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「君、私の弟子にならないかね?」
作りかけのヴァイオリンと、エミエルを交互に指差しながらその女性はそう言い放った。
「えっ……えぇぇっ!?」
「そうだよなあ、これだけじゃ何もわからないよな」
「えっ、ちょっ」
女性はエミエルの手を半ば強引に引いて、木と鉄の匂いが混じるそこを出る。
やってきたのは、小さな部屋。夜のそれに似た濃密な空気が、そこを満たしているようにエミエルには思えた。その部屋の真ん中に座らせられたエミエルの目の前で、女性は楽器ケースから一挺の楽器を取り出した。それは、見たこともない、光さえ吸い込むような黒に覆われた――ヴァイオリンだった。
「やはり、音を聞いてもらわねばな」
「あ、あの……」
エミエルの声を無視するように、女性は楽器を構えると、静かに弓を滑らせた。
その瞬間、彼女がこれまで聞いた事も無い音が、忽然と現れた――
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工房の扉を開けると、木や鉄の香りよりも先に、胃の中で葡萄が発酵したような甘酸っぱい臭みが、エミエルの鼻腔を直撃する。
「うぐっ……」
覚悟はしていたものの、それでも思わずしかめっ面になってしまった。鼻をつまんでそっと中に入るも、気休め程度にしかならない。二階から聞こえる、寝返りを打つ衣擦れの音と一緒に、お酒の匂いまで降りてくるようだった。
息を止めながら、早歩きで廊下を渡り、まずは地下への扉へと向かう。素早く中に入り込むと、そこでようやく大きく息をついた。
目の前には地下へと続く階段がある。外の寒さほどではないが、停滞した空気がひんやりとして心地よい。同時に微かな木材の香りが彼女の鼻腔をくすぐった。
ここには廊下に充満していたようなお酒の匂いは届かない。
もう一度大きく息を吸い込むと、今度は木材やニカワなんかの薬品の香りがエミエルを包んでくれた。
「今日は湿度が低そう……」
空気を掴むように手をかざしながら彼女は呟いた。階段脇にかけてあったランプに火を灯すと、ゆっくりと階段を下りていく。
靴音が地下に響いては返ってくる音もまた、心地よく感じられた。一歩降りるたびに木材の甘いような香りと、ニカワの鼻を衝く匂い、そして苦いような清々しいような炭の香りが強くなっていく。
降り立った地下は狭くはないが、所狭しと棚が並んでいて、無数の木材が収められている。
その中央には、少し広い空間があった。
そこは四角に区切られた砂場のようになっていて、その中央には燃え尽きた灰と形を残したままの白い炭が鎮座しているが、火の気はない。
囲炉裏という東の国の文化らしい。
メリルがこれを、湿度管理にちょうどいいとして導入した、という話を聞いた事があった。
炭の残り香を一瞥して、彼女は材料棚のそばにあるアルコールランプに火を灯す。さっき嗅いだ匂いとは別の酒精の香りが一瞬、エミエルの鼻腔を過って行った。
ニカワを溶かして、すぐそばの木に塗り付けると、刷毛の先から固まり始めているのがわかった。
思った通り湿度が低い。
彼女は、隅に置いてあった桶の蓋を取って、棚の周りに少し打ち水をすると地上へと戻った。
「さて、次は……」
階段を上がりながら呟くようにして廊下へ出ると、再びあの臭気がエミエルの鼻をつく。
「ああ……最初はそこからだよねー……」
小さく嘆息すると、玄関脇に掛けられている彼女の作業用のベストとエプロンを身に着け、長い髪をまとめてキャスケット帽ですっぽりと頭を覆う。ベストのポケットから、厚めのハンカチを取り出すとそれを口に当てるように巻いてマスクにした。
「よし!」
決意を固めるように意気込むと、今度は地下への扉と反対側にある試奏室、その手前にある階段を大股で登っていった。
二階にあるメリルの私室のドアをノックするが、返事はない。
「おはようございます、あけますよー……うぐっ」
ドアを開けると、より強い酒精と、酒飲みの体臭がエミエルの鼻を強く打って、思わずマスクの上から鼻を押さえてしまった。
メリルの部屋は惨憺たるありさまで、着替えや書類、本、そしてワインの瓶やよくわからない角形の空瓶がそこかしこに転がっている。ベッドに横たわるメリルは、薄い毛布と酒瓶を抱き枕にしてすやすやと寝ていた。
何度掃除しても、少し日を置くとこうなってしまう。仕方なく、寝ているメリルを横目に掃除を始める。けれどそれもまた、初めてここへきた一年前からの日課のようになっていた。
掃除を進めていくと、ふと、壁に掛かっている古いヴァイオリンが目に入る。これもエミエルが初めてこの工房にやって来た時から、変わらずにあるものだった。
メリルの私室の惨状の中で、唯一これだけは、まるで無風の聖域のように静かに佇んでいる。
ずっとそこにあるように見えて、一切傷んでいないそれは、エミエルの知らないところでメンテナンスされているのだろうか。
メリルがそのヴァイオリンについて語ったことはない。
やがてメリルが大きく息を吸い込むのが聞こえた。エミエルは掃除の手を止めて、すぐに外へと走り出す。
逃げだしたわけではない。
外にある井戸へと向かった彼女は、桶一杯分の水を汲んで、それを地下室扉の横に設えてあるキッチンへと運ぶ。
整頓された、というよりはメリルが使った跡が見えないキッチンで、コップと水差しを用意する。それをトレイに載せて部屋へと戻ると、丁度メリルがベッドから体を起こしたところだった。
「……みずう」
寝ぼけ眼のままメリルが呟く。
「はい」
間髪入れずに渡した、よく冷えた水を勢いよく飲むと、メリルは大きくため息をついた。
「ありがとう、今日の湿度は?」
「低めです、打ち水をしておきました」
「よろしい」
メリルが彼女の言葉に頷くと、ベッドから立ち上がって大きく伸びをした。エミエルが部屋の窓を開け放つと、差し込む光と冷たい空気が混じって彼女の頬を撫でた。
遠くからは街の喧騒が、微かに耳をくすぐっていく。
背後からは布の擦れる音が聞こえてきて、振り返れば、すっかり着替えの終わったメリルが、笑みを浮かべて彼女を見つめていた。
こうして、工房『プレセア』の一日が始まる。




