第十一話 メゾン平尾三〇一号 居間敷居 受 壱
名刺を先に出してきた客は、初めてだった。
「不動産の鳥飼といいます」
両手で出された。紙が硬い。会社の名前と、住所と、宅地建物取引士の番号が入っている。俺も名刺を出した。角の丸くなっていないほうだ。
鳥飼さんはそれを、上着の内から出した名刺入れにしまった。財布でもなく、鞄でもなく、名刺入れだった。
「先に、いくらかかるとか教えてもらえますか」
「何ばせないかんか分からんと、言えんとです」
「見るとにも、お代はかかるとでしょう」
「かかります」
「なら、それも先に聞かせてもらえますか」
「話ば聞いてからにさせてください」
商売の話から入る人だった。俺はまだ、何の話かも聞いていない。
平尾二丁目のマンションだという。築二十年、五階建ての三階。自社で管理している賃貸で、三〇一号が半年空いている。
「内見のお客さんが、みんな同じところで帰らすとです」
「同じところ」
「玄関から廊下ば入って、居間の手前です。そこで、ぱたっと話が終わるとです」
怖がるのではないという。悲鳴も上げないし、青い顔にもならない。ただ、そこまで来ると急に興味を失って、まあ考えます、と言って出ていく。
「あとから電話して訊いても、なんとなく、としか言わんとです」
「何人ですか」
「半年で十一人です」
十一人が十一人とも、同じところで帰る。
「事故物件やなかとですか」
「違います」鳥飼さんは即答した。「告知事項もなかです。そこは調べ尽くしとります」
「家賃は」
「六万八千です」
半年で四十万を越える。決まれば仲介の手数料も入る。会社の勘定でいえば、それだけの額が動かないままになっている。
「上には、客の好みですよ、ち言うとります」
「本当のことは言うとらんとですね」
「言えるわけがなかです」鳥飼さんは笑った。乾いた笑い方だった。「五日後に、係長が内見に付いてくるち言い出したとです。自分が見て決める、ち」
それが、この人の期限だった。
「拝み屋を信じとらすとですか」
「正直に言うと、あんまり信じとらんとですけど」
ばつが悪そうな言い方だった。鳥飼さんは自分の膝のあたりを見て、それから顔を上げた。
「他に手のなかとです」
気づくと、本家がそばに立っていた。手に缶コーヒーが二本ある。差し入れに来て、話の途中だったので黙っていたのだろう。鳥飼さんの後ろだった。
値段を言った。
「見に行くだけで五万いただきます。引き取ることになったら、そこから別に十万。締めて十五万円です」
鳥飼さんの顔が動いた。
「……十五万」
「高かと思わすなら、断ってもろうてよかです」
「そげな額とは、思うとらんかったです」
「うちは、相手の商売の大きさで見とります」と俺は言った。「困っとらすとが人一人なら、人一人ぶんです。会社の勘定が半年止まっとるとなら、その勘定で見ます」
鳥飼さんはしばらく黙って、それから言った。
「決まってから払う、ちゅうのはできんとですか」
「部屋の決まるかどうかは、うちの商売やなかとです」
鳥飼さんの後ろから声がした。振り返って、そこで動きが止まった。それから俺を見て、もう一度後ろを見た。
同じ顔で、同じ声だ。
「……お二人、ですか」
「店番が二人おります」
それで足りたらしい。鳥飼さんはそれ以上訊かなかった。訊いたら困ることになると思ったのかもしれない。
本家が前に出て、脚のぐらつくテーブルに缶を置きながら、続けた。丁寧な言い方だった。
「うちが売るとは、引き取ることだけです。決まらんかったときに取らんとなら、決まったときに取る筋も無うなります」
「自腹では出せんです」
「見立ての五万だけ、先にいただきます」本家は言った。「それで何も出てこんかったら、五万で終わりです。会社さんに上げるかどうかは、出てきてから決めてもよかとやなかですか」
鳥飼さんは財布を出して、中を見て、閉じた。
「銀行、行ってきてよかですか」
「どうぞ」
十五分で戻ってきた。五万円は封筒ではなく、銀行の紙帯が付いたままだった。
翌日の午前、平尾二丁目に上がった。
薬院から歩いて十五分ほど、坂を一つ越えたところだった。表通りから一本入ると、車の音が急に遠くなる。マンションと戸建てが混ざって、どの建物の前にも自転車が停めてある。
