第十八話 赤坂一丁目 回り犬 受 壱
客用の椅子に、先に座っている人がいた。
断りもなく座って、何も言わずにいる。机の上に名刺が一枚置いてあった。角が丸くなって、印刷の黒が擦れている。だいぶ前に配ったやつだ。
「元祖天神大上屋の、大上です」
「知っとります」
知っている、と言われたのは久しぶりだった。
男は名刺を指で押さえた。
「これに書いてあるけん」
紙が覚えている。いつものことだ。
松尾さんといった。五十四で、赤坂で飲み屋をやっている。カウンターが八席で、焼き物と煮物を出す。
「路地に、通るとのおるとです」
「通る」
「何かは知りません」松尾さんは言った。「二十年おりますけん」
怖がってはいなかった。天気の話をするのと、声の調子が変わらない。
「昔からありよったとです。困っとるとは、そこやなかとです」
困っているのは去年からだという。
その時分になると、客が黙る。
「話しよったとが、ふっと止まるとです。それで、また戻ります」
何か言われるわけでもない。物が動くわけでもない。数秒のことだ。それでも座が白ける。
「前は、誰も気づかんやったとです」
去年、路地の向かいの古いビルが壊された。いまは月極めの駐車場になっている。
「道の広うなって、静かになりました」
変わったのは通るほうではなく、路地のほうらしかった。
「よそに移るとは」と訊いた。
松尾さんは、そこで少し間を置いた。
「ここば畳んだら、次は無かとです」
家賃の話と、歳の話を短くした。それ以上は言わなかった。
値段を先に言った。
「見に行くとに、二晩で一万。引き取ることになったら、そこから別に二万。締めて三万です」
松尾さんは頷いて、財布を出さなかった。
「終わってからでよかですか」
「よかです」
「今晩から、来てもらえますか」
行きます、と言った。
路地の口まで歩いた。四十歩もない。
「赤坂に行く。夜になる」
「はい。表ば見ときます」
本家は札を数えていた。それで済んだ。
赤坂一丁目。大名から一本入る。
西の口は広い通りに面していて、そこから入ると道が急に細くなった。幅は三メートルほどだ。北側に松尾さんの店があって、その先に古い二階建てが二軒、突き当たり近くにアパートが一棟。南側は駐車場と、スナックが一軒と、住まいが並んでいる。
突き当たりは行き止まりではなかった。ゆるく曲がって、次の通りへ抜けている。
駐車場は白い線が引いてあるだけだった。車が三台停まっていて、そのあいだを歩けば向こうの通りに出られる。去年まで、ここにビルが建っていた。
店の暖簾には、平仮名で、やなぎ、と染めてあった。
札を三枚貼った。
一枚は店の裏口の脇の壁。一枚は路地を挟んだ駐車場のフェンス。一枚は突き当たり近くの電柱。離して貼る。近づけると同じことしか言わない。
短い祝詞をあげた。八文字だ。
「紙が傷むだけで、道にも家にも害はなかです」
松尾さんは、はあ、と言った。
カウンターの端に座らせてもらった。
客は四人だった。三人が連れで、一人は離れて座っている。焼き台の煙が換気扇に吸われて、外の音はほとんど入ってこない。
十一時を回って、十二時を回った。
十二時を少し過ぎたところで、声が落ちた。
連れの三人が黙った。離れて座っていた一人が何か言いかけて、それもやめた。松尾さんは焼き台のほうを向いたままだった。
数えた。四つ数えるあいだだ。
それから、また声が戻った。誰も何も言わなかった。
引き戸を開けて外へ出た。路地は暗かった。駐車場の常夜灯が一つ点いているだけで、動くものは何も無い。
その晩は、それで帰った。
翌朝、札を読んだ。
三枚とも焦げていた。動物の色だ。人も動物なので同じ色が出る。
裂けは入っていない。
薄い。三枚とも、同じくらい薄い。
