4
4
近所のパン屋の窯が閉まる、重厚な鉄の音が彼女の耳をピクリとさせる。
目を閉じたままで耳をすませば、薪の跳ねる音と、生地の水分の弾ける音が微かに聞こえてきた。
思わず、小麦が焼ける香ばしい匂いを錯覚してしまう。
晩冬とはいえ、朝の冷え込みはまだまだ強く、鼻の先から頬までが冷たくなっているのに気付いて目を開けた。その先で、テーブルの上に放置された先日の講習会の資料が目に留まる。
「私、借りは作りたくない方だから」
講習会で出会った銀髪の、気の強そうな女の子の声が耳元で蘇る。
「借りって……なんだろ?」
数日が経った今でも、エミエルは彼女の言葉に首をかしげてしまう。彼女は早口でまくし立てて部屋を出て行ってしまったから、その真意を問うこともできなかった。
身体に心地よくまとわりつく毛布の温かさと、顔を刺すような寒さの中で、そんな事を考えていると、次第に瞼が重くなってくる。
一瞬、目を閉じて――思い切りよくベッドから跳ね起きた。
何か思いついたわけではなく、そうでもしないと、いつまでも毛布の温もりにくるまってしまいそうだったから。
冷たい空気が寝巻の袖から、裾から侵入してきて、彼女は思わず身を震わせた。それでも、お腹に力を入れて立ち上がる。
ベッドから降りると、床が朝の挨拶をするように、小さく鳴った。磨かれた床には、エミエルの微笑む顔が映り込んでいる。それを見止めると、小さな笑いを零してクローゼットへと向かった。
手早く着替えを済ませて、部屋の中をぐるりと見まわす。
ベッドとテーブル、そして小さな作業台と、その上には古い工具が綺麗に並べてある。元々物置だった部屋を使わせてもらっているから、かなり手狭ではある。エミエルは箒を手に取ると、床を丁寧に掃き始めた。
階下からは、薪の跳ねる音、水を使う音、野菜を切る音が断続的に聞こえてくる。箒と床が擦れる音が、それに乗ってリズムを刻み始めた。エミエルと箒は、そのリズムに合わせて、ペアダンスでも踊るように床を磨き上げていく。
小さな部屋を一周したころ、彼女のお腹に住むオーケストラが、突然音を鳴らした。
自分にも聞こえてしまったその音に、頬を微かに染めて、一瞬辺りを見回す。同時に、階下からの音が良い香りに変わって、エミエルの意志とは無関係にお腹の楽器が音出しを始めてしまう。
自分のお腹に、半ば呆れて苦笑してしまうエミエルだったが、箒を置くと、軽やかな足取りで部屋を出た。
「おはようございます」
階段を下りた先にあるリビングでは、既に暖炉に火が入っていて、朝の寒さを感じさせないほど暖かくなっていた。
反対側にあるキッチンには、竈の上の鍋から上がる湯気が立ち込めている。
「おはよう、エミエル」
刻んでいた音が止んで、頭巾にプラチナブロンドの髪をまとめた、落ち着いた雰囲気のある女性が振り返って微笑んだ。
「今日も早いね。もうすぐ出来るから待っててね」
「手伝います」
「ありがとね」
既に盛り付けられた皿を運ぼうとした時、「お腹オーケストラ」は盛大にトランペットを吹いた。
「あ……」
「ふふ、ファンファーレをありがとう。さあ、スープのお通りだよ!」
真っ赤になるエミエルを、彼女は豪快に笑い飛ばすと、皿を持ってテーブルへと向かう。
「おはよー」
そこにピタリと合わせたかのように、少女が階段から降りてくる。その声は小鳥のように軽やかで、エミエルの耳にも心地よく感じられた。
寝ぼけ眼をこすりながら部屋に入ってきた少女の、綺麗なブロンドの髪は寝ぐせでぼさぼさに跳ねている。けれど、少女が通う学園の制服はきっちりと着こなして、それがいかにも彼女らしい、とエミエルは笑みをこぼした。
朝食のテーブルに並んだのは、皿一杯に野菜が入ったスープと、ハムのサラダにロールパン。野菜がごろごろしているのに透き通ったスープや、パンの芳ばしい香りが、食欲をそそる。
三人が席に着き、お祈りの言葉と「いただきます」の声が静かに響いた。
「ねえ、エミちゃん」
「んっ? なんですか? キャロルさん」
食事を楽しんでいると、おもむろに少女――キャロルが口を開いた。跳ねた髪を梳きながら、もう片方の手にはしっかりとパンが握られている。
「工房はどう?」
彼女は、そう言って微笑んだ。
「そう、ですね。正式な弟子としては、始まったばかりですけど……」
