第十話 白金一丁目 野良猫 受 壱
テーブルを畳もうとしたところで、男が一人、店の前に立った。
座らなかった。客用のパイプ椅子は空いていて、そっちを一度見てもいたのに、立ったままだった。手に名刺を持っている。角が擦れて、紙が柔らかくなっていた。
「元祖天神大上屋さん」
「はい」
「猫の話ですけど、よかですか」
先にそう言われた。
「こげなことば頼む場所やなかとは、分かっとるとです」
「何屋か、分かっとらすとですか」
「拝み屋さん、ち書いてあります」男は名刺に目を落とした。「怪異の引き取りと、厄除けと、ご相談」
「ご相談も承っとります」
「猫でもですか」
「猫でもです」
男は肩の力を少し抜いて、それから、畳みかけのテーブルのほうを見た。
「店じまいやなかとですか」
「まだです」
広げ直した。
吉村さんといった。三十代の半ばくらいで、勤め帰りらしい格好をしていた。白金一丁目のアパートに住んでいる。
四年前から、近所の野良に餌をやっている。二匹いた。一匹は白と黒のぶちで、もう一匹が茶トラだった。
何ヶ月か前に、ぶちのほうが車に轢かれた。
「朝、通ったらおったとです。誰が悪かとでもなかです。よくあることですけん」
片づけて、手を合わせて、それで済むはずだった。
済まなかったのは、茶トラのほうだった。
「あの子が、そこから動かんとです」
はじめのうちは、染みのあたりで妙な動きをしていた。何もないところに顔をこすりつけたり、前脚で押さえるようにしたり、じゃれて転がったりした。
そのうち、動きが止まった。染みの脇に横たわって、じっとしている。
「餌ば置いても、食べんとです」
病院にも連れて行った。痩せてはいるが、悪いところは見つからなかった。捕まえてアパートまで運んだこともある。放せば、その日のうちに戻っていた。
「人に害はなかとですね」
「なかです」吉村さんは言った。「困っとるとは、うちだけです」
怖がってはいなかった。この人が困っているのは、猫が死ぬからだった。
「ご近所は、なんち言いよるとですか」
吉村さんは少し黙った。
「貼り紙が出ました。餌ばやらんでください、ち」
「やめとらすとですか」
「やめとりません」
それから、言い訳のように付け足した。
「うちが餌ばやりはじめたけん、あの子らはあの道ば覚えたとです」
値段の話をした。
二万、と言おうとして、一度言い直しかけた。猫一匹に二万は高い。半分にしてもよかった。
半分にすれば、この人の頼み事は半分の値打ちだということになる。四年やめずにいる人に、それを言うのはよくない。
「見に行くだけで五千円いただきます。引き取ることになったら、そこから別に一万五千円。締めて二万円です」
「先に言うとですね」
「先に言います」
吉村さんは財布を出しかけて、やめた。
「明日、うちは仕事ですけど、朝ならおります」
「朝に行きます」
白金一丁目は、薬院のアパートから歩いていける。
翌朝、六時過ぎに出た。大通りを渡って、住宅のあいだの道を南へ入る。片側一車線の生活道路で、ガードレールはない。白線が引いてあるだけだ。両側にアパートと戸建てと、車が二台か三台入る駐車場が並んでいる。
吉村さんが電柱のところで待っていた。
「これです」
アスファルトに、黒い染みがあった。
洗ったのだという。吉村さんが水を撒いて、デッキブラシで擦った。それでも落ちきらなかったぶんが、まだ形として残っていた。
染みの脇に、茶トラが横たわっていた。
近づいても逃げなかった。目は開いている。耳がこちらを向いたので、聞こえてはいる。
毛はぱさついていた。腹のあたりが薄い。
吉村さんが皿を置いた。乾いた餌と、水。
猫は皿を見なかった。
「昨日も、こうでした」
俺は道の端にしゃがんで、しばらく見ていた。
何もしていない。ただ、そこに居る。
「札ば三枚、貼らせてください」と言った。「紙が傷むだけで、道にも猫にも害はなかです」
電柱の根元に一枚。向かいのブロック塀に一枚。少し離れた駐車場のフェンスに一枚。離して貼った。
「明日の朝、また来ます」
「うちは七時には出るとです」
「なら、六時に来ます」
吉村さんは仕事に行った。俺はもう少し道に残っていた。
通りかかった人が二度、俺と猫を見て行った。二度目の人は歩を緩めたが、何も言わずに通り過ぎた。
その晩は、白金一丁目のことを考えながら寝た。
朝、帳面の後ろの頁に字が入っていた。俺の字だ。
白金一丁目 角のアパート 員数 合
同町 向かいの三軒 員数 合
薬院四丁目 当方アパート 員数 合
道の行がなかった。
戸のあるものは数えて、道は数えていない。数える先が無いのだと思った。あの通りには、いくつあるべきかという形になっているものが、何も無い。
俺の手順は数を掴むところから始まる。掴む前の道具が、はじめから使えない現場だった。
六時前に着いた。
三枚とも、焦げていた。
黄ばみではない。紙の色が茶に沈んで、そこから縁のほうへ薄く広がっている。焼けたあとが冷めた色だった。
場ではなかった。
薄い。焦げていると分かる程度で、それ以上ではない。相手はそこに横たわっている。距離が知れているのだから、薄いのはそのまま弱いということになる。
電柱の一枚は下寄りから、塀の一枚は右寄りから、駐車場の一枚は左寄りから焦げていた。
一枚では線が一本引けるだけだ。三本を延ばした。
交わったのは、染みの上だった。
茶トラは昨日と同じところにいた。皿の餌は減っていない。
吉村さんが階段を降りてきた。
「どげんですか」
「おります」