店の裏の一枚は左下から、フェンスの一枚は右寄りから、電柱の一枚は下から焦げていた。一枚では線が一本引けるだけだ。だから三枚貼る。
三本を延ばした。
交わらなかった。二本はどこかで交わる。その一点を、三本目が通らない。
薄いのが遠いからなのか、弱いからなのかも割れない。一匹ぶんが広く薄く出ているのか、薄いものが何匹ぶんも重なっているのかも出てこない。
動くものに、貼る札は向いていなかった。
帳面を開いた。後ろの頁に、俺の字があった。
赤坂一丁目 やなぎ裏口 員数 合
同 路地の二軒目 員数 合
同 路地の三軒目 員数 合
同 アパート脇 員数 合
同 スナック 員数 合
薬院四丁目 当方アパート 員数 合
路地の行は無かった。
前にも一度そうだった。道は数える先が無い。今度は困らなかった。読みたいのは道ではなく、道に並んだ戸のほうだ。
その戸の行が、全部「合」だった。
早く帰りすぎた。あの路地は二時ごろまで人が動いている。数の動いている場所は読めない。
昼に松尾さんのところへ行った。仕込みの最中だった。
「犬やなかろかと思うとります」と言われた。
「犬」
「うちの裏で、よう寝とった犬のおったとです。段ボールば敷いてやっとりました」
「いつごろですか」
「わたしがここば始めた時分やけん、二十年近う前です」
「うちだけやなかです。このへんば、ぐるっと回りよったとです」
もうおらんですよ、と言った。いつからおらんかは覚えとらんです、とも言った。
路地を回った。松尾さんに断ってから、一軒ずつ声をかけた。
三軒目の家からは、七十半ばくらいの女の人が出てきた。
「クロ、ち呼びよったよ」
勝手口の脇に皿を出していたという。夕方になると来て、食べて、しばらく寝て、いなくなる。
「首輪は」
「無かった。誰んとでもなかったけん」
突き当たりのアパートの一階は、八十近い男の人だった。
「シロやろ」
「シロ、ですか」
「腹の白かったけん、シロたい」
同じ犬ですか、と訊いた。男の人は、当たり前やろうが、という顔をした。
「あの路地に、犬は一匹しかおらんやった」
路地を出たところの持ち家に、もっと年嵩の人がいた。
「あの犬ね。うちが嫁に来た時分からおったよ」
嫁に来たのはいつごろかと訊いた。
「四十年になるかね」
一匹の犬が四十年は生きない。代が替わっていたのかもしれないし、替わっていなかったのかもしれない。同じ路地の、同じところに、同じように来ていれば、たぶん誰も区別しない。
名前も色も、家ごとに違っていた。
訊けば訊くほど、一匹だという根拠が薄くなった。
どこでどうなったのかは、誰も知らなかった。
「いつの間にか、おらんごとなったよ」
三人とも、同じ言い方をした。
訊く先を探した。登記にも住宅地図にも、犬のことは何も書いていない。犬に登記は無い。
そこで止めた。
その晩、留めを一枚、道の端に置いた。
八文字。
店の中で待った。十二時を少し過ぎて、声が落ちた。四つ数えるあいだだ。
出て、拾った。
白かった。焦げても、破れてもいない。置く前と同じ紙だった。
焦げていれば、押し切られた痕だと分かる。前に五十枚を一晩で焼かれたことがある。強いものは、札ごと焼いて通る。
弱いものは焼かない。何分か止めて、そのあいだに札の力が尽きて、離れる。紙には何も残らない。
外したのか。当たって、何分か止めて、それから通っていったのか。
姿が無いのだから、止まっているあいだも見えるものは無い。外に立っていれば、通ったことさえ分からない。客が黙るのは、店の中だ。
どちらでも、同じ絵になる。
その晩は閉店まで残った。松尾さんが暖簾を入れて、シャッターを半分下ろすのを見てから、歩いて帰った。
朝、帳面の後ろの頁に、桁の揃った字が並んでいた。
赤坂一丁目 アパート脇 員数 壱多し
