第十六話 ふく八 十一席目 受 壱
机を運んでいくと、屋台の親父はもう幕を張り終えていた。
いつものことだ。閉めるときに、折りたたみの机を二つとパイプ椅子を四脚、この人の台の裏に積ませてもらう。店を開けるときに出して、看板を縛って、また並べる。開業からずっと、そうしてきた。
「兄ちゃん」
椅子を積んでいると、声がかかった。名前で呼ばれたことはない。机と椅子を間違えられたことも、一度もない。
「あんた、そういう商売やったよね」
そういう、というのがどういうことかは、この人も分かっていないと思う。
「中洲に、知っとうとのおるとよ」
勘定の合わんげな、と親父は言った。
「勘定」
「そう。ときどき、勘定の合わんげな」
勘定が合わない屋台。屋号と、川ぞいの何番目かを教えてもらった。
本家に一報を入れて、天神を出た。
ここのところ、涼しい。日が落ちるのが早くなって、半袖では肌寒くなってきた。
中洲へは歩いて十五分ほどだ。川ぞいの遊歩道に、屋台が一列に並んでいる。看板の灯りが水に落ちて、長く伸びていた。
ふく八は、その列の五番目にあった。
幕をくぐると、まだ客はいなかった。カウンターは十席。丸い腰掛けが十、台の下から引き出す形で並んでいる。寸胴から湯気が上がっていた。
台の中に、四十半ばくらいの人がいた。手を拭いて、幕の外まで出てきた。
「あんた、なんか用ね」
「弥太郎、ち知っとりますか。そこから聞いて来ました、大上です」
名刺を出した。「弥太郎」は、いつも机と椅子を預かってもらっている、あの屋台の屋号だ。
店主は両手で名刺を受け取って、そのまま上から下まで読んだ。
「あんたが、弥太郎んとこの言っとった拝み屋さんね」
そう言って、笑った。笑うと声が大きい。
「古賀です。二代目です」
勘定の話になった。
古賀さんは台の下からノートを出してきた。大学ノートだ。日付と、客の数と、その日の売上が、三年ぶん書いてある。
「これば見よって、気づいたと」
指を当てた行は、どれも客の数が十だった。
「十入った晩だけ、合わんとですよ」
一人ぶん、と言った。
売上のほうは合っている。十人ぶん、きっちり入っている。合わないのは、出ていったほうだ。
「麺が一玉と、丼が一つと、焼酎が一杯」
古賀さんは指を三本立てて、それから下ろした。
「洗いよって、いっつも一つ余るとよ」
「いつからですか」
「気づいたとは、去年たい」
ノートをめくった。指がだんだん前に戻っていって、三年前の最初の頁で止まった。
「継いだときからやったかもしれん」
親父さんに訊いたことはないのかと言うと、古賀さんは首を振った。
「親父からは、何も聞いとらんとよ」
声の調子は変わらなかった。話はもうノートに戻っている。
「三年、自分が呆けたとやろうかち思うとった」
値段の話をした。
「調べるとに二晩いただきます。二晩で二万です。引き取ることになったら、そこから別に三万です」
古賀さんはノートを閉じた。
「一晩で、いくら持っていかれよるか、分かりますか」
「分かりません」
「原価で二百円」即答だった。指を二本立てて、目の前に突きつけられた。
麺が一玉で五十円ちょっと、具と汁で百円、焼酎が一杯で五十円。売値なら千円になるが、飛んでいるのは材料のほうだから原価で数える。
「十入る晩が、月に十二、三日です。二千四百円」
そこまで言って、古賀さんは俺を見た。
「あんたに五万払うたら、元ば取るとに二年かかるばい」
「かかります」
古賀さんは声を上げて笑った。それから、笑ったままの顔で言った。
「割に合わんとやけど、合わんままにしとくとが、いちばん割に合わんとよ」
それで受けた。
札を貼る場所を探した。
台には貼れない。毎晩ばらして、リヤカーで置き場まで引いていくのだそうだ。幕も柱も一緒に畳む。朝には何も残らない。
遊歩道の側を見て回った。街灯の柱に一枚、川べりの手すりの内側に一枚、少し北に離れた植え込みの縁石に一枚。離して貼った。
三枚とも、台の外だ。
