<30> 「何かが起こるとしたら、今日」――隊長不在の、ヴァレンス砦
――11月6日、9時。ヴァレンス砦、大広間。
「私は、これからウェスカ砦に行かなきゃならん」
朝の戦況確認の際に、エルヴィラが言った。
「あん? 何かあったのか?」
ガルシアがいつものようにぶっきらぼうに言う。
「昨日ウェスカ砦にポルティガから内務大臣が到着した」
エルヴィラは忌々しそうな表情を見せる。
「依頼していた援軍要請が無理なことを伝えにきたんだとさ。各地で魔物が凶暴化していてその対応に追われているから、援軍は出せないんだと」
「はあ! 援軍が来ねえだと!」
ガルシアは声を荒げる。
「まったくバカな話だよ。しかも大臣の野郎、なぜ大臣である自分が来たのに、隊長である私がいないんだって、すぐさま参上するようにって言っとるらしい」
「バカかっ! 何もわかっちゃいねえな。ウェスカ砦にいねえのは、最前線にいるからだろうがっ!」
ガルシアはそう言って机を叩く。激しい音が広間に響き渡り、遠くで休憩していた兵士たちが思わず顔を上げる。
「内務大臣ってのは、一体何をする奴なんだよ。ここが抜かれたら、ポルト王国自体がなくなるって感覚はねえのかよ」
「政治屋は本当に使えないよ。だから私も、ポルティガを離れてこの砦に籠っていたんだがね。ただ、何としても援軍はよこしてもらわなきゃならないから、私がウェスカ砦に行ってくるさね……ガルシア、ダビド、アッシュ、すまんがヴァレンス砦を頼むよ」
エルヴィラはそう言って皆を見回す。
ヤンもホッパーも、そしてウィンもエルヴィラを見る。長年の苦労が皴に深く刻まれている小柄な老婆に見えるが、実際にはポルト王国で最高の土魔法使いである。
エルヴィラが一人で魔法を放てば圧倒的に速いその『サンドウォール』を、部下の魔導士たちに教え込み、全員で構築する仕組みに転換した。個に頼らずに防御力を高めるその方法が、<鉄壁>の第2隊の強さの源泉になっている。
「……ああ、それなら仕方がねえ。こっちはなんとか耐えておくから、大臣のケツひっぱたいて援軍連れてこさせてくれ」
ガルシアはそう言って笑う。
エルヴィラはガルシアに向かって小さく頷いた後、部下である二人の副隊長を見る。
「……ダビド、胃痛の原因を増やしちまって悪いね」
「いえ、エルヴィラ様はまったく悪くはありません。悪いのはポルティガの大臣たちです。彼らときたらまったく現場を何もわかっていません……」
「アッシュも……すまんな」
「……中央の貴族の奴らめッ!」
ガルシアのときと同じように、アッシュも右手を激しく机に叩きつけた。
激昂に対して、アッシュの目は、周囲の温度が一瞬下がったと思えるような冷たさを帯びていた。
「貴族、お嫌いなんですか?」
ヤンがアッシュにそう訊ねる。
「……ああ、大嫌いだよ。だから、俺は第2隊にいるんだ。中央のろくでもない貴族と関わらなくてもいいから、辺境常駐の第2隊は天職なんだよ」
アッシュはそう言い切ると、再び机を打ち付けようか迷っているように、握った手を震わせている。
(……ヤン副隊長?)
ウィンは、ヤンの反応を見ていた。ヤンは何かを確かめるように、アッシュを見つめている。
「まあ、アンタたち第15隊が色々あるように、私たち第2隊は中央があんまり好きじゃない者の集まりってことさね」
エルヴィラはそう言って立ち上がる。
「大臣のケツを、助走をたっぷりとつけて蹴ってくるよ」
――11月6日、10時。ヴァレンス砦、大広間。
「何かが起こるとしたら、今日の可能性がとても高いです」
第15隊だけになったときに、ヤンが言った。大広間の端に、ガルシアとヤン、ホッパー、そしてエヴァとウィンがいる。
「エルヴィラがいないときがチャンスっていうことか」
ガルシアが両腕を組んで胸をそらし、広間の中を見回す。
「はい……エルヴィラ隊長は常に砦を巡回し、全体に目を光らせていました。裏切り者が何かをしようとすることの抑制になっていたはずです。それに、エルヴィラ隊長の土魔法はレベルが違います。そういった戦術的な意味でも、エルヴィラ隊長が不在の今が絶好のチャンスなのです」
「まったく、やっかいじゃねえか」
普段からやっかいごとに抵抗なく首をつっこんでいくホッパーが言うと、なぜかそれほど深刻そうには聞こえない。
「私たち第15隊は今日18時からの夜勤です。12時から18時の間も、屋上などにいて、戦況をしっかりと把握しておいた方がよさそうです」
「すぐ動けるように、か」
ガルシアがヤンの意図を確認する。
「はい、そうです。私は今日が危ないと想定して、第15隊から他の4人を連れて別の動きをします。私がいない間に何かあった時は、この砦を捨ててウェスカ砦に後退してください」
「この砦を捨てるだと?」
ガルシアが片眉を吊り上げる。
「はい、そうです」
ヤンは冷静にそう断言する。
「何かがあったときに、このヴァレンス砦にこだわる必要はありません。ウェスカ砦に後退し、そこで食い止めるしかありません。一番まずいのは、ヴァレンス砦にこだわり、主戦力が失われてしまうことです。先程のエルヴィラ隊長の話でも援軍が来ないとありましたが、だからこそ、強力な戦力は絶対に失うわけにはいきません」
「ダビドにも協力してもらっているけど、内通者はまだわからないわ。相当慎重な奴ね」
エヴァがやれやれと言うように両手を広げる。
「尻尾を掴めればと考えていましたが、相当厳しい局面です。もちろん、この心配が杞憂に終わればいいのですが、備えはしておくべきです」
皆が押し黙る。
「早出残業確定か……」
静けさの中、ウィンがしみじみと言う。
「ウィン、頼みますよ。今日は長い一日になりそうですから」
ヤンはこんなときでもいつもと変わらないウィンに、どこか安心したように微笑む。
ただ、ヤン自身、心の中の懸念は、消すことができずにいた。
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