同 路地の三軒目 員数 壱多し
同 やなぎ裏口 員数 壱多し
同 スナック 員数 合
薬院四丁目 当方アパート 員数 合
三つに出ていた。
手帳を開いた。路地の家は、西の口から東へ順に控えてある。書いてある順は、その逆だった。
昨日の聞き書きを並べ直した。東の突き当たりの側から、アパートの脇、三軒目の勝手口、それから駐車場のところ、最後に松尾さんの店の裏。
同じ順だった。
駐車場の行は無い。あれは戸の無いものだ。『番』が読むのは、内と外の言えるものだけだ。
去年まで、あそこの一階にお好み焼き屋が入っていたと、松尾さんが言った。
「あそこが、いちばん出しよったです」
「ご飯ばもらいに、回りよるとですね」
松尾さんは、そうかもしれんですね、と言った。
その晩は、留めを増やした。
十枚。道を横切るように、縁石から向かいの壁まで並べた。八文字。
十二時を少し過ぎて、声が落ちた。四つ。
十枚とも白かった。
効いていないのか。どれかが何分か止めて、そのあいだに力の尽きたのか。それとも、端に触れて、引き返して、別の道を通ったのか。
南は駐車場だ。白い線が引いてあるだけで、車のあいだを抜ければ向こうの通りに出る。北の二軒も、塀と塀のあいだが空いている。回る道はいくらでもあった。
確かめる手が無い。
留めは、当たったことも、外れたことも言わない。
厄除けなら傷む。傷めば位置が出る。並べなかった。焼けてしまえば消える。消えれば、何だったのかが二度と分からない。
安藤さんに電話した。
「動くもんに、札の当たらんとです」
「動くもんに札は貼れん。俺も貼らん」
「じゃあ、どうしよるとですか」
少し間があった。
「待つ。通るとこで待つ」
それで切れた。
あの人は、通る瞬間が分かるのだろうと思った。俺には分からない。分からないなら、札に待たせるしかない。
薬院に帰って、畳に紙を広げた。
止める札は持っている。足りないのは、止まったことがこちらに分かる札だ。通るのを妨げて、焼かずに、妨げたことを自分で知らせる札。
そんな札は教わっていない。
教わった型の中から、要るところだけを抜くことにした。
一つ目は境目の札だ。戸や窓に貼って、区切りを強める。覚えてはいたが、一度も書いたことがない。使いどころが立たなかったからだ。抜くのは、境目を定める、というところだけでいい。
二つ目は留め。抜くのは止める働きではない。怪異に当たって反応する、というところ。
三つ目は、流れをふさぐ札。水漏れに使うやつで、これも書いたことがない。据えたまま、長い時間をかけて流れを別へ振る札だ。抜くのは、逸らす、というところ。
そのままでは遅い。境を越えようとする一瞬に間に合わなければ意味がない。込めたぶんを一息に吐き出す形に書き換えた。
三つを繋ぐと、定めた境を越えようとするものの流れを、外へ逸らす札になる。
梅野さんの家のことを思った。
あのとき、器のほうが動いた。貼れば止まるが、貼るのは手で、手は二本しかなかった。要ったのは、先に置いておける札だ。たぶん、これだった。
あの晩に間に合ったかどうかは、分からない。
跳ね、と呼ぶことにした。打ち返すわけではないが、ほかの言い方が浮かばなかった。
一枚二時間かかる。
三通り書くつもりだった。俺が一つ、本家が一つ書いて、残りをどちらかが書けばいい。手は四本ある。
二時間して、二枚を畳に並べた。
同じ型だった。繋ぎ方も、抜いたところも、書き入れた順も同じだ。二枚を見比べて、どこが違うのかを探して、やめた。
手が四本あっても、頭は一つだった。
本家が筆を取り直して、もう一つの型を書きにかかった。二時間。それで二種類になった。三通り目は無い。
書き上がったぶんを増やして、要るだけにした。
次の日、松尾さんに引き取りの話をした。
