第十三話 高砂一丁目 楠 受 壱
その日は、店を開いて間もなく依頼が来た。
「大上屋さん、ちゅうのはこちらですか」
名刺を手に持ち、店の看板と名刺を交互に見比べていた。角が丸くなりかけている。
うちが刷ったものだが、俺が手渡したものではない。
椅子を勧めた。座ったあとは、俺の顔と看板を見比べていた。
依頼人の名は、野見山さんといった。
「この名刺は、防水屋さんにもろうたとです」
「防水屋」
「三度目に入ってもろうた人です。うちでは無理です、ち言うて、これば置いていきんしゃったとです」
名刺が一枚、どこかで人の手を渡って、高砂まで行っていた。
高砂一丁目のマンションだという。十年ほど前に建った分譲の、一階の角部屋。四年前に中古で買ったのだそうだ。
「部屋の湿るとです」
「水漏れですか」
「それやったら、困らんとですけど」
ベランダと、それに面した六畳だけが湿る。日は当たっている。南向きで、前は駐輪場だから、遮るものが何も無い。それでも洗濯物が乾かない。壁紙の裾が黒くなって、押入れの中まで来た。
「冬もですか」
「冬もです」
業者を三度入れた。防水と、床下と、配管。三度とも原因が出なかった。
「三度目の人が、正直に言わしたとです。うちの手には負えん、ち」
それで名刺が出てきた。
「見に行くとに一万いただきます。引き取ることになったら、そこから別に四万です。締めて五万円です」
野見山さんは鞄からクリアファイルを出した。見積書が入っている。壁紙の張り替えと、下地の防カビと、押入れの中。締めて十八万円だった。
「これば出しても、三年で戻る、ち言われたとです」
「なら、その三年ごとの十八万と比べてもらうとがよかです」
「それが高かけん、来たとです」
苦笑いをして言った。駄目で元々だ、という顔だった。
「管理組合には」
「言うとりません」野見山さんは即答した。「言うたら、値の話になります」
いま売っても、残っているローンには足りないという。
売っても残るローンに、理由も分からない三年ごとの十八万。拝み屋に頼りたくもなるだろう、と思った。
薬院から歩いて十分ほどだった。
表の通りから一本入ると、四階建てと戸建てが混ざって並んでいる。マンションの前は道に面して駐輪場になっていて、屋根の付いたラックに自転車が二十台ばかり入っていた。
一階の角部屋は、玄関を入って廊下、右が台所、突き当たりが六畳だった。掃き出し窓の向こうがベランダで、そのすぐ先が駐輪場の金網だ。
日は入っていた。畳の上まで届いている。
入って三歩で、空気がひやりとしているのを感じた。
壁紙の裾が、幅木から十センチほど黒い。押入れを開けると、中は襖のぶんだけ濃かった。台所の入口のところにも、うっすら来ている。
「去年は、押入れの中までやったとです」野見山さんが言った。「今年は、そこまで来ました」
指したのは台所の入口だった。
「札ば三枚、貼らせてください。紙が傷むだけで、部屋にも人にも害はなかです」
「跡は」
「糊の跡がつくかもしれんですけど、必要なことですけん」
六畳の壁に一枚、掃き出し窓の内側の柱に一枚、玄関の廊下に一枚。離して貼った。
「何日かかりますか」
「たいてい、三日あれば分かります」
「業者さんは、一日で帰らしたとですけど」
「一日で分かるとなら、うちまで回ってきとりません」
翌日の昼に来た。
三枚とも湿っていた。指で触るとひやりとする。乾いた部屋に一晩置いた紙の手触りではない。
湿りだ。黄ばみはない。ここが覚えているのではない。
湿気で札が湿るのと、札が何かを吸うて湿るのは別だ、と安藤さんは言っていた。
桜坂の喫茶店で見たのと同じだ。これは何かを吸った側の湿りだ。
六畳の一枚は、窓の側から広がっていた。窓の柱の一枚は、下の外側から。廊下の一枚は、奥からだった。六畳の方向だ。
