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第十五話 春吉三丁目 朝掃き 受 壱

 名刺を先に出したのは、その人のほうだった。

角の丸くなった一枚だった。財布に入れっぱなしにしていた、と言う。去年、ローンの借り換えで信用金庫へ行ったとき、待合の雑誌の下に挟まっていたのを持って帰ったのだそうだ。半年になる。

「江頭(えがしら)と言います。春吉(はるよし)の者です」

四十をいくつか過ぎたくらいの人だった。上着を腕にかけて、シャツの脇に汗をかいている。会社の帰りらしかった。客用の椅子を出した。

「うちの前の道で、朝、音のするとです」

「音」

「掃く音です。竹箒の」

まだ暗いうちだという。四時から、五時にはならないくらい。見に出た人も何人かいるが、誰も何も見ていない。

「音だけやないとです」

江頭さんは言葉を切った。

「掃いてあるとです」

落ち葉と砂が、道の端に寄せてあるという。毎朝、同じところに、同じ形で。

「わたしが子供の時分からです」


 うちは昔、米屋やったとです、と江頭さんは言った。

屋号は桝屋(ますや)。明治からと聞いているが、そこは伝え聞きで、確かめようがないという。

店は祖父の代で終わっている。父はそのあと、この家を建て替えた。一階を駐車場にして、二階に住んで、三階を貸した。

「親父は五年前に死にました」

近所も音のことは知っていた。誰も何も言わなかった。

去年、路地の向かいの古い家がワンルームのアパートに建て替わった。住む人が入れ替わって、それから管理会社を通して二度、うるさいと言われている。三階の店子は今年の春に出た。音のことは言わずに出た。空いたままだという。

「ローンの残っとります」

あと十五年だと言った。

それから、言いにくそうにした。

「伯母が、いっぺんだけ言うたことのあるとです。うちは昔、隣ば二軒潰しとる、て」

「何ばしたとですか」

「知りません」江頭さんは言った。「訊いても、誰も言わんとです。親父も言わんかった」

江頭さんは膝の上で指を組んだ。

「……祟りとやなかとですか」

「調べんと、分かりません」

「調べるとに三日いただきます。三日で二万です。引き取ることになったら、そこから別に四万です」

江頭さんは黙って頷いた。金額のことは訊き返さなかった。


 薬院(やくいん)のアパートに帰って、本家に言った。

「三日、春吉に行く。表は頼む」

「大濠(おおほり)の見に戻る日のあります」と本家が言った。「その日は看板ば下ろします」

それでいい、と言った。


 一日目、春吉へ行った。

大通りから一本入ると、道が急に細くなった。飲み屋の裏口と、月極めの駐車場と、住まいが交ざって並んでいる。

江頭さんの家は三階建てで、壁がまだ新しかった。一階は駐車場で、シャッターが半分上がっている。米屋だった名残は何も無い。看板も、屋号の跡も出ていなかった。

建物は新しい。土地だけが同じだった。

道は幅が三メートルほどで、家の間口ぶんが十歩ちょっとあった。西の端にコンクリートの縁石があって、東の端に電柱が立っている。

その縁石の手前に、落ち葉が寄せてあった。

銀杏ではない。裏の家の椿の葉と、細かい砂だ。低くて、横に長い山だった。

しゃがんで見た。箒の目が残っている。

「手はつけとらんとですか」

「つけとりません。掃いてしもうたら、次の朝また同じごとなります」

同じところに、同じ形で。江頭さんはそう言った。


 札を三枚貼った。

駐車場のシャッターの脇の柱に一枚、路地を挟んだ向かいのブロック塀に一枚、東の端の電柱に一枚。離して貼る。塀は隣の家のもので、江頭さんがその場で断りを入れてくれた。

