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第十二話 実費

 デパートのひさしの下に、紺のジャンパーが立っていた。

缶コーヒーを持っている。まだ開けていない。

この人が店の前に立つのは久しぶりだった。何日ぶりかを数えかけて、やめた。

「留め、あるか」

挨拶はない。この人はいつもこうだ。

「ありますけど」

「二十枚くれ」


 鞄から出して、数えて、二十枚を渡した。

安藤さんは束のまま裏表を返し、それから一枚だけ抜いて、日にかざした。透かして見ている。込めた紋様のほうを見ているのだろう。

「いくらや」

「要りません」

「いくらや」

困った。値段を考えたことがなかった。

厄除けは千円で売っている。あれは商品だから値がついている。留めは自分で使う札で、人に渡したことがない。

それに、うちの留めには原価がない。一枚書けば、あとは増やすだけだ。紙代も墨代も、最初の一枚ぶんしかかかっていない。手間も、最初の二時間だけだ。

「……百円で」

「二千円やな」

安藤さんは財布から千円札を二枚出して、俺の手に載せた。どちらも折り目がついていた。

「安か」とだけ言った。


 「祓いは、要らんとですか」

「持っとる」

「何枚ですか」

「足りとる」

うちに祓いはない。刷っていない。刷らないと決めている。

祓えば消える。消えれば、それが何だったのか二度と分からない。抱えていれば、いつか分かるかもしれない。それが俺のやり方だ。

安藤さんはそれを知っている。だから訊いてもこない。


 缶コーヒーは、まだ開いていなかった。

安藤さんは看板を一度見て、背を向けかけて、止まった。

「今晩、輝国(てるくに)に行く」

「輝国」

「二丁目や」

それだけだった。行くと言っただけで、何をしにとも、誰の家ともつけない。

「見せてください」

「ああ」

断られると思っていた。

「表は」

「本家に言うときます」

「そうか」


 六時に天神南で落ち合って、七隈線(ななくません)に乗った。六本松(ろっぽんまつ)は五つ目だ。

バスでも行ける。ただ、この街のバスは路線が絡まりすぎていて、地元の人間でも乗る先を間違える。地下鉄のほうが早く着くわけではないが、迷わない。

車内で、安藤さんが話した。話すというより、要ることだけを順に置いていく喋り方だった。

施主は梅野(うめの)さんという六十四の男。家は祖父の代からで、建て替えは一度きり。

三月ほど前から、仏壇の線香が合わない。三本立てたはずが、四本燃えている。四本目だけ、立っている場所も向きも違う。

「誰かが上げとったとです」

「奥さんや」

奥さんに覚えがない。台所に立っていたはずが、気がついたら仏間で手を合わせていた。そういうことが週に一度あり、そのうち二度になった。

先月からは夜中だ。雨戸を開ける。玄関の鍵を開ける。奥さんのときもあれば、梅野さん本人のときもある。翌朝どちらも覚えていない。

「三日前に、離れの跡の前に立っとった」

「離れ」

「十年前に壊しとる。いまは基礎と物置だけや」

夜中の二時に、寝間着で立っていたという。見つけたのは奥さんだった。


 「目印は」

「三枚貼った。三日置いた」

出たのは三箇所。焦げだ。人の記憶。

「裂けは」

「無か」

害意はない。ただ、なぞらせている。

「誰のですか」

「兄がおる」

梅野さんには兄が一人いて、二十年前に死んでいる。仏壇に位牌が四つ。祖父と祖母と、父と母。兄の位牌はない。

「作っとらんとですか」

「事情がある、としか言わん」

「どこで亡くならしたとですか」

「病院や」と安藤さんは言った。「近所もそう言うとった」

俺は窓の外を見た。地下鉄の窓は真っ黒で、自分の顔しか映っていない。

「よそで死んどるなら、この家に残っとるとは、生きとった頃の暮らしだけや」と安藤さんは続けた。「なぞらせるだけで、行き着く先が無か。人は疲れるばってん、死にはせん」