一枚で分かるのは、そちら側に何かがあるということだけだ。だから三枚貼る。
三本を延ばした。
交わったのは部屋の中ではなかった。掃き出し窓を越えて、ベランダを越えて、その先だ。
「外ば、見せてください」
サンダルを借りて、金網を回って駐輪場に入った。
屋根の柱が二本、コンクリートの床、ラックが二十四台ぶん。番号の札が支柱に貼ってある。奥の隅、十七番と十八番のあたりに自転車が二台停めてあった。
そこに何も無い。
しゃがんで手をついた。コンクリートは乾いていた。日が当たって、少し熱いくらいだった。
部屋の中が湿って、外が乾いている。困っているのは中で、覚えているのは外だ。
こういう並びに当たったのは、初めてだった。
支柱に一枚貼らせてもらった。共用のところだからと断ると、野見山さんは、誰も見よらんです、と言った。
夕方に見に来た。
濃かった。部屋の三枚とは出方が違う。あちらは札の広いところがぼんやり湿っていたが、こちらは狭いところがはっきり濡れていた。
近い。
湿りは植物か物だ。桜坂で匂いを追ったときは、日ごとに交わるところが動いた。動くから空気だと切れた。
次の日も、その次の日も、交わるところは同じだった。十七番と十八番のあいだから動かない。
動かないなら、空気ではない。残るのは水か、物か、植物か。
コンクリートの上には、草の一本も生えていなかった。
その晩、帳面の後ろの頁に字が入っていた。
高砂一丁目 一〇一号 員数 合
同所 一〇二号 員数 合
同所 二〇一号 員数 合
薬院四丁目 当方アパート 員数 合
合。どの戸も合っている。
駐輪場は上がってこなかった。戸が無いからだろう。
数の話ではない。数はどこも合っている。
次の日、ホームセンターでメジャーを買った。数百円の安物だ。
六畳の壁の裾に沿って、黒くなっているところの上端を追った。壁の角から何センチ、床から何センチ、と数字で控えた。押入れの中も測った。台所の入口も測った。手帳に書いて、日付を入れた。
三日通った。
三日で、数が合わなくなった。台所の入口のところが、初日に控えた線より二センチほど先に来ている。次の日はそこから戻ったように見えて、その翌日にはまた出ていた。二センチなら、俺の測り方の狂いでも出る幅だ。それでも、初日と四日目を並べれば、出ているほうが多かった。
掴んだつもりの数が、掴んだ翌日には少し違う。
帳面は数を書くところだ。形を書くところではない。
一〇一号のベランダ、と書けば、ベランダが消える。それは困る。湿り、では広すぎる。
手帳に控えた点を、日ごとに線で繋ぐ。繋いだ線は、毎日動いている。動くものは境目でもないだろう。
野見山さんには言わずに、向かいの家に行った。
道を挟んだ戸建てで、玄関先に鉢が並んでいた。呼び鈴を押すと、七十くらいの女の人が出てきた。近所のことを少し聞きたいと言った。何屋かとは訊かれなかった。
鉢の話から入って、水やりの話をして、それから道の話をした。いつごろからこの並びなのか、と訊いた。
「マンションの建つ前はね、空き地やったとよ」
「ずっと空き地ですか」
「うんにゃ、家のあったとよ。壊して、しばらく空いとった」
それから、女の人は道の向こうを見た。
「あそこはね、でっかい木のあったとよ」
「木」
「楠。あの駐輪場のとこ。建てるときに切ったとよ」
枝が道まで出ていて、電線に触っていたのだという。
「切ってくれてよかったて、みんな言いよった。落ち葉のすごかったけんね」
礼を言って、少し離れてから振り返った。
駐輪場の屋根の、奥の隅だった。
部屋に戻って、野見山さんに言った。
「楠です。ここが建つ前に、庭の隅に大きな楠のあったとです」
「木、ですか」
