6
一年前のあの日、彼女はやりたくもない仕事の帰りに、良いワインを見つけて上機嫌になっていた。
音楽の街と謳われるフィーリーンでは、そこかしこから、音楽が聞こえてくる。その音楽を肴に、歩きながら美味いワインを飲むのは、彼女にとって生を実感できる瞬間でもあった。
行き交う人々の視線を集めても、一向にかまわなかった。
やがて、聞き覚えのある音が耳に届く。
「ああ、キャロル嬢か」
グラスに薄紫色の花を咲かせながら、独り言のように呟くと、しばしその音に耳を傾けた。
「そういえば、彼女に渡したのは、古い習作だったな……」
湖畔を思わせるような柔らかい音に、一本の芯が通っている。
楽器だけでも、技術だけでもこうはいかない。
と、習作とはいえ、楽器を預けることを決めた自分の慧眼に、彼女は何度も頷きながら歩いていた。
その先で、妙なものを見つけてしまった。
キャロルの音だけが響くそこで、一人の少女が目を閉じて、その音に聞き入っている。
栗色の果実を思わせる鮮やかな色の髪、その上に生えた獣のような耳。
珍しい事もあるものだ、と彼女はその少女を見据えた。
不意に彼女の中で、水がひとしずく、滴り落ちた。
何故かはわからなかった。それでも――
そっと少女に近づくと、その獣の耳がピクリと動いた。
少女の頬を、一滴の水が伝い落ちる。
その瞬間、確信が生まれた。
この子だ、と。
6
「いや、弾けなきゃダメだろう」
その時のメリルは、不思議なものを見るような目でエミエルを見ていた。
「で、でも、先生……」
楽器を構えたままで、エミエルは縋るような目でメリルを見つめ返す。
「ああ、うん。何も演奏家になれ、といっているんじゃない。楽器を作るものとしては最低限弾けた方がいいだろう?」
「それは、そうだと思いますけど……」
「ならやる事は一つだ」
「うぅ……」
メリルが顎をしゃくりあげる。これ以上は無駄だと悟ったエミエルは、楽器を構えなおすと、静かに弓を滑らせた。
――まるで、川でおぼれた大きな動物が、甲高い悲鳴を上げるような音が響いて、エミエルの耳の毛までが逆立つ。
それでも、メリルは表情一つ動かさずにそれを見つめていた。
「うん。才能は、ないな」
「うぅ……」
ただ、スケール*を弾いただけなのに、メリルはバッサリと切り捨てるように言った。その言葉に、エミエルはがっくりと肩を落とす。
「気にする事はない、練習すればどうにかなる。それにお前の必要なのは演奏の才能じゃない」
メリルが立ち上がると、エミエルから楽器をそっと取り上げて構えた。
静かに弓を滑らせると、あの時聞いた音が響いてくる。
それは、工房を支える樹木の中を流れる水と静かに共鳴し合うと、エミエルの体の中に染み込んでくるような気がした。
目を閉じると、暗闇の中でその音が形になっていく。
――雨だ。
雨のしずくが屋根を打って、それが軒を伝って大地に跳ねる。それがいくつも重なって、一つの旋律を歌い上げると、雨雲の隙間から静かに光の階段が現れる。
音と雫が、その階段を駆け上がって、雲の隙間に消えていく――
「私も、プロではないからこれくらいなものだ。なに、いずれ弾けるようになるさ」
演奏が終わって、エミエルが目を開けると、メリルが照れたように早口でそう言った。
それ以来、楽器練習もエミエルの朝の日課に加わった。
今朝も、試奏室にあんまりな音が響く。一年近く同じ曲を練習しているが、エミエル自身、よくなっているかの判別が出来ないでいた。それでも、メリルは真剣な表情で、眉一つ動かさずに見つめてくる。それでいて、いいとも悪いとも言わない。
だから、そんな視線にどうにも居心地の悪さを感じてしまって、つい逃げるように物思いに耽ってしまう。
この、不均衡で粒もそろわない、悲鳴のような音を聞きながら、メリルは何を考えているのだろうか――
「集中」
