63 拒絶のエレーナ・レーデン
「やめて――」
敵はもういない。周囲の森は、数分前の生命力を完全に失っている。
風が吹くだけで枯れ葉が舞い、地面に倒れ伏す敵兵を覆い隠していく。
ミアの口が自然と開いた。
スーヤの爪が食い込んで流れ出た血は、既に止まっていた。
「やめてよ、押し付けないで……」
彼女の顔は、怯えに染まっていた。
誰かを殺し、誰かに殺される。その痛みを誰よりも知っている魔族に、ひとつの感情が芽生える。
――友達に、進んで人殺しをしてほしくない。
それだけならば綺麗なものだ。しかしミアの中には、そこに自分という理由が介在していることに、ひどく怯えた。
自分のせいで、スーヤの手を血に染めさせてしまう。
スーヤが殺人鬼になってしまうわけではない。分かっている。けど、誰かが責めたらどうする。「お前のせいでスーヤは穢れた」と。
そんな"誰か"などいないことも分かっている。この声は、ミアの内面の自罰的な声だ。
「私のっ……せいに、しないでよ」
「……じゃあ、誰のせいにすればいい」
ミアが恐怖すら覚えていた藍色がほんの少し揺れる。
「誰のせいで、あたしは人を殺してる?」
スーヤの心は、限界に近付いていた。
戦場という非日常に放り込まれ、誰かを殺し、誰かから殺されかけ、狂気と殺気に呑まれそうな空間に居続けた。
普通ならば誰のせいだとか何のためだとか、そんなことを気にする余裕などない。死にたくない、生きて帰りたい。生き物として当たり前の本能に従って、無自覚に吞まれていく。
スーヤは違った。彼女には余裕があった。
魔法の才能に溢れ、目の前の生に必死でしがみつくだけではない。自分が何をしているのかを、客観的に見られる余裕が。
戦争だから、やらなきゃ死ぬから、誰かが死ぬから、誰かを殺さなければならない。人間が人間を――同族を殺すなど、本能的に忌避する行動をやらなければならない。
少女に考えさせるには背負わせるには重すぎる事実に、スーヤは蝕まれていた。
先日の特攻の時、自分が何のためにこのような所業をしているのか内心戸惑った。
戸惑いは綻びを生み、心を壊してしまいかねない。
その時はまだよかった。それから逃げて、追われて、隠れて、また追われた。
殺すのは痛い、殺されるのは嫌だ、なのに敵はやってくる。自分がやらなければ、皆が死んでしまう。
ダウナー少女が表に出さない心の悲鳴は、確かに蓄積されていく。
そしてスーヤは答えを見つけた。心を壊さないための言い訳を。
友達を守るという、たったひとつの、納得できる殺しの口実を。
「ミア」
「スーヤ、言わないで……もう何も考えないで、休んで」
ミアの本音は、冷たいものだった。
殺しの言い訳に自分を使うなという、痛みの共有の拒否。
かといって、友人を突き放せるほど非情にもなれない。
拒否しながら、拒絶できないでいる。
言い訳を得て、守るために、スーヤは人を殺しやすくなる。
友人として、進んで誰かを殺す痛みを背負ってほしくない。ミアは素直にそう思うし、それを自分のせいにしてほしくない。自分をスーヤの弱みにしてほしくない。
自己保身と友情が捏ねられ混ざり、言葉にし難い拒否感を生む。
ミアは小さな体をもって、より小さい少女を胸に抱いた。
どちらも細い体だ。ガラスとガラスがより合って砕けないような抱擁だった。
「私は嫌よ……御免だわ。私を使わないで。逃げてよ」
「いいや……元から、オマエだったんだ」
連邦のため、故郷にいる家族のため。公明正大な理由はいくらでも転がっている。
それは自他共に殺人を許す免罪符であり、戦争だから許される理由だ。
そうすればいい。なのにスーヤはできない。
連邦に尽くす志も無ければ、故郷が戦火に巻き込まれることへの不安や恐れといった感情も無い。
スーヤが何故、学園長室で首を縦に振ることになったのか。その理由を彼女自身が紐解いて、読んでみる。それは口から出た通り、ミアだった。
友達が心配でついてくる。どこかへ行くときによくある理由だ。そのどこかが、戦場だった。
彼女がここに来ると決めたのは、ミアが真っ先に進み出たからだ。
それがなければ、今も学園でのんびりしていたかもしれない。
ミアにとっては自分の目的への最短ルートだと思っていた行動は、思わぬ巻き込みを生んだ。
そのことに責任感を負えるほど、無駄に他よりも長生きしている彼女は強くない。
「ごめんなさい……」
人殺しにさせてしまった。
気付いてしまった。
勘違いかもしれない。まったく違うかもしれない。
それでもミアには、自分のせいでという思いが生まれてしまう。
スーヤが自分のためにここまでついてきて、自分のために人を殺しているなんてことに、気付いてしまった。
「スーヤ、私……あなたにそんなことしてほしいわけじゃ……!」
「2人とも、無事か?」
周囲が静かになったことにより、キラミルらも一旦の平静を取り戻す。
