった。
下ろす音は来なかった。
しばらく待った。何も来なかった。
奥さんの言っていたのは、これだと思った。
数えていた。
台車が二つ。戸が一つ。灯りが三つ。引き出しと、硬貨。椅子が一つ。足音を一つと数えて、棒を取る音と、引っかける音。
十二だった。
翌朝、札を読みに戻った。
三枚とも焦げていた。濃い。人ひとりぶんは、ある。裂けは入っていない。
帳場の脇の一枚は、中心が狭く鋭い。表の台の一枚は、奥寄りから広く焦げている。棚の側板の一枚は、左から。
一枚では線が一本引けるだけだ。三本を延ばした。
交わったのは、帳場の椅子のあたりだった。
音が通っていった通路でも、止まったシャッターの前でもない。
十八年、あの人が座っていたところだ。
安藤さんに電話した。
「大名の空き店舗です。前の店の人が、毎晩、店ば閉めよります。去年亡くなった人です」
「ああ」
「引き取るとは、たぶんできます。払う人の決まらんとです」
大家と、妹と、隣。三つ並べて話した。
少し間があった。
「誰に払わせるかば決めるとが、いちばん難しか」
「はい」
「決められん仕事は、受けたらいかん」
それで切れた。
もう受けていた。それは言わなかった。
二晩目も、同じだった。
十時に台車から始まって、棒の先を引っかける音で止まった。十二。
妹さんには、三日目の昼に会えた。
膝の病院が天神にあって、その帰りなら寄れる、ということだった。井手さんが電話でつないでくれた。
七十近い人だった。杖は突いていないが、段差のたびに手で壁を探す。裏口から入ってもらうと、通路の入り口で足を止めた。奥までは入らなかった。
「こげん、あったとですね」
棚を見上げて、そう言った。
兄とは、ほとんど行き来がなかったという。親の法事で顔を合わせるくらいで、それも最後は十年以上前だった。店に来たのは、今日が初めてだった。
住まいは団地の三階で、二間しかない。
「兄のもんは、私のもんやなかとです」
井手さんから聞いたのと、同じ言い方だった。冷たい声ではなかった。本当にそう思っている声だった。
「どこに何のあるとかも、知らんとです」
払いの話もした。井手さんとお隣と三つに割れば、一万ずつになると言った。
妹さんは、少し考えてから首を振った。
「私は、何も頼んどらんとです」
それも、通っていた。
「毎晩、何の音のするとですか」
妹さんが訊いた。
「店ば閉める音です。表の台ば入れて、灯りば消して、レジば閉めて、シャッターのところまで行って、そこで止まります」
「止まる」
「下ろさんとです」
妹さんは、表のほうを見た。シャッターは下りている。去年から、ずっと下りている。
「早う帰りたかったとやなかですか」と俺は言った。「帰れんかったとでしょう」
妹さんは何も言わなかった。
表を見たまま、しばらく立っていた。
それから壁に手をついて、裏口のほうへ戻っていった。
その晩、本家はまだ戻っていなかった。
一人で飯を炊いて、食って、机の前に座った。
三つに割るのは、公平に見えた。見えただけだった。
井手さんは、貸していただけだと言った。隣の夫婦は、客ではないと言った。妹さんは、頼んでいないと言った。三人とも本当のことを言っていて、三人とも、一万を払う理屈を持っていなかった。
困っているのは、隣の夫婦だ。自分の店なのに、十時の前に逃げるように出ている。
話をつけるべきなのは、妹さんだ。あの本を片付けられるのは、あの人しかいない。
金を出せるのは、井手さんだけだ。
音が止まったら、誰が何を得るか。
隣の夫婦は、十時を過ぎても店にいられるようになる。もともとそうだったのが、戻るだけだ。
妹さんは、何も得ない。
井手さんは、あの一階を次に貸せる。
困っている人から取れば、困りごとが二つになる。
次の日、井手さんに言った。
「うちへの払いは、全部、井手さんにお願いします」
井手さんは眉を上げた。
「なんで、うちだけ」
「困っとる人から取るとやなくて、得する人から取るとです」