紙が傷むだけで人にも家にも害はないと説明すると、はあ、と言われた。


 二日目は、三時から道に立った。

道は暗かった。駐車場の常夜灯だけが点いている。江頭さんの家は、二階も三階も灯りが無い。

四時十分だった。

シャッ。

西の端からだった。シャッ、シャッ、と間を置いて、東へ寄ってくる。

俺は道の真ん中にいた。

退こうかと思って、やめた。

音が近づいた。靴の先のあたりで一度止まって、それから、通った。

避けたのではない。俺のいるところを、そのまま抜けていった。当たった感じも、風も、何も無い。

足元だけが動いた。

椿の葉が二枚、爪先の脇から東へ滑って、少し先で止まった。

音は電柱のところまで行って、また西へ戻った。

数えた。西から東へ行って、東から西へ戻って、それで一往復だ。

十一回だった。十一回目が終わると、音は止んだ。始まってから六分と少しだ。

それから縁石のほうを見た。

落ち葉が寄っていた。低くて、横に長い山だ。昨日と同じところに、同じ形であった。

ずっと見ていた。動くところは今、初めて見た。


 札を確かめた。

三枚とも黄ばんでいた。黄ばみは、ここが覚えている、という色だ。

柱の一枚は下の右から、狭く濃く出ていた。塀の一枚は下から、広くぼんやりと。電柱の一枚は、西寄りの下からだった。

一枚では線が一本引けるだけだ。だから三枚貼る。

三本を延ばした。道の上で交わった。間口の真ん中あたりで、地面に近い高さだ。

場だ。人でも、動物でもない。


 箒を借りた。

江頭さんは物置から竹箒を出してきた。柄の黒くなった、古いやつだ。祖父の代のものかと訊いたら、知らないと言われた。

西の端から掃いた。

やってみると、思っていたのとは違った。強く押せば砂が飛ぶ。弱く引けば葉が残る。同じ角度で当てないと、掃いた筋が揃わない。三往復目でこつが分かって、四往復目から速くなった。

端まで行って、戻る。それで一往復だ。

十一で、道がきれいになった。

もう一往復してみたが、掃くものが無かった。

汗が出ていた。腰が張っている。時計を見ると、六分と少し経っていた。

十一というのは、この間口を掃き切るのにかかる数だ。呪いの数ではない。誰かがこの道で割り出して、それがいまも合っている。

箒を返しながら、そのことを考えていた。

毎朝、暗いうちに起きて、これを十一回。


 図書館と、路地の家を回った。

住宅地図の昭和四十年代の巻に、桝屋と出ていた。五十年代の巻にもある。平成に入った巻から屋号が消えて、江頭という姓だけになっていた。それより前の巻は置いていなかった。

路地の家は、江頭さんに断ってから訪ねた。一軒目は八十くらいの女の人だった。

「桝屋さんは早かったねえ。まだ暗かうちから、シャッ、シャッて」

二軒目は七十くらいの男の人で、竹箒を持ったまま出てきた。

「あそこは、隣の前まで掃きよったよ」

「隣の前まで」

「うん。人の家の前ば、ずうっと」

三軒目は七十半ばの女の人だった。二軒潰したという話を出すと、こちらを見た。

「そら、誰が言いよったと」

それきり、何も言わなかった。否定でも、肯定でもなかった。

戸を閉める間際に、もう一度こちらを見た。


 江頭さんに、途中まで話した。

隣の前まで掃いていたという話をしたとき、江頭さんは目を伏せた。

「……やっぱり」

俺も、同じところを見ていた。掃くというのは、掃き出すということだ。人の家の前まで掃いたというのは、そこまでがうちの前だと言っているのと同じだろう。線を引いたということになる。

二人でしばらく、その話をした。

「そげんことまで調べてくれる人が、おらすとは思わんやったです」と江頭さんが言った。「前にいっぺん、お宮さんに来てもろうたとです。祝詞ばあげて、丁重に祀って、それで帰らした」

悪く言っている口ぶりではなかった。あちらはあちらの筋でやっている。敬って、祀って、困らせないように頼んで、頭を下げて帰る。荒いことはしない。それで収まらなかったから、うちのようなところに話が来る。

