↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/67

第十六話 ふく八 十一席目 受 壱

 机を運んでいくと、屋台の親父はもう幕を張り終えていた。

いつものことだ。閉めるときに、折りたたみの机を二つとパイプ椅子を四脚、この人の台の裏に積ませてもらう。店を開けるときに出して、看板を縛って、また並べる。開業からずっと、そうしてきた。

「兄ちゃん」

椅子を積んでいると、声がかかった。名前で呼ばれたことはない。机と椅子を間違えられたことも、一度もない。

「あんた、そういう商売やったよね」

そういう、というのがどういうことかは、この人も分かっていないと思う。

「中洲(なかす)に、知っとうとのおるとよ」

勘定の合わんげな、と親父は言った。

「勘定」

「そう。ときどき、勘定の合わんげな」

勘定が合わない屋台。屋号と、川ぞいの何番目かを教えてもらった。


 本家に一報を入れて、天神を出た。

ここのところ、涼しい。日が落ちるのが早くなって、半袖では肌寒くなってきた。

中洲へは歩いて十五分ほどだ。川ぞいの遊歩道に、屋台が一列に並んでいる。看板の灯りが水に落ちて、長く伸びていた。

ふく八(はち)は、その列の五番目にあった。

幕をくぐると、まだ客はいなかった。カウンターは十席。丸い腰掛けが十、台の下から引き出す形で並んでいる。寸胴から湯気が上がっていた。

台の中に、四十半ばくらいの人がいた。手を拭いて、幕の外まで出てきた。

「あんた、なんか用ね」

「弥太郎(やたろう)、ち知っとりますか。そこから聞いて来ました、大上です」

名刺を出した。「弥太郎」は、いつも机と椅子を預かってもらっている、あの屋台の屋号だ。

店主は両手で名刺を受け取って、そのまま上から下まで読んだ。

「あんたが、弥太郎んとこの言っとった拝み屋さんね」

そう言って、笑った。笑うと声が大きい。

「古賀(こが)です。二代目です」


 勘定の話になった。

古賀さんは台の下からノートを出してきた。大学ノートだ。日付と、客の数と、その日の売上が、三年ぶん書いてある。

「これば見よって、気づいたと」

指を当てた行は、どれも客の数が十だった。

「十入った晩だけ、合わんとですよ」

一人ぶん、と言った。

売上のほうは合っている。十人ぶん、きっちり入っている。合わないのは、出ていったほうだ。

「麺が一玉と、丼が一つと、焼酎が一杯」

古賀さんは指を三本立てて、それから下ろした。

「洗いよって、いっつも一つ余るとよ」

「いつからですか」

「気づいたとは、去年たい」

ノートをめくった。指がだんだん前に戻っていって、三年前の最初の頁で止まった。

「継いだときからやったかもしれん」

親父さんに訊いたことはないのかと言うと、古賀さんは首を振った。

「親父からは、何も聞いとらんとよ」

声の調子は変わらなかった。話はもうノートに戻っている。

「三年、自分が呆けたとやろうかち思うとった」


 値段の話をした。

「調べるとに二晩いただきます。二晩で二万です。引き取ることになったら、そこから別に三万です」

古賀さんはノートを閉じた。

「一晩で、いくら持っていかれよるか、分かりますか」

「分かりません」

「原価で二百円」即答だった。指を二本立てて、目の前に突きつけられた。

麺が一玉で五十円ちょっと、具と汁で百円、焼酎が一杯で五十円。売値なら千円になるが、飛んでいるのは材料のほうだから原価で数える。

「十入る晩が、月に十二、三日です。二千四百円」

そこまで言って、古賀さんは俺を見た。

「あんたに五万払うたら、元ば取るとに二年かかるばい」

「かかります」

古賀さんは声を上げて笑った。それから、笑ったままの顔で言った。

「割に合わんとやけど、合わんままにしとくとが、いちばん割に合わんとよ」

それで受けた。


 札を貼る場所を探した。

台には貼れない。毎晩ばらして、リヤカーで置き場まで引いていくのだそうだ。幕も柱も一緒に畳む。朝には何も残らない。

遊歩道の側を見て回った。街灯の柱に一枚、川べりの手すりの内側に一枚、少し北に離れた植え込みの縁石に一枚。離して貼った。

三枚とも、台の外だ。

紙が傷むだけで人にも物にも害はないと言うと、古賀さんは笑った。

「傷むもんは、何でんいつかは傷むばい」


 その晩は、隅に立って見ていた。

十時を回ったところで、席が埋まった。

埋まると、屋台の中は狭い。十人ぶんの声と、湯気と、換気扇の音で、隣の話が聞こえなくなる。古賀さんは背中を向けたまま、湯切りをして、丼を出して、釣り銭を出して、また湯切りをしていた。