入口の脇に、白いプレートが付いていた。メゾン平尾。管理会社の名前が、その下に小さく入っている。
「鍵は、お預けできんとです」鳥飼さんが言った。「決まりで」
「立ち会ってもらえますか」
「そのつもりで来とります」
三〇一号は、玄関を入って廊下が三歩、突き当たりが居間だった。左手に洗面と風呂。居間の奥に洋室が六畳。クロスは張り替えたばかりで、まだ新しい匂いがした。
廊下と居間のあいだに、戸が無い。
敷居だけがあった。溝が二本入った、木の敷居だ。
「戸は」
「外してあります」
鳥飼さんが洋室の押入れを開けた。引き戸が二枚、立てて入れてあった。
「前の入居者さんが、外させてくれ、ち」
内見のときと同じように歩いてもらった。
玄関で靴を脱いで、廊下を三歩、居間へ入る。鳥飼さんは止まらなかった。そのまま洋室まで行って、窓を開けて、戻ってきた。
「わたしは、何ともなかとです」
「何回入っとらすとですか」
「四十回は入っとります」
俺も歩いた。何も来なかった。敷居をまたいで、居間の真ん中に立って、天井を見た。何も無い。
「止まるとは、お客さんだけです」鳥飼さんが言った。「決めに来た人だけです」
「札ば三枚、貼らせてください。紙が傷むだけで、部屋にも人にも害はなかです」
「跡は残らんとですか」
「残るかもしれんですけど、必要なことですけん」
居間の壁に一枚、洋室の壁に一枚、廊下の壁に一枚。離して貼った。
朝、帳面の後ろの頁に字が入っていた。俺の字だ。
平尾二丁目 三〇一号 員数 合
同所 三〇二号 員数 合
同所 三〇三号 員数 合
薬院四丁目 当方アパート 員数 合
合。
誰も住んでいない部屋も、合と出る。空の部屋は、空のままで揃っている。
戸のあるものは、戸ごとに数える。戸の内側は、一つの戸として数えられている。それより細かいものは、あれには見えない。
その日の昼に行った。
三枚とも、白いままだった。焦げも、濡れも、黄ばみも出ていない。
出ないのは、力が無いからとは限らない。濃すぎて差の出ないときも、札は白いままだ。坂口の家がそうだった。家じゅうに同じだけ効いていて、どこが濃いとも言えなかった。
ここも同じなら、部屋じゅうが同じだけ濃いということになる。
それなら、玄関で帰る客がいてもよさそうなものだった。十一人が十一人とも、靴を脱いで、廊下を三歩歩いて、同じところで止まっている。玄関では止まらない。居間の奥でも止まらない。
どこかに差がある。差の出ているところでしか、札は口をきかない。
「三〇二号にも貼らせてもらえんですか」
「それは無理です」鳥飼さんは即答した。「他の入居者さんには、絶対に言わんでください。そこだけは、勘弁してください」
その通りだった。この人はここを売って歩く人で、うちは今日呼ばれただけの人間だ。共用の廊下なら会社の持ち物だというので、玄関の外に一枚だけ貼らせてもらった。
その晩、安藤さんに電話した。
「札が、何も言わんとです」
「どげな出方か」
「出方のなかとです。三枚とも白かです。焦げも濡れも黄ばみも出とりません」
「濃すぎて出とらんとやなかとか」
「坂口のときと同じなら、そうです。ばってん、それやと客が玄関で帰るはずとです」
少し黙った。
「札は嘘つかん」
「はい」
「お前の読みのほうが、札より先に走っとる」
それだけだった。訊き返す前に切れた。
机の上に、目印を並べた。鞄に入っていたぶんと、アパートに置いてあったぶんで九枚。
一件に三枚貼れば場所が割れる札だ。だから増やさずにきた。留めのように束で焼かれることもないし、使い切ることもない。そう思って十枚だけ持っていた。
三枚貼って何も出ない現場に当たったのは、初めてだった。こうなると、貼る場所を潰していくしかない。
九枚を机に置いて、五十枚と決めた。
五十枚になった。
捨てられない紙が、また四十一枚増えた。
次の日、玄関の外の一枚は白いままだった。
三〇一号の床に、札を並べた。
玄関から居間の中まで、三十センチおきに一列。床に直接置いて、角をテープで留めた。十二枚使った。
「何ばしよるとですか」
「差の出るところば探しよります」
昼に置いて、夕方に見た。
十二枚とも白かった。