「先祖の代のことまで、洗います」と俺は言った。

言ってから、少し声が大きかったと思った。


 三日目は、留めを試した。

前の晩に、西の端の縁石へ一枚貼って、そのまま道で待った。

四時十分に、音が始まった。

西の端が、縁石を越えていた。

数えた。十一回だった。往復が長くなったぶん、一回に時間がかかっている。

どこまで行ったかを、明るくなってから歩いて測った。

江頭さんの家の間口が十歩ちょっと。伸びた先までは、三十歩あった。

ちょうど三軒ぶんだった。

剥がした。札は焦げていた。押し切られた痕だ。前に、これで五十枚を一晩で焼いている。あのときは何枚要るのか分からずに全部使った。今度は一枚で済んだ。

伸びたのは掃く場所のほうで、回数は動かなかった。十一という数は、距離に付いていない。

分からないのは、なぜ三十歩で止まったかだ。止めたのは俺ではない。


 安藤さんに電話した。

「留めば貼ったら、掃く場所の伸びました」

「ああ」

「怒らせたとでしょうか」

「目印は」

「場です」

少し間があった。

「場は怒らん。怒りっちゅうのは、動物のもんや」

そういうものだろうか。納得はできなかった。

「登記は取ったか」

「取っとりません」

「取れ」

切れた。


 薬院に帰って、畳に紙を並べた。

三軒ぶんの聞き書きと、地図から書き写したものと、札の出方を写したものと、歩数を控えた手帳だ。上から順に見ていった。何度見ても、隣の前まで掃きよった、というところに戻る。

本家が帰ってきた。鞄を置いて、畳の上を覗き込んだ。紙を一枚だけ取って、また置いた。

「開ける前ですね」

「なんが」

「掃くとです」

俺は紙を見た。

店の前を掃くのは、店を開ける前にすることだ。閉めるときにはしない。追い出す音でもない。

朝掃き。

俺はしばらく、そこを掃いていた人のことを思った。

それから三十歩のことを思った。

あの三十歩が、いっとき、桝屋の前だったのではないか。


 四日目、三軒目の家へ戻った。

出てきたのは同じ女の人だった。俺の顔を見て、まだおったとね、と言った。

「桝屋さんのことば、聞かせてもらえんですか」

女の人はしばらく黙っていた。それから、そこの縁に座らんね、と言った。

米屋は掛け売りだった、と言った。米を届けて、帳面につけておいて、あとでもらう。この路地はみんなそうしていた。

「うちも、そうやった」

払えなくなった、と言った。

一軒は、ある朝いなくなっていたという。夜のうちに荷物を出して、それきり誰も見ていない。

「うちは、土地ば売ったとよ。桝屋さんに」

それで始末をつけて、路地を出た。町内には残ったが、この路地には戻らなかった。またここに来たのは、嫁に来てからだそうだ。

「取りにきよったとは、まだ小さか女の子やった」

通い帳を持って、玄関先に立っていたという。

「うちと同い年やった。仲の良かったとよ」

それが伯母だと分かるのに、少しかかった。

「うちは、あん子のせいやと思うとった」

子供だったから、勘定のことは分からない。米屋のせいで家を出ることになった、とだけ思っていた。

「大人になって、分かったとよ。払えんかったとは、うちのほうやったて」

女の人は、それきり黙った。

近所にいる。ずっと近所にいる。

「話さんかったとですか」

「話せんかった」

理由は言わなかった。訊いても出てこないだろうと思った。

「うちのことは、言わんでよかよ」

分かりました、と言った。

分かったことは、それで終わりだった。俺の帳面には、書ける行が一つも立たない。


 その足で舞鶴(まいづる)へ回った。法務局は二度目だ。

地番の控え方も、印紙の買い方も、前のときに覚えた。用紙を書いて、三十分で出てきた。

紙に出ていたのは、昭和三十年代の売り買いが一件だけだった。隣の土地が二つ、江頭の名前に移っている。日付と、売買、とある。

婆さんの言ったとおりだった。誰が誰を追い出したとは、どこにも書いていない。


 道に戻って、間口を見ていた。

三十歩。二軒ぶん増えたあとの、桝屋の前だ。

掃くのは、店を開ける前にすることだ。取り立ては開ける前の仕事ではない。

十一は間口の数だ。俺が掃いても十一だった。

伸びた先は、恨みの届く先ではない。増えた仕事のほうだ。

それに、いちばん大きいのがある。

出ていった側の記憶なら、桝屋の仕事をするはずがない。

この道が覚えているのは、桝屋が毎朝やっていたことだけだ。誰が誰に何をしたかは、一つも入っていない。


 昼を過ぎてから、江頭さんのところへ行った。

「祟りやなかとです」

江頭さんは湯呑みを持ったまま、俺を見た。

何があったかを話した。米屋は掛け売りで、この路地はみんな桝屋の帳面で食っていたこと。二軒が払えなくなったこと。一軒は夜のうちに出ていって、一軒は土地を売って路地を出たこと。登記に残っているのは、そのときの売り買いだということ。