「三枚で足りますか」

「足りる」

「なんで急ぐとですか」

「二十日から彼岸で、親戚が集まると」

人が増える。増えたぶんだけ、なぞらせる先が増える。それだけの理由だった。


 六本松で降りて、南へ歩いた。

道は上りだ。大きな通りから一本入ると街灯の間隔が広くなって、明るいところと暗いところを交互に歩くことになる。

梅野さんの家は、坂を上がりきったところの角にあった。

瓦の載った平屋で、門から玄関までに敷石が七つある。数えてしまってから、数えたことに気づいた。

梅野さんは玄関で待っていた。作業ズボンに、洗いざらしのポロシャツ。頭を下げるとき、下げすぎる人だった。

「二人ですか」

「見習いです」と安藤さんが言った。俺のことだ。三ヶ月で抜けた見習いだった。


 家の造りは単純だった。玄関を上がると、廊下が奥までまっすぐ一本通っている。突き当たりが勝手口で、そこを出ると裏庭だ。裏庭の隅が離れの跡になる。

廊下の左側に部屋が並んでいる。手前が仏間、次が茶の間、いちばん奥が娘さん夫婦の部屋。

右側は一面のガラス戸だった。桟(さん)の細かい、昔の家によくあるやつだ。開ければそのまま庭に出られる。庭に立てば、廊下は玄関から勝手口まで、まるごと見える。

奥さんと、同居の娘さん夫婦には、茶の間にいてもらうことになった。家の外には出さない。夜だし、近所の目もある。

「動かんでください」と安藤さんは言った。「呼ぶまで、そこに座っとってください」

梅野さんだけが仏間に残った。施主は残す。そういう段取りらしかった。


 仏間は八畳で、仏壇は北の壁を背にして据えてあった。

位牌が四つ。安藤さんの言ったとおりだ。線香立ての灰は、ならしたばかりのように平らだった。

「一分ください」

俺は部屋の隅に膝をついて、鞄から帳面を出した。

家の中は静かだった。茶の間の三人には動くなと言ってある。数が動いている場所は読めない。こういう静かさでなければ、あれは働かない。

帳面を開いて、『番』を回した。

手を触れていないのに、頁が勝手にめくれて、最後の一枚で止まった。白いままの紙に、字が浮かんでくる。


  梅野方 員数 壱多し


 梅野さんが敷居ぎわで座り直した。俺のほうは見なかった。

「壱多し、です」

「多い」

「この家に、一つ多いとです」

安藤さんは目印を貼った場所を、順に指した。仏壇の左の柱、鴨居、廊下との境。

「三つ出とる」

「一つです」

安藤さんが俺を見た。

「……お前のは、何で数えよる」

「員数です」

安藤さんは、しばらく何も言わなかった。それから、

「そうか」

と言った。それだけで、貼りにかかった。

俺は口を挟まなかった。挟めなかった。一つだという以上のことを、何も言えないからだ。

なぜ一つなのかと訊かれても、帳面がそう書いたから、としか答えられない。あの人がそれで手順を変えるはずがない。変えたら、この人のやり方ではなくなる。


 安藤さんは俺から買った留めを三箇所に貼った。柱、鴨居、境。貼るたびに短い祝詞をあげる。八文字だ。

それから紙袋から祓いを出した。俺のものとは紙が違う。表がわずかに毛羽立っていて、厚みが一定でない。漉いたものの厚みだった。

一枚を仏壇の前に置き、八文字。

札が黒くなった。端からではなく、真ん中から一息に黒くなって、そのまま炭のような色で止まった。

それだけだった。

空気は変わらない。線香立ての灰も、位牌も、さっきと同じところにある。梅野さんは敷居ぎわに座っている。

「効いとらんとですか」

「効いとる」安藤さんは黒くなった札を横に置いた。「足りとらんだけや」


 二枚目。八文字。黒くなる。

そのとき、梅野さんが膝の上で手を組み替えた。それまで動かなかった人が、体の向きを少しだけ廊下のほうへ変えた。

三枚目。黒くなる。

梅野さんが立ち上がった。

「梅野さん」

呼ぶと、こちらを見た。目は合った。それから、自分が立っていることに気づいたような顔をして、座り直した。

「……すんまっせん。なんか、行かないかん気がして」

安藤さんは紙袋からもう三枚出した。予備だ。三枚と読んで、倍持ってきていた。

四枚目。五枚目。六枚目。

畳の上に黒い札が六枚並んだ。どれも真ん中から黒くなって、同じ形をしている。


 六枚目を置いたとき、梅野さんが立った。