「何が」
「もう一匹のほうです」
吉村さんが顔を上げた。
「ブチが、ですか」
「猫そのものやなかです。猫の覚えとったぶんです」俺は言った。「姿はなかです。音もせんし、こっちからは触れんとです。そこの子には、分かっとります」
吉村さんはしゃがんで、茶トラの背を見ていた。
「つがいやったとですか」と俺は訊いた。
「二匹ともオスです」
「なら、友達やったとですか」
吉村さんは少し考えて、それから言った。
「友達やったと思います」
塀の上に並んで座っていたこと、片方が食べているあいだもう片方が待っていたこと、その順番が決まっていたこと。そういう話を聞いた。四年ぶんある。
連れの居なくなった場所に居たいのだ、と俺は思った。帰ってこないと分かっていて、それでも待っている。人でもそうする。
「名前は」と訊いた。
「トラと、ブチです」吉村さんは少し言いにくそうにした。「呼び名です。ちゃんと付けたわけやなかとです」
「どっちが、どっちですか」
「茶色かとがトラで、白と黒のとがブチです」
そのまんまだった。
吉村さんは仕事に行った。
俺は道の端に残った。
祓えば済む相手だった。薄い焦げで、留めも要らない。一枚打てば、たぶんそれで消える。
祓いは鞄に入っている。開業してから打ったのは一枚きりで、その一枚のことを、俺はいまでも思い出す。
あの後味の悪さは、あまり味わいたくはない。何もわからないまま消してしまうことは、やはり嫌だった。
では、引き取るほうはどうか。
人は、引き取れません。うちは、そこまでの店やないとです。坂口さんのところで、俺は遥さんにそう言った。言ったときには、自分の言葉の端まで見えているつもりでいた。
猫は人ではない。
では犬ならどうか、と考えて、詰まった。線をどこに引いたのかを、俺は自分で決めた覚えがない。人は駄目で猫はいい、というのは、俺が決めたことではなくて、そう言えば通ると思っただけのことだった。
昼を回っても、猫はそこにいた。
一度だけ体の向きを変えて、また同じ格好に戻った。
腹の薄さは、昨日より目立った。
考えても線は出てこなかった。出てこないまま、日が傾いた。
やれることは二つある。祓うか、引き取るか。
祓えば、この染みのところにあったものは無くなる。
引き取れば、うちの帳面に入る。
どちらでも、猫はきっと食べるようになる。吉村さんの困りごとは同じように片づく。値段も変わらない。
違うのは、帳面に一行増えるかどうかだけだ。
それだけのことなのに、どうしても祓いに手が伸びなかった。
夕方、吉村さんが帰ってきた。
「引き取ります」と俺は言った。
「引き取る、ち」
「帳面に書きます。書いたら、ここから無うなります」
「どこに行くとですか」
「うちが持ちます」
吉村さんは俺の鞄を見た。それから茶トラを見て、染みを見た。
「消すとやなかとですね」
「無うなるとは、同じです」
嘘をつく場面ではなかった。
「お願いします」
「少し離れとってもらえますか」
吉村さんは何も訊かずに、電柱のところまで下がった。
染みの手前に膝をついて、鞄から帳面を出した。
短い祝詞をあげた。八文字。
「元祖天神大上屋、大上大介がお受けします」
空気が張った。
アスファルトも、白線も、電柱も、隣の家の自転車も勘定されていた。道の真ん中で、数えているのはこっちのはずなのに、数えられているのもこっちだった。
ブチ、と書くことを一度考えた。
その名前を付けたのは吉村さんで、そう呼んでいたのも吉村さんだけだ。
四年、この辺りにいた猫なのだ。他の名前で呼ぶ人もいたかもしれない。
そもそも、この猫たちが、自分に名前があると思っているかも分からなかった。
筆を下ろした。
白金一丁目 野良猫 受 壱
道から、何かが抜けた。
茶トラが顔を上げた。
起き上がって、染みのところを一度嗅いで、それから道の先を見た。なぁん、と一声鳴いて、塀の切れ目から入っていった。
吉村さんが戻ってきた。
猫の去ったほうを見て、それから染みを見た。
「なんて書いたとですか」
「野良猫、と」
吉村さんは何も言わなかった。
しばらく染みを見ていて、それから財布を出した。一万円札が二枚、そのまま出てきた。折り目も何もついていない。
「領収書は」
「要らんです」
次の日の夜に電話があった。
茶トラは道に戻っていない。アパートの駐輪場のあたりにいて、皿を出したら食べたという。
「がつがつ食いよりました」
吉村さんは笑っていた。電話越しでも分かるくらい笑っていた。
「あの染みは、まだあります」
「染みは、ただの染みです」
「そうですか」
それから少し黙って、ありがとうございました、と言って切れた。
安藤さんに電話したのは、そのあとだった。
「増えたとか」
「増えました」
「何ば抱えたとや」
「猫です」
少し間があった。
「猫が、なんでそこにおったか、考えたとやろ」
「……はい」
「そこがお前の悪か癖たい」
何が癖なのかは言わなかった。訊いても言わないのは分かっていたので、訊かなかった。
「祓いは」と安藤さんが言った。
「打っとりません」
「そうか」
それで切れた。
その晩、夜中に目が覚めた。
部屋に何かいた。
帳面のある部屋で気配がするのは、初めてではない。台所で音がしたこともあるし、人のいる感じがして朝まで眠れなかったこともある。本家は隣で寝ていて、起きなかった。
今度のは、違った。
暖かい、小さなものが、足のあたりにいる感じだった。
俺はそのまま寝た。
朝、帳面はいつもどおり重かった。