「持って帰ります。そしたら、通らんごとなります」
「通らんごと」
「はい」
松尾さんは、しばらく焼き台のほうを見ていた。
「その晩は、店ば早う閉めてもらえますか。十一時で」
「一晩ぶん、減りますね」と俺は言った。
「よかです」
それだけだった。
向かいのスナックは、その晩は閉まっていた。
路地に人はいない。松尾さんには店の中に入ってもらって、シャッターを下ろしてもらった。
道を横切るように、札を並べた。縁石から向かいの壁まで、十二枚。二種類を交互にした。
低いところを、道の端に沿って通る。松尾さんはそう言った。低いところだけを塞げばいいのかもしれないが、どちらの端に寄るかが分からない。だから端から端まで並べた。
待った。
十二時を少し過ぎた。
音は無かった。風も無い。
端から二枚目が、反った。
紙が内側へ巻いて、乾いた音を立てて落ちた。ほかの十一枚は平らなままだった。
落ちたのは、片方の型のほうだった。
そこだ。
留めを一枚出して、翳して、八文字。そのまま足元に置いた。
何も見えない。音もしない。手も、いつもと同じだ。
それでも、そこから先へ進まなかった。反った札の向こうで、何も動かなかった。
「道ば塞いで、悪かね」
返事は無い。
「新しい宿のあるけん」
返事は無い。
膝をついて、鞄から帳面を出した。筆ペンの蓋を歯で外す。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
あたりが張った。並べた札も、落ちた一枚も、駐車場の車も数えられていた。
品名を考えた。
クロと呼んだ人がいて、シロと呼んだ人がいる。どちらの名前も、その家の中にしかなかった。
回りよった犬、と松尾さんは言った。
壱と書く根拠は二つだ。『番』の上げた三軒が一続きだったこと。いま足を止めているのが一つだということ。それだけだった。四十年の話を聞いたあとでは、薄い。
薄いまま、筆を下ろした。
赤坂一丁目 回り犬 受 壱
路地が静かになった。もともと静かだったのに、もう一段、静かになった。
足元の留めは平らなままだ。もう何も押さえていない。
シャッターが上がって、松尾さんが出てきた。
「終わったとですか」
「終わりました」
松尾さんは路地を端から端まで見た。それから中に戻って、封筒を持ってきた。三万入っていた。
翌朝、安藤さんに電話した。
「札ば、自分で書きました」
「どげな」
境目の札と、留めと、流れをふさぐ札から、一つずつ抜いて繋いだこと。速さを書き換えたこと。通り道に並べて、越えようとしたぶんを逸らしたこと。
「効いたか」
「効きました」
少し間があった。
「……そうか」
それで切れた。
効かなかったら、どうだったろうと思った。型が悪いのか、読みが悪いのか。教わった札なら、貼った場所が悪かったと言える。自分で書いた札では、それが言えない。誰にも判じようがない。
三日ほどして、通りかかったついでに寄った。
夕方で、仕込みの最中だった。暖簾はまだ出ていない。
「どげんですか」
「黙らんごとなりました」
それから、松尾さんは包丁を置いた。
「静かになりすぎたです」
客が黙らなくなった代わりに、路地がただの路地になった。そういうことらしかった。
俺は何も言わなかった。言うことが無かった。
帰りは、逆から歩いた。
西の口から入って、東へ。松尾さんの店の裏口。二軒目の塀。三軒目の勝手口。白い線の引かれた駐車場。突き当たりのアパート。
路地はそこで終わらなかった。ゆるく曲がって、次の通りに出た。
自販機が一台、灯りをつけている。閉まったシャッターに自転車が二台寄せてある。角でタクシーが客を降ろして、そのまま走っていった。
どこにでもある通りだった。
振り返ったが、路地は曲がっていて、中は見えなかった。