飲んでいる客は二人だけだ。あとは食って、金を置いて、出ていく。この店は、みんなが最後に寄るところだった。

客が一人立って、また一人入った。十のままだ。

十二時前に、客が引いた。

洗い桶を覗いた。丼が十一あった。

古賀さんは何も言わずに、それを洗った。

二時を回ると、台が畳まれた。幕を外して、腰掛けを台の下に入れて、板を落として、リヤカーの柄を起こす。それだけで終わりだった。

あとには手すりと、川と、濡れたアスファルトだけが残った。


 番を出した。中洲の川ぞいを意識して寝た。

朝、帳面の最後の頁を開いた。

何も上がっていない。前の日に回った中洲のビルは三軒とも出ているのに、川ぞいの一列だけが抜けている。

数が動いているから読めないのだろう、と思った。客が出たり入ったりしている。棚卸しの最中に品を動かされているのと同じだ。

それで、昨夜の終いのことを思った。台を引いていってしまえば、あそこには数えるものが一つも無い。

数えるもの自体が無いからか、数が動いているからか。その両方かもしれない。


 昼のうちに、列の三番目の屋台へ行った。七十過ぎの親父が、火を落とした台の掃除をしていた。ふく八の先代を知っているという。

「先代の八ちゃんね。名前ば八郎ちいうたとよ。やけん、ふく八」

福岡の福と、八郎の八。それでふく八か。

「先代のころと、変わったところはありますか」

「変わったちいうてもな。今代も、先代そっくりやけん。声のでかか」親父は、懐かしそうに笑った。

それから、焼き台の網を外しながら言った。

「山さんの、来んごとなったね」

「山さん」

「知らんとね」

名前はそれしか出てこなかった。苗字が山で始まるのか、下の名前なのか、誰も知らないという。

「向かいのビルの、夜警さんやったよ」

上がりが遅い。十一時を回ってから来る。そのころが、どこの屋台も一番混む。

「席の無かとよ、いつも」

だから丸椅子を持ってきた。自分の椅子だ。台の端に置いて、幕の外に半分はみ出して座って、閉めるまでいて、洗い物を手伝って帰った。

「十年は来よったね」

「何ば食いよらしたとですか」

「ラーメンと、焼酎ば一杯」親父は手を止めなかった。「それだけよ。十年、それだけ」


 古賀さんに訊いた。

「山さんて人は」

古賀さんは仕込みの手を止めた。

「知っとる。店ば手伝いよった時分に、何回か会うとるよ」

来なくなったのは、まだ先代がやっていたころだという。

「もう七年になるかいな」

どこへ行ったのかは分からないと言った。山さんが働いていたビルは、建て替わって久しいそうだ。訊く先が無い。

「最後に来た晩に、椅子ば置いて帰らしたち言うとった」

台の下に、まだあるという。

出してもらった。木の丸椅子で、脚に錆びた金具が打ってあった。全体的に古びて、黒ずんでいる。

古賀さんは、それを俺に見せてから、また台の下に戻した。

「どうにも、捨てられんとよ」


 二晩目の夕方、台が組まれたのを見てから、札を剥がした。