震えながら抱き合う少女2人という図は、傍から見れば庇護欲をそそられる光景に見えるだろう。大人組がどうしたのかと寄ってくる。
「なんか、助かったん……だよな?」
「前にも見た。これはルーニャ家令嬢のおかげだ」
スーヤの【吸収】の力を目の当たりにしたことのある者は、すぐさま気付く。
明らかに生命力というものが消えた森。魔法でなければありえない。
歪で恐ろしい光景だが、今は安堵の対象だ。
「先生、スーヤはちょっと……」
「わかった。ブロンズがついてやってくれ」
魔力切れだと思ったのか、キラミルは2人をそっとしておくことを快諾した。
リーパーやシフォンなどは心配そうに見てくるが、話しかけないでいてくれるのはありがたい。スーヤのメンタルはボロボロで、それを受け止めたミアの心も軋んでいる。
このまま村を目指して進むにしろ、少しリセットが必要なのだから。
「スーヤ、行くわよ」
「……ああ」
ミアの胸から離れた後も、スーヤは手を放そうとしない。
ギュウと握られ、熱が伝わってくる。
「スーヤ、暑い」
抗議の声にも力はなく、むしろ腕を絡めることに繋がった。
「ちょっ」
「うるせぇ……」
先ほどと同じ、低い声。
ミアの体が少し強張る。この低い声を聞くのは、心によろしくない。
「あたしが守ったんだ、オマエを……」
スーヤは確かめるように、腕を抱きしめる。
ミアはこの対処法を知らない。
人より長く生きていても、分からないことだらけだ。
「なぁミア」
「なに」
「……いや、なんでもない」
「やめてよね。ホント、調子狂うから」
スーヤは頼れる先輩で、近しい視点で話せる友人で、比較的気兼ねなく接することのできる数少ない人間だ。そんな彼女を邪険にあしらいたくはない。
だが今だけは、ミアは彼女と目を合わせることができなかった。殺気とは違う類のドロリとした目は、覗くだけで心を乱されてしまうのだから。
□□□□□
件の村には、夜に差し掛かってから到着した。
幸いにも、村の住人は決死隊の生き残りを快く迎え、食事と寝床を提供した。安静に出来る環境と薬草も。
まるで何週間か何ヶ月ぶりに思える温かい食事に涙する者もいた。
「あなた達のような勇者の末裔を助けることができるとは……喜んで提供させていただきますとも」
村長らしい老齢の男性が杖をついて案内した家屋は、ご丁寧に男女別。寒村というわけではないが、男たちが『リャーヴェ』に強制的に徴兵されたらしい。空き家が目立つのも仕方ないことだった。
「やはり反連邦の武力による侵略は、反発を生んでいるようだな」
「地図もあったし、これで帰れる!」
数日間も張りつめていた面々は、柔らかいベッドではないものの久しぶりの寝具に喜び、これからのことを練る。
基本的には最初と変わらない。連邦領に――できれば『布の国』に戻るというもの。
しかし散々な目にあってきた者からは、否定的な意見も出る。
「俺たちを捨て石にして突っ込ませた奴らのところに、また戻るのかよ」
男子側の家屋の中。誰かが発したその言葉に、誰も反論できない。
大義のために戦っている自負はある。無辜の民を守るため、自分たちの生活を守るために敵と戦うのはもっともで、聖剣氣という力もあり、人々から望まれている。
それでも限度がある。
自分たちは特別な存在じゃなかったのか。失敗を前提とするような無謀な特攻をさせられるような立場なのか、もっと上のはずじゃないのか。
傲慢とは呼べない。あまりにも安く使われた彼らの不満はもっともだった。
「でも、逃げるなんてできないだろ」
「逃げていいんじゃね? 普通の兵だって逃げてる奴はごまんといる」
「連邦領に入っちまえば、『柱の国』辺りにでも行けば安全だろ」
なにも自分ひとりが戦っているわけではない。戦力も聖剣氣持ちも、他にいる。
戻ってまた捨て石にされるくらいなら、故郷に帰って家族ごと引っ越した方がいいという考えも出た。
「……ってか、あのハゲ。思い出しただけでイライラしてくるな」
「ホントだよ。自分は後方にいるってのに」
「頭下げりゃいいと思ってんのかっつの」
やがて論点は、自分たちをこんな作戦に巻き込んだエンバスへと向かう。
大人も生徒も関係なく、口々にここにいない者への罵りがヒートアップする中、一言も発さなかったリーパーは口を閉じたまま外に出た。
「寝ないの?」
月明りに照らされた亜麻色の髪が美しいと思ったのは、初めてのことではない。
といっても美しいと思うだけ。リーパーはこの少女に恋をしない。
「みんなが元気でね。あそこじゃ眠れない」
「そう」
「ミアさんこそ、寝ないのかい?」
「……外の空気を吸いたくなっただけよ」
あからさまな誤魔化しに、リーパーは追及しない。
こんな状況だ。誰にだって思うところはあるのだろう。と口を閉じる。
「ねぇ、あなたは戻ったらどうするの?」
「僕は軍に戻る。君から学ばせてもらったよ。殺さない戦い方もあるんだってこと」