紙が傷むだけで人にも物にも害はないと言うと、古賀さんは笑った。
「傷むもんは、何でんいつかは傷むばい」
その晩は、隅に立って見ていた。
十時を回ったところで、席が埋まった。
埋まると、屋台の中は狭い。十人ぶんの声と、湯気と、換気扇の音で、隣の話が聞こえなくなる。古賀さんは背中を向けたまま、湯切りをして、丼を出して、釣り銭を出して、また湯切りをしていた。
飲んでいる客は二人だけだ。あとは食って、金を置いて、出ていく。この店は、みんなが最後に寄るところだった。
客が一人立って、また一人入った。十のままだ。
十二時前に、客が引いた。
洗い桶を覗いた。丼が十一あった。
古賀さんは何も言わずに、それを洗った。
二時を回ると、台が畳まれた。幕を外して、腰掛けを台の下に入れて、板を落として、リヤカーの柄を起こす。それだけで終わりだった。
あとには手すりと、川と、濡れたアスファルトだけが残った。
番を出した。中洲の川ぞいを意識して寝た。
朝、帳面の最後の頁を開いた。
何も上がっていない。前の日に回った中洲のビルは三軒とも出ているのに、川ぞいの一列だけが抜けている。
数が動いているから読めないのだろう、と思った。客が出たり入ったりしている。棚卸しの最中に品を動かされているのと同じだ。
それで、昨夜の終いのことを思った。台を引いていってしまえば、あそこには数えるものが一つも無い。
数えるもの自体が無いからか、数が動いているからか。その両方かもしれない。
昼のうちに、列の三番目の屋台へ行った。七十過ぎの親父が、火を落とした台の掃除をしていた。ふく八の先代を知っているという。
「先代の八ちゃんね。名前ば八郎ちいうたとよ。やけん、ふく八」
福岡の福と、八郎の八。それでふく八か。
「先代のころと、変わったところはありますか」
「変わったちいうてもな。今代も、先代そっくりやけん。声のでかか」親父は、懐かしそうに笑った。
それから、焼き台の網を外しながら言った。
「山さんの、来んごとなったね」
「山さん」
「知らんとね」
名前はそれしか出てこなかった。苗字が山で始まるのか、下の名前なのか、誰も知らないという。
「向かいのビルの、夜警さんやったよ」
上がりが遅い。十一時を回ってから来る。そのころが、どこの屋台も一番混む。
「席の無かとよ、いつも」
だから丸椅子を持ってきた。自分の椅子だ。台の端に置いて、幕の外に半分はみ出して座って、閉めるまでいて、洗い物を手伝って帰った。
「十年は来よったね」
「何ば食いよらしたとですか」
「ラーメンと、焼酎ば一杯」親父は手を止めなかった。「それだけよ。十年、それだけ」
古賀さんに訊いた。
「山さんて人は」
古賀さんは仕込みの手を止めた。
「知っとる。店ば手伝いよった時分に、何回か会うとるよ」
来なくなったのは、まだ先代がやっていたころだという。
「もう七年になるかいな」
どこへ行ったのかは分からないと言った。山さんが働いていたビルは、建て替わって久しいそうだ。訊く先が無い。
「最後に来た晩に、椅子ば置いて帰らしたち言うとった」
台の下に、まだあるという。
出してもらった。木の丸椅子で、脚に錆びた金具が打ってあった。全体的に古びて、黒ずんでいる。
古賀さんは、それを俺に見せてから、また台の下に戻した。
「どうにも、捨てられんとよ」
二晩目の夕方、台が組まれたのを見てから、札を剥がした。
三枚とも黄ばんでいた。黄ばみは、ここが覚えている、という色だ。
街灯の一枚は、南の下から狭く濃く。手すりの一枚は、北寄りの下から少し広く。縁石の一枚は、遠いぶんだけ薄く、ぼんやりと。
一枚では線が一本引けるだけだ。だから三枚貼る。
三本を延ばした。
交わったのは、カウンターの東の端だった。台の上ではない。台から外へ半歩出た、遊歩道の上だ。
高さは、腰のあたりだった。
座った人の腰の高さだ。
その晩も、十時を回るころには埋まった。
そのとき、数が見えた。
十席が埋まると、そこからもう一つ立つ。十一だ。十は満ちた形ではない。この台にとって満ちた形は、十一のほうだった。