エミエルがキャロルに答えて、時々笑い声も交じる会話に、キャロルの母――デュマも、それを静かに見守る。
食事が終わり、すっかり空になった器を全員で運び終えると、リビングでは、デュマがキャロルの髪を結いはじめた。
「あたしも、伸ばそうかなあ……」
キャロルの綺麗なブロンドが、丁寧に結われていくのを見ながら、二人の横に座っていたエミエルが呟く。気持ちよさそうに髪を梳かれているキャロルと、慣れた手つきで編んでいくデュマ。その二人の様子に、ちょっとだけ故郷の母を思い出して、エミエルは目を細めていた。
「ロングなエミちゃん……いいねえ」
キャロルがエミエルの呟きを拾うと、屈託のない笑みを浮かべてエミエルの髪を見つめた。その視線がなんだかくすぐったくて、エミエルの頬に赤色が浮かぶ。
「さ、できたよ。エミエルも、伸ばしたら私が結ってあげるさ」
デュマが髪を結い終えると、二人を見比べて笑った。キャロルとエミエルも顔を見合わせて、頷き合うと、三人はまた同時に笑顔を見せていた。
準備を終えたキャロルとエミエルは、一緒に家を出る。
エミエルは郊外の工房へ、キャロルは街の中心にほど近い学校へ。
「エミちゃん、約束、期待してるからね!」
家を出たところで、キャロルが満面の笑みを浮かべていた。
「えっ、ま、まだ当分先ですよ?」
「わかってるよ、じゃあね!」
「あっ、いってらっしゃい」
「エミちゃんも、いってらっしゃい」
駆け出したキャロルの背に手を振って見送るエミエルにも、笑顔が浮かんでいた。
「約束、かあ」
キャロルとは反対方向へと歩き出したエミエルが呟く。
約束――
それは、エミエルがあの日、メリルに正式に弟子として認められた日に、キャロルと交わした約束の事だ。
「私、エミちゃんの作った楽器で演奏したいわ」
報告に帰った時、キャロルは開口一番そう言って、弟子入りを喜んでくれた。
その隣では、デュマが涙さえ浮かべて何度も頷いていた。
「あたしも、あたしの楽器をキャロルさんに弾いてもらいたいです」
「うん、約束だね!」
そう言って、手を合わせてはしゃぎ合った時に感じた、キャロルの手の温かさと固いタコの感触が、今でも思い出される。
振り返ってみても、もうキャロルの姿は遠くに霞んでいる。エミエルは、見えなくなった背中に、もう一度だけ小さく手を振ると、前を向いて歩きだした。
ゆっくり朝食を摂ったとはいえ、まだ早朝の時分。
雪こそ降ってはいないが、寝床で感じた肌寒さは、外に出た瞬間から冷気に変わって、肌を刺してくるよう。それでも、小鳥たちは囀っては羽音を奏で、澄み切った晩冬の空に消えるように羽ばたいていった。代わりに彼女の耳に飛び込んでくるのは、活気づいた市場の声や通学する生徒たちの声。それから、街の人の匂いやパンの焼ける匂いが、工房に近づくにつれて段々と木や鉄、ニカワなんかの薬品の匂いに変わっていく。
もちろん、音も。
グラデーションを描くように、音も匂いも、歩くたびに少しずつ変化していく。街を張り巡らせるようにして流れる水路の音も、歩く場所によって変わっていくし、風が吹く方向が変われば、木々が奏でる音も変わる。風向きが変われば、運ばれてくる匂いも変わっていく。靴の音だって、新しく舗装された石畳と、古いそれとでは違うのだ。
エミエルはこの一年で、この移り変わりが好きになっていた。
最初は慣れなかった薬品や塗料の匂いも、今ではもう慣れっこになった。そして、正式な弟子入りを認められた今、すっかり慣れ親しんだこのグラデーションも、なんだか新鮮に感じていた。
そんな事を考えながら路を行くと、微かに、水路とは違う水の音が聞こえてきた。
工房を支える樹木を通り抜ける水の音。
そこにあるのは、彼女が弟子入りした工房『プレセア』。
近づくにつれて鮮明になるのは、そんな水の音と、慣れ親しんだ工房の匂い。
そして――
エミエルは一瞬でその顔を顰める。
漂ってきたのは、微かに香る酒精だった。
一歩近づくごとにそれが強くなり、そのたびに彼女の顔からは表情の色が抜けていく。
工房の入り口に立つ頃には、もうはっきりとそれがわかった。
すっかり肩を落としてしまった彼女だったが、少しだけ宙を仰いで目を閉じる。すぐに拳を握って大きく息を吸い込むと、それを呑みこむように力強くうなずいた。
その勢いのまま、工房のドアを開けた。