三枚とも黄ばんでいた。黄ばみは、ここが覚えている、という色だ。

街灯の一枚は、南の下から狭く濃く。手すりの一枚は、北寄りの下から少し広く。縁石の一枚は、遠いぶんだけ薄く、ぼんやりと。

一枚では線が一本引けるだけだ。だから三枚貼る。

三本を延ばした。

交わったのは、カウンターの東の端だった。台の上ではない。台から外へ半歩出た、遊歩道の上だ。

高さは、腰のあたりだった。

座った人の腰の高さだ。


 その晩も、十時を回るころには埋まった。

そのとき、数が見えた。

十席が埋まると、そこからもう一つ立つ。十一だ。十は満ちた形ではない。この台にとって満ちた形は、十一のほうだった。

混んでいる晩でも、必ず来る人がいた。その人が一席を足していた。

遅く来て、席を足して、外へ半分はみ出して座る。十年、それが続いた。

だから、混んでいることと十一人いることが、ひとつづきで覚えられたのだ。

消えているものも合っている。ラーメンと、焼酎が一杯。

書ける、と思った。

鞄を開けて、帳面を出した。カウンターの端に膝をついた。筆ペンの蓋を歯で外した。

短い祝詞をあげた。八文字。

「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」

言った途端に、あたりが張った。

店の中の声が、一度に落ちた。

換気扇の音だけが残った。誰も何も言わない。箸が止まっている。左から三人目の男が、椅子ごと後ろを向いて、遊歩道のほうを見た。誰もいない。それでもう一度、振り返った。

「……そろそろ行こうか」

奥の二人が立った。

それで解けたように、次が立った。三人が財布を出した。順番に、静かに、誰も何も言わずに出ていく。

筆を下ろせなかった。

張っていたのは十秒ほどだったと思う。

気がついたら、カウンターに二人しか残っていなかった。

その二人も、しばらくして立った。


 古賀さんは、洗い物の手を止めていた。

「……何ね、いまの」

俺は帳面を閉じた。

「すいません」

「あんたね」

「はい」

「あんたが、何かしたとね」

答えられなかった。

外へ出た。列のほかの屋台は、どこも埋まっている。笑い声が水の上を渡ってくる。空いているのは、ふく八だけだった。

隣の店の客も、その隣の客も、何一つ気づいていない。


 帰って、畳に座って、そのことを考えていた。

書くときにあたりが張るのは、初めから知っていた。帳面が周りを数えている。それは書くたびに感じてきたことで、不思議に思ったこともない。

分かっていなかったのは、それが人にも届くということだ。

数えてみた。

みやこビルの、閉じた踊り場。誰もいなかった。

ホテルの三〇八号。あの晩、廊下に人は一人もいなかった。

今泉(いまいずみ)の裏路地。夜中の二時だ。

唐人町(とうじんまち)のクリーニング屋は、書く前に夫婦に表へ出てもらって、引き戸を閉めた。桜坂(さくらざか)の喫茶店は、ガラス戸を閉めた。平尾(ひらお)のマンションは、共用廊下に出てもらって、扉を閉めた。