混んでいる晩でも、必ず来る人がいた。その人が一席を足していた。
遅く来て、席を足して、外へ半分はみ出して座る。十年、それが続いた。
だから、混んでいることと十一人いることが、ひとつづきで覚えられたのだ。
消えているものも合っている。ラーメンと、焼酎が一杯。
書ける、と思った。
鞄を開けて、帳面を出した。カウンターの端に膝をついた。筆ペンの蓋を歯で外した。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
言った途端に、あたりが張った。
店の中の声が、一度に落ちた。
換気扇の音だけが残った。誰も何も言わない。箸が止まっている。左から三人目の男が、椅子ごと後ろを向いて、遊歩道のほうを見た。誰もいない。それでもう一度、振り返った。
「……そろそろ行こうか」
奥の二人が立った。
それで解けたように、次が立った。三人が財布を出した。順番に、静かに、誰も何も言わずに出ていく。
筆を下ろせなかった。
張っていたのは十秒ほどだったと思う。
気がついたら、カウンターに二人しか残っていなかった。
その二人も、しばらくして立った。
古賀さんは、洗い物の手を止めていた。
「……何ね、いまの」
俺は帳面を閉じた。
「すいません」
「あんたね」
「はい」
「あんたが、何かしたとね」
答えられなかった。
外へ出た。列のほかの屋台は、どこも埋まっている。笑い声が水の上を渡ってくる。空いているのは、ふく八だけだった。
隣の店の客も、その隣の客も、何一つ気づいていない。
帰って、畳に座って、そのことを考えていた。
書くときにあたりが張るのは、初めから知っていた。帳面が周りを数えている。それは書くたびに感じてきたことで、不思議に思ったこともない。
分かっていなかったのは、それが人にも届くということだ。
数えてみた。
みやこビルの、閉じた踊り場。誰もいなかった。
ホテルの三〇八号。あの晩、廊下に人は一人もいなかった。
今泉の裏路地。夜中の二時だ。
唐人町のクリーニング屋は、書く前に夫婦に表へ出てもらって、引き戸を閉めた。桜坂の喫茶店は、ガラス戸を閉めた。平尾のマンションは、共用廊下に出てもらって、扉を閉めた。
春吉の道は、朝の三時だった。江頭さんには二階に上がってもらっていた。
全部だ。
無人か、一枚閉めてあるか、どちらかだった。
段取りだと思っていた。書くところを見られたくないからだと、自分でもそのくらいに思っていた。
古賀さんの屋台は歩道だ。閉める戸が無い。店もそうだが、店では書いたことがない。あそこで初めて、人前で書いた。
次の日、いつも店を出す場所の斜向かい、デパートのひさしの下に紺のジャンパーが立っていた。安藤さんだ。
「どうしたとですか」
「留めば買いに来た。百円やな」
「……百円です」
俺の留めは、どうやら百円ということになったらしい。
鞄を開けかけたところで、安藤さんが訊いてきた。
「中洲は」
なぜ知っているのか。本家にでも訊いたのだろうか。
一晩ぶんの話をした。名乗ったところで店が空いたこと。誰も何も言わずに出ていったこと。隣の屋台は何ともなかったこと。二軒隣の客が一人も振り返らなかったこと。
安藤さんの右手が、左手のほうへ動いた。腹の前で止まって、下りた。
「二度と、人の店ではやんな」
「じゃあ、どこでやるとですか」
「それば考えるとが、商売やろ」
そう言ったきり、黙った。もうこの話をするつもりは、ないらしかった。
「……留め、何枚要るとですか」
「二十枚」千円札を二枚、差し出しながらそう言った。まるで煙草でも買うかのような気軽さだった。
二千円を受け取って、留めの束を渡しながら、一つだけ訊いた。
「帳面は、何ば見よるとですか」
安藤さんは通りのほうを見た。しばらく何も言わなかった。
「知らん」
本当に知らない顔だった。
言うと、踵を返して歩き去っていった。
