無理でも会社は行くものです!?
病院を出ると、すでに20時を過ぎていた。福寿は母親の依頼で、正木と一緒に自宅へ向かうことにした。
正木家は、静かな住宅街に建つ小さな二階建てだった。部屋に入ると、すぐにダイニングがあり、その奥の居間に仏壇が見えた。
「主人は、この子が小学1年生の時に亡くなりました。朝起きてこなくて…忙しい人でしたので」
3人はダイニングテーブルに集まった。母親がお茶を並べる。
「圭一、お母さんがお願いしたの。あなたこのままじゃ…」
「俺は大丈夫だよ、まだ若いしさ…」
「正木圭一さん。まずはここで落ち着いて。無理に出勤しても、体と頭が動かなければ意味がないのよ」
「でも、明日は仕事に行かないと」
すると、母親が一通の書面を出した。
「これ、あなたの診断書。『一ヶ月の安静加療を要する』って」
正木が書面を手に取る。
「良い?これが出されたら、事業者側…要するに会社ね。会社側は拒否できないの。つまり、あなたは休んで良いのではなく、休まなければいけない立場なの」
「休まなければ『いけない』??」
「そう。明日、会社に電話してそれを伝えるの」
「無理ですよそんなの。絶対認められるはずがない」
正木の声が大きくなった。
「認めないという選択肢はないの。それほどこの紙には、法的な力があるということ」
「無理ですって…そうじゃなきゃ、僕はこんなになっていない」
「落ち着いて。明日何時に電話する?私、その時間に来るわ。横でアドバイスするから、ね」
正木が顔を上げ、福寿を見た。
「一人で闘うわけじゃない、安心して」
そう言って、福寿は正木邸を後にした。
翌朝、8時に福寿は正木邸に来ていた。始業は8:30からだ。その時間に合わせて連絡をする。事前に言うべきことをレクチャーし、確認した。
8:30ちょうどに、正木は震える指で会社の番号を押した。福寿は隣に座る。
「大丈夫。ゆっくり、はっきり話して。もし詰まったら私がアシストする」
福寿の話に、正木は小さく頷いた。
スピーカーフォンに切り替え、レコーダーの赤いランプが点灯した。
「もしもし…正木です」
「おい正木!遅刻だな。始発で来るんじゃなかったのかよ。朝五時からの分も欠勤控除な。今から来い」
上司の声は、昨日の心配など微塵も感じさせなかった。
「昨日、倒れて病院に運ばれまして、医師から診断書が出ました。一ヶ月の安静加療を要すると…今日は、出勤出来ません。診断書は、近いうちに郵送します」
「なに診断書?怠け者が何言ってるんだ。
お前が入社して十ヶ月、誰が一番結果出してねえと思ってんだ?偉そうに抜かすな」
正木は青ざめていた。受話器を持つ手が激しく震え、声が上ずる。
「でも…医師の指示です…」
福寿が素早く正木の腕を軽く叩き、書いたメモを見せた。
[就労困難です。診断書の写しを近日中に人事部宛に郵送します]
正木は深呼吸して、福寿のメモをなぞるように、かろうじて読み上げた。
上司がさらに何か言い返そうとしたが、正木は「失礼します」と早めに電話を切った。
受話器を置いた瞬間、正木の背中がぐったりと椅子にもたれかかった。
「よく頑張ったわ。正木さん本人が話したことで、会社側も『本人の意思』として記録に残るから」
正木は机の上に置かれていたお茶を、一気に飲み干した。
「内容証明郵便で診断書を送りましょう。私が文案を作るからね。それで、会社の出方を待ちましょう」
正木は心配そうな表情で、福寿の目を見る。
「これ…福寿さんに代わってもらうことは出来ないんですか?」
「代理行為は、社会保険労務士には許されていないの。非弁行為と言ってね…」
それを聞いて、正木は俯いてしまった。
「大丈夫よ。一緒についているから」