春吉(はるよし)の道は、朝の三時だった。江頭(えがしら)さんには二階に上がってもらっていた。

全部だ。

無人か、一枚閉めてあるか、どちらかだった。

段取りだと思っていた。書くところを見られたくないからだと、自分でもそのくらいに思っていた。

古賀さんの屋台は歩道だ。閉める戸が無い。店もそうだが、店では書いたことがない。あそこで初めて、人前で書いた。


 次の日、いつも店を出す場所の斜向かい、デパートのひさしの下に紺のジャンパーが立っていた。安藤さんだ。

「どうしたとですか」

「留めば買いに来た。百円やな」

「……百円です」

俺の留めは、どうやら百円ということになったらしい。

鞄を開けかけたところで、安藤さんが訊いてきた。

「中洲は」

なぜ知っているのか。本家にでも訊いたのだろうか。

一晩ぶんの話をした。名乗ったところで店が空いたこと。誰も何も言わずに出ていったこと。隣の屋台は何ともなかったこと。二軒隣の客が一人も振り返らなかったこと。

安藤さんの右手が、左手のほうへ動いた。腹の前で止まって、下りた。

「二度と、人の店ではやんな」

「じゃあ、どこでやるとですか」

「それば考えるとが、商売やろ」

そう言ったきり、黙った。もうこの話をするつもりは、ないらしかった。

「……留め、何枚要るとですか」

「二十枚」千円札を二枚、差し出しながらそう言った。まるで煙草でも買うかのような気軽さだった。

二千円を受け取って、留めの束を渡しながら、一つだけ訊いた。

「帳面は、何ば見よるとですか」

安藤さんは通りのほうを見た。しばらく何も言わなかった。

「知らん」

本当に知らない顔だった。

言うと、踵を返して歩き去っていった。

背中を向けたまま、俺の留めを持った右手を上げて、安か、と言った。


 薬院(やくいん)に帰って、紙に書いてみた。

帳面ではない。ただの紙だ。祝詞は声に出さず、口だけ動かした。名乗りも同じにした。

筆を走らせて、時計を見た。

四十秒だった。

何度やっても、三十八から四十二のあいだに収まる。字が丁寧なぶんだけ遅い。急いでも、これ以上は縮まらない。

雑に書くわけにはいかない。この稼業は、書くところが本体なのだ。


 風呂の支度をして畳に戻ると、本家が帰ってきた。

試し書きの紙を覗いて、何も言わずに鞄を置いた。同じ行が七つ並んでいる。

俺はこいつを帳面に書いたことがある。書かれる側にいたことのある人間は、この世でこいつ一人だ。

「本家。お前、帳面に入れられたとき、どうやった」

「どう、いいますと」

「書かれよるあいだ、何か感じたか」

本家は宙に目をやった。

「視線を感じました」

「視線」

「眼です」

それから、言葉を探すように少し黙った。

「とんでもないもんに見られとるような、心底震え上がる、おぞましか感じです。あんときは坂口(さかぐち)の家の眼やったですけど、今は帳面の眼、でしょうね」

屋台の客が立ったのは、それか。

「それから、気のついたら天神の路上におりました」

そうか、とだけ言った。ほかにどう言えばいいのか分からなかった。

本家は置いた鞄を隅へ寄せて、立ち上がった。

「訊かれたとは、初めてです」

そう言うと、歩き出した。

どこかへ行くのかと思ったが、風呂を覗きに行っただけだった。

先にいただきます、と言い残して、本家は風呂に入っていった。

湯を使う音がしはじめても、俺はしばらく紙の前に座っていた。


 行を立てるあいだ、帳面は周りを数えている。

その気配が外へ出る。俺が思っていたよりずっと強い形で出る。

本家の言葉を借りるなら、帳面の眼、だ。

開いているのは、書いているあいだだ。四十秒。

それから、伝票のことを思った。

あれは現場では祝詞だけで済む。八文字あげて、札を帳面に添える。名乗りも、申し立ても、記帳も、全部あの一枚に畳んである。一秒か二秒だ。

行を立てるのは帳面のほうがやる。こちらは札を出すだけだ。

速いのは、書くところを先に済ませてあるからだ。

夏に、出すほうはそれで速くなった。受けるほうは、そのままにしてあった。

考えたことがなかったわけではない。受けは現場で数が立つものだと思っていた。行ってみないと、何がいくつあるかは分からない。先に書けるはずがない。

今度は、立っている。

ふく八、十一席目、壱。

二晩目に、この目で数えた。金曜の晩にもう一度立つことも分かっている。

伝票は、渡すときだけのものではない。品物を受け取った側も切る。

受領証だ。


 地の伝票は使えなかった。刷ってあるのは渡しの申し立てで書いたものだ。受けは一から組むことになる。

組むほうに時間がかかった。書くのは手が覚えている。何をどの順に畳むか、どこで切るか、それを決めるのに丸一日かかった。

書き出してからは二時間半だった。

品名と数を入れた。ふく八、十一席目、壱。

入れてしまえば、もう動かせない。十一が十二なら、この一枚は紙屑になる。数が合わなければ、帳面は差を別のもので埋める。

それきり、木曜まで何度も数を思い返した。