今度は呼んでも止まらなかった。仏間を出て、廊下を奥へ歩いていく。玄関ではない。突き当たりだ。勝手口だ。

俺は追いついて、背中に留めを一枚貼った。八文字。

止まった。片足を上げたまま、そのまま止まった。上げた足が、宙で震えている。

止まっていたのは、二秒ほどだった。

茶の間の襖が開いた。

奥さんが出てきた。エプロンをつけたまま、俺の横をすり抜けて、廊下を奥へ歩いていく。梅野さんとまったく同じ足取りだった。

「奥さん」

呼んでも振り向かない。追いついて、肩の後ろに一枚貼った。八文字。

止まる。

そのあいだに、梅野さんの背中から札が落ちた。焦げてもいない。破れてもいない。白いまま、畳んだ紙のように廊下に落ちて、梅野さんがまた歩き出した。

「移っとる」

安藤さんがそう言って、舌打ちをした。この人が舌打ちをするのを、俺は初めて聞いた。


 梅野さんに二枚目を貼った。止まる。

今度は茶の間の奥で、娘さんが立ち上がった。襖の隙間から、婿さんが娘さんの腕を掴んでいるのが見えた。掴まれた腕をそのままにして、娘さんは歩き出そうとしている。

「増やします」

俺は残りの留めを廊下の板の間に置いた。一枚が二枚、二枚が四枚、四枚が八枚。五十枚と決めて、五十枚で止まった。

両手で掴んで、走った。

娘さんに貼る。止まる。奥さんの札が落ちる。奥さんが歩き出す。

奥さんのほうが、俺より勝手口に近かった。

引き戸が開いた。奥さんは勝手口のサンダルに足を入れて、裏庭へ下りた。見もせずに、片足ずつ入れた。

裏庭は十歩もない。物置の脇を抜けた奥に、四角いコンクリートが残っている。壊した離れの基礎だ。それだけが庭の隅に、床のかたちで残っている。

追いついたときには、もうその上に膝をついていた。サンダルは基礎の縁に脱いであった。揃えて、爪先を外へ向けて。

コンクリートの上で、体を横にして、膝を抱えるようにして丸くなった。眠るときの形だった。

「奥さん」

肩を掴んだ。冷たかった。九月の夜で、外はまだ暑い。それなのに、この人の肩は冷たかった。

息が浅かった。しばらく間があいて、一つ。また間があいて、一つ。

札を貼った。八文字。

奥さんが目を開けた。

「……あら」

それだけ言って、自分がコンクリートに転がっていることに気づいて、起き上がろうとして、うまく起きられなかった。唇の色が悪かった。

安藤さんが庭へ下りてきた。奥さんを見て、それから基礎の縁のサンダルを見た。揃えて脱いである。何も建っていない、四角い床の縁にだ。

もう一度、舌打ちをした。

「ここで死んどる」

「病院や、て」

「読み損ねた」

安藤さんは床から目を上げなかった。

「なぞる先があった。着いたら、そこで終わる」

「……札は」

「打つたび、急かしとった」

終わる、というのがどういうことかは、基礎の上に転がっている人を見れば分かった。ここに居た人の、最期をなぞりかけていた。


 ガラスの向こうで、人が動いた。

婿さんが廊下をこっちへ歩いてくる。娘さんはその後ろで立ち止まって、なんでここにおるとやろ、という顔をしている。庭から見ていると、あの一本の廊下が端から端まで見えた。

札が落ちた人は、そこで我に返る。四人が四人とも廊下の途中で同じ顔をしていて、そのうちの一人だけが、いつもこの庭を目指して歩いてくる。

婿さんはガラス戸を開けなかった。すぐ横が庭で、手を掛ければ出られるのに、その前を通り過ぎて、廊下を突き当たりまで歩いてくる。

「そこから出らんとですか」

「履物が無か」安藤さんは勝手口の枠に背中をつけた。「戸のあるほうへ行きよる」

「なら、ここば押さえたら」

「玄関がある」

そのとおりだった。表から回っても、この庭には来られる。庭へ出る戸は二つで、俺たちは二人だ。

落ちた札は焦げていなかった。留めは押し切られれば真っ黒に焦げる。焦げていないということは、押し切られてもいない。押さえるものが、そこにいなかっただけだ。

一つだから、どこにでも移る。移った先に貼っても、次へ行くだけだ。

床に落ちた札が、二十枚を越えていた。

何百枚あってもよかった。貼るのは俺の手で、手は二本しかない。刷れるから受ける、刷れる範囲でしか物を考えなくなる。いつか電話でそう言われたことが、そのままの形で目の前にあった。