間が空きすぎている。廊下は三歩しかない。その三歩のどこかで客が止まるのなら、三十センチおきでは、またぐ一枚が無いということもありうる。
並べ直した。十センチおきにした。四十枚を越えた。
二時間置いて、見た。
一枚だけが黄ばんでいた。
敷居の上に置いた一枚だった。
黄ばみは場だ。部屋が覚えている。
黄ばんでいるのは、その札の半分だけだった。居間の側の半分がはっきり黄ばんで、廊下の側の半分は白い。にじんでもいないし、端に向かって薄れていくのでもない。境目が札の上をまっすぐ横切って、そこで色が変わっていた。
内側に力があって、外側には無い。敷居の上で、きっぱり切り替わっている。
十センチ内の一枚は白い。十センチ外の一枚も白い。内側が白いのは、力が無いからではない。どこも同じだけあるから、差が出ない。外側が白いのは、何も無いからだ。同じ白でも、意味が逆だった。
もう一列、間口いっぱいに並べた。壁から壁まで、敷居をまたいで十枚。
十枚とも、居間の側の半分だけが黄ばんだ。
まっすぐだった。曲がってもいないし、途中で切れてもいない。壁から壁まで、敷居の上を一本。
点ではなかった。
離して三枚貼って、線を延ばして、交わったところを源とする。俺の手順はそれしかない。あれは、源が一点にあるときのやり方だ。この部屋に一点は無い。あるのは、内と外を分けている一本だけだ。
最初の三枚は、嘘をついていなかった。居間と洋室の二枚は、内側はどこも同じだと言っていた。廊下の一枚は、外側には何も無いと言っていた。またぐ一枚を置くまで、読めなかったのは俺のほうだ。
無いものを三方から探して、二日つぶした。
「前に住んどらした人は」と訊いた。
「言えんとです」鳥飼さんは言った。「そこは、ほんとに言えんとです」
「亡くなっとらすとですか」
少し間があった。
「亡くなっとらんとは、言えます」
それで足りた。
七年住んで、去年出た。介護の人が通っていた。戸は外したままだった。ベッドは居間に置いてあったという。それは俺が訊いたのではなく、鳥飼さんが自分で言った。クロスを張り替えるとき、床の一箇所だけ日に焼けていない形が残っていたのだと。
居間と、その奥の洋室。あの人の暮らしは、その中で足りていた。廊下より先へは行かなかった。行かないまま七年いた。
出たくなかったとやろう、と思った。
声に出ていたらしい。
「そうかもしれんですね」と鳥飼さんが言った。
それから二人で、しばらく黙った。俺は、出られない人の気持ちのことを考えていた。
「この部屋のことの分かる紙が、まだありますか」と俺は訊いた。
「紙、ち」
「何でんよかです。図面でも、契約書でも、工事のぶんでも。明日、あるだけ持ってきてもらえますか」
鳥飼さんは怪訝な顔をした。それでも、分かりました、と言った。
その晩、四畳半で帳面を開いた。
何を書くか。
線、と書くことを考えた。目印を延ばすときの線と、同じ字だ。引けなかったほうの線と、床にあるほうの線が、頭の中で混ざる。混ざる言葉は狭くない。
境、と書くことを考えた。境はどこにでもある。部屋と廊下の境、家と外の境、地面と空の境。広すぎる。
三〇一号、と書くことを考えた。部屋ごと持っていく気か。
覚えているだけの型に、境目に貼る札というのがあったのを思い出した。あれは、こっちの都合で境を決めるための札だ。ここからは入るな、と人間の側が線を引いて貼る。向こうの引いた線を探す役には立たない。
どれも、指す先が一つに決まらなかった。桜坂のときは屋号が絞ってくれた。今度は、絞る言葉のほうが見つからない。
翌朝、鳥飼さんは書類の束を持ってきた。
図面が二枚、契約書の写し、鍵の交換の記録、退去のときの立会報告、修繕の履歴、それから工事の見積もり。三十枚ほどあった。前の入居者の名前は、どの紙も黒く塗ってある。
玄関に座って、一枚ずつ見た。
見積もりの紙で、目が止まった。項目が縦に並んでいる。
クロス張替 一式
建具吊込 二枚
居間敷居 交換 一本
指が止まった。
「これは」
「敷居です」鳥飼さんが覗き込んだ。「溝の減っとるけん、戸ば戻すなら替えたほうがよか、ち大工さんが」
居間敷居。
図面にも、見積もりにも、そう書く。あの一本の木を、そう呼んでいる人たちがいる。