背中を向けたまま、俺の留めを持った右手を上げて、安か、と言った。
薬院に帰って、紙に書いてみた。
帳面ではない。ただの紙だ。祝詞は声に出さず、口だけ動かした。名乗りも同じにした。
筆を走らせて、時計を見た。
四十秒だった。
何度やっても、三十八から四十二のあいだに収まる。字が丁寧なぶんだけ遅い。急いでも、これ以上は縮まらない。
雑に書くわけにはいかない。この稼業は、書くところが本体なのだ。
風呂の支度をして畳に戻ると、本家が帰ってきた。
試し書きの紙を覗いて、何も言わずに鞄を置いた。同じ行が七つ並んでいる。
俺はこいつを帳面に書いたことがある。書かれる側にいたことのある人間は、この世でこいつ一人だ。
「本家。お前、帳面に入れられたとき、どうやった」
「どう、いいますと」
「書かれよるあいだ、何か感じたか」
本家は宙に目をやった。
「視線を感じました」
「視線」
「眼です」
それから、言葉を探すように少し黙った。
「とんでもないもんに見られとるような、心底震え上がる、おぞましか感じです。あんときは坂口の家の眼やったですけど、今は帳面の眼、でしょうね」
屋台の客が立ったのは、それか。
「それから、気のついたら天神の路上におりました」
そうか、とだけ言った。ほかにどう言えばいいのか分からなかった。
本家は置いた鞄を隅へ寄せて、立ち上がった。
「訊かれたとは、初めてです」
そう言うと、歩き出した。
どこかへ行くのかと思ったが、風呂を覗きに行っただけだった。
先にいただきます、と言い残して、本家は風呂に入っていった。
湯を使う音がしはじめても、俺はしばらく紙の前に座っていた。
行を立てるあいだ、帳面は周りを数えている。
その気配が外へ出る。俺が思っていたよりずっと強い形で出る。
本家の言葉を借りるなら、帳面の眼、だ。
開いているのは、書いているあいだだ。四十秒。
それから、伝票のことを思った。
あれは現場では祝詞だけで済む。八文字あげて、札を帳面に添える。名乗りも、申し立ても、記帳も、全部あの一枚に畳んである。一秒か二秒だ。
行を立てるのは帳面のほうがやる。こちらは札を出すだけだ。
速いのは、書くところを先に済ませてあるからだ。
夏に、出すほうはそれで速くなった。受けるほうは、そのままにしてあった。
考えたことがなかったわけではない。受けは現場で数が立つものだと思っていた。行ってみないと、何がいくつあるかは分からない。先に書けるはずがない。
今度は、立っている。
ふく八、十一席目、壱。
二晩目に、この目で数えた。金曜の晩にもう一度立つことも分かっている。
伝票は、渡すときだけのものではない。品物を受け取った側も切る。
受領証だ。
地の伝票は使えなかった。刷ってあるのは渡しの申し立てで書いたものだ。受けは一から組むことになる。
組むほうに時間がかかった。書くのは手が覚えている。何をどの順に畳むか、どこで切るか、それを決めるのに丸一日かかった。
書き出してからは二時間半だった。
品名と数を入れた。ふく八、十一席目、壱。
入れてしまえば、もう動かせない。十一が十二なら、この一枚は紙屑になる。数が合わなければ、帳面は差を別のもので埋める。
それきり、木曜まで何度も数を思い返した。
昼の遊歩道は、台も幕も無い。手すりの向こうで川が光っていた。約束の時間に、古賀さんは自転車で来た。
封筒を出してきた。調べの二万だ。
「土曜の晩のぶんが、あります」と俺は言った。
「何のぶんね」
「俺が空けました」
古賀さんは封筒を押し出したまま、俺を見た。
「土曜の一晩で傾くほど、細うやっとらんですよ」言うと、にかりと笑った。
受け取った。
それから、金曜の話をした。
「今度は、一秒か二秒で済みます」
「この前は」
「四十秒かかりよったとです」
札を見せた。古賀さんは受け取らずに、顔を近づけて眺めていた。
「何人立つやろか」
「分かりません」
「分からんとね」
「やってみらんと、分かりません」
古賀さんは手すりに肘をついた。