婿さんが安藤さんに正面からぶつかった。安藤さんが両腕で押し返す。婿さんは体重をかけたまま、足を止めない。靴下のつま先が、板の間を掻いていた。

ガラスの向こうで、梅野さんが向きを変えた。玄関のほうへ歩き出す。


 「引き取れます」

言ってから、それが正しいことのように思えた。うちは引き取る店だ。祓わずに済む。札も要らない。祝詞と、名乗りと、書くだけでいい。

安藤さんは俺を見た。

「何ばや」

止まった。

何と書けばいいのか、俺には分からなかった。梅野方、まではいい。そのあとが立たない。兄と書けば、この家の兄が一人いなくなる。名前を書こうにも、名前を知らない。位牌がないから、この家のどこにも書いていない。梅野さんに訊けばいいが、その梅野さんは玄関へ向かって歩いている。

一つだ、という数だけは分かっている。何が一つなのかは分からない。

「……」

「書けんとやろ」

「型でやります。札なしで。五分です」

「六枚焼いて足らんもんに、五分で一枚ぶんや」婿さんの胸を押し返しながら、安藤さんは言った。「何回要る」

「……分かりません」

「分からんもんは使わん」

分からんもんに一年ぶんは賭けきらん。前に一度、電話でそう言われた。あのときは断るための言葉だった。同じ人が、同じところで止まっている。今度は、断れないところで止まっている。

そこまで考えて、次にどこへ移るかを考えた。この家の人間は四人だが、この家の中に人間は六人いる。

もし俺に移ったら、俺に札を貼る人間がいない。


 「下がっとけ」

安藤さんが婿さんの体を横へ流して、勝手口の枠から離れた。婿さんはつんのめって、そのまま裏庭へ下りようとした。

安藤さんは懐から白い布切れを出した。

札でも数珠でもない。四つに畳まれた、ただの白い布だ。それを廊下の板の間に敷いた。

何も載せなかった。

布の四隅をつまんで、包んだ。

祝詞はあげなかった。札も貼らなかった。ただ、包んだ。

空気が、一瞬だけ薄くなった。

前に一度、これを見ている。あのときと同じだった。今しがた自分が何を見ていたのかが、思い出せない。数えていたはずだ。この家に、いくつあった。

出てこない。

布の中には、何も包まれていなかった。

家の中が静かになった。

四人が、示し合わせたように同時に座り込んだ。婿さんが勝手口の框(かまち)にへたり込み、娘さんが廊下の途中で膝を折り、庭の奥さんがコンクリートに両手をついて咳をした。