「また鞘で殴るの?」
「いっそ訓練用のやつを使おうかな」
「そこまでして戦う意味はあるの?」
「あるよ」
断言するリーパーに、ミアは理由の中身までは訊かない。
静かな夜だ。『柱の国』は夜になっても人は行動していたが、このような村の夜には何もない。
寝れないようなピリピリとした空気は、ここにはない。
男手のなくなった寂しい村は、静寂をもって疲れた体と心を癒す。
あの擦り切れそうな友人も、少しは癒されていてほしいとミアは願う。
「私も、また軍に戻るでしょうね」
「君は本当に不思議だね」
浮世離れ、命知らず、色々と変わった少女に、リーパーは何度目かの感想を漏らす。
言われ慣れ、返す言葉もないミアは、笑って流した。
「君にも、戦う理由があるんだね」
「ええ。私はなんとしても、確かめなければいけないことがある。そのために、関わりたくもないことに関わってる」
「そう、か……それは、僕にも協力できることかな?」
「いらないわ。あなたがどれだけ強くても、これは私の戦いだから……というか、内容も聞かずに協力するしないってなんなの?」
小さく噴き出すリーパー。それを見て、ミアは思う。
彼は変わっていない。揺らいでいない。人助けを是とする彼なりの勇者らしさを、どんな時だろうと掲げている。
彼も他の者と同じくらいの痛みと苦しみが降り掛かっているはずなのに、彼も理想と現実の間で苦しんでいるのに、まるで汚れない黄金のような心を保ち続けている。
「なんなんだろうね。僕にできることをやりたい……っていうのかな」
「どんだけお人好しなのよ。そこまで行くと病気よ」
「なんでもいいさ」
「やっぱりあなたのことは苦手だわ……でもまぁ、ありがとう。お互い生き残るといいわね」
それきり立ち去ったミアの背中をリーパーは呆けたように見続け、柔らかくなったものだという感想を抱く。
初めて会った時、図書館で怒鳴られた時、修学遠征のエデミナ大森林で火を囲んだ時、それらの頑ななまでの寄せ付けない雰囲気は、もうあまり感じられない。
何がきかっけか、おそらくは長く恋人と過ごしてきた彼女のおかげだろうか。
だがミアはその彼女と離別した。リーパーの耳にも噂は入ってきていて、見送りに彼女がいなかった。
きっと好き合っていたはず。なのにそれを振り切ってまで、戦場なんて場所にやってきた彼女の目的は、果たしてどれほどのものなのか。
リーパーはそこまで考えて、やめた。
自分は未熟だ。今の自分には、誰も彼もを助けることはできない。ミアのことも、きっと自分が手出しできる領域ではない。
悔しさがこみ上げてくる。
勝手に同情して、勝手に悔しがっているという自覚はある。
それでも、手の届くものを守る『勇者』への思いは、変わらない。
「もっと強ければ、なれるのかな……兄さん」
大きな世界でちっぽけな村にいる青年は、兄への思いを、兄を止めるという強い思いを燃やし続ける。
□□□□□
深夜、ミアは自分の布団に何かが侵入してくる感覚に目を覚ます。
敵ではない。敵ならばこんなことはせずに剣で一突きされているはずだ。
持ち前の寝起きの悪さを改めることもなく、まどろみの中で目を開けると、そこには藍色の瞳があった。
「ん……スーヤ?」
「……悪い、今だけ、だ」
「なに、を……」
「あたしが、まもっ、ん……」
体の感覚が戻ってくる。変に起きてしまった。
どうやらしがみつかれているらしい。
存在を確かめるように、スーヤの小さな体が、それよりも少し大きいだけの体にへばりついている。
「眠いんでしょ。寝なさい」
「ミア……っ」
「やめて……」
「今だけ、今だけだ……明日からは、戻るから」
「スー……ん、ぅ……」
熱が伝わってくる。
繋ぎとめなければ、死んで消えていってしまう。スーヤはそんなことを思っていたりするのだろうか。などとミアは考えるが、寝ぼけた頭は上手く回らない。
普段からクレアが苦労しているほどなのだ。ちょっとやそっとじゃ起きやしない。
なんなら意識はとっとと沈みたがっている。
幼子が自分の胸で泣きそうになっている。
閉じかけた瞼でそれだけを認識し、遠い遠い記憶を手繰り寄せる。
同じ幼子だった頃、泣いている時に頭を撫でてくれた温かい手。
黒い髪、白い肌、優しい瞳。
「お……かー……さ――」
ふと、記憶の中の人と同じことをしようと思った。
ボサボサの髪に手を添え、頭の形をギリギリ認識できないほど沈ませ、動かす。どういう手つきだったか。優しかった以外が思い出せない。
前、後、上、下、往復、往復、往復。
「ミア……?」
呼びかける声がする。返事をしようとするが、喉からは声にならない呻きしか鳴らない。
目はとっくに閉じていて、呼吸の感覚も長くなっている。
完全に意識が溶けるまでの片時、ミアは手を動かし続ける。
そういえば、スーヤの心臓はうるさいんだな。
ミアの眠りの前のまとまりのない思考は、そこで落ちた。




