<12> 異端審問官と屋上の戦い
(どうする……?)
扉が開かれる。ウィンは咄嗟に扉の影に隠れる。扉は外から押すタイプで、男が開いた扉の影にちょうど入り込む。
男は机の前まで歩いていくと、旅行鞄の口を開く。
「あったあったわ」
そう独り言を言うと、何かを取り出し、再び旅行鞄の口を閉める音がする。ウィンは扉の影に身を潜め、息を殺す。唾を飲み込む音が、大きく響くのではないかと我慢する。
そのまま部屋から出ていくと思われた男が、部屋の中央で立ち止まる。
「あら? あらら?」
次の瞬間、男は右足で扉を蹴り飛ばしてくる。ウィンは直前にかわし、扉の影から部屋の中に飛び出る。
異端審問官と呼ばれた男の蹴りで、木の扉に大きな穴が開く。板を割る鈍い音が、激しく響き渡る。
異端審問官はいつの間にか右手に鈍く輝くナイフを持っていた。躊躇なくそのナイフをウィンに向かって切りつけてくる。ウィンは寝具の上に置かれていた枕でナイフを受け止める。
「アタシは鼻が利くの。じゃまなネズミの臭いがプンプンしたのよねえ」
茶色のくせっ毛の異端審問官が、嬉しそうな笑みを浮かべながら言う。ウィンははじめて正面から男の顔を見たが、とても聖職者には見えない残虐な目をしている。ナイフを持つのが好きでたまらないといった表情である。
異端審問官は手にしたナイフを執拗にウィンに向けて切り付けてくる。ウィンは素早い動きでそれをかわし、再び枕でナイフを受け止める。サテン生地が切り裂かれ、枕の中からまるで吹雪のように羽毛が部屋中に舞い散る。
ウィンは異端審問官のナイフをかわし、そのまま回転しながら廊下に出る。
「何事じゃっ!」
廊下に片膝をついたまま、フードをかぶったウィンは顔を上げる。その正面には、物音に戻ってきた司祭と助祭の二人がいた。司祭がそう叫んでいたのだ。
フード越しに、ウィンは助祭を見る。昨日剣を打ちかわした男。
助祭は、値踏みをするような眼でウィンを見る。ローブ姿にフードを深くかぶっており、昨日の騎士と同一人物だとはとても思えないだろう。
「ほらっ!」
ウィンを追いかけて部屋の中から、ナイフを持った異端審問官が切り付けてくる。ウィンはその攻撃をかわし、壁を蹴って司祭たちが来たのと反対側に着地する。
「何者だっ!」
司祭が叫ぶ。
「名乗るわけないだろう」
ウィンはそう言うと、すぐに振り返って駆け出す。廊下の突き当りを左に曲がり、走る速度を上げる。教会の4階の長い廊下。右にはたくさんの扉、左には窓。
窓のすぐ下には隣の建物の屋根が見えており、その向こうにはポルティガの市街地の姿が見えている。
こんなに部屋があるのに、なぜ異端審問官が忘れ物をした部屋に入ってしまったのだろう。
(今日は厄日だな……)
ウィンは走りながらそう思う。
「待ちなさいっ!」
ウィンを追いかけている異端審問官が叫ぶ。
「不審者じゃ、不審者の侵入じゃあっ!!」
司祭が叫んでいる声が聞こえている。
ウィンは左手の窓を見る。少し先の窓がちょうど開いていた。正面の突き当りには、固く閉じられた大きな木の扉が見えている。
(……行くしかないか)
ウィンは開いている窓に向けて、助走の速度を上げる。そのまま窓枠を蹴り上げ高くジャンプすると、ドームの建物に隣接する別棟の屋根の上に転がりながら着地する。
転がった時にぶつけた肩の痛みをこらえ、すぐに立ち上がり、再び駆け出す。
振り返ると、同じ窓からジャンプして、異端審問官が追いかけてくるのが見える。
「こういう場所での追いかけっこなんて、とっても新鮮ね」
異端審問官が走りながら、そんなことを言う。
(どうやら、随分と気に入られたようだ)
ウィンはそう呟くと、そのまま別棟の建物の屋上を駆けていく。
しかし、別棟の建物はすぐに端に行きついてしまう。視界の先には街路樹があり、その先には人が行きかう通りが見えている。左手には河があり、右手には路地がある。
つまりは、行き止まりだ。