床の上の一本と、書類の一行が、同じところを指していた。狭い。あれ以上狭い言葉を、俺は思いつかなかった。
「これば書いたら」と俺は言った。「敷居が、無うなります」
「無うなる、ち」
「持っていきます。木のほうも一緒にです」
鳥飼さんは書類を見て、それから敷居を見た。
「……入れ直せます」
「入れ直せますか」
「もともと替えるつもりやったとです」それから、少し早口になった。「無うなっとるとなら、うちが手配して入れます。そこは、うちの仕事です」
この人が上に上げられる形になった、と思った。原因の調査と、建具の交換。嘘は一つも入っていない。
鳥飼さんは共用廊下に出て、電話をかけた。扉は閉めなかった。
はい、はい、と何度も言っていた。それから、十万です、と言った。少し置いて、うちが見つけてきた業者です、と言った。
戻ってきて、
「出ます」と言った。
「なんち言うたとですか」
「原因の調査と、建具の交換で上げました」
「拝み屋のことは」
「言うわけがなかです」
「そうでしょうね」
「上がってしもうたら、あとは決めるだけです」鳥飼さんは言った。声が少し軽くなっていた。「そこは、こっちの商売やけん」
「もういっぺん、共用廊下に出とってもらえますか」
鳥飼さんは何か言いかけて、口を閉じた。訊きたいことのある顔だった。同時に、訊いたら聞かされてしまうという顔でもあった。
「……終わったら、呼んでください」
そう言って出ていって、扉を閉めた。
敷居の手前に膝をついた。線の外側だ。鞄から帳面を出した。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
空気が張った。
何も無い部屋だった。家具も無いし、人も住んでいない。それでも、空の部屋が空のままきっちり数え上げられていく。鞄も、筆も、俺も入っていた。
筆を下ろした。
メゾン平尾三〇一号 居間敷居 受 壱
音はしなかった。
敷居が無かった。溝が残っていた。下地の木が見えて、そこだけ日に焼けていなかった。
鳥飼さんを呼び入れた。
しゃがんで、溝に指を入れた。
「ほんとに無かです」
それから立ち上がって、廊下を歩いて、居間に入って、洋室まで行って、戻ってきた。もう一度、往復した。
「何ともなかです」
「もともと、何ともなかったとでしょう」
「そうでした」鳥飼さんは笑った。「そうでした」
係長を連れた内見は、その次の日だったという。夕方に電話があった。
客が居間まで入って、洋室の窓を開けて、二十分いた。収納の話と、洗濯機の置き場の話をして帰った。
その次の内見で決まった。
「敷居のことは」
「業者に頼みました。来週入ります」
「係長さんには」
「言うとりません。言う必要のなかとです」
振込は月末になるという。請求書を書いて、郵便で送った。屋号と、調査五万、引き取り十万。判子は三百円のものだ。名刺を一枚、クリップで留めておいた。
うちの屋号は忘れられる。紙は残る。
安藤さんに電話したのは、月末に振込を確かめたあとだった。
「増えたとか」
「増えました」
「何ば抱えたとか」
「敷居です」
「敷居」
「部屋の内と外の境です。前におった人が、そこから先に行かんかった線でした」
安藤さんは、ふん、と言った。
「なんで行かんかったとでしょうか」と俺は訊いた。
「そこは、あんまり深う考えんでよか」
「気にはなります」
「理由の無か相手もおる」安藤さんは言った。「覚えとるだけの相手に、なんでかち訊いても出てこん。人やなかとやけん」
「はい」
「札ば何枚使うたとか」
「二十枚ほどです」
少し黙った。それから、切れた。
増えたのは、線を一本引く力が一つ。たぶんそうだろうと思っている。まだ寝ているので、確かめようがない。
使い道を考えてみた。人を一歩手前で止める線。止めるだけなら留めの札のほうが早いし、厄除けにもならないし、売り物にもならない。
座布団と、匂いと、猫と、線。使いどころの思いつかないものが、帳面の中に並んでいる。
それから、あの部屋のことを考えた。
七年、廊下より先へ行かなかった人がいる。行かなかったのか、行けなかったのか。訊ける相手はどこに居るか分からない。安藤さんは深く考えるなと言った。
考えるなと言われて考えずに済むなら、俺は拝み屋になっていない。