「四十秒で三万やったら、二秒でいくら飛ぶとやろ」
「割り算では出んとです」
「出んとね」
古賀さんは声を出して笑った。それから、こちらを向いた。
「やってみらな分からんとやろ。金曜にせんね。いちばん混む日たい」
混んでいなければ数が立たないことを、この人はもう分かっている。ノートを三年つけた人だ。
十月八日の晩だった。
十時半に着いた。列はどこも埋まっている。ふく八も埋まっていた。
幕の内に入れてもらって、台の端に立った。古賀さんは背中を向けたまま、湯切りをしている。
十一時を回った。
十人。丸い腰掛けが十、全部ふさがっている。
数が立った。
帳面を台の隅に置いた。膝はつかなかった。鞄から札を出して、親指で挟んだ。
古賀さんが、こちらを見ずに言った。
「やらんね」
短い祝詞をあげた。八文字。
申し立てはしない。札を帳面に添えた。
あたりが張って、落ちた。
店の中の声が、一段だけ下がった。箸を持った手が二つ止まった。いちばん端の客が顔を上げて、天井のあたりを見た。天井は無い。幕がある。
その人が、金を置いて立った。幕をくぐる前に、一度だけ後ろを見た。
「なんか、寒うない」
連れはいなかった。誰に言ったのでもなかったと思う。
ほかは誰も立たなかった。声はすぐ戻って、誰かが笑って、誰かが替玉を頼んだ。
帳面を開いた。
最後の行が立っていた。
ふく八 十一席目 受 壱
書いた覚えはない。こいつが自分で書いた。
添えた札を見た。真っ黄色になっている。込めた文字はどこにも読めない。品名も、数も、抜けていた。
効いた側の色だ。
帳面を鞄に戻した。肩に食い込むのが、このごろ早い。
十一時半に一人入って、また十になった。
十二時を回って、客が引いた。
残った丼を下げて、二人で洗った。
洗い桶の中を、古賀さんが数えた。
「十やね」
もう一度数えて、それから、もう一度数えた。
「十や」
手を止めて、しばらく桶を見ていた。
「三年ぶりばい」
金の話になった。
古賀さんは台の下から封筒を出した。三万入っている。
「引かんとですか」
「引くぶんは、なかよ」
出ていったのは一人だ。ラーメン一杯ぶん、六百円。
古賀さんは封筒を台の上に置いて、こちらへ滑らせた。
「あんた、この前は三万引くち言いよったね」
「言いました」
「あの札には、何日かかったと」
「四日です」
古賀さんは笑った。声が大きい。列の隣まで聞こえたと思う。
「そのぶんも、この中に入っとりますけん」
受け取った。
古賀さんは台の下から、あの丸椅子を出した。
カウンターの東の端に置いた。台から外へ半歩出た、遊歩道の上だ。
「そこは、ほんとはうちの席やないとやけど」
道路使用許可は十席までだと言った。三十年、十席で通してきた。
「食うていかんね」
俺は座った。
座面は硬かった。低い。カウンターの縁が胸のあたりに来る。幕から背中が半分はみ出して、川の風が首に当たった。
ラーメンが出てきた。焼酎も一杯ついてきた。
それから、ぽつぽつと客が入った。一時を回るころに数えたら、腰掛けは六つ埋まっていた。十にはならなかった。
背中で声を聞きながら食った。
歩道に台を出して商売している男が、歩道に台を出して商売している男の客になっている。こちらは許可も届も一枚も出していないので、並べて言えた義理ではない。
古賀さんは湯切りをしていた。何度も同じ手つきで、湯を切って、丼を出していた。
「山さんも、ここに座っとらしたとですか」
古賀さんは手を止めずに言った。
「そこたい」
俺は箸を置いた。
「その人が、まだ通いよるとやろうと思います」
古賀さんは大きな声を出して笑った。それから、湯切りの網を振った。
「そうかもしれんね」
そうではないことを、俺は知っていた。札は黄ばんでいた。人の色ではない。
訂正はしなかった。
二時までいた。閉めるところまで見た。丸椅子は、また台の下に積まれた。
台は畳まれて、リヤカーに載って、引かれていった。
あとには手すりと、川と、濡れたアスファルトだけが残った。