ウィンが振り返ると、目の前には異端審問官が不気味な笑顔を浮かべて立っている。
「聖心教会の異端審問官は、随分と手荒なんだな」
「神の教えを体に覚えさせるのも、異端審問官である私の重要な仕事なのよ。開港祭に向けてこの街に来るのはあまり気が進まなかったけど、来た早々楽しい狩りができそうで嬉しい誤算ね」
「狩りって、教会関係者の言葉じゃないな」
ウィンはそう呟く。
人に対して狩りという言葉を使う者に、まともな者はいないだろう。
「あらぁ、そうでもないわよ」
異端審問官がナイフを手に持って向かってくる。ウィンは再びナイフをかわすと、異端審問官のナイフを握っている右手を押さえ、なんとかナイフを離させようとする。異端審問官は右膝で激しい蹴りを繰り出してくる。
「うっ」
ウインは異端審問官の蹴りを体で受け、思わず声を出す。
次の瞬間、異端審問官はナイフを持った右手を突き刺してくるが、ウィンはすぐに体を反転させ、ナイフを持った腕からナイフを叩き落とす。屋上の床に落ちたナイフが、何度かバウンドして跳ねていく。
ウィンと異端審問官は組み手のような形で両手を合わせる。異端審問官の動きは素早く、こんな異端審問官がいてたまるかとウィンは思う。
ウィンは一度間を溜めた後、回し蹴りをお見舞いする。異端審問官が吹き飛ばされ、屋上の床に尻餅をつく。
「ふぅーーー」
ウィンは型を維持したままリズムをとり、小さくステップを踏む。騎士たちは剣だけではなく拳闘なども学ぶ。ウィンはいつも〈魔の森〉仕込の野性的な自己流の拳闘になってしまい、騎士学校の教師たちに目をつけられていたことを思い出す。
「お前の格闘は人相手じゃなく、魔物相手なんだ」
教師たちは何度も繰り返しそう言っていた。致命的な影のように身体に染み付いて離れないウィンの本能。
ウィンは結局、騎士学校を卒業するまで綺麗な騎士の格闘術を身につけることが出来なかった。
「痛いわね……痛みは倍にして返さなきゃね」
転がったナイフを再び手にした異端審問官が走って向かってくる。ウィンは目を細め、そのスピードを看破する。
「おっ--うぉっ」
ウィンの上段蹴りが異端審問官の口元に見事に決まる。異端審問官は後ろに飛ばされ、鈍い音がする。
異端審問官は右手で口を拭うと、「ぷっ」と唾を吐く。その中に血が紛れた歯が一本混ざっていた。
「ウソ……アタシの歯が……アタシの歯の恨みは大きいわよ」
窓の向こうに、僧兵たちが走ってくるのが見える。聖心教会は規模の大きな教会である。自衛組織は、もちろん持っている。
(……やむを得ないか)
ウィンは首振りの動きで周囲の状況を確認する。目の前の身体能力が異常に高い異端審問官。向かってくる僧兵たち。ウィンは一瞬いやだな……という表情を見せる。
「あっ! 待ちなさいよっ」
異端審問官がそう叫ぶ。けれどもその声が終わらないうちに、ウィンは短い助走をつけ、両手を振りかぶって3階建ての別棟の屋上から飛び降りた。
ちょうど河を下っていく小舟が通っており、ウィンはその手前に着水する。激しい水しぶきが上がり、ウィンの全身は一度河の水を頭までかぶってしまう。
ウィンは両手で水をかいて浮かび上がると、ちょうどやってきた小舟に乗り込む。
「な、なんじゃっ」
小舟を操舵していた初老の男が、驚いたように尻餅をつく。
「ちょっと訳ありでさ、乗せてもらうよ」
小舟の上でウィンは立ち上がり、屋上の角に立っている異端審問官を見上げる。振り上げたナイフの刃が太陽を反射して輝いているのが目に入った。
異端審問官はナイフを振り回しながら、何かを叫んでいる。よく聞こえなかったが、呪詛の言葉でも繰り返しているのだろう。
オネエ言葉を使う異端審問官。
(聖心教会には、あんなのが、うようよいるのかよ……)
ウィンはそう呟くと、小舟の上で一度大きなため息を吐くのだった。
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