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今、彼女の目の前には、折れ垂れた小さな獣の耳に、たぬき顔の少女が、《《ぽやん》》とした顔で座っていた。フィーリーンの音楽学校、その一室を借りた講堂で、指定された席の隣に座っていたのが、その少女だった。
たぬき顔は、渡された資料を見たり、急に窓の外を見つめたり、自分同様同じ目的で集まった者たちを見まわしたり、どこかせわしない。
「え……」
思わず漏れた言葉に、少女は耳をピンと逆立てるようにして、その身も強張ったように固まる。
かと思うと、気の抜けたように天を仰ぐ。
「…………」
彼女――アリエッタは、注意深く少女を観察する。
彼女は、このたぬき顔の少女を知っていた。この街では、まず見ることのない獣の耳、丸い尻尾、何よりこの場所にいるということ。
見るのは初めてだったが、すぐにわかった。
街では今、メリルが弟子を採った噂で持ち切りだった。
あの『巨匠』が、あの『変人』が、《《初めて》》弟子を採った。
しかもそれが、半獣人だと言う。
その噂を耳にした時、アリエッタの胸中は穏やかではなかった。
アリエッタが初めてメリルに出会ったのは、ある白昼のことだった。
父に連れられて歩く広場で、彼女をまるで違う「音」が貫いた。
それは意志をもったかのように人の間隙を縫い、彼女の体を貫いて、踊る様に空へと舞い上がり、大きく爆ぜた瞬間、虚空へと消える。一瞬の花火のようなその「音」は、今まで聞いたことのあるものとも、父の音ともまるで違っていた。
彼女がその衝撃に視線を音の主へと送ると、そこには、街でも有名なヴィオラ奏者が緊張の面持ちで楽器を構えている。その横に、黒のドレスに長い黒髪の貴婦人が、胸の前で腕を組んで、演奏の様子を鋭い目で見ていた。
何度も演奏させては、調整を繰り返し、その度に、音は鋭さと柔らかさの間を行き来する。
貴婦人は鬼気迫る表情で楽器を弄り、どんなにいい音が出ても決して妥協しなかった。
やがて、鋭い音に柔軟さをもった――極限まで薄く磨かれたピアノ線のような音が、まるで自分の身体をバラバラに引き裂くような錯覚を覚えた時、貴婦人はようやく満足そうな笑顔を浮かべた。
「流石はメリル、だな」
父の呟きに、アリエッタは我に返る。
それは、幾度となく父の口からも聞いたことのある職人の名前。
アリエッタの父、ミゲルもまた楽器職人であり、堅実で信頼できる職人として街内外に多くの顧客を持っている。彼女は幼い頃から、父の仕事をする背中に憧れ、自宅に併設された工房にも出入りし、父の後をついてオーケストラや楽器店などにもよく足を運んだ。
そんな父の手は、彼女には魔法のように思えた。
壊れた楽器、音が変になった楽器が、父の手に掛かるとあっという間に色を取り戻す。しかもそれは、正しく持ち主の音。
少なくともアリエッタにはそう思えた。おかしくなっていた楽器が、その主人の色を取り戻していく。
父の手によって――
それを伝えると、父は彼女の頭を撫でて笑いながら言った。
「正しい? それは違うよ。でも、お前にはちゃんと『聞こえる』んだね?」
その言葉の意味はよくわからなかったけれど、それでも彼女には、それが正しさなんだと思えた。
そんな父が手放しでその能力を称える職人、国一番と目される孤高の楽器職人メリル=”ディーヴァ”=グァラン。
彼女が、彼女の楽器が出す、音。
それは、アリエッタの心までをバラバラに切り裂いた。
そして、その残骸の中から、メリルという新しい花を芽吹かせる――
それ以来、メリルという職人は父に並び、彼女にとって憧れであり目標となった。
メリルを良く知る父には、「頼むから真似するのは楽器の腕だけにしておいてくれ」と冗談めかして言われたものだが、それでも彼女の憧れは変わらない。
それなのに――
目の前にあるのは、あの時のメリルの鮮烈な印象とは似ても似つかない雰囲気、鋭さの欠片もない《《たぬき》》顔。メリルへの印象とはまるで正反対だった。
弟子を取らない事でも知られていたメリルに、なぜこんな少女が弟子入りできたのか――
おそらくそう思っているのは自分だけではないのだろう。
ここは、定期的に行われる楽器職人の弟子向けの講習会の場であり、各工房の弟子たちが一同に会する場でもあった。
講堂に入るなり、皆一様に彼女をちらりと見ては、何事もなかったように席についていく。
それに気づいているのかいないのか、たぬき顔は、落ち着きなく辺りを見回していた。
アリエッタは意を決して、少女の隣――指定された自分の席へと向かう。
「あなた――」
声を掛けようとした時、ひと際大きく講堂のドアが開く。
その音に、彼女の耳がビクリとして、その柔らかそうな毛まで逆立つようにピンとした。
「座ってください」
通る声が講堂に響くと、水を打ったように静まり返る。入ってきたのは、アリエッタもよく知っている、父と同世代の女性マイスターで、今回の講師でもあった。
彼女も慌てて指定された席へと座った。
「あの……よろしくお願いします」
「え……」
座るなり、たぬき顔が小声で話しかけてきた。
今まで何度も講習会に参加したことはあったが、知り合いでもないのに声を掛けられたのは初めてだった。驚いて振り向くと、精一杯といった笑顔のたぬき顔がある。
メリルへのあこがれと畏敬が、目の前の笑顔と嚙み合ってくれずに、濁っていくように思えた。それなのに、それを不愉快と思っていない自分に気付く。
この少女にどんな感情を抱いていいのかわからなくて、いつの間にか自分の耳元にある髪を触っていた。彼女の銀色の髪がその指に絡まると、その冷たさが気持ちを少し落ち着かせてくれる。
「どんな時でも、冷静に、でも笑顔で」
そんな師の教えを思い出すくらいには平静を取り戻した彼女は、それでも笑顔を作れずに小さく頷いた。
「……よろしく」
その言葉をどうにかひねり出して、彼女は前を向いた。