井手さんは、しばらく黙っていた。シャッターの褪せた字を見ていた。
「一年、空いとるとですよ」
「はい」
「三万やったら、一月ぶんにもならん」
それで決まった。
「荷物は」
「妹さんには、俺から頼みます」
隣の夫婦には、何も請求しないと言った。旦那さんは、よかとですか、と二度訊いた。
頼む前に、妹さんから電話があった。
「古本屋さんに、来てもらうことにしました」
売れる本は引き取ってもらって、売れない本は処分してもらう。差し引きで、こちらが払うことになるのだという。
「一万二千円、かかるげなです」
「来られるとですか」
「鍵ば開けてもろうたら、あとは向こうがするち言いよらします」
それだけ言って、電話は切れた。
古本屋は、トラック一台と二人で来た。
札は、前の日に剥がしてあった。
朝から始めて、夕方には棚が空いた。帳場の机も、椅子も、表の台も持っていった。
妹さんは来なかった。井手さんが鍵を開けて、閉めた。
空になると、店は思っていたより狭かった。棚の跡が、壁に四角く残っていた。
その晩、空の店で待った。
十時に、台車の音がした。
台はもう無い。車輪が床を擦る音だけが、寄せてあったところまで来て、止まった。もう一台。
戸。灯りが三つ。引き出しと、硬貨。椅子。
足音が、何も無い床を表へ来た。
棒の先を引っかける音がして、止まった。
十二。
何も変わっていなかった。
次の晩、井手さんには表で待ってもらった。
裏口から入って、戸を閉めた。シャッターは下りている。
帳面を出して、床に置いた。携帯の灯りを伏せて、その横に置いた。
十時まで、少しあった。
品名を考えた。
名前は分かっている。シャッターにも残っている。
名前で書けば、堤さんを書くことになる。
毎晩ここへ来るのは、姿の無い音だった。台車と、戸と、灯りと、レジと、椅子と、足音と、棒。店を閉める一続きのことだけが来て、終わらずに消える。
仕舞い、と書くことにした。
行の頭は、大名二丁目では広い。あの界隈で、店は毎晩どこかで閉まる。あの音が閉めているのは、この店だけだ。
店はもう無い。シャッターの字だけが残っている。
堤さんではなく、堤書店だ。
数は、十二と書くこともできる。
隣の奥さんは、いつも同じ順番だと言った。俺が聞いた三晩も、三晩とも台車から始まった。途中から始まった晩は一つも無い。十二は、ひとつの仕舞いの中にある。
壱だ。
十時になった。
台車の音がした。二つ。戸。灯り。引き出し。椅子。足音が、俺の横を通っていった。
棒の先が、シャッターの縁に掛かった。
止まった。
膝をついた。筆ペンの蓋を歯で外す。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
あたりが張った。壁に残った棚の跡も、床に残った台の車輪の筋も、数えられていた。
堤書店 仕舞い 受 壱
筆を上げた。
静かだった。毎晩この時刻のあとに来る静けさと、同じ静けさだった。
書いたから静かなのか、いつもの静けさなのかは、そこでは分からなかった。
井手さんに電話して、シャッターを上げてもらった。
翌晩、十時に隣の美容室にいた。
俺がいるなら、と奥さんが言って、今晩だけは二人とも残っていた。
旦那さんは人形の髪を切っていた。奥さんは鏡の前の椅子に座って、膝の上で手を組んでいた。
十時を回った。旦那さんの鋏が止まった。
奥さんは、壁のほうを見なかった。
十時半を回った。
何も来なかった。
「……今日は、なかですね」
旦那さんが言った。
奥さんは、組んでいた手をほどいた。それから、長いこと息を吐いた。
何も言わなかった。
井手さんからは、次の日に封筒を受け取った。三万入っていた。
「来月から、また不動産屋に出します」
それだけ言って、井手さんはビルの中へ戻っていった。
大名から天神へ、歩いて帰りながら勘定した。
井手さんが三万。
妹さんが、古本屋に一万二千円。
隣の夫婦は、一円も払っていない。
三つに割っていれば、一万ずつだった。
うちに入ったのは、三万だった。




