第一章 クロエとハルト(四)
でも、その瞬間だった。僕の中で、何かが弾けた。
それが何なのか、自分でもわからなかった。
胸の奥のずっと深いところで、小さな火種みたいなものが、ぽっと灯った。そしてそれは、放っておいたら、みるみる膨らんでいくような気がした。
『あの子、武器も何も持ってないじゃないか!助けなきゃ!』
『そんなの、僕に関係ないだろ!なんで僕が、彼女を助けなきゃいけないんだ!』
黒ずくめの男の指が、あの不気味な武器の引き金にそっとかけられた瞬間、僕の心の中で、二つの声が同時に叫んだ。
どっちも僕自身の声で、どっちも嘘じゃなかった。二つの声が、頭の中でぶつかり合う。
でも、その「関係ないだろ」って声は、やがて前に聞いたことのある声に重なっていった。
『真壁くんってば真面目すぎ、勝手に載せればいいじゃんww』
『遥斗って細かいよな! 誰も気にしないって!』
なんで、そう思うんだろう。目の前のこの光景と、昨日の夜のSNSの話なんて、これっぽっちも関係ないのに。
でも。その言葉を思い出したとき。僕の中で、沸々と熱いものが湧いてきた。
(おかしいのは、自分でもわかってる。あの子を助けるかどうかと、全然、別の話だ。何のつながりもないのに。)
なのに、僕の目の前には今までの自分の姿が浮かび上がった。
誰も見ていないんだから、いいじゃん。
誰も気にしていないんだから、いいじゃん。
(みんな、そう言う。それが「普通」で、それが「賢い」ことなんだって。真面目にやるほうが、損なんだって。)
ずっと、飲み込んできた。それでいいんだって。仕方ないって、諦めてきた。
でも。
「誰も見てなくたって…誰も気にしてなくたって!」
目の前を、ばちっと、稲妻が走ったような気がした。
頭の中が、真っ白に灼けるような感覚に襲われる。
「僕が嫌なんだ!見て見ぬふりなんて、卑怯だろ!」
叫んだ時にはもう、僕は、地面を蹴っていた。
全速力だった。
石の床は、つるつるに磨かれていて、まるで踏ん張れない。
何度もよろけそうになる。それでも、止まらなかった。
止まれなかった。
(間に合え……!)
周りの世界が、すうっとスローモーションになった。
黒ずくめの男の武器の先端。その延長線上に、じっと立つクロエ。
僕は近くにいた男を突き飛ばして、自分の体を思いっきり割り込ませた。
「何だ、貴様!」
黒ずくめの男が、ぎょっとしたように、叫んだ。
僕は彼女を庇うように、くるりと背を向けた。
「なんだ!?」
「さっきの男だ!」
男たちが警戒するようにこちらへ向かってくるのが見えた。
しかし、僕はそれどころじゃなかった。
(ほ、ほそい!)
彼女は驚くくらい細かった。腕の中にすっぽり収まってしまう。
少し力を入れたら、折れてしまいそうな、頼りない体だった。
「待ってくれ…!誰なんだ、きみは?」
すぐ近くで、クロエの声が聞こえた。戸惑っているような、不安そうな声だった。
(当たり前だよ。知らない男が、いきなりどこからともなく現れたんだから!)
自分でも、理解できなかった。見ず知らずの人間を庇って、自分が撃たれるかもしれないのに。
(…僕だって、困惑してるよ。なんで僕、こんなことしたんだろう)
僕は何か言い訳をしようと思って、腕の中の彼女を、そっと見下ろした。
すると、桃色の瞳が鼻先が触れそうなくらいの至近距離で、まっすぐ僕を見上げていた。
「こんなことをしなくても、近衛兵が控えている。…頼むから、離してくれ」
クロエが、僕にだけ聞こえるくらいの小さな声で言った。
突き放すような言い方なのに、なぜか必死さが滲んでいた。
「でも、君は、震えてるじゃないか」
僕が、そう言うとクロエは、はっと息を呑んで、大きく目を見開いた。
そして、僕の制服の胸元をぎゅっと掴んだ。
僕は気づいてしまっていた。彼女の体が、腕の中で小さく震えていることに。
(怖かったんだ…。当たり前だよな…)
彼女は、気丈に振る舞っているように見えた。
敵を睨みつけて、堂々と言い返して、まるで、何も恐れていないみたいに。
(この人が誰かも知らない。この世界のことだって、何もわからない。)
でも彼女のこの震えだけが、今の自分の状況をありありと実感させられていた
(誰も、僕に期待していない。僕がここで飛び出したところで、たぶん、何も変わらない。何もしなくたって、誰も僕を責めたりしないだろう。)
そうだ。馬鹿げてる。冷静に考えれば、考えるほど。
でも、腕の中の温もりを感じながら、僕は思った。
(それでも僕は、この選択を絶対に後悔したりない!)
「何をしている!」
男の怒声が飛んだ。
「撃ち殺せ!他の者も皆殺しだ!そのための儀式だろう!」
僕は反射的に、ぎゅっと目を閉じた。
痛みが来る。熱いのか、冷たいのか、それすらわからない。
あの不気味な光が、僕の背中を貫く。そんな想像が、頭の中を駆け巡った。