そんな事をぼんやりと考えながら楽器を弾いていると、そう一喝されてしまう。メリルは微かな音の乱れすらもわかるのか、エミエルが集中していない事をすぐに見抜く。今度こそ演奏に集中して、必死に一曲を弾き終えた。
弓をヴァイオリンから離すと、試奏室の中に静寂が満ちていく。メリルは何も言わずに彼女の所作をじっと見つめていた。
彼女が楽器を下ろしたところで、ようやくメリルが小さくため息をついた。
それを合図に、彼女もまた、小さく息を吐く。
練習が終わると、エミエルは楽器ケースの中から色違いの布を取り出した。
まず弦を、目の粗い麻布で丁寧に拭き始める。それが終われば、楽器の表面をもう一枚の目が細かい綿布で丹念に拭いた。磨かれた黒い表板に、メリルが小さく頷きながら見つめているのが映り込んでいた。
それが終わると、今度は四本の弦を支える駒を、あらゆる角度から何度も見た。
演奏前と後では、この駒が引っ張られて動く事がある。その微細な違いでも音が変わってしまう。エミエルはまだ、何度見てもそれを見抜くことはできなかった。それでもメリルは何も言わずにその様子を見つめている。
最後に、弓の張りを緩めて、楽器ケースに収める。
「待て、今日の湿度は覚えているか?」
「あっ」
メリルの鋭い言葉に、エミエルは慌てて、閉めようと蓋にかけた手を離す。
「ペグを確認しなさい」
「は、はい」
今日の湿度が低い事は、朝のニカワの乾き具合でもわかっていたはずだった。エミエルは小さく深呼吸して、楽器ケースからスクロールを起こすと、ペグをゆっくりと回す。その滑り具合を見て、ケースの中の乾燥材を一つ取り除いた。
「うん、そう。ペグ部分の確認も忘れないように」
「はい」
それから、ようやくケースの蓋を閉めると、エミエルが改めて振り返った。
「先生、お願いします」
丁寧にお辞儀をすると、メリルが頷く。手入れの最終チェックはメリル自らが行う。
メリルが蓋を開け、まずは弦を指ではじいた。
それだけなのに、エミエルの音とはまるで違う。あの雨の音が蘇ってくる。
けれど、その余韻に浸る暇はない。
エミエルと同じ手順、しかしその速さと丁寧さは段違いだった。弦の一本一本を裏側まで拭き上げ、楽器の表面もエミエルが拭いた時よりも輝きを放っているように思える。駒を微かに調整し、ペグを確認したメリルは、乾燥材をさらに一つ取り除いた。
その一挙一動を、そのメリルが奏でる手入れの音を、エミエルは瞬きもせず見て、聞いていた。
「うん、まあ、及第点だ」
「は、はい」
メリルはいいとも悪いとも言わない。だから、及第点という言葉は、今のエミエルにとってほんの少しだけ救いになるような気がしていた。
木を削る音、ノミを叩く音、木が裂ける音。
熱せられた鉄ゴテに押し付けられた、木の水分が蒸発する音と匂い――
その全てが、メリル一人から発せられていた。メリルは一言も発することなく、ただ木と向き合っている。エミエルもまた、その手つきを見ながらも、音と匂いに想いを馳せていた。
カンナで木材の表面を削りだした時はごつごつと木肌が波打って、ざらりと毛羽立つ。メリルが手を動かすたびに、それが滑らかにつるりと整っていく。
削り屑が花吹雪のように舞う。それが宙で軌跡を描いて床に落ちると、微かな音紋が広がっていく。
それは丁度、水面に吸い込まれた花弁が波紋を広げるかのように。
――魔法のようだ。
初めてこの光景を見た時も、エミエルはそう思った。
メリルの「仕事」は、どんな場面においても、澄んだ芯を響かせるような音がある事を感じていた。それを言葉にしようとしてみても、形を持つことを拒むように口の中で溶けてなくなってしまう。
けれど、それがすべてあの「雨」のような音へとつながっていくような気がしてならなかった。
メリルの動き、それが奏でる音を一つたりとも見逃さないように、聞き逃さないように。
エミエルは、五感を研ぎ澄ます――
*スケール:音階のこと