 昼の遊歩道は、台も幕も無い。手すりの向こうで川が光っていた。約束の時間に、古賀さんは自転車で来た。

封筒を出してきた。調べの二万だ。

「土曜の晩のぶんが、あります」と俺は言った。

「何のぶんね」

「俺が空けました」

古賀さんは封筒を押し出したまま、俺を見た。

「土曜の一晩で傾くほど、細うやっとらんですよ」言うと、にかりと笑った。

受け取った。

それから、金曜の話をした。

「今度は、一秒か二秒で済みます」

「この前は」

「四十秒かかりよったとです」

札を見せた。古賀さんは受け取らずに、顔を近づけて眺めていた。

「何人立つやろか」

「分かりません」

「分からんとね」

「やってみらんと、分かりません」

古賀さんは手すりに肘をついた。

「四十秒で三万やったら、二秒でいくら飛ぶとやろ」

「割り算では出んとです」

「出んとね」

古賀さんは声を出して笑った。それから、こちらを向いた。

「やってみらな分からんとやろ。金曜にせんね。いちばん混む日たい」

混んでいなければ数が立たないことを、この人はもう分かっている。ノートを三年つけた人だ。


 十月八日の晩だった。

十時半に着いた。列はどこも埋まっている。ふく八も埋まっていた。

幕の内に入れてもらって、台の端に立った。古賀さんは背中を向けたまま、湯切りをしている。

十一時を回った。

十人。丸い腰掛けが十、全部ふさがっている。

数が立った。

帳面を台の隅に置いた。膝はつかなかった。鞄から札を出して、親指で挟んだ。

古賀さんが、こちらを見ずに言った。

「やらんね」

短い祝詞をあげた。八文字。

申し立てはしない。札を帳面に添えた。

あたりが張って、落ちた。

店の中の声が、一段だけ下がった。箸を持った手が二つ止まった。いちばん端の客が顔を上げて、天井のあたりを見た。天井は無い。幕がある。

その人が、金を置いて立った。幕をくぐる前に、一度だけ後ろを見た。

「なんか、寒うない」

連れはいなかった。誰に言ったのでもなかったと思う。

ほかは誰も立たなかった。声はすぐ戻って、誰かが笑って、誰かが替玉を頼んだ。

帳面を開いた。

最後の行が立っていた。


  ふく八 十一席目 受 壱


 書いた覚えはない。こいつが自分で書いた。

添えた札を見た。真っ黄色になっている。込めた文字はどこにも読めない。品名も、数も、抜けていた。

効いた側の色だ。

帳面を鞄に戻した。肩に食い込むのが、このごろ早い。

十一時半に一人入って、また十になった。


 十二時を回って、客が引いた。

残った丼を下げて、二人で洗った。

洗い桶の中を、古賀さんが数えた。

「十やね」

もう一度数えて、それから、もう一度数えた。

「十や」

手を止めて、しばらく桶を見ていた。

「三年ぶりばい」


 金の話になった。

古賀さんは台の下から封筒を出した。三万入っている。

「引かんとですか」

「引くぶんは、なかよ」

出ていったのは一人だ。ラーメン一杯ぶん、六百円。

古賀さんは封筒を台の上に置いて、こちらへ滑らせた。

「あんた、この前は三万引くち言いよったね」

「言いました」

「あの札には、何日かかったと」

「四日です」

古賀さんは笑った。声が大きい。列の隣まで聞こえたと思う。

「そのぶんも、この中に入っとりますけん」

受け取った。


 古賀さんは台の下から、あの丸椅子を出した。

カウンターの東の端に置いた。台から外へ半歩出た、遊歩道の上だ。

「そこは、ほんとはうちの席やないとやけど」

道路使用許可は十席までだと言った。三十年、十席で通してきた。

「食うていかんね」

俺は座った。

座面は硬かった。低い。カウンターの縁が胸のあたりに来る。幕から背中が半分はみ出して、川の風が首に当たった。

ラーメンが出てきた。焼酎も一杯ついてきた。

それから、ぽつぽつと客が入った。一時を回るころに数えたら、腰掛けは六つ埋まっていた。十にはならなかった。

背中で声を聞きながら食った。

歩道に台を出して商売している男が、歩道に台を出して商売している男の客になっている。こちらは許可も届も一枚も出していないので、並べて言えた義理ではない。

古賀さんは湯切りをしていた。何度も同じ手つきで、湯を切って、丼を出していた。

「山さんも、ここに座っとらしたとですか」

古賀さんは手を止めずに言った。

「そこたい」

俺は箸を置いた。

「その人が、まだ通いよるとやろうと思います」

古賀さんは大きな声を出して笑った。それから、湯切りの網を振った。

「そうかもしれんね」

そうではないことを、俺は知っていた。札は黄ばんでいた。人の色ではない。

訂正はしなかった。

二時までいた。閉めるところまで見た。丸椅子は、また台の下に積まれた。

台は畳まれて、リヤカーに載って、引かれていった。

あとには手すりと、川と、濡れたアスファルトだけが残った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。