「その木が覚えとります。枝の張っとった下だけ、日の来んとです。木の無うなっても、そこだけ木のあった頃のままです」
掃き出し窓の外に目をやり、かつてあった楠の姿を思った。
「伐られたとが、悔しかったとやろう」
「木に、そげなもんがありますかね」
木にそんなものがあるかは、俺にも分からない。ただ、そう思っている気がした。
その晩、安藤さんに電話した。
「湿りが出とります」
「動くか」
「動きません。三日おなじところです」
「そんなら草か木たい」
「楠です。十年前に伐られとります」
少し間があった。
「その木は、まだ在るとか」
「在りません。切株も残っとらんとです。上はコンクリートです」
「そうか」
それきり何も言わないので、こちらから続けた。
「十年かかって、少しずつ広がっとるとです」
「木は急がん」
「止まりますか」
「止まらん」
切れた。
次の日の昼、駐輪場に行った。
平日の昼で、人は通らなかった。自転車が二十台ばかりラックに入っている。支柱の番号は一番から二十四番まで振ってあって、番号の無いところが一つも無い。
しゃがんで、十七番と十八番のあいだのコンクリートを見た。
範囲は書けない。三日測って、書けないことだけが分かった。
書くのは、範囲を作っていたほうだ。
木、では広すぎる。この街に木は何本でもある。
楠。
向かいの人はそう呼んだ。この並びの人たちが、十年前まで毎年その落ち葉を掃いて、そう呼んでいた木だ。無くなっても、呼び名だけは人のほうに残っている。
高砂一丁目の、楠。
生きた楠なら、探せばどこにでも立っている。伐られてもうここに無い楠は、この一丁目に一本きりだ。
マンションの名では届かない。あの木は、あれが建つ前からここにいた。町名のほうが古い。
野見山さんには、部屋に居てもらった。
鞄から帳面を出して、コンクリートに膝をついた。日に焼けていて、ズボン越しに熱かった。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
空気が張った。自転車も、ラックも、番号の札も、俺も数えられていた。
筆を下ろした。
高砂一丁目 楠 受 壱
音はしなかった。
立ち上がって、部屋に戻った。掃き出し窓を開けて、六畳に入る。
あのひやりとした感じは、もうしなかった。
壁紙は黒いままだった。押入れの中も、触れば湿っている。
「乾いとらんです」野見山さんが言った。
「乾くとには、まだ何日かかかります」と俺は言った。「十年ぶんの湿気です。抜くとに日の要ります」
「ほんとに、止まっとるとですか」
「窓ば開けて、扇風機ば回してみてください。前は、それでも乾かんかったはずです」
五万円は、その場で現金だった。
領収書を書こうとして判子を出したら、要らないと言われた。
「要らんとですか」
「うちが、誰に見せるとですか」
その通りだった。管理組合にも、上の階にも、見せられない紙だ。持っていても仕方がない。
判子は鞄に戻した。三百円のものだ。
名刺を一枚置いて帰った。あの防水屋が置いていったのと、同じものだ。
帳面の中に、楠が一本入った。日を遮る相手のいないところで、あれが何をしているのかは知らない。
半月ほどして、電話が鳴った。
「高砂の野見山です」
名前を言われて、少し置いてから分かった。
「布団ば干したとです。取り込んだら、軽かったです」
それだけの用件だった。最後に礼を言われ、切れた。
その週、住吉のほうに用があって、帰りに高砂を通った。
駐輪場は屋根の下だけが日陰で、その先は明るかった。ラックに自転車が並んでいる。十七番にも十八番にも一台ずつ入っていた。コンクリートは白く乾いて、落ち葉は一枚も落ちていない。
一階の掃き出し窓が開いていた。物干しに、シーツが二枚かかっている。
風で膨らんで、また落ちた。
俺は表の通りへ出た。