貼ったままだった札が、順に落ちた。押さえるものが、もうない。

奥さんが夫の名前を呼んだ。悲鳴のような声だった。

ガラスの向こうに、その姿がなかった。呼んでも返事がない。

俺は勝手口から上がって、廊下を走った。

梅野さんは玄関にいた。三和土(たたき)に片手をついて、上がれずにいる。息はしていた。

「おられます」

庭に向かって、そう言った。

自分がどこを歩いていたのかを、四人とも覚えていなかった。奥さんだけが、目を開けたときに離れの跡で寝ていたことを覚えていた。


 仏間に戻って、梅野さんは畳に手をついたまま、しばらく顔を上げなかった。

安藤さんは黒い札を六枚拾って、紙袋に入れた。それから座って、待った。

待つのが長かった。俺なら訊いていた。

「兄さんは、どこで亡くならしたとですか」

安藤さんが言った。

梅野さんは顔を上げなかった。

「……離れです」

奥さんが、はっとした。この人も知らなかったのだ。

「四日、気づかんかったとです」梅野さんは畳を見たまま言った。「夏でした。おふくろが見つけて、おふくろと二人で、警察ば呼びました」

兄は家を出て十五年帰っていなかった。仕事も住むところも無くして、その年の春に戻ってきた。母が離れに入れた。梅野さんは反対した。

「反対したとです。それだけは、はっきり覚えとります」

親戚には病院で死んだと言った。母が合わせた。

供養するには寺が要る。寺に言えば、いつ、どこで、と訊かれる。位牌を作るにも戒名が要って、戒名を出すのも寺だ。どこから手をつけても、そこで嘘が止まる。

だから、何もしなかった。

「あれの分は、何もしとらんとです」梅野さんは言った。「線香の一本も、上げられんかった」

「おふくろが、去年死にました」

それだけ言って、また黙った。

安藤さんは何も訊かなかった。責めもしなかった。ただ、

「そうですか」

と言った。

「名前ば、聞かせてください」

「孝一です」

梅野さんは、悲しいような、悔しいような顔をして言った。

「梅野孝一、です」

書ける名前だった。


 玄関先で、安藤さんは五万円と言った。

梅野さんは奥から封筒を持ってきて、両手で渡した。中を確かめもせずに、安藤さんはジャンパーの内側にしまった。

「彼岸は、そのままでよかです」

「なんも、せんでよかとですか」

「なんもせんでよかです」


 門を出て、坂を下りた。来たときと同じ道で、明るいところと暗いところを交互に歩いた。

「六枚、焼いとらしたでしょう」

「ああ」

「三枚ぶんしか、乗っとらんとやなかですか」

安藤さんは黙って歩いた。

「三枚で見とった」しばらくして言った。「外したとは、こっちや」

「一枚、いくらですか」

「八千」

二万四千円。今日の三枚は、この人の持ち出しだ。

そこまで計算して、その先を計算した。年に五十枚。八千円。四十万。それが多いのか少ないのか、俺には見当がつかなかった。

街灯の下で、安藤さんが立ち止まった。缶コーヒーがまだ手にある。輝国まで持ってきて、開けていない。

「今日、使うたぶんは」

俺は訊いた。

安藤さんは缶を右手から左手に持ち替えた。

それだけだった。答えは返ってこなかった。

いつだったか、この人の断り方を、在庫管理だと思ったことがある。

危ないから断るのではない、測って、数が出なかったから断るのだ、と。臆病でも慎重でもない、ただの勘定だと。

勘定の話ではあった。だが、その勘定が違えばどうなるのか、までは考えていなかった。


 六本松の駅の前で別れた。

「札、また買う。いくらや」

「要りません」

「いくらや」

今日、二度目だった。

「百円です」

「そうか」

安藤さんは改札に入らずに、大きな通りのほうへ歩いていった。どこへ行くのかは訊かなかった。


 薬院(やくいん)に帰ったのは十一時過ぎだった。

四畳半で本家が先に寝ていた。机の端に今日の売り上げが封筒で置いてある。厄除けが二枚と、名刺からの相談が一件。

俺は机に向かって、墨を出した。

書いたのは祓いだった。

紋様を入れて、文章を入れて、込める。開業のときに一度だけ打って以来、書いていない札だ。手が覚えているかどうか怪しかったが、覚えていた。

手を動かしていると、考えごとのほうが進む。


 安藤さんには、力がある。今日、あの怪異を消した力だ。俺のスニーカーを消したのも、あの力だ。

だが、力には代償がある。俺の『番』も、使うほどに俺の店の存在を薄めている。ただ数えるだけなのに、だ。

では、なにかを消す力の代償は何になる。安藤さんは言っていた。名前はもうない、と。

単純だ。おそらく安藤さんは、あの力を使う度に少しずつ消(・)え(・)る(・)のだ。存在を、力に食われるのだ。

俺は今日、祓いを持っていなかった。それが結果的に、安藤さんを削った。


 二時間かかった。書き上がったのは一枚だ。

増やさなかった。

増やすのは一瞬だ。一枚が二枚、二枚が四枚。あの人が十年かけて作る数が、今夜のうちに机の上に積み上がる。

鞄に入れた。一枚だけ入れて、口を閉めた。

灯りを消しても、本家は寝返りも打たなかった。


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