「潰した、ちゅうとは」

「払えんかった、ちゅうことです」

江頭さんは湯呑みを置いた。

「取り立てに回っとったとは、伯母さんです」

顔が上がった。

「……子供やったとですか」

「子供です。通い帳ば持って、玄関先に立っとらしたそうです」

それきり、何も言わなかった。

どこの家だったかは言わなかった。訊かれもしなかった。

「掃きよったとは、そのあとです。二軒ぶん前が広うなって、そこまで掃いとらした。あの音が覚えとるとは、そっちです」

「……そっち」

「店ば開ける前に、前ば掃く。それだけです。誰が誰ばどげんしたとかは、入っとらんとです」

江頭さんはしばらく黙っていた。

「……それだけ、ですか」

「それだけです」


 三日ぶんの二万は、その場で現金だった。

引き取りは日曜の朝にすることにした。

「引き取ったら、あの音は止まります」

「はい」

「そのかわり、明日から誰も掃かんごとなります」

江頭さんは、道のほうを見た。しばらく何も言わなかった。

「……そうですね」

残りの四万の話になったとき、江頭さんは立って、隣の部屋から封筒を持ってきた。用意してあったらしかった。

「一括で」

封筒を押し戻した。

「月に一万、四回で結構です」

「……なんでですか」

答えが出てこなかった。ローンの話は聞いている。三階は空いている。それを言えば、この人に払えないと言ったことになる。

「集金に来ます」とだけ言った。

言ってから、その言葉を選んだことを、少し悔やんだ。

江頭さんは封筒を持ったまま、しばらく俺を見ていた。それから封筒を引き出しに戻した。


 日曜の朝、三時に着いた。

江頭さんには二階に上がってもらった。

春吉三丁目の、朝掃き。

距離で書けば、伸びたぶんまで入る。日数で書けば、いつからのぶんか分からない。数が立っているのは回数のほうだ。十一往復で一つ、朝に一つ。だから壱でいい。

四時十分だった。

シャッ、と西の端から始まった。

道の真ん中に膝をついて、鞄から帳面を出した。筆ペンの蓋を歯で外す。アスファルトが、夜のぶんだけ冷えていた。

短い祝詞をあげた。八文字。

「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」

あたりが張った。帳面が辺りを数えているのを感じた。

そして、箒の音が止まった。

「今も、店構えの気にしとうとやろ」

筆を下ろした。


  春吉三丁目 朝掃き 受 壱


 書き終えて、顔を上げた。

道は静かなままだった。

止まったのは三回目の途中だ。あと八回ぶん残っている。

待った。

来なかった。

縁石の手前を見た。何も寄っていない。椿の葉が、道に散らばったままだった。


 二階から江頭さんが降りてきた。

「終わったとですか」

「終わりました」

江頭さんは道を見た。散らばった葉を、しばらく見ていた。

外はまだ暗かった。

江頭さんは家に入って、あの竹箒を持って出てきた。

西の端から掃き始めた。

三往復目までは、筋が揃っていなかった。

三軒目の家は、雨戸が閉まっていた。

何往復したかは、数えなかった。


 十日ばかり経ったころだった。

朝、起きて台所に立った。

米は前の晩に研いで、水に浸けて、炊飯器に入れてある。炊飯器はリサイクルショップで買った古いやつで、予約が付いていない。だから毎朝、起きてから押す。ずっとそうしてきた。

蓋に手をやって、ボタンに指を伸ばした。

指が触れる前に、温かかった。

蓋を開けた。湯気が上がった。

炊きたてだった。

本家はまだ布団にいた。

「お前、押したか」

「押しとらんです」

「ほんとか」

「起きとりません」


 翌朝も炊けていた。その次の朝も炊けていた。三日とも、起きたときには炊き上がっている。

この炊飯器は五十分ばかりかかる。押されたのは、それより前だ。まだ暗いうちになる。

春吉の道と、同じ時刻だった。


 一度、米を仕込まずに寝てみた。

朝、蓋を開けた。空のままだ。ただ、内釜が熱かった。保温のランプが点いている。

代わりに米を炊いてくれる、というわけではないらしい。やるのは、ボタンを押すことだけだった。

研ぐのも、水に浸けるのも、こっちの仕事だ。


 その晩、また研いで、水に浸けて、蓋をした。

次の朝は炊けていた。

前にも一度あった。引き取ったものは、こちらが使うと決める前に働き始める。

ほかにも代わってもらえることが、あるのだろうか。

飯をよそった。温かかった